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zoom RSS 【戦争と芸術―「いのちの画室(アトリエ)」から】メモ

<<   作成日時 : 2013/12/22 01:50   >>

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戦争と芸術―「いのちの画室(アトリエ)」から

かもがわ出版 (2005/05)のすごく薄い本。だけどハードカバー。
ここのサイトの内容紹介は
「立命館大学国際平和ミュージアム」と戦没画学生慰霊美術館「無言館」の館主が、戦争と芸術、戦争体験の継承について語り合った。

安斎 育郎さんと窪島 誠一郎さんの対談

アマゾンに掲載されている「内容」
平和博物館と戦没画学生慰霊美術館の館主が注しつ注されつ語り尽くした「平和・文化・芸術」談義。「無言館京都館」開設記念。


今年の夏、鳥取県のすごく田舎の美術館 http://blog.zige.jp/museum/kiji/595212.html で購入した。ずっと積んだままだったんだけど、やっと読んだ。読書メーターによると読み終わったのが12月13日。濃すぎるくらい濃い二人の対談。


窪島さん
・・・知識として考えるという次元よりも、自分たちの”生きるありよう”との関係で問題をとらえることが大事で、身の周りのいのちが失われていく一つひとつの事例にどれだけ感性を研ぎ澄まして向き合えるか。ことによると、それは数値化する科学の分野よりも、文学や芸術分野の領域に入ることなのかもしれません。37p


窪島さんと安斎さんが紹介している渡辺白水の句
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
「熱い味噌汁すすりあなたいない」
67p

安斎 一般の人びとが関心をもつものは、あまり深刻でなく、そこに行けば楽しくなるものが多いが、そういうのもを企画化することに慣れすぎてしまった。

窪島 そればかりだね

安斎 迎合と叱られるかもしれませんが、窪島さんが言われたように、忘れてはならないものは多少おもしろくないものであろうと企画化する努力が必要なので、そこに喚起力が育まれなければならないのでしょうね。
84p


楽しいことが欲しいのはある意味、普通の話だ。
それは否定できない。ぼくだってそうだ。
しかし、楽しくはないかもしれないが伝えたいことがある。
そんなことをできるだけ楽しく伝える工夫は必要だろう。
「聞いてもらってなんぼ」という部分はある。
その努力はしつつも、楽しくないものもあるかもしれない。
努力を放棄することはよくないが、もともと、そんなに多数派を相手にしているわけではない。そして、そういう意味では楽しいだけが「喚起力」ではないだろう。そのあたりのバランスは常に考えていく必要があるのかもしれない。

85pでは窪島さんが風化の不可避性について語っている。
時間の経過で「風化」が不可避な面はある。人は忘れる生き物だ。「風化させてはいけない」とはいうものの、ある程度の風化は避けられない面もあるかもしれない。しかし、それでも忘れてはいけないことを忘れてはいけないと言い続ける必要があるだろう。そして、いまの時代のいまの人々にそれがなぜ必要なのか、そして、どのように必要と思ってもらえるのかという伝える工夫が必要になる。

繰り返しになるが、楽しいことに惹かれるのはあたりまえだ。しかし、軽いことでなければ「うざい」と言われたりする。そこを「うざい」と言わせずに伝えるべきことを伝え続けるために試せることはまだまだあるようにも思う。


窪島 ・・・。こう言ってはなんですが、『ゲルニカ』のような絵を描いた芸術家は日本にはいない。日本人の場合は絵のなかに埋没してしちゃう。「絵を描いているわたしはどうなってもいいの」という感じで忘我の境に陥る。でも、ピカソは〈我〉を忘れなかった。

そして、それが1937年であることが強調される。この時代に日本の多くの画家は既に時代に蹂躙されていたかもしれないのだが、例えば靉光は違うのではないか。また、37年であれば、まだ少し違うものはあったのではないか。ピカソとの対比で日本の画家をそんな風にまとめてしまうことには少し違和感が残る。とはうものの、この時代のアートについてちゃんと勉強してるわけでもないので、自信はないけど。


また、窪島さんは戦没画学生について、画家になれなかった人も多かったはずというような意味のことを述べた後で以下のように言っている。
つまり、個々の画学生たちの営みを人間が生きた歳月として取り上げるのではなくて、表現をしようと思った人間の、その一期一会の時間を断ち切ったのが戦争の時代だったということを考えたい。彼らは優秀な絵描きだったから惜しいのではなく、絵も何も描かないあなたのいのちも同じなんだ、それは会社に勤め、音楽を聴き、日々自己表現しているあなたなんだと。そこでぼくは、強いて彼らを「いのちの画家」と呼びたいんです。97p

さらに、上記を補足する形で、国立近代美術館に眠っている戦争画の画家(藤田に代表される)たちについては、画家としてどう生きるべきだったかが問われるのだが、戦没画学生たちは違うとし、どう生きるべきかではなく、当然あったひとつのいのちであり、それが絵を描いていたものを無言館に並べているのだという。

そして、105pでは国立近代に「眠っている」戦争画は「あれはまさに不発弾だと思う」という。
そして、そこに描いた画家たちは
なぜおまえは国家に加担したのかということが問われるのではなくて、絵とはどういうものなのかが絵描きに問われているんだと思います
というこの視点、面白い。
しかし、ぼくは凡庸に国家との関係についての自覚も画家に問いたいような気がする。105p

それに続いて古関裕而を例に、戦意高揚歌、人を楽しませる歌、どちらが古関裕而かを問うのではなく音楽とは何なのかを見つめ直すために、芸術家にとっての戦争とその時代の意味をトリミングすることが大事ではないでしょうかと窪島さんは言う。106p
それだけではやはり物足りないような気もする。

111pでは感動の両義性について、窪島さんが語る。戦争を導く感動もあるし、芸術は人を感動させる。それを受けて安斎さんは戦争に感動が使われるけれども、平和をつくるためにも感動が必要だという。

何がどのように感情を動かすのか、誰かがコントロールしているのではないか、そこを見ていく必要があるのだろう。


全体的に窪島さんの話が面白いのだけれども、116pでは風化が作り出す石があるという。
そんな形で風化する戦争の記憶を逆手に使う方法が何かあるのかどうか。表現は面白いけれども、それはかなり難しいと思う。

例として、時間の経過の中で、被爆者が訴訟を起こすことが可能になったり、戦争責任を問う裁判が可能になったりということが出される。

窪島さんは若い人たちに「いまのあなたはどうあるべきか」「いまのあなたは何を考えるべきか」を問いかける手段がたいせつになってくるでしょう、というのだが(119p)それを無言館などでどんな風にしているかという具体的な言及はない。

戦争の時代の記憶を伝えることと、いまの存在の仕方を問うこと、どんな風につなげることができるだろう。

そして、安斎さんはその風化と新しいものが表われつつある時代に「ミュージアムとして何ができるのか」と問題を立てる。120p

窪島さんがそれをうけて、それが共通のテーマだというのだが、その中身の話に入らないで、この対談は終わる。そこが聞きたかったのになぁ。



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