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<<   作成日時 : 2014/01/08 06:54   >>

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障害学のリハビリテーション」メモ その1(書きかけ)
2014年1月8日 6:28
書きかけの話をしたら、読んでみたいと言ってくれた人がいたので、掲載。
もしかしたら、読んでみたいのは本の方かも(笑)。
ちなみに、この本をきっかけにして企画することになったイベントは今週土曜日(2014年1月11日)

「障害の社会モデルその射程と限界」
https://www.facebook.com/events/550255325051552/
(障害学を問う研究会)



障害学のリハビリテーション」メモ その1
(序章から星加論文まで)

 ぼくにとっては、読みにくい本だった。ま、アカデミズムに近い本はだいたい読みにくいのだけど。しかし、テーマはすごく興味深く、だから乗せられて、研究会を企画する羽目になったりしたのだが、実は文字を追い終えたあとでも中身はあまり読めていないっていうか、わからないまま読み飛ばしたところも少なくない。

 ま、よく考えたら、後書きをいれても、このわずか183ページの本なのに「障害学は、何のために、どのようなものとして存在する(べき)か――その基本的な問いへの応答はあまりにも深められていない」(帯と序章)というような大風呂敷を広げているのだから、いろいろ捨象したり、前提とされていたりする部分は多いのだと思う。(というようなことは「あとがき」にも記載されている。

 そして、この「応答が深められていない」という序章の記述(先に引用したのは帯の記述で、序章3pにある記述とは微妙に異なる)の前には、<これまでの障害学の発展の経過と現状を見ると、「そこには根本的な問題がある」というのが私たちの率直な見立てである>とされ、その理由として、そのように書かれているのだった。

 にしても、日本に障害学会ができてから10年、障害学が紹介されてからでも、まだ20年程度であるにもかかわらず、一般化しつつある「障害の社会モデル」という概念について(それを障害学の存在の根拠と併せて)、どう考えるのか、という問いはすごく興味深い。

 障害学が始まった英国ではトム・シェークスピアから、社会モデルへの根源的な批判が提起されているという。(これは、あとでもう少し紹介しよう)

 そう、この本に興味を持ったのは、星加さんが社会モデル批判を紹介した文章を、ぼくがどこかで読んで(それが何かも忘れてるが)、その続きはどこかで書いてるんですか?と聞いて、この本の出版企画について教えてもらったときだったと思う。で、2013年の9月にこの本が出版され(と思ったら、奥付には8月31日とあった)たのだが、こんなに障害学の現状に喧嘩を売っている本であるにもかかわらず、いまだに障害学のMLなどでは議論されることなく過ぎている。ちなみに序章の中でも日本の障害学の論争と相互批判の少なさには触れられている。「微温的な仲間内の集まりで、行儀よく住み分けをして、相互不干渉を決め込んでいるようですらある」と(6p)。

 ここに書かれている課題を「障害学会」というアカデミックサークル(あるいはソサエティ)を越えた課題として考えたい。ちなみに、前書きの注5(11-12p)には、「障害学は、伝統的な学問共同体に属する者とそうでない者とを含んでいるという意味で、新しい学問共同体を形成しているといえよう」と書かれている。その外にいる者として、ぼくは役割が与えられているようにも思う。

障害学に関するパースペクティブへの違和感

 最初に、本書の障害学に関するパースペクティブへの違和感について触れてみたい。障害学とはどういう学問かという問いに関して(最後の討論などを読んでも)、ここでの障害学に関するパースペクティブは、基本的にはいわゆる「障害」をどう見ていくか、という話に終始しているように思える。序章8pでは「障害者の社会的不利の現実、その原因の解明と処方箋の提示を検討課題の俎上に載せようとする障害学」という紹介があるが、ぼくが障害学の大切なテーマだと考えているのは、そこから得られる知見で、近代がかかえる問題を照射し、その処方箋を障害以外の課題にもあてはめることだ。この本にも「障害学にはもっと大きなポテンシャルが潜んでいるはず」(7p)なのにそうなっていないと記載されている。

 繰り返しになるが、ぼくが障害学に魅力を感じたのは「障害」を考えることから見えてくる地平の広がりだ。それは「障害」という狭い分野を越え、近代を相対化するパースペクティブにもつながるのではないかと感じたからだ。関連することは序章に紹介されている障害学会の第1回大会のシンポジウムで障害学をリハ学との対比で紹介した杉野さんに対する倉本さんの反論にも関連するかもしれない(3-4p)。

 そして、本書は「障害学の可能性を根底的(ラディカル)にひらくための論争を巻き起こすことをめざして編まれた」とある。こういうスタンスは大好きだ。

 ともあれ、障害学を「そこには根本的な問題がある」として、論争を起こすことをめざして編まれたこの本の主題に据えられるのは社会モデルであり、「それが何か」というのが重要な論点ではあるが、最大公約数的な特徴をあげれば
「インペアメント」(普通とはみなされていない身体の特徴)と「ディスアビリティ」(社会的不利)を分析的に区別した上で、「ディスアビリティ」の社会的構築性に焦点を合わせる視点
であると序章8pでは紹介されている。

 本書の構成は第1部に編者たち(星加、川島、川越)の3つの基調論文があり、そこでは「それぞれの異なった専門分野に照らし、社会モデルを機軸に据えて障害学の可能性を探っている」としている。それにあわせて、それへのコメント論文も掲載されている。第2部は編者3名+3名によるディスカッション。その3名はコメント論文の筆者とは異なる。

ともかく、この本の
端々にある論争の火種が、・・・障害学のアイデンティティをめぐる種々の問いに対して、何か新しい見方を提供でき、たとえわずかでも「学としての障害学」の発展につながる議論に資することがあれば幸いである
と序章の結語として、記載されている。もしかしたら、「学としての障害学」をぶっとばすくらいの破壊力をもった議論が生まれたらおもしろいと思う。

以下、順に沿ってその内容をみていこう。

第1部
社会モデルの分析と障害学への処方

第1章
社会モデルの分岐点
 ーー実践性は諸刃の剣

この冒頭で星加さんは個人モデルから社会モデルへと障害に関わるパラダイムシフトが起きたことが常識になっているが、障害学のなかからその意義や有効性に疑義が提示されるようになったとして、トム・シェイクスピアの以下の文を引用する。

「幾つかの理由により、いまや社会モデルは障害者運動や障害学のさらなる発展を阻害するものとなっている。それらの理由は、社会モデルに外在的なものではなくて、その成功に内在するものなのだ」

これほどラディカルでなくても、社会モデルへの疑念や不満は一定の広がりを見せているとしたうえで、この論文の構成を示している。

1節 現状の社会モデル理解にまつわる幾つかの基本的誤解について指摘

2節 社会モデルがいかなる知を我々にもたらしうるのか、その可能性を探る。その結果、ディスアビリティ/インペアメントの分析的区別という社会モデルの基本構造は、必ずしも有益な知の生産を阻害するものである
とはいえない

3節 しかし、それが政治的有効性の観点から評価される実践性の主張と結びつくことによって、ある種の危険性を内包することになることを明らかにする

4節 以上の検討を受け、社会モデルのポテンシャルを活かした研究の方向性の示唆

この1節ではまず、障害学の外での誤解を指摘する。それは社会モデルパラダイム以前の障害研究による社会モデルの矮小化が指摘されている。

 しかし、それは障害学の研究者にも見られるという。第一に指摘されるのはエレベーターの設置とか教育の場からの排除などの見えやすい問題だけに社会モデルを使うことで、その背景にある社会モデルの「社会」としての福祉国家システムや市場経済システムというマクロな社会構造とディスアビリティの関係が看過されているのではないか、というも問題だ。
(思い出したのだけれども、ぼくが以前、雑誌に書いた文章でも社会モデルを説明するときにエレベータの例を引いていた、これって、ぼくの話だった。障害学の研究者ではないけど)

 次の第二の視点がぼくにはなかなか理解できないでいるのだが、上記のようにわかりやすい事例がとりあげられることで、「問題に対する因果論的な説明」と「責任帰属の議論」とを同一視する理解が無自覚なまま広まってしまったことが矮小化の例として指摘さる。そして、中西・上野の文章が引用され、批判される。
「原因は社会のしくみの側にあるのだから、それを補填する責任が社会の側にあって当然だろう」といった言い方がほとんど抵抗なく受け入れられているとするなら、障害問題に関わる領域においてこの病弊は相当進行してしまっているといわざるをえない(24-25p)
正直、ぼくも抵抗なく受け入れていた。問題に対する因果関係のなかで原因とされるものが、責任を引き受けるというのはあたりまえではないのか。障害者に対する差別・不平等な扱い・合理的配慮の欠如などの多くを社会がもたらし、そういう意味で障害者が生きにくい社会を作り、それが多くの場合、「障害」になっているのだから、「因果論として原因を説明することと、そこから導かれる社会の責任の関係」を否定せよと言う側に無理があるように思う。

 誰を障害者と名指すか、というときにそれは名指されるものの社会がそれを決定している、というのは確かにエレベーターの有無に還元されるものではないかもしれないし、必ずしもその因果関係と責任を同一視していいわけではないのかもしれないが、例えば社会に原因があり、社会が障害者を障害者たらしめているときに、その責任を問われないとしたら、それはどんな場合だろう。

「識字率が非常に低い社会で文字が使えない人が障害者とされない」という例を考えてみたが、これは障害者とはみなされない例だ。「見なされない」という例では社会の責任は問われない。


2節ではまず、トム・シェイクスピアの「社会モデルは誤っている」という議論がより詳しく紹介される。それがシステムでもモデルでもパラダイムでも定義でも理念でも道具でも問題ではなく、それは誤っているのだとシェイクスピアは書いているという。

以下はその批判の骨子として星加さんが紹介しているもの。
ディスアビリティ(社会的なもの)とインペアメント(生物学的なもの)との概念的区別が社会モデルの中核に位置するアイデアだと捉えた上で、この区別は運動戦略の特定(障壁除去アプローチ)と障害者の肯定的アイデンティフィケーションに貢献したという意味で、社会モデルの強みだったと指摘し、しかし他方で、まさにこの二元論的な概念化によって、次の2点の問題が惹起された。

@社会モデルはディスアビリティを社会的構築物と定義する一方で、インペアメントを生物学的な事実として本質化する。
 (これ、明示的には書かれていないのだが、インペアメントが社会的に構築されている側面が無視されているということなのか)

A社会モデルは障害者の経験にとって重要な位置を占めるインペアメントを無視/軽視する。
26p


星加さんはこの批判の前提にある二元論的理解に誤解があるとし。それを説明した上で、それでもこの批判には重要な論点が含まれているとしながら、やはり、その批判の不十分な点をあげる。どうもこのあたりの批判と反批判がわかりにくかったのだが、28pくらいまで読み進むと、インペアメントの本質化に関しては少し中身が見えてくる。そして、29pのAへの反論を読むとその主張も見えやすくなる。星加さんの短い紹介でシェークスピアの議論をわかったような気になるのは危険かもしれないが、英語を読む能力と意思が欠如しているのだから、しょうがない。

で、この議論を紹介するのが面倒になったので、ここでは紹介しないが、「ディスアビリティとインペアメントのインタラクティブな関係を含めて障害者の障害に関する個人的な経験を理解する」というのは、なかなか興味深い話だ。

そこから連想したのだが、障害の社会モデルの障害の部分を、この議論をもとに「貧困の社会モデル」に敷衍して考えたら、どうなるのだろう。新自由主義に顕著な貧困を個人モデルで考えるありかたに対して、社会運動は貧困問題を社会モデルで捉え、反貧困運動が進められているという風にいうことが可能な部分は多いと思う。それに個人個人の経験を重ね合わせると、必ずしも社会モデルだけでは解けない課題もある。そこのインタラクティビティからものごとを見ていくことで見えてくることがありそうな気がする。これは次の節でより明確に語られたりもする。そう、ぼくは障害学のこんな使い方に興味がある。

そこで、3節の「実践性の陥穽」という部分に入る。
というか、「個人的な経験」とDとI(ディスアビリティとインペアメント)のインタラクティビティを結びつけて記載されているのは3節だ。

ともあれ、ここでは社会運動にとって使い勝手がいい社会モデルがその使い勝手の良さ故に見落としてしまうものがあるという風にかみ砕いても大きくは間違っていないように思う。3つの観点でその問題性が指摘される。

 1、焦点に偏りが生じる可能性。
(例えば既存社会へのインクルージョンというような政策目標を立てた場合に既存社会の歪みがそのまま偏りになるというようなことか?精神医学が病者の潜在的なエネルギーを無力化するとかかなぁ?)

 2、政治的・公的な領域に通用する言語の基本的な性格のために、個々人が持っているニーズの重要な側面が不可避的に見落とされる

 3、この種の二元論的思考に孕まれる根源的な危険。社会的に解決すべき問題を政治的・公的アリーナで争点化していく営みは、不可避的に社会的な解決の対象とならない(あるいはすべきでない)領域を生み出し続ける過程を伴う。

この2と3の議論は167-168pでの討論にもつながるのだが、公的領域と私的領域に分けるのではなく、「生活保護から考える」で稲葉さんが紹介しているような「公的領域、個的領域の間に親密的領域」という3つの領域を設定するという考え方で解決する部分もかなりあるのではないか。


4節「実践性を再考する」というタイトルになっているこの節について、この論文の冒頭近くでは「社会モデルのポテンシャルを活かした研究の方向性の示唆」という説明が書かれていた。

ハッキングという冗談みたいな名前の科学哲学者を援用して、何らかの事象を「社会的」であると言明することに意味があるのは、人びとがそれを「自然」で「不可避」なものだと思われている場合だ、という。これは社会モデルが有効なのは人びとがそれを自然で不可避だと思っている場合だと言い換えることができるかもしれない。その事象が社会的に構築されたものだということ、あるいは言い換えると、可変性を俎上にあげることに実践的な意味があるとされる。
社会性の明示化には二つの方向があると星加さんは書く。これを「障害の社会モデルにおける社会性の明示化の方向」と読み替えてもいいだろう。
その二つとは
1、「できなくさせる社会(disabling society)」の明示化
2、「できるように強いる社会(ableistic society)の明示化

ableisticと記載されているがableismicとの異同が気になる。
ちなみに、ポメラに掲載されている英和辞典にはableistの記載はなく、ableismは健常者中心主義という意味が記載されていた。ableistは健常者中心主義者という意味なのかなぁ。

そして、この論文は以下の記述で締めくくられる。
 ・・・いずれにせよ、障害問題の社会性を明らかにするアプローチに確かな根拠を与えるためには、今よりましな可能社会をいかに描くかという課題に挑戦する必要もある。望ましさを語るという意味で「規範的」であり、実現可能性を条件とするという意味で「実証的」でもあるこうした課題が我々の前にあることは、忘れてはならないだろう。



なんか、この結語が物足りないなぁ

(ここまでの、ほとんどは、テレビ見放題だった正月休みの実家で、テレビの合間に書いたもの)

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