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zoom RSS 「シャッター商店街と線量計」メモ

<<   作成日時 : 2014/06/20 09:30   >>

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サブタイトルは「大友良英のノイズ原論」
2012年12月初版

また、長い読書メモになった。

いつものことなのだが、読み始めたきっかけは忘れてる。誰かがこの本について書いてるのを見て、図書館にリクエストしたのはたぶん間違いないのだけど。図書館の本を読んだあと、購入。その後、インパクションで矢部さんが大友さんを批判したりしているのを読んだが、矢部さんが批判しているような単純な話ではないだろうなぁと思う。

さて、読書メーターの記録を読むと読了は2月25日(読み終わって4ヶ月だ)、そのとき書いたメモは以下
仕事やいろんなことがバタバタしてたこともあり、ぐずぐずと時間をかけて読んだのだけど、面白かった。幾重にも分断され、解釈される福島の現実に直面し、その現実と正面から向き合うそのスタンスが気持ちいい。ちゃんと読書メモ、書きたいと思う。読み始めたきっかけは、やっぱり覚えていない。たぶん、FBかツイッターか、あるいはどこかネットで見たのだろうけど。

この読書メモも80pのあたりまで書きかけて、ずっと塩漬けにしてたんだけど、だからと言って、いい味がでてるわけじゃないのが残念。

昔、書きかけたのを少し訂正したりしながら書いた。

以下、青土社のサイト
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%A5%B7%A5%E3%A5%C3%A5%BF%A1%BC%BE%A6%C5%B9%B3%B9%A4%C8%C0%FE%CE%CC%B7%D7
から
音楽家が線量計を持ちあるく世の中なんて間違っている。でも、そこからはじめるしか道はない。福島に住む選択をした人、新天地を求めた人、遠い場所で震災に思いを巡らせた人―「音楽」「祭り」「放射能」「シャッター商店街」……震災後をめぐる6つの対話と、大友の自伝的初小説を含む、切なくも希望とノイズに満ちた対論集。


【目次】まえがき――うす目でぼんやりと
1 大友良英×渡辺あや 救いとしての物語
2 大友良英×開沼博 分断と忘却を意識化する
3 大友良英×高橋源一郎 世界のノイズに耳をすませて
4 大友良英×もんじゅ君 大友良英⇔もんじゅ君 往復書簡ーー2012.7.3―8.25
5 猪飼周平 復興の時間――福島の未来のために考えておくべきことについて
6 大友良英×木村真三 福島が映しだす、わたしたちの現在と未来
7 大友良英×安齋伸也 100年後の樹のために
8 大友良英×安齋一壽+遠藤知絵+木村真理子 かけがえのない毎日
9 大友良英 もうひとつの未来あとがき【著者】

大友良英(おおとも・よしひで)
音楽家、ギタリスト、ターンテーブル奏者。1959年横浜生まれ。十代を福島市で過ごす。 常に同時進行かつインディペンデントに多種多様な作品をつくり続け、その活動範囲は世界中におよぶ。ノイズやフィードバックを多用した大音量の作品から、ジャズやポップス、歌謡曲、音響の発生そのものに焦点をあてた作品までその幅は広く、この数年は美術の領域にまたがる作品も数多く手がけている。その仕事量は驚異的というよりは、ただのワーカホリックなのかも。 映画音楽家としても、これまた数多くの作品を手がけ、中国香港映画からNHKのドラマまで、現時点で70作品を超えるサントラを制作、いったいこの人は、いつ休んでいるんだろうか?  近年は「アンサンブルズ」の名のもと音楽家に限らず様々な道のプロフェッショナルからアマチュアに至るまで、多様な人たちとの協働を軸に展開する音楽展示作品や特殊形態のコンサートに力を入れている。現在、遠藤ミチロウ、和合亮一とともにプロジェクトFUKUSHIMA!の共同代表をへとへとになりながら務める。 著書に『クロニクルFUKUSHIMA』(青土社)、『MUSICS』(岩波書店)、『大友良英のJAMJAM日記』(河出書房新社)、『ENSEMBLES』(月曜社)等がある。
〜〜〜〜


最初の渡辺あや (「カーネーション」脚本)さんとの対談で大友さんはこんなふうにいう。30p〜
 ・・・放射能があるものだから、忘れていいのか?というクエスチョンマークが常にあって、ちゃんと考えながら生きていかないと危ないけれども、そんなことをいちいち考えているのもしんどい。そういうところでみんな揺れ続けているように思います。
 もうひとつは、放射能のことばかりを考えていてはとても精神的に生きていけないのに、考えないことが非常に罪であるかのように言われ続ける状況もあるんです。・・(中略)・・ 「なんで避難しないんだ?」と外から言われるたびに、すごく傷ついていって、少しずつ心を閉ざしていっているようなところがある。・・略・・ 福島のことで僕が今すごく問題だと思っているのは、内と外の埋めがたい意識のズレです。福島の人は福島の人で、外から何かを言われるたびに「外の人にはわからない」と心を閉ざしてしまうし、外側の人は外側の人で、素朴な正義感でよかれと思ってものを言っていて、住んでいる人たちの心を傷つけていることには気づかない。


で、大友さんは、そんな時に、カーネーションの脚本家の渡辺あやさんが「震災にかかわることを書こうかどうしようか迷ったけれど、自分のことをちゃんとやろうと思った。という風に語っているのを読んで、「それって、ものすごく有効なんだな」って思いました、という。それに勇気づけられたと。

 この分断、考えられなければならない大きな問題だと思う。そこにまっすぐ、そして両者に内在的に切れ込んでいるところが大友さんのこの本で、ぼくがいちばん買ってる部分だ。



 開沼さんとの対談では、大友さんはときどきイラっとしている(ように読める)。ぼくもまたイラっとした。福島外の脱原発派の問題を指摘する視点はさっき引用した大友さんの指摘と大きくはかわらないが、彼がそれを語るポジションがイラっとさせるのだと思う。彼はそれを何か「高み」から語っているように見えるのだ。例えば、70pで開沼さんは震災前から、「良識派」は脱原発と言っておけば、とりあえずOKでリベラルであることの証だというような「良識派の定型文」みたいな話があって、それが本当の意味で原発と向き合わずに原発を維持する構造を作ってきたんではないか、(そして、そこから大きく敷衍してるとぼくは思うのだが)
『それをわかりやすい言葉にしたときに、日本の戦後社会が無意識化して、人々に抑圧を与えてきた他の社会問題にも通じる元凶が現れるのではないか、と思いました』
(70p)という。

 まず、前提の部分に大きな違和感が残る。震災前、脱原発を語る「良識派」がどれだけいただろう。ほとんどの「良識派」は原発のことなど眼中になかったのではないか。しかし、現実問題として、震災前の空気は本当に見えにくいっていうかぼくが忘れている。 ここに書かれている「良識派の定型文」みたいな話って、どれだけ状況を規定するものとして、存在していたのだろう。

開沼さんが常々指摘しているように、原発立地点の人々の声をちゃんと汲むような動きを、脱原発運動の側は、誰にも見えるようには組織できていなかったかもしれないし、そもそも脱原発運動は震災前は非常に弱弱しいものになっていたのは疑いない。仮に「良識派の定型文」みたいな話があったとしても、それが状況を規定するようなものとして存在していたとは考えられない。

にしても、
『それをわかりやすい言葉にしたときに、日本の戦後社会が無意識化して、人々に抑圧を与えてきた他の社会問題にも通じる元凶が現れるのではないか』
って、ぜんぜんわかりやすくないと思うのだが、ぼくだけかなぁ?

とはいうものの、パラレルワールド的な歴史、歴史の重層性、複数性という開沼さんの指摘は興味深い。これが学問的にはここ20年くらいのトレンドだってことは知らなかったけど。(72p)

で、開沼さんの「生々しい主従構造」から「より効率的な主従構造」という言い方もわかりやすい。76p
しかし、同時に、いまだに「生々しい主従構造」があるという部分を開沼さんは等閑視しすぎているんじゃないかと思う。

3・11で日本社会は変わったか、という問いに関して、開沼さんは「変わっていない」と応える。それに対して「いや、変わった」と応える人に対して、彼は「こうである」と「こうあるべき」の混同があるのだと指摘する。80-81p

例えば原発輸出を例に、変わっていないではないか、と。

ぼくは、要は、変えようとするものと、維持しようとするものの「パワーバランス」(こんな言い方は嫌いだけど)をどう見ていくか、という問題なのかと思う。

例えば原発をめぐっての彼我の力関係は開沼さんがいうほど、維持に傾いているわけでもないように感じる。同時に明確に変革へと舵が切られているわけでもない。ぼくは「変わったか」と聞かれたら、「変わった、しかし変わっていない」というふうにしか答えられないか、とも思う。

ま、開沼さんの場合はポジショントークとして、あえて、変わっていないという主張をしているようにも感じるのだけど。

3・11で変わったか、変わってないかに関して、
開沼さんは、自分のなかの「こうあるべき」を、いつのまにか、社会が「こうである」という誤った現状認識にすり替えてしまうような思考様式がある、と指摘する。80-81p

社会運動の中にそういう傾向があることは否めないし、ぼくのなかにもあるので、それは自戒しようと思う。
希望的観測を語りたくなる気持ちはある。

しかし、社会運動がすべてそうだといわんばかりの書き方にはすごく違和感が残る。

しかし、そんな風に言えば、安倍首相のオリンピック招致演説での「コントロールされている」っていうことのほうが、よっぼど【自分のなかの「こうあるべき」を、いつのまにか、社会が「こうである」という誤った現状認識にすり替えてしまうような思考様式】なのではないか。

開沼さんの話はいつもそんなふうじゃないかと思う。状況へのイニシアチブを握っている政府や東京電力への批判を回避して、社会運動を批判する、それも、それをあえてやっているように感じる。どうしてなのだろう。

そして、開沼さんは83-86pにかけて311後の世界を「ポスト世俗化社会」と呼ぶ。科学を軸に成立してきた世俗社会としての近代社会の前提が崩れている、というのだ。「科学が信じられない」とか「国家やメディアが信じられない」というように。そして、開沼さんは「信心」の話を展開する。原発は安全かどうか、低レベル放射能は危険かどうか、反対側の意見を持つ人がカルトに見えてしまうような「信心」の世界だと。

93pからは「なぜ避難しないのか」という善意の問いかけの問題について、二人は語る。そのなかで、開沼さんは以下のようにいう
相手が「善意」なりなんなりの情動できている以上、こちらもそれに伍する情動を喚起する言葉をぶつけないことには絶対に伝わらないこともある。94p
これが開沼さんの文章が喧嘩を売っているように読める原因なのかと思った。しかし、この対応が正しいかどうか別の話だ。

また、96pでは「安全神話の崩壊」について語る。それに対して、それだけじゃなくて、有害ないろんな神話があるだろう、という話を持ってくる。そして、「これこそが神話ではない」というような対置を異常だと批判する。例えば、「もはや、とんでもなく危険だ」とか「やっぱり絶対安全なんだ」というような。
しかし。フクイチの事故を見たら、それが「とんでもなく危険だ」ということは神話ではなくなったのではないか。だから、この話の持って行き方がよくわからないのだが、これに続けて開沼さんは有害な神話ではなく、無害な神話を作り直すことが必要で、しかし、その神話が何かはわからない、と書く。なんだか、混ぜ返されてるようにしか思えない。

それに続いて、97〜100pでは「なぜ、逃げないのか」という離れた場所からの問いかけについて語られる。このあたりが矢部さんを怒らせているのだと思うが、ぼくは大友さんの話に共感する。大友さんは以下のようにいう。
 僕は最初は避難したほうがいいかと思ったけれども、ある時期からその人の決断を尊重しようと思うようになりました。
 避難の是非は国からの命令が出る以外は、個人で決めていくしかない。だったら、する人には応援するし、残るという人はにその決断を尊重してあげる。ただ、子供がいるというケースがあって、それが…避難しろと言っている人たちの水戸黄門の印籠のように使われているんですよね。それは間違っていないんだけど、印籠と差別の道具になっているところああって、本当に難しいなと思います。100p


で、この対談の101p〜の部分で、開沼さんが言ってきたことの背景が少しわかったような気がした。

開沼さんは、まず、「である」ということを言葉にしていくことが仕事だ、とした上で「諍い」的なところをあえて、積極的に起こしていかないとダメだと書く。「あんたのやってることはデリカシーがない」「地元の当事者にとってはうるさいだけ」と「善意」を持って、外からやってくる「正義の味方」気取りの良識派の方に正面から向かい、支持にせよ、批判にせよ換気していかなければならない、という。101p

そして、次の発言で、以下のように言っている。
・・・問題を、他人の問題とか政治や社会の問題にしてしまうから、言葉がすごい暴力性を帯びたり、どこか浮遊していたりするというような状況があると思います。102p

このあとに、批判を受けた場合に、地元のことだし、友人もいるからこの研究をやっているんですよと言えるし、・・・として、「科学的に低線量被爆が…」とか「原子力を用いたエネルギー政策を考えると…」とか、急に身の丈にあわない話をしちゃうところにすれ違いの原因がある、という。

まず、初発の部分で自分に引きつけて考えることの大切さっていうのはあると思うし、他人の問題ではないのだけど、福島原発事故とその後の問題は間違いなく、政治や社会の問題だ。じゃなかったら、社会学者である開沼さんがこの問題にかかわらないだろう。

開沼さんが言いたいのは、単に自分と社会のつなぎ目の部分を語ることの大切さって話なのか??

やっぱり、よくわからない。というわけで、やはり気になる開沼さんだが、メモはここまで



次の高橋源一郎さんとの対談で、高橋さんは大友さんにノイズの大切さを暑く語り、これを社会に当てはめると、ノイズとは「一見、じゃまな」弱者であり、近代に、殺すわけにはいかないので、施設に入れて遠ざけたという説明をしている。そんなふうに強者だけが残るような社会はだめなので、ノイズは重要だという話になる。それを受けて大友さんはノイズの世界にいる人はそのことを感覚的にわかってるんだという。122ー123p

133pで高橋さんは、辻さんとの共著でもあったように、障害のある子どものお母さんが元気だという話をする。それは、そこに神様からの「コーリング(天職)」を受けてる感じがあるからだと。そういう機会はなかなか訪れないので、「弱い」存在はギフトだという。そして、弱さを知ることの大切さを語る。そんな風な弱い人・ノイズを排除して一たった果てに福島の事故があったというわけだ。133ー135p

そんな側面もないわけではないと思うが、やはりここにはパターナリズムとの危うい関係があることに自覚的である必要がある。障害学などの蓄積を高橋さんに教えてあげたくなる。

145pで高橋さんは「本当に文学をやる」とは「自由を求めて」ということだとし、その自由とは何かというと、一番、ぴったりくるのは「適当」だという。「適当でいい。全部適当」だと。それを貫くのは難しいと書くのだが、「適当」ってことに関してはちょっと自信があるぞ。



次はもんじゅくんとの往復書簡。もんじゅくんがこんなにインテリだったということをぼくは迂闊にも知らなかった。

もんじゅくんは、いなかと都会の対立について、それが単に対立するものだと考えると、3つ、錯覚してしまうことがあると書かれている。182ー185p

1、「中央が地方にいやなものを押しつけて」という言い方。これはある面では真実だけど、都会に軸足があるからこそ陥りやすい考え方。つまり、その前提として「豊かな都会=貧しいいなか」という構図があるのではないか、本当にそうなのか、お金の流れだけ見ると、都会で集めた税金をいなかで使っている。だから、「おしつけて」という部分は一面的だという。

2、「都市 対 地方」「中心と周縁」という枠組みが相対的だということ。それは福島にも福井にも沖縄にも、それぞれの地域の中に存在する。それは入れ子のように無限に続いてしまうかもしれない。

3、地方と都会は固定しているようで、中の人は入れ替わりうるということ。


それらを受けて、以下のように書く。
 いなかに住むっていうことには、たとえば空気とか水とか時間とかスペースとかをゆったり味わえるっていうよさもありますだよ。でも、それってなかなかお金で計算できない、目に見えにくいことだから、軽視されやすいのかな、とも思うんです(ボクだって、会いにきてくれる人も少なくてちょっとさみしいけれど、若狭湾のみえるこの場所がすごく好きだもん)。
 そういうところを自覚できたら、地方のくらしってじつはすごくゆたかなのかもしれないなぁって。ちょっと夢想家っぽくなっちゃうけれども、「おしつけて」「おしつけられて」といういいかたじゃなくて、「ここにはここの、いいものがあるから」と誇りをもてるようになればいいのに、と思うんです。原発をやめる、廃炉にしていくという過程で、そういう発想のきりかえもいっしょにしていく必要があるんじゃないかな・・・。185p

 だけど、多くの人はいなかでは食えない、としていなかを捨てたりする。実際、ほんとに食えないという部分もあるだろうし、工夫すれば生活が可能な部分もあるだろう。その「食えない」観をなんとかしなければいけないのだと思うが、難しい話だろうな、とも思う。




次の章が猪飼周平さんの文章、ここだけは対談ではない。対談をもうしいれたが、猪飼さんは「書き言葉で表現したかった」とのこと。そして、この文章はオープンソースとしてネットでも発表されている。
http://ikai-hosoboso.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

タイトルは「復興の時間」
サブタイトルは「福島の未来のために考えておくべきことについて」

対談集なのに対談ではないこの部分が、大友さんのこの本の肝の部分じゃないかと、少なくともぼくはそう思った。

まず、大友さんが書いているのこの章の紹介から。
その冒頭で書いているのが、猪飼さんのブログ記事で、大友さんのもっとも重要な指針になっているという文章の紹介。
タイトルは
「原発震災に対する支援とは何か 福島第一原発事故から10ヶ月後の現状の整理」
 http://ikai-hosoboso.blogspot.jp/2012/01/10.html
 大友さんは「この文章が震災後の福島に関する報告の中で、私にとっては最も重要な指針になっている」と書く。
 で、いま、このURLを開いたら、ぼくのコメントが残っていて、びっくり。2012年2月4日にコメントを書いている。


そして、この紹介の最後をこんな風に締めくくる。
 猪飼さん、本当にありがとう。
 何度も何度も噛み締めながら、厳しくも優しい、この文章を読んでいます。


以下、猪飼さんの文章について


ここで猪飼さんは復興について、福島の人々に何ができるかという観点から書く(域外の人は福島の人びと自身の活動をどう応援できるかということだ)、とした上で、前提として、「放射能汚染は必ず終わる」という。どういうことかと言えば、300年すれば、原発のすぐ近く以外は自然環境として元通りになるというわけだ。そして、「できるだけ復興の照準を遠い将来に合わせる」という戦略を提起する。201p

まず、通常の行政の時間軸を超えて、50年で考えたらどうかと提案する。そして、300年かければ、何もする必要がなくなる、と。つまり、時間をかければかけるだけ、原発震災の解決の可能性が高まっていくというわけだ。

と同時に、猪飼さんは短期・中期になにもしなくていいという話ではなく、それだけでは十分ではないということだと強調する。202-203p

 この論点を別の言い方で言い直すと、5年での放射能の除去の方法を考えるよりも、50年待つために何が必要なのか、というほうが、解決がよういだというわけだ。そして、論理的には50年というのが重要なのではなく、現実的な解決策を見出すためにそういった長期の時間が必要なのだということが重要なのだという。だから、30年でもいいかも、と書かれている。204p

そして、その50年という時間軸を受け入れることが可能なのかと問題を立て、3つの理由でそれが可能だという。

1、その時間軸で、いま、16歳の子どもは帰還が可能になること。そういう意味でリアルなことでありうるということ。

2、と同時に50年後に備えなければならないのは、日本の地域全体の話だと書く。そう、人口減少の傾向は明らかで、そのときどうするのかということが問われていて、ほかの地域に先駆けてそれを準備するということ。

3、そういう時間軸で考えなければならないようなことは「身近なところにいくらでもあり、私たちはそれを自然に受け入れてきた」ということ。山や森を育てる時間軸もそんなもの。
204-206p


で、その時間軸にリアリティを持たせるために、いま、具体的になすべきことがあるかどうか、それが決め手になると猪飼さんは書く。

そして、あくまで最優先は、いま現在の生活再建であるということを前提にしながら、50年後の復興ということを考えることで、初めて見えてくる具体策があるとする。207p

猪飼さんは、その具体策に入る前に、まず、何のための復興なのかを確認する。
経済的合理性、という側面から考えたら、汚染された地ではなく、別の場所で再建を進めたほうが合理的であるにもかかわらず、なぜ、この地での再建を求めるのか、という問いを自ら立て、それに対して、「そこに文化があるからだ」と答える。その文化とは広い意味での文化、その地で人が暮らし続けてきたという重みの上に成立する文化だ。

そして、具体策として2つの方向を提起
1、震災前に地域の人々がどんな風に暮らしていたかについての記憶を風化させないために記録して残しておくこと。
2、地域の暮らしにどんな良さがあったのか、再発見を進めること。

猪飼さんは「この過程で、地元の人々が驚くほど、今回の原発震災ですら奪うことのできなかった地域の良さがたくさん見つかると思います」という。

そして、問題は50年後に、この良さを手渡す相手がいるかどうか。人口が激減するといわれている日本社会でその頃、消えていく地域も少なくないはずだ。それを超えて、残っていくために何が必要なのか、と次の問が立てられ、二つの示唆が提示される。
1、これが自治の問題だということ。つまり、その地域を生き延びさせるかどうかは地域の人びとの意思にかかっている部分が大きく、自分たちの地域の運命は自分たちで決めるというような「自治」があるかどうかが問われる。
2、生活が継続できるかという多分に経済の問題。経産省あたりが思いつくようなモノカルチャー的発送ではダメで、生き延びるための大小のアイデアが無数にでてくるような「苗床」が必要。そのためにも開かれたコミュニティであることが重要。



そして、この文章全体のまとめとして、4点があげられている。
〜〜〜〜
この文章で要点となることを以下にまとめておきましょう。
1) 長期的視点から復興を考えることで不可能が可能になる。
2) 地域文化を点検してゆくことで復興の理由が見えてくる。
3) 復興のためには地域が生き延びることを地域の人びと自身が決めること(=自治)が必要になる。
4) 地域文化の良さを理解するためにも、生き延びるアイデアを得るためにも、地域はより開かれたコミュニティを作る必要がある。

このようにまとめると、長期的な視点からみる限り、福島の人びとが立ち向かわなければならない状況というのは、震災前にあった状況と大して違わないということがわかるのではないでしょうか。一部の地域を除いて、福島でも多くの土地が、震災前から進行する高齢化・人口減少の中でどのように地域づくりをしてゆくかという問題にぶつかっていました。そして、その中で奮闘されていた人も多くおられたはずです。213-214p
〜〜〜




次の章は木村真三さんとの対談
木村さんは厚労省管轄の研究所の研究員だったが、311直後に現地での自由な調査を規制され、即刻辞任して、汚染を自ら調査した人。
その調査は2ヶ月後にNHKの番組にもなった。

ここでぼくが興味深かったのが、汚染された瓦礫の問題。
その燃やせるものを燃やすというときに人体に影響があるのかないのかという話をすることを乞われて、木村さんは、なるべく被爆しない方がいいのだけれども、レントゲン撮影と比べても非常に軽微だという話をしたと思われるのだけれども、そこでの拒否の反応に対する違和感を語っている。その受け入れがほんとうに必要とされているのなら、歩み寄ってもいいという姿勢が欠如している人について、その根拠が「僕にはわからないのです」という。
 それに対して、大友さんが「恐怖感が背景にあるからで、それを丁寧に取り除いていく仕事が必要だ」というのを受けて、木村さんは、「それが、市民科学者養成講座なんですよ」と応える。223-225p

そして、志田名という木村さんが深くかかわっている地域の話なのだが、この対談の1年前、木村さんはそこにはもう住めないと思っていて、それを泣きながら説明したという。そこから4ヶ月くらいが経過して、なんとかやっていけるかもしれないと判断を変更する。その理由を大友さんが聞き、こんな風に応える。

汚染度合いがまばらであるというのが基本的な考えとしてあって、去年は住民の意思で農地の作付けを行わないと決めてくれたので、実際に鍬き込んでいないから、汚染の拡大もしていない。だから除染如何によっては再生可能かもしれないと考え、セシウム134という半減期が2年のものが時を経て10分の1以下になってしまえば、全体の線量もだいぶ下がってくるし、農地を再生して住宅地周辺を再生して近隣の森を改善していけば住める可能性はあると思い直しました。228p


除染の可能性について、否定的な見解が多い中で、やっとみつけた除染の効果を肯定的に評価する言説。木村さんは、いま、福島で大々的に行われている除染をどんな風に見ているのか聞いてみた気もする。多くの除染はここで木村さんがここで書いているような展望を抜きに行われているように見えるのだけど、実際のところ、どうなのかをぼくは知らない。

そして、この対談の最後に木村さんと大友さんは以下のように言う。
木村 金さえあればすべて解決できると思っている若者がいっぱいいるでしょう。金儲けや持っている金だけで自分の価値観を表現する人の多いことには、殺伐としすぎていると思うし、こんな世の中に住みたくないなというのが正直なところですね。

大友 人生を含めた価値観というものについて、もう1回考えていかないといけない。もはや特定の宗教を信じて社会を構成できるような19世紀の社会ではないので、今の社会の中での価値観をどう作っていくかというのが、僕らの社会の大きなテーマなのだと思うのです。


石原(息子)大臣が「最後は金目でしょ」と言ったらしい。彼が後になってどんなに弁解しても、ほんとにそう思っていたのだと思われる。そして、この価値観は根強い。木村さんはここで若者を引き合いに出しているのは「若者なのに」という意味合いなのかどうか、よくわからないが、「金さえあれば」という価値観は決して若者特有のものではないはず。ここで大友さんがいう「価値観」という言葉を、マックス・ヴェーバーの「転轍機」と重ねて考えることもできるかもしれない。


この先にもいくつか興味深い記述はあるんだけど、飛ばして「あとがき」へ

日本社会は(もしかしたら日本だけじゃなくて)、「ノイズ」をできるだけ消す方向で、経済成長とか所得拡大という方向に走り続けてきた。それがまずかったんじゃないか、というのが大友さんの主張だと思う。そして、311で世界がふたたびざわめきだした、と。355p
あとがきの冒頭で「この本は失ってみてはじめて気づくような、そんな存在や物事について語り書いた本だ」と書かれ、また、あとがきの末尾近くでそれが繰り返され、以下のように付け足される。「と、同時に、失ったからこそ見えるものがあり、はじまるものだってあるということを書こうとした本でもあった」

そんな風になっていたかどうか、ちょっとあやしい気もするのだけど、福島が抱えさせられた痛みを、ともに感じ、そこをどうにかして乗り越えようとする意思のようなものを感じた。それには時間がかかる、その時間をいかにすごすべきなのか、そんなことも考えさせられた。


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