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zoom RSS いま、「憲法改正」をどう考えるか メモ

<<   作成日時 : 2013/09/14 07:45   >>

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いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味
樋口 陽一著
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/7/0222000.html

どこかで、この本を読み始めたきっかけをメモしたはずだったのだけど、どこに書いたか忘れた。

何かの違和感から読み始めたのだった。これはあとで思い出すだろうが、大した話じゃなかった。


目次
1 “憲政”としての戦前と“憲法”としての戦後
 (1) 戦前―“立憲主義”は指導層の共通認識だった
 (2) 戦後―“個人”の解放が憲法理念となる

2 戦後憲法史をどう見定めるか
 (1) 「憲法形骸化」論が見落してきたもの
 (2) 改憲論の現在
    その中での二〇一二年自民党「改正草案」

3 日本の憲法体験が持つ意味
 (1) いま改憲を「決めさせない」こと
    「決める政治」に流されないで
 (2) 世界から受けとったものと世界に向けて返すもの
    “普遍”を求めることと“伝統”への愛着と



以下にすごく独特な視点での樋口陽一に対して、非常に批判的でかつ長い書評がある。
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20130624 
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20130626 
http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20130702

http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20130706

ただ、ここで書かれていることは非常にわかりにくい。

何が批判したいのか伝わらない。独特な視点で、部分的に面白いところもあるのだが、結局何が言いたいのかわからないそういう自己満足的な文章になっている。

http://blog.goo.ne.jp/hamanashigaku/e/21debb69ddf0a310fffadc2362d3c940
は普通に肯定的な評価。
本の内容を知りたい人はこっちから読むほうがいいかも。



ぼくにとっての、この本の眼目は最終章の最後の

(2) 世界から受けとったものと世界に向けて返すもの
    “普遍”を求めることと“伝統”への愛着と

人権や民主主義というような普遍的な価値について、それは確かに欧州に端を発するといってもいい側面があるものだが、だからといって、過度に退けるのはどうなのか、という議論。(あとで少し書く)


冒頭には、この問題意識を端的に表した年賀状が紹介されている。その一部を引用。
「落ち目の日本は(課題もありますが)中国と比べ西欧に対し大きな共通の資産を持っているのだと改めて感じました」1p

樋口さんは日本社会が戦後つくりあげてきたそのような「資産」をあえて削りへらしていくような方向を危惧する。

そして、自民党の2012年の「改正草案」には

これまでの政権が好んで口にする「欧米諸国との価値観の共有」(現政権もあえては否定しない)という意味での「普通の国」の標準からはみだそうとするかのような一連の条項があり、その中に位置づけられた国防軍 3p

と書く。


その自民党のQ&Aでは占領体制からの脱却を謳い、「主権国家にふさわしい国にする」というのだが、普通の主権国家ではありえないような外国軍隊の大規模基地の存在とそれへの手厚い費用負担は問われることがない。それが「真面目かどうか」と樋口さんはちくりと書く事も忘れない。5-6p



少し飛ぶが、33-34pでは何種類かの「押し付け」について書かれている。その最後に日本人の「民主主義的傾向」の運動と思想の蓄積が占領軍を通して、日本政府に押し付けたという要素もあるのだという。34p

そして、
憲法を受け身で受け入れた日本社会は、憲法が権力の行使にとって多かれ少なかれ邪魔になるという緊張関係を作りだし、維持することによって、いわばその確認し直してきたといえるだろう。 72-73p
という。


これまで樋口さんは憲法と現実の乖離について、批判的にコメントしてきたが、この本では逆むきに、「憲法の空洞化」を言い立てることへの批判的見地から、憲法運用の中に見出すべき積極的要素に眼を向けた。なぜなら、現在の時点で、理念と現実の間の開きを問題にする、その基準そのものを取り払おうとする主張が今までにも増して現実的な具体性を持ってきたから、と書き(84p)

ここに続けて以下のように書く。
理念と現実の間の緊張に疲れて理念を棄てるのか、それとも、理念と現実の開きを目の前にしてなお理念を語ることの「カッコ悪さ」に耐えながら現実を理念に近づけようとするのか、が問われているのである。


この一文が、この本を読んでみようと思ったきっかけになった。
そう、この文章の趣旨はその通りだと思うのだ。

でも、これへの違和感がぼくをこの本に引き寄せた。
つまり、いま、改憲を叫んでいる人たちは、理念と現実の間の緊張に疲れているようには見えない。疲れることもなく、憲法と、左翼的に見えると彼らが言うところの「自虐史観」を重ね合わせて、改憲が必要だとムードで語っているようにしか見えないから。

そんなころがきっかけで本を読んでみようと思ったっていうのも変な話だと自分で思う。

ここから先、ぼくにしてはけっこう面白いことを書いていたはずだったのが、消えてしまった。
だから、フェイスブックに直接書くなんて危険なことはもうやめようと思ったのだが、またやってる。


樋口さんは3章の冒頭で自民党改憲草案の特質を二つにまとめる。
1、普遍を追求することを断念して「日本は独自」という立場を押し出していること。
  (幕末維新以来の日本の近現代が普遍に近づこうとしながら織りなしてきた歴史とは無関係に普遍を「押し付けられたもの」として排除する)

2、権力の制限を根本に置く立憲主義の枠組を構造転換しようとしていること。
125-127p


ここで冒頭に眼目だと書いた


(2) 世界から受けとったものと世界に向けて返すもの
    “普遍”を求めることと“伝統”への愛着と

に入る。

148pから引用されている樋口さんの1989年の国際学会での報告の文書が端的に彼の立ち位置を表している。

日本国憲法の前文が「人類普遍の原理」への敬意を書き込んだとした上で以下のように書いたという。

 今、西洋起源の近代立憲主義の普遍的原理、と述べた。西洋的なるものが本当に普遍的でありうるのだろうか? 西洋中心主義は今日では時代遅れではないのか。
(中略)
 文化の複数性を尊重するのは一つの事柄であり、西洋起源の立憲主義の価値の普遍性を確認するのはそれとは別のことである。この普遍性を擁護することは、決して、言うところの「文化帝国主義」ではない。



樋口さんは「文化の相対性を説いて人権の旗を降ろしかねない西欧の文化人たち」と非難する。この非難が妥当かどうか、ぼくにはわからないのだが、日本の憲法体験をこの普遍主義の良い例とし、それを否定し、ひたすらに「日本らしさ」を強調する自民党会見草案に見られる傾向を「自虐」史観ではないのか、と問う。150-151p


ともあれ、この自民党の草案見ると、改憲の意図はひどい方向であきらかなのだが、まず、こんなものがまかり通ってしまうという自民党の極右化、そして、ちゃんと考えることができる人がいなくなってしまっているという危惧。民主党ももしかしたら、似たようなものかもしれないと思う。

そんな状況を超えるために、何が必要なんだろうと思った。


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