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zoom RSS 『思想史の中のマルクス』メモ

<<   作成日時 : 2014/11/03 12:13   >>

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思想史の中のマルクス
「歴史再発見」というラジオ講座のテキストとして出されたもの。
http://sp.nhk-book.co.jp/text/detail/index.php?webCode=69108732014

ぼくに面白かったは第10回「革命か改良か」から

カウツキーとベルンシュタインが起草したドイツ社民党の「エアフルト綱領」での、いくつかの改良主義的要求(現在、実現しているものも少なくない)が実現したら、マルクス主義で必然とされていた階級闘争の激化は起こらないのではないか、という問いがあり、現にそうなっているという現実。115p

ここで少しサイドラインになるが興味深いのがロシア革命評価
ボルシュビキ革命こそが、資本主義崩壊を予告したマルクスの一大理論の先駆的実現形態だったーーこの途方もないフィクションを、革命政府の正当化に利用したというのは、まさに天才的戦略家レーニンの真骨頂ともいうべき政治的決断でした。世界はその後、半世紀以上にわたって、この根拠なきフィクションに振り回されることになります。120p
そういう意味ではトロツキーも同じフィクションを作った存在といえるかもしれない。この本ではトロツキーに関する言及はまったくなかったけど。

で、この回では「革命か改良か」という問いに対する解答が準備されているわけではない。ただ、そのような対立があり、しかし、見落とされがちなのだが、革命を主張するグループも改良を主張するグループも同じ哲学的な基盤を共有していたという事実。124p



第11回「古典マルクス主義の問題点」は、その共通基盤に関するもの

革命を主張するグループと改良を主張するグループ、両者ともエンゲルスとカウツキーのフィルターを通した古典的なマルクス主義の哲学的基盤を、共有しているということ。125p

その共通点として3つ
1、生命の進化史としての自然史(ナチュラルヒストリー)と、人間の共同体形成史としての社会史(ソーシャルヒストリー)とを、類似的に記述しようとする態度。


これは観念的宗教的歴史観へのアンチテーゼではあるが、・・・。
マルクス唯物論における「鏡像理論」(人間の思考に物質的な諸関係が反映する)。

「へーゲルにとっては、思惟過程こそが現実的なるものの造物主であり、現実的なるものは思惟過程の外的現象に過ぎない。私においては逆に、理念的なるものは人間の頭の中に転移され、翻訳された物質的なるものに他ならない」(「資本論第1巻」第二版あとがき)
これが鏡像理論。

これはエンゲルスの科学的社会主義にも。彼は社会史を自然史の延長とみなす生物学主義者ではなかったし、社会史を自然史に一元化する還元主義者でもなかったが、自然史の発展論理が、社会史の発展論理に反映するという鏡像理論に陥りがちだった。

「そこで抜け落ちたのは、社会史の中には、自然史から一定の自立性を保っている独自の領域が存在するという認識」127p

古典マルクス主義は、社会史の発展に寄与する自立的領域の存在を認めることが、あたかも観念的歴史哲学の前提に屈することだと錯覚していたきらいがある。128p

上記の資本論のあとがきの文章はへーゲルとの違いではなく、共通性を示唆していると書く。

社会史と自然史の複雑な相互規定関係のなかから、物質的生産過程だけを蒸留し、それを第一原因として特権化するような知的操作は、唯物論的な見かけにもかかわらず、それ自体が観念的なのです。129p

このマルクス批判はかなりラディカルな気がする。

続いて、古典マルクス主義の「自由」の定義(具体的にはエンゲルスの「反デューリング論」での定義)を例に、その鏡像理論が批判される。



2、啓蒙主義的な歴史観 131p〜


「〜であるるべき」という規範的な「当為」にすぎないものを、「〜でしかありえない」という歴史的な「必然」と呼ぶ傾向。
社会主義が資本主義よりも強いという根拠はない。にもかかわらず、そうなると考えるのは、啓蒙主義的進歩主義からマルクスやエンゲルスがひそかに継承した考え方ではないか、と著者は書く。

マルクスやエンゲルスは観念的な歴史哲学を批判し続け、歴史の運動を目的論的説明から解き放ち、因果論的歴史観に譲り渡した。それによって、神の意思を第一原因とする観念論的歴史観から、生産力の拡大を第一原因とする唯物論的歴史観へと180度転換したかに見えるが、歴史に第一原因を求めようとする衝動は、歴史に最終目標を設定しようとする衝動といつでも同居していた、というわけだ。132p

では、人類の未来は単なる偶然の産物で、まったく不確かなものなのか、という問いに、18cの啓蒙主義者たちは一定の方向へと収斂するとした。その啓蒙主義者と同様に、古典的マルクス主義も、弁証法的に?よりよい社会が訪れると想定していた。この想定自体は唯物論的歴史観から導かれたものではなく、ブルジョワ啓蒙主義の遺産をひきずったものだった(133-135p)、というのが著者の主張で、これは目からウロコが落ちる感じだった。


3、他者との交渉をつうじて共同体に法と秩序を作り出していく政治の役割の過小評価 135p〜


常に政治は経済に従属するというような話でもある。「その意味では経済学の体系に匹敵するような政治学の体系は、古典マルクス主主義には見当たりません」(136p)と書かれている。

ここも、確かに言われてみればという部分だった。



第12回 マルクスをどう読み直すか
       〜西欧マルクス主義の試み

発達した資本主義で革命が起きなかったのはなぜかという問いに古典マルクス主義は答えられない。その問いに正面から向きあおうとする試みとして「西欧マルクス主義」が紹介される。
出発点として、ルカーチの『歴史と階級意識』と、カール・コルシェの『マルクス主義と哲学』とのこと。

ここでは西欧マルクス主義によるマルクス再読の試みを2つだけ紹介するとのこと。

ひとつはマルクスとへーゲル、もうひとつはマルクスとフロイトを結びつけようとする試み。

この回の冒頭で紹介された問いが明らかにしたのは、経済的なひずみだけで労働者が革命主体として目覚めることはない、ということ。

古典的なマルクス主義(第二インター)にしたがえば、階級闘争の激化から革命が起こるのは必然。つまり、経済が政治を決定し、現実が意識を決定し、客観的条件が主観的条件を決定する、という。この考え方にルカーチは異を唱えた。エンゲルスによって展開された科学的マルクス主義の本質は、歴史の原動力は人間の意識から独立しているという認識。ルカーチはそれに対して、そのような状態こそが、われわれが生産過程の囚人であることを物語っていると批判。
マルクスはそうではなくて、「経済的・社会的な生活の物象化した対象性の全体を、人間相互の関係のなかに解消させた」というような話でそこが説明されるのだが、よくわかんないので飛ばす。

で、要するに、めざすべきことは、こうした必然性の連関に革命を委ねるのではなく、必然性の連関から、主体が持つ実践的な可能性をもう一度奪い返し、主観と客観の弁証法的な相互媒介を取り戻すこと。

というのがルカーチの主張で、反デューリング論のエンゲルスと資本論のマルクスの間に理論的な一線を引いた最初のマルクス主義哲学者、とのこと。

そのルカーチが注目した「主観と客観の弁証法的な相互媒介」というのがへーゲル的要素だという。
エンゲルスの科学主義に潜む観念論をマルクスが継承したへーゲルの遺産によって切り崩そうとしたのだ、と。
マーティン・ジェイの「弁証法的想像力」から、以下のような引用がなされる。
「皮肉なことだが、思想家のうちでももっとも形而上学的なあのへーゲルにマルクスが負うているものについての新しい理解が、科学主義という裏口を通って「俗流マルクス主義」に入りこんでいた別種の形而上学を掘り崩すのに役立ったのである」

そして筆者はルカーチやグラムシが当初はロシア革命を評価していたのは「歴史の必然性の認識ではなく、歴史の必然性からの解放こそが、資本主義体制変革の動機でなければならないと考えたから」だと書く。142p

次のフロイトに関する節のタイトルは
「全体性の回復ーーフロイトの評価」というもの。
西欧マルクス主義が取り組んだもう一つの課題は「経済一元論からの脱皮」143p
「貧困が自動的に階級意識に転じることはない」ということは経験的に理解されていたので、「外部注入」が必要だと主張された。しかし、そこに自分たちの革命理論の重大な欠陥が示唆されていることに気付かなかった。

明らかに経済的格差は存在し、差別されている側にいる存在が、なぜ、その格差を作り出す政策に賛成するのか。このような問題にメスを入れたのが西欧マルクス主義。そこにフロイトの精神分析学が援用されたという話は紹介されるのだが、その中身まではここでは紹介されない。
ただ、実証的な主客分離を批判し、人間と社会と自然を相互に関連しあう総体として理解すること=全体性 というようなことだけ記載されている。



第13回 なぜもう一度マルクスなのか

第二インターの公式競技によれば、高度に発達した資本主義のもとでは、貧困が拡大し、階級闘争は激化するはずであり、貧困ラインを大きく超えた再配分などありえないとされたが、福祉国家政策による再配分や格差是正は、少なくとも革命的な階級意識をぬぐい去る程度には機能した。156p

しかし、現実の共産主義政権が次々と倒れ。資本主義には代替案なき唯一の選択肢のように見え始めた途端に再配分政策や資本に対する規制が後退し始めた。156-157p

そのような状況の中で再び『資本論』に光が当たり始めた。そして、再び「資本主義は資本主義自体が抱える本質的な矛盾によって、その存在を脅かされるようになる」というマルクスの予言に、人類は真剣に向かい合わねばならなくなっている。159p

160p〜は「いま何が求められるか」という節。そこに書かれているのはシトロワイヤンが平等に参加できる話し合いの場、シトロワイヤンの世界フォーラムという、運動的にはちょっと旬を逃したような提案。それが必要なのは間違いないが、世界社会フォーラムがぶつかった壁もあり、その課題もいくつか明確になっているはずだ。「別の世界は可能だ」というメッセージをマルクスから読み取れると著者は書く。それは間違いないかもしれない。しかし、具体的にどのように、具体的に誰によって、ということが問われているにもかかわらず、そこへの答えをこの薄いテキストから見出すのは困難だ。これは運動圏からかかれなければならないのだろう。

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