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zoom RSS 『生きなおす、ことば』メモ

<<   作成日時 : 2013/07/22 07:27   >>

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大沢敏郎さんの寿での識字教室の記録。

ことばの持つ意味を考えさせられる。

書き言葉と話し言葉

そのあいだにどれくらいの違いがあるのか考えた。


書き言葉を持たない人の話し言葉と
普通にそれをもつ人間の話し言葉は違うのか

識字教室についての話なのだが、大沢さんは

・ことばにすると消えていってしまうようなもの
・ことばにすると自分ではない自分を語ってしまうようなもの
・ことばにすると自分の生の全体が見えなくなってしまうよなもの
・ことばにすると心身を彩る風景が崩れていってしまうようなもの

そんなものに言及する。12p

書き言葉を獲得することと、言葉にならないもののあいだのただならない関係。

難しい。

大沢さんは梅沢さんという人が「おかさん」について書いた作文(本のなかで紹介されている)に触れたことをきっかけに、「ああ、これでおれのうけた学校教育は終わったのだ」と思ったという。
そして、「寿町の識字では漢字や文章に手をいれることは、いっさいやめることにした」と書く。30p

日本語を教えるという世界の中では、これ、すごく難しい話だと思う。

以下は、読みかけの時、興味深かったので、書いたメモ。ページは書いていない。
〜〜〜
大沢さんは、南米の識字が政治・経済問題への覚醒が主要な課題であるのに対して、日本の識字、その「意識化」は内に向かってのそれであるのではないかと書いている。
〜〜〜

内に向かうこと外に向かうこと、もう少し複雑な部分もあるだろうなと思いつつ、大きくそういう傾向を指摘することもできるかもしれない。少なくとも、生きている限り自分の内部の葛藤に無関心でいることなどできないはず。それと抑圧的な状況に向かうことは同時に存在しているのだと思う。ただ、日本社会では外に向かう回路が閉ざされている場合が多いかもしれない。

そして、大沢さんは日本の識字について以下のように書く。
日本の識字の学びには、自分の生きてきたなかで受けざるをえなかった精神やこころの傷と、どう自分のちからで向きあうことができるかどうかが、そして、それをどう超えていくことができるかどうかが、重要な課題であると思っている。123p


あと、難しいと思ったのが、以下
どんなに深い精神やこころの傷を負っていたとしても、今まで生きてきたのだから、それでいいのではないかということになるのかもしれないが、識字は、それを黙認していくことはできない。文字の読み書きのできないことによってうけた精神やこころの傷は、ごく自然に、識字の場で薄皮をはぐように、すこしずつ、すこしずつ癒されなければならない。124p

こんな風に大沢さんは書くのだけれども、「生きてきたのだから、それでいい」という部分は多いと思う。字がかけなくても、生きてきたのだから。

大沢さんは、識字の場が必要だという。だけど、文字を獲得できない人もいる。ま、彼が読み書きができないことで傷ついてはいない場合もあるかもしれない。しかし、学んでも書けなくて、傷ついている人もいるはずだ。そんな人のことを大沢さんはどう考えるのだろう。

おそらく、みんなが読めて書ける社会では読めないこと書けないことは傷になる。そういう社会ではやはり識字が必要ということになるのだろうか。否、書けない人が多数だった南米でこそ識字がフレイレの「意識化」とつながっていた。その「意識化」は抑圧された状況を知るということでもある。南米の識字との違いはそのあたりにもあるのかもしれない。読めない人の数との相関関係。

125~126pにかけて、南米の識字と日本のそれが対比して描かれている。さっき、紹介した話もこのあたりに書かれている。

大沢さんが書いているのは以下のようなことだ。被抑圧状況が読み書きできない人を生んでいるという現実はあるのだが、読み書きできる人が圧倒的多数の中で、読み書きができない人の存在、それ自体は政治・経済の課題にはなりにくい。そんな中で、自分がそのように読み書きができなくさせられていた被抑圧の個人の現実をあきらかにすること。それがなければ、識字学習者の個の確立、個の自立、個から全体への自闘はないというのが日本の識字が積み上げてきた貴重な歴史だという。

もうひとつ腑に落ちないのは、南米の識字は、そのような自分自身の内面にもかかわるような個人の個人の現実を抜きにして、ありえるのだろうか、ということ。

その個人の被抑圧の歴史、自分の受けた傷を自覚していくプロセスの大切さを大沢さんは書いていると思う。それは読み書きができるできないにかかわらず、そうだというのだった。

大沢さんの書く「内に向かう」ことの意味とは、
「識字の場で文章を書いたり、語ったりするなかで、ほんの少しでも、自分が受けてきた痛手が癒されるならば、そのときの識字には意味があった・・・。内に向かう識字(とは) まず、その受けてきた痛手(傷)を癒すことが識字の土台としてあり、・・・そこから外に向かっていくのではないか・・・130p」


南米の識字では、そのあたりのことはどうなっているのだろう。一人ひとりの傷は土台ではないのかなぁ。



135-6pでは、外国人労働者への識字について書かれていて、そのなかでもとりわけ朝鮮人労働者が日本人の根づよい偏見・蔑視の中、厳しい状況で働いているとして、以下
そんな朝鮮人労働者の彼ら・彼女たちにとって、・・・必要と思われる日本語の学習は継続しておこなっている。そして、もう一方において、識字のなかでより大切なこととしてぼくが考えているのは、異国できつい労働やつめたい人間関係にとりかこまれている朝鮮人労働者とまわりの人たちが、たがいの存在を認めあい、胸をひらき、肌と肌がふれあうような人と人との関係をつくりだしていってほしいということである。

各地で行われている日本語教室に、この観点はとても重要なのではないかと思う。


139pには大沢さんが日本名をずっと使ってる在日の人に本名で呼ぶのはやめてくれと何度も言われているという話が出てくる。二人の関係性の中で、そういうことはありなのかもしれないとは思うものの、微妙な感じは残る。


156pでは、読み書きができなかったとき、なにを考え、なにを見、なにに感動し、毎日の生活をどう生きてきたのか、そのことがあきらかにされることこそが、識字の本質のことではないか、と書かれている。

読み書きを学ばなくても、そんなことは話すことが可能なのではないか、どうして、「識字」=「読み書きを学ぶこと」の本質が、それができなかったときの自分を振り返ることなのか、もうひとつわからない。

そして、ここでも大沢さんは書けないこと、言葉で表現できないことの大切さを強調する。なかなか文字にできないことにこそ、真実があると。

そして、それに続けて、大沢さんは、読み書きのできる人のことばは、そのほとんどが学校教育の中で養ってきた・培ってきた・身につけたものだ、と書いているのだが(157p)、ほんとうにそうだろうか。読み書きについては、その基礎を学校で学ぶというのはそうだろうが、話し言葉はそれまでに家庭で獲得している。書き言葉だって、ぼくの場合は基礎から先は、学校だけで獲得したとは思えないのだけれども。

そして、日本に来る外国人に関して言えば、そのほとんどは母語での読み書きはできる。日本語の読み書きができないだけなのだが、このあたりのこともよくわからない。

ともかく、その学校教育の言葉に均してしまってはいけない、というのが大沢さんの主張だ。

それが識字学習にとって、いちばん大事なことだ、とまで言い切る。

学校教育の言葉とそうじゃない言葉、そんな風に割り切れるのかなとも思う。

そして、161pでは大沢さんはアイヌを例に
「文字をもたない、あるいは文字の読み書きができなかった世界に近づくことが、ぼく自身の識字教育」
だという。この逆説、ぼくには遠すぎる。ここに至るまでの道のりがこの本に書いてあるとも言えるのだろうが、やはりかなりの部分、理解不能だ。

このページから次のページにかけて、大沢さんは「ことば」に関する自作の詩を紹介する。しかし、そこで書かれている「ことば」が書かれたものなのか話されたものなのか釈然としない。

大沢さんにとって、その区別はどうなっているのだろう。読み書きのできない人が文字を獲得していく過程で、学校式の日本語に犯されなければ、何を獲得できるのだろう。それまで持っていた話し言葉はどういう意味を持つのだろう。

そして、163pでは彼が『被差別の影の貌』に書いた「ことばの原風景試論」が引用されている。そこでは彼が識字学習を始めて7.8年目頃、やっと自分がどこで自分の言葉を失い始めたかに気づいたという。
自分はどうなのだろうと思う。確かにいつだって、借り物のことばを使っているけれども、それは自分のことばとどう違うのだろう。そんな違いを明確にしたりすることができた大沢さんは幸運だったんじゃないかとさえ思ってしまう。


この大沢さんが識字は「勘性」だという。文字がない中で、自分の勘だけをたよりに生きてきた人のことばは「勘性」のことばであり、学校教育の中で培ってきた言葉とは違う、と書く。169p

わかるような気もするんだが、やっぱりわからない。そのわからなさをちゃんと持っておきたいと思う。

最終4章の最後の節のタイトルは
はじまりの地に佇つために ――若い学び人へ
となっていて、最初の小見出しが
学校教育で、自分はなにを「学ばなかった」のか
となっている。

識字のなかで、文字を獲得して、いままで対象化することができなかった自分の世界を「新しい自分のほんとうの世界」として出会いなおすと大沢さんは書く。そして、ここでは学校教育を受けた人がほんとうの自分を探すことの困難が指摘される。

これもまたハードルが高い話だと感じる。

こんな風に書かれている。
人間の生きること、死ぬことをはじめとして、人間の哀しみ、歓び、怒り、苦しみ、夢や願望や希望を自分のこととして学ぶことは、やはり、人間全体のことを学ぶことではないか。その学びの最初に、まずおのれ自身をあきらかにすることがあるのではないか。学校教育においては、おのれ自身をあきらかにする必要などまったくなかった。学校教育のなかで正直に自身をあきらかにして学ぼうとした子どもたちの多くは、その教育体制から弾きとばされていった。あるいは、自らその教育体制を拒否していった。187p

「人間の哀しみ、歓び、怒り、苦しみ、夢や願望や希望」って、「自分のこととして」感じるんじゃないだろうか、それは「学ぶ」ものなのだろうか? おのれを明らかにしなければ、それは感じることができないのだろうか? ここもよくわからない。


192ー3pでは、それぞれ固有の生の道すじのドラマを一般化したり、識字共同学習者(教師・講師など)の一方的な言葉で地ならししてしまうことを戒めている。その地ならしされていないデコボコの部分にこそ、なにものにもかえがたい事実や証や存在証明があるのではないか、と。識字共同学習者にはそれが些細なことと思えるかもしれない、そこにこそ、その人の生きてきた揺るぎない事実の汗や涙や苦しさや喜びがある。そして、それを浅薄な学校教育の思想(ことば)で地ならししてしまうと識字学習者はその時、識字の席から離れていく、と。

さらに、それに続けて
「フレイレが何度も「対話」の重要性を語り、民衆のことばにこだわりつづけたのは。このことだったのだと思う」
と書く。


ともあれ、いろんなことを考えさせる本だった。


うろおぼえだったのですが、大沢さんは2007年10月に亡くなったそうです。(さっき調べました)
http://sns.hamatch.jp/blog/blog.php?key=11235

彼の教室に参加できなかったことが残念です。

いま、寿の識字はどうなっているのでしょう?

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