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zoom RSS 『3.11を心に刻んで』メモ

<<   作成日時 : 2013/07/30 01:10   >>

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川本隆史さんが原爆原発講座 http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=12 で、この本のこうの史代さんの文章を引用していたので、前後が読んでみたくて、借りて読んだ。赤坂さんの「ナウシカの予言」http://tu-ta.at.webry.info/201111/article_3.html もこの本に収録されている。28-29p

以下は川本さんが引用していたこうの史代さんの文章のほぼ全文。
この記事は絵と一緒に掲載されていて、文字は手書き。
外側の人へ

 お元気だろうか。
 こちらは震災から9ヶ月が経った。

今は、この国のいたるところに「がんばろう日本」「がんばろう東北」と書いてある。

「がんばろう」に対して「がんばってます」は圧倒的に少ない。
 あんなにがんばっているのに。
 自分ががんばっているかどうかは、案外、その時には判らないものだ。しかし、もっとがんばらねばならない事だけは判っているからだ。

 代わりに、「我々はまだまし」という言葉を多く聞いた。
 津波の来なかったところは来たところに比べて。原発事故に巻き込まれた町と比べて。死んでしまった誰かと比べて。
 きっと死んだ後にも、あっさりか、苦しんで死んだか、そんな比べ合いがあるのだろう。

 こうしてどこまでも、仕切りを作って、まだましな「外側」の人間だと思おうとしてしまうんだろうか。「内側」の人への同情をもって、がんばっている自覚のないまま、がんばろうとしてしまうんだろうか。

 でも、「外側」になってみないと判らない事だってある。
 「外側」に伝わらなくては意味がない事だっていくつもある、とわたし達は知っている。
 心を澄ましておこう。
「内側」から囁かれる何かを、「外側」の人間として、ひとかけらずつ受け取ってゆこう。 そしてもっと「外側」の誰かへ、「内側」の人間として伝えようと思う。

 釜石と気仙沼で描いた絵を贈ります。
 風邪には気をつけて。まずは失礼。

2012年元旦

「外側」のあなたへ
       時間的に少し「内側」のこうの史代


こうのさんは「こちらは震災から9ヶ月が経った」という。こっちもそっちも物理的には同じ時間が経過しているにもかかわらず、「こちら」と「あちら」は時間の流れが違う。だからこそ、こんな表現になるのか。


ちなみに、このこうのさんの文章は、川本さんの以下のような主張の文脈と合致している。
「当事者の苦しみやニーズは当事者にしか分からない、現場に身をさらさなかった者は発言する資格がない……といった断定が一定の説得力をもつことも理解できなくはありません。だからといって、当事者や現場関係者以外はものを言うなとなってしまうと、およそ対話や議論なるものが行き詰まります。また当事者や現場を固定してしまうと、当事者間の相違や現場内部の対立が見えなくなる危険性すら生じます。そこで当事者性や現場性を〈脱中心化〉してみる。このことばはピアジェの発達心理学から借用したもので、「自己中心性」(自分中心のものの見方)を脱却して、ものの見方・観点が複数あることを自覚していく発達プロセスを意味します。当事者や現場を尊重しつつも、その人たちを真ん中に張り付けてお仕舞いとするのではなく、絶えず中心からずらし複数化していくことで、観察者(非当事者)の視点も取り込んだ公平さへと徐々に近づいていく。」〔川本〕「正義とケアへの教育――たえずロールズとノディングズを顧みつつ」、法と教育学会編『法と教育』第2巻(2012年8月)






〜〜〜〜〜
以下、ほかのコラムについて

田島征三さんは以下のように書く。
 捨てられようとした場所が、なりふりかまわずしがみついた生物。そいつが、襲いかかってきたのだ。推進した者も反対した者も黙らされた者も、自ら自分たちの村を捨てなければならない。どんなにどんなに、つらいことだろう。11p



この本のコラムで赤坂憲雄さんもアニメじゃなくてナウシカの漫画版の最後の方のセリフに言及していることは http://tu-ta.at.webry.info/201111/article_3.html にも書いた。

また、この本じゃないけど、原発とは『風の谷のナウシカ』に出てくる【巨神兵】の事なのです。http://sphere-project.com/index.php?fukusima_chernobyl 


成田龍一さんが紹介してくれている井上ひさしの『記憶せよ、抗議せよ、そして生き延びよ』4p という話、凡庸といえばそうかもしれないが、やはり言われなければいけない話だと思った。



原田正純さんは武谷三男の『安全性の考え方』(岩波新書1967年)を引用する。
安全についての指摘は、どうしても利潤の側、つまりは実施する側に対しては”苦い言葉”にならざるを得ない。
・・・
大量の原子力発電が行われた場合の恐ろしさは想像に絶する。利潤や採算ほど勝手なものはない。国民の楽しい健全な生活を犠牲に供し、尻ぬぐいは国民の税金で行われるのだから、こうして危険を警告するものを一笑に付したり、悪者扱いにして、あとは知らぬ顔である。
・・・
一般に”危険だ”といってトクすることはない。”危ない”という人はいつも損をしたり、袋叩きにあったりする。・・・24p
最近は武谷のネガティブな話ばかりを聞いて、少しバランスを欠いていたかもしれない。



ビナードさんはマーク・トウェーンを引用している。
「神さまは万物を一週間のうちにこしらえて、いちばん最後に人間というものを手がけた。やはり、神さまも、くたくたにくたびれていたのだ」27p


また、最初に全文を引用したこうの史代さんは他にもコラムを書いていて、ある和尚さんが幼い息子の臨終の時の言葉を引用している。
「だんだん暗くなってゆくけれど、怖くはないからね。安心してまっすぐ歩いて行くんだよ。やがてお花畑にきたら、そこでお休み。みんな一緒になかよく遊ぶんだよ」

そして、「この言葉の何よりも尊いところは、穏やかであるところだと思います」とこうのさんは書く。30-31p

栗原彬さんが「イマジン」をフラで踊る大塚愛さんのプロジェクトを紹介している。
栗原さんはこんな風に書く。
 失われたものは断ち切って、前へ進むしかない、という考え方もあるだろう。しかし、失われたもののほとりに立って、祈りの中に記憶の深い変容を待つ生き方もあるのではないか。・・・
 
 大塚さんが「でも、いのちがあります。私は生きています」と言うとき、いのちは、また新しい人生は問うべき目的ではない。むしろいのちは原因であって、いのちに生き方を問われているのだ。いのちに問われて大塚さんが見出した解は、つなぐ生き方だ。自然とのつながり、人とのつながり、失われたものとの・・・、未来といのちとの・・・。54-55p

金沢の知り合いも「イマジン」をフラで踊るプロジェクトに関わってたのを思い出した。


69pからのコラムでは成田龍一さんは原発事故に対する語りがアジア・太平洋戦争の戦後の語り方と酷似しているという。同じような指摘は他でも読んだことがあるような気がするが、(追記 91p並木浩一さん)
・自分たちは戦争に懸念を持っていたが、遂行に身を任せてしまった。
・戦後になってから戦争に反対した人を発見


78pからのコラムで田島征三さんは
「衝撃的なことが起きると、ぼくは本能みたいに何か創ろうとする」
という。越後妻有で昨年展示されたものの構想が書かれている。やっぱり行ってみたかった。
田島さんの3.11に関する作品とかも含めて、丸木でもできればいいのになぁと思った。


88pでは田中美津さんがメキシコの呪術師の話を紹介する。
「虫を叩こうとする時、あなたを叩こうとする手が後ろにあることを忘れてはいけない」

いつか、ぼくも突然、パンッと叩かれるかもしれないことを忘れずにおこう。


102-3pの赤坂さんのコラムの最後の方は彼の混乱をそのまま表現しているように思う。「チェルノブイリに学ばなければならない」という部分までは整然としているのだが、その次の文章からの段落。混乱と飛躍で文意が取れないっていうのは読解力の問題かもしれなけど。しかし、この混乱は赤坂さん個人のものではないかもしれない、とも思う。


119pでは渡辺えりさんがホームビデオを持って取材に行った話がある。子供の鼻血が止まらない話を聞いて、情報番組に伝えたら、それが事実かどうか確認しないとオンエアできないといわれて、とのこと。
そして、そのホームビデオを編集したものがあるという。見てみたい。

124pからの大野更紗さんのコラムではcompassionに言及している。この単語が好き、とのこと。ぼくも好きだ。この春のサティシュのリトリートでも気になった言葉だ。探しえみたら、大野さん、「さらさらさん」でも、このcompassionに言及していた。
http://tu-ta.at.webry.info/201305/article_6.html 
あと、「おわりに」の前に掲載されているのが、映画「季節、めぐり それぞれの居場所」の公式パンフレットに掲載された文章。ここに、最近こだわっている「コンパッション」の話がでてくる。フレデリック・ワイズマンが自らの映像作品について述べた話として。
わたしは映画を通して、コンパッション(compassion =受苦をともにすること、深い思いやり)を表現しようとしている。しかしそれと、誰かの側に立つことは違う。
"Well, I try show compassion, but there's a difference between being compassionate and taking side"

 コンパッションとともにコンヴィヴィアルであることも大事だと思う。



田中優子さんは135pで法政大学の「社会を変える実践編」という授業を紹介している。時間があったら、シネバスを読んでみたい。

162pからのコラムでは栗原彬さんが「ほとりに立つ」というスタンスについて、肯定的に書いている。それをうまく説明できないとしながら、
「愛とか親密さとは異なる。償いとも言えない。その人の存在を大切にする。そして、その人との関わりを善き事として肩を並べる、と言えば近いだろうか」
と書いている。

165pかrなお濱口竜介さんのコラムでは最初に引用したこうのさんのコラムと同様に被災の中心と境界についての考察が書かれている。
被災の度合いによって、「被災の中心」の周りにいくつものレイヤーができていて、その境界線が人々を隔て、口をつぐませ、結果的に耳をふさいでいるように感じられました。145-6p
 そして、著者はこのコラムの最後に、正しく「聞く」ということさえできれば、そこには声が生まれるという。結果として、それは、人々を分断する境界線を曖昧にする。


この続編が岩波ブックレットになっているし、先日は丸木美術館の岡村さんもここにコラムを書いている。
http://www.iwanami.co.jp/311/DOCs/1307b.html
このリンクはしばらくしたら、消えるだろう。

















自分用メモ
https://www.facebook.com/notes/%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E9%9B%85%E8%8B%B1/%EF%BC%93%EF%BC%91%EF%BC%91%E3%82%92%E5%BF%83%E3%81%AB%E5%88%BB%E3%82%93%E3%81%A7%E5%B2%A1%E6%9D%91%E5%B9%B8%E5%AE%A3%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0/498031706944018

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