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zoom RSS 「里山資本主義」メモ

<<   作成日時 : 2014/10/19 09:23   >>

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里山資本主義
日本経済は「安心の原理」で動く
[ 著者 ]藻谷浩介 NHK広島取材班


まず、直後に読書メーターに書いたメモ
〜〜〜
いろんな人が言及していたし、いつか読みたいと思いつつ今日までかかった。でも、資本主義は好きじゃないしなぁとか思ったりしてたんだけど、読んでみてわかった。これ「里山資本」主義の本です。

「安倍首相は「アイツだけは許さない」と怒っている」( https://twitter.com/hyodo_masatoshi/status/516547458189385728 ) っていうのが読みたい気持ちに火をつけたのかも。
〜〜〜
以下は明確に邪推なのだけど、この首相の妻は里山資本主義が好きそうに見える。それが彼の怒りに油を注いでるんじゃないか?


若い友人がこの本のことを「一極集中の資本主義のアンチとしては面白いと思う一方で、自然との向き合い方として根本的にまずい」と教えてくれて、自分なりに考えてみた。

指摘されてはじめて気づくのだけど、里山のさまざまな価値を「資本」と捉えてしまうことがどうなのか、っていうのは確かにあるかなぁ。ただ、まあ、人間にとってはそことの関わりの中で生きていかざるを得ないので(だからこその里山なのだけど)、それを使わないと生きていけない側面は間違いなくあるし、持続可能な範囲で使うことを否定できないし、逆に使わなければ里山が衰退するという現実もあります。持続可能性のために具体的に何が必要なのかと発想することを無碍に否定することもできないとも感じています。

章によって書き手が異なるのだが、基本的な考え方は一致しているのだろう。ほとんど違和感なく全体を読み通すことができるし、目次にはそれぞれの著者名が書かれていない。

以下、付箋にそってメモ

著者グループは、なぜ、今こそ「里山資本主義」だと思ったのか、と自問し、以下のように答える。
 一言で言えば、世界中の人がグローバルなマネーの恩恵にすがるしかない仕組みは、やはりおかしいからだ。少しでも切り崩し、「かたぎの経済」に変えられないかと。12p

それに対抗するものとして、「晴耕雨読」の「晴耕」ではないか、というのがここでの主張だ。100%をそれに転換することができなくても、なるべく買わない方法があるのではないか、というようなことだ。


「二刀流」という説明もある。
・・・われわれの考える「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、お金に依拠しないサブシステムも再構築しておこうというものだ。最初の動機はリスクヘッジかもしれない。何かの問題でお金の循環が滞っても、水と食料と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、予め用意しておきたいという思いが、里山資本主義の入口となる。しかし実践が深まれば、お金で済ませてきたことの相当部分を、お金をかけずに行っていくことも可能になってくる。生活が二刀流になってくるのだ。138p

このような生き方が綿々と続いてきたにもかかわらず、無視される理由として、著者はこの「根底に資本主義の根幹に逆らうような原理が流れている」(139p)からではないかと感じると書く。

(以下はここでで読んだところでのちょっとそた違和感なのだけど)この本を読んでいると、マネー資本主義と里山資本主義の二者択一しかないように読める。
高度に工業化された部分もなければ現代社会が成立しないというのは間違いなさそう。しかし、それを維持するシステムは「マネー資本主義」しかないのだろうか?その工業化された部分をもう少し人間的な営みに近づける努力も必要なのではないか。里山資本主義がサブシステムの位置にとどまるというのは理解できるのが、メインはマネー資本主義である必要はないだろうし、そこをも変える努力も問われているのではないか?

141p以下では里山資本主義によるマネー資本主義へのアンチテーゼとして3点があげられている。
1、「貨幣換算できない物々交換の復権」141p
2、「規模の利益への抵抗」144p
3、「分業の原理への異議申し立て」146p


そして、この里山資本主義の都会でのささやかな実践として、以下のよう提案される。
・・・買い物の際に、敢えて「顔の見えるもの」、どこか特定の場所で特定の誰かが地元の資源を活かして作っているものを選んでみる。あるいは経営している人の顔の見える小さな店に、敢えて足を運んでみる。少し高いかもしれないが、そこは「大物になった気分で、何の見返りがあるともわからない支援金を払ってみる」というのはどうだろうか。149p
また、人に何かを送るときに近所のここにしかないものを送るとか、空き地を借りて畑にしてしまうとか週末農業の提案がなされる。

どこかで読んだことがあるような話だと、いま気づいたのだが、古田睦美さんが紹介しているサブシステンス志向の身近な取り組みともつながるものがあるだろう。

そう、この里山資本主義をサブシステンス志向と呼ぶこともできそうだし、「懐かしい未来」ともつながる。実際、この本のなかでも「懐かしい未来」は紹介されている(181p)。ちなみにここで文献として紹介されているのは山と渓谷社バージョン。この山渓のものが絶版になった後で、福祉工場で印刷した「懐かしい未来の本」バージョンもあるんだけど、こっちもほぼ売り切れに近いけど。 

そして、ちょっと興味深かったのが、藻谷さんが
「里山資本主義はいい話なので、政府の補助金を使ってどんどん推進して欲しい」とは思わない
、と書いている部分。152p
それをインターネットの利用と比較して、その広がりも政府の補助とは無関係に広がったのでであり、本当の変化とはそのようにして起き、「里山資本主義の普及も、ネット初期のような段階にまで達しているのではないかと感じている」(152p)という。ぼくは官民一体で進めてもいいようにも思うんだけど。

ともあれ著者は続けて、以下のように書く。
面白そうだから、実際にやってみて満足を感じるから。そうした実感をもつ個人が一定の数まで増えることで、社会の底の方から、静かに変革のうねりが上がってくると思っている。152p
その上で、里山資本主義を実践している人は「本当に面白そう、満足そうだ」として、なぜなら、「人というものの根幹に触れる問題が、マネー資本主義対里山資本主義の対立軸の根底にあるからだ」という。

その根底にあるものとして、以下のように書かれている。
そう、人は誰かに「あなたはかけがえのない人だ」と言ってもらいたいだけなのだ。何を持っていなくても、何に勝っていなくても、「何かと交換することはできない、比べることもできない、あなただけの価値を持っている人なのだ」と、誰かに認めてもらいだけなのだ。・・153p
だとすれば、持つべきものは二つ。「第一に人との絆」であり、「第二は自然とのつながりだ」と藻谷さんは書く。

周防大島のジャム屋の松嶋さんのリーフレットには以下のように書かれているという。
今の時代に求められているのは、地域の価値に気付き、その地域に根ざした活動を展開することではないでしょうか。その土地でできた作物を使い、田舎では田舎でしかできない事業を行うことが理想のスタイルであると思います。それが地域を復興させ、お年寄りを元気づけ、若者を呼び戻す切り札になるはずです。・・・・161p
なかなか難しい話でもあるなぁと思いながら読んだ。このジャム屋さんの成功はやはり例外的な話じゃないか。そして、原発に傷つけられた地域で何をどうすることができるだろうと思った。

169pからは「ニューノーマル」が紹介される。
定義がはっきりしないのだが、ニューノーマル消費とは
「自分たちのための消費(ブランド品や高級品)を求めるのではなく、つながり消費(家族や地域、社会とのつながりを確認できるもの)を求め、新しいものをどう手に入れるかという所有価値ではなく、今あるものをどう使うかという使用価値へと重心が置かれるようになっている。そして、それは一過性ではなく、長期的、持続的な変化であり、後戻りできない消費傾向」170p
とのこと。これを「静かな革命」と呼ぶ人もいるらしいのだが、そういう希望的な観測にはどうしても懐疑的になってしまうなぁ。

次に紹介されるのが 52%、1.5年、39%という「オールド・ノーマル」の数字
52%は2年以内に消えるヒット商品。90年代には8%だったそうだ。
1.5年は新しい商品が利益を得られる期間 70年代までは25年はもったとのこと。
そして、39%は仕事の満足度。
このような観点から、生産においてもニューノーマルが求められると主張される。

里山資本主義とローカリゼーションというのも、ほぼ重なる概念かもしれない。ローカルでできるだけ循環させ、物やサービスを循環させ、そとにお金を出さないようにしようという話だ。175-178p

前の方で紹介した「懐かしい未来」について、広井良典さんが「人類は『懐かしい未来』に向かっているのではないか」と指摘してくれたとのこと(181p)。いまが、量的な豊かさから質的な豊かさへと転換している時期だと主張したらしい。182p

そして、その議論の中で広井さんが「長いスパンでの成果を評価する時代への転換」と主張したことに対して、マツタケ山再生研究会の空田会長は、自分たちは絶対に成果がでないといけない、という態度をそもそもとっていない、と違和感を唱え、その違和感に広井さんも感銘したというエピソードはなかなか面白い。空田会長は以下の様に言ったという。
「成果が出れば良し、出なくても、それもまた良し。みんなで山に入って、山をきれいにして気持ちよかった。70代の者たちが頬を赤く染めるほど汗をかき、山仕事に打ち込む気持ちよさ、すがすがしさ。それだけあればいいのです」182p


183-4pではシェアという言葉の使われ方が変わってきたことに注目する。以前はもっぱら「市場占有率」だったのに、いまは「分かち合う」という意味で使われることが多いと。それも時代の変化を表しているというのが著者の主張だ。

185pからは耕作放棄地の話、そこの活用の可能性がさまざまな側面から書かれている。その「肝」は楽しむことだ、として、島根の邑南町の耕すシェフの話や松江の郊外でNPOを立ち上げて始まった市民農場、あるいは鳥取の八頭町の「ホンモロコ」の養殖の話が紹介される。邑南町の耕すシェフ、野菜をもらったり育てかたや料理の仕方を聞く中で「ありがとう」と言われる回数が圧倒的に増えたという。そして、話をするほうも楽しくてしかたがない、そのようなGDPにとってはマイナスかもしれない話の大切さに著者は注目する。
山陰ばかりだなぁと思って、よく考えたら中国山地の取材からできた本だった。


4章「無縁社会”の克服」は福祉の話。

ここで最初に紹介されるのは庄原市の社会福祉法人。そこの理事長の熊原さん。

空き家を活用して、デイサービスなどを行っているとのこと。彼の以下の発言が紹介されている。
「・・・ハンデのある人、地域。マイナスの多い人、地域。マイナスの多い人、地域。それを弱者とは、私は思ってないんです。実は玉手箱のように光り輝くものがあると思ってるんですね」208p
どうして、こんな風に言えてしまうのかよくわからないのだが、著者は熊原さんが無理せずこのように言っていると書く。
実際にやっていることとしては空き家を利用したデイサービスや 運営するレストランに地域通過で支払い、野菜を出してもらうこと、そしてそのレストランは保育園に併設されていること。特に何か目新しいというわけではないようにも思うが、玉手箱の中に目新しい物はないのかもしれない。


最終総括は<「里山資本主義」で不安・不満・不信に決別を>というタイトル。
この冒頭で「根本原因分析」という手法が紹介される。何かが起きている原因は何かを考え、その原因が起きている原因は何かと、それを繰り返して根っこの根っこにある本当の原因を探すというもの。

ここで、藻谷さんは最初に
「今日本人が享受している経済的繁栄への執着こそが、日本人の不安の大元の源泉だと思う」(251p)
と書く。
そして、「日本経済の危機だ危機だ」と煽られるけれども「そう簡単には日本の経済的繁栄は終わらない」(257p)とし、いくつかの日本経済ダメダメ論への反論が書かれている。

で、ここからの展開が面白いのだが、藻谷さんはそれらの反論を読んでも「日本経済は衰退に向かっているのではないか」という人々の不安は「残念ながら消えない」と断言する。
なぜ消えないのかといえば、ここでの日本経済ダメダメ論への反論の論点が「そうは言ってもマネー資本主義の枠内の話」だからだ、と。
マネー資本主義は、それ自体がダメになる危険を常に抱えている。原発の再稼働や国債の乱発という安倍政権の政策は、その不安に乗じた刹那的なものだというのが、藻谷さんの指摘だ。

「再稼働しようとするのも・・・数年先を見ないようにしている話にほかならない。・・・高レベル廃棄物にどこで誰がどう責任を持つのか、これまたまったく目途がたつ目途もない。これはともかく赤字国債を発行してつないでいくという発想と同じで、刹那の繁栄のための問題の先送りにほかならない」と書く(281p)。

別の言い方で書けば、ダメなマネー資本主義の枠のなかで考えても、ダメダメな安倍政権の政策であり、しかし、その枠組み自体が壊れるリスクを常に抱えているのだから、じゃあどうする、という話になる。

で、このマネー資本主義のの限界という問題への打開策が里山資本主義という話になる。しかし、それを「猛々しくは語らない」と藻谷さんは書く。
「限界を柔らかく突き破り、いや正確には限界の壁をするっと回りこんでかわし、人びとの不安を柔らげる役を果たす、里山資本主義について静かに語りたい」と。

284p〜の節では少子化、子どもと生産年齢人口の現象の問題について書かれている。
50年でほぼ半減することは、誰も止められない、としたうえで、それ以上に減らないようにすることはできるかもしれない、とし、そこがいまやらなければならない勝負の中身だ、と。(285p)
その解決策も里山資本主義だということになるのだが、ざっくり書いてしまえば、こどもをつくるために、その安心感が必要というような話だ。

ただ、ここで、どうかと思ったのは移民の話。移民を入れることの効果の薄さの根拠として、いずれ同じ出生率になるからと藻谷さんは書くのだが、入れ続ければ人口は増えるとはず。経済格差がある限り、イミグレをゆるめれば人は入ってくる。移民の受け入れに効果がなくなるとしたら、それは日本に魅力がなくなったときだ。

そして、田舎に生活の場を求める人が増えている、
「流れは確実に変わっているのだ」(289p)
と藻谷さんは断言するのだが、その変化はいつ目に見えるような形になっていくのだろう。

そして、藻谷さんは人間の価値について、もちろん金で決まるわけではない、として、以下のように書く。
 人間の価値は、確かに「あなたはかけがえのない人だ」と言ってもらえるかどうかで決まる。人との絆を回復することで、そして自分を生かしてくれる自然の恵みとのつながりを回復することで、ようやく「自分は自分でいいんだ、かけがえのない自分なんだ」ということを実感できる。
ここまで納得できるのだが、これに続く以下はそうかなぁ??
そのとき初めて人は、心の底から子どもが欲しいと思うようになる。自分に子どもがいてもいいのだと思えるようになる。・・・290p
そんな人もいるだろうが、自己肯定観を持ちつつも、子どもが欲しいと思わない人間だって少なくないはず。これ、ジェンダー的にもどうなのだろう。

292p〜は里山資本主義で「明るい高齢化社会は可能だ」という話だ。その第一の根拠は世界トップクラスの健康寿命が里山資本主義でさらに上昇すると考えられるから、と書かれている。
長野県の医療費の安さと寿命の長さの話が出てくる。早い時代からの病院の外での「予防医療」などの成果だとされ、そこが里山の県だということも無視できないのではないかと書く。さらに「・・全国が長野県並のパフォーマンスになるだけで、高齢者の増加による医療福祉の負担増は、かなりのところまで抑えることができる」(294p)という。

第二の根拠として「里山資本主義の普及に伴って、今後ますます、金銭換算できない価値を生み出し地域内で循環させる高齢者が増えていくだろうということ」があげられている。例として、4章での福祉施設などで地元の老人が作った野菜を使う話がでてきて、その結果、いらなくなった食材代、肥料代、運ぶ燃料代などがあり、GDP的にはマイナスだが、意味のある価値を生み、それが地域内を循環し輪を拡大させていると。


そして「おわりに」で藻谷さんは以下のように書く。(一部要約)
里山資本主義の普及によって、出生率の減少をどこかで食い止め、当面の高齢者の増加にも顕著なコスト増なしで対応できたとすれば、2060年の日本はバランスのとれた安定度の高い社会に生まれ変わっている。そのとき、総人口は8000万人台まで減っているかもしれないし、金銭換算できない価値の循環でGDPも減少しているかもしれないが、実際の社会にはさまざまな面で明るい光が差しているだろう。298p

そういえば、「資本主義の終焉」で水野さんも将来の人口に言及していたのを思い出した。そこで水野さんは定常状態を続ける条件として二つをあげ「第一に人口減少を9000万人くらいで横ばいにすること」としている。微妙な人数の違いがあるが、ほぼ誤差の範囲といえるかもしれない。

そして、この水野さんは定常状態を続ける第二の条件として「は安いエネルギーを国内でつくって、原油価格の影響受けないこと」として、たとえば、1kwあたり38円(2013年段階)かかる太陽光を20円以下でつくること、と書いていた。これに対応するように藻谷さんは木質バイオマス燃料の利用を例示し、さらに人口が減ることで再生可能エネルギー(ここでは自然エネルギーと表記)の一人当たり利用可能なカロリー量は増えるとする。299p

藻谷さんは、この人口問題書いた文章とエネルギー問題に触れた文章の間で、食糧問題に触れ、人口が減れば、その人びとのために使った土地を農地に復活させ、食料自給率を上げることができ、その土地を家庭菜園や田舎への移住者による耕作放棄地の利用促進で使うことで食料自給率も2060年には大幅に上がっているだろう、と書く。298p

さらに人口減を有効に設計すれば、安全な地域に移住することによって、自然災害リスクも低めることができるという。

また、膨大な国債も新規発行を借り換え分だけに限って、残高が増えない形をつくれたら、高齢者の資産を国庫に取り込むシステムを設計することで目に見えて減らすことができる、と書く。300p

しかし、アベノミクスで行われていることは、ほぼすべて逆方向だ。いつになれば、そしてどのように、そのような方向転換を行うことができるのか、そして、いつまでにその方向転換を行えば、悲惨な破綻を避けることができるのだろう。里山資本主義は、その麓からすでに始まっていると藻谷さんは非常に楽観的な予測を書いて、この「おわりに」を閉じるのだが、いまの日本政府、あるいは国会の大多数を占める人びと、あるいはそれを選ぶ国民は少なくとも選挙ではその選択肢を拒否している。これが変わるのはいつのことか、ぼくはここまで楽観的にはなれないと思う。そうあって欲しいとは思うけど。

「あとがき」の最後に藻谷さんも以下のように書く。
「マネー資本主義への信仰が
  一瞬ではあろうが日本を覆い尽くしたようにも見える年の5月に」

ぼくには一瞬とは思えないなぁ。

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里山資本主義について考えること 批判的考察(十日町市地域おこし協力隊 村山祐太さん)
若い友人が書いてくれた文章。 ...続きを見る
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2014/10/21 07:08

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