今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 『岩波講座 現代の教育〈第5巻〉共生の教育』メモ

<<   作成日時 : 2015/01/18 14:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

『岩波講座 現代の教育〈第5巻〉共生の教育』の読書メモ

今回も無駄に長いです。


PP研の花崎皋平が語る花崎皋平講座
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=19
のために借りたのだが、他にも興味深いところがいくつかあった。
図書館で借りて、読んだのだが、気になって古本で購入してしまった。



目次
T 共生の理念と現実
 1 共生の理念と現実
   ―アイヌ文化振興法の成立と「共生」の今後 花崎 皋平
   
U 教育のなかの差別と共生
 1 ノーマライゼーションと障害児の教育    茂木 俊彦
 2 ジェンダーと教育             松井 真知子
 3 生と性の教育               鳥山 敏子
 4 老いと死の教育              アルフォンス・デーケン
 5 部落差別と教育              八木 晃介
 6 民族差別と教育              イ・ヨンスク
 

V 共生の教育の向かうところ
 1 民族と平和の教育             楠原彰
 2 「共に生きる教育」をすべての学校で    堀正嗣
 3 健常者との共生
   一 複合共生論―「障害」の有無を越えた「共生社会」へ向けて 福島智
   二 障害者の自立と障害のない市民との共生  大谷 強
 4 子どもと自然                高田 宏

W 学校を市民社会の実験の場に
 1 学校を市民社会の実験の場に―脱学校論を越えて― 関 廣野


出版社内容情報
人が人として育つことの困難をこれほどに痛感する時代があっただろうか.教育について考えることは,私たち一人ひとりの生き方を問うものとなった.本講座は,教育の危機と病理の実相を日々の生活のなかに明らかにし,解決すべき問題を根底から問い直して,最重要課題となった教育改革のための手がかりを提供する.





とりあえず、メモしておこうと思ったところ。


巻頭(第1部)にあるのが花崎さんの

花崎さんはここで、『いのちをわかちあう』(80年)『生きる場の哲学』(81年)『アイデンティティと共生の哲学』(93年)と『共生』についての自らの思想の変遷を振り返る。3〜7p


まず、『いのちをわかちあう』に収録された『自然との共生を目指す文明へ』(78年)を引用して、(おそらく)70年代の住民運動について、その噴出は、「文明にひれふさず、文明に淫しない」生き方にひそかに惹かれ始めていることとのつながりを示唆している。しかし、同時につぎの時代のデザインまではできていない、と書いていて、この段階では社会主義を構想しなおす事を求めていたが、それは観念的要請だったと反省している。

また、6pでは80年代中頃からの「共生」ブームに言及して、そこには共生が含みもつ共苦の側面や、「現実の矛盾と現場で格闘して関係や構造を変革する側面」を切り離す作用を伴っていた、と紹介されていて、そのような側面は「多文化共生」とかいう言葉が普通に多用される現代でもそのままなのではないかと思える。


その先で鵜飼さんが訳している『国民とは何か』が紹介されるのだが、このあたりは難解でもうひとつすっきり理解できない。
そこでこの本から二つの引用がされている。ひとつめの引用は比較的に理解しやすい。「忘却、歴史的誤謬といってもいいでしょう」これが国民の創造の本質的因子だという。そして歴史学の進歩が国民性にとって危険なものにあると。

在特会がナショナリズムの極め付きとも言えるようなヘイトの思想を巻き散らす背景に「忘却、歴史的誤謬」があるというのはすごくわかりやすい話だが、ここではそういうことだけでなく、「国民」が創造された本質的因子がそこにあるというのは、ちょっと目からウロコな感じだった。すべての国家で、国民というものが「忘却、歴史的誤謬」の結果だというのは言葉を変えれば、コスモポリタニズムなのだろうか。

二つ目の引用の冒頭の文章は「国民は過去を前提はします」(15p)(参考文献の欄によると『国民とは何か』62ページとのこと)となっている。これって、助詞の使い方がおかしくないかなあ。引用時の間違いなのか、それともこう書いてあるのか、いつか時間があったら調べてみよう。誰か調べてくれたらうれしいけど。

で、この二つ目の引用の後に、この「忘却の共同体としての国家規定」には王(君主)を抱くことを廃絶したフランス共和制では積極的な意味合いも含み両義的であるという。(このあたりのつながりがぼくにはかなり難解なので、飛ばす。)
しかし、日本国家の場合、日本国民の定義をフランスのように契約主義にもとづくものに変えようとはしないと述べた後での興味深かった文章は以下。
天皇制を国民統合の象徴として残したままでは、たとえ市民主義的多文化共生国家の方向へ少しずつ譲歩したとしても、多数者日本民族を特権化し、他民族支配を可能にする原理を手放してはいない。(中略)。日本国家の場合には、「起源の暴力」を無理矢理に忘却させ臭いものにふたをして「国民」という幻想の共同体を仮構する行為の基底にある者は天皇制に他ならない。真の他民族共生を実現するためには、天皇制廃絶までの道のりを歩まなければならない・・・。15p


この文章の最後にこれからの課題として「日本民族」の立場の課題とアイヌ民族の課題に分けて提起している。
・・・、自分の起源をすでに忘却して多数者として同化した「日本民族」の立場からは、近代日本国家の起源と忘却と記憶をめぐる闘いがあらためて重要になってくる。具体的に言うと、近代天皇制と「国民」形成の不可分の関係を再把握し、ナショナリズムの新しい台頭と闘うことが課題となる。そして、被抑圧、非(ママ)差別者の側からの記憶と証言を受け止めることを「自虐史観」とおとしめるイデオロギー攻撃と闘いつつ、アイヌ民族運動と日本列島の間でのさまざまな社会運動の水平的なつながりをつくりあげて、より厳密で持続的な連対と支援をしていくことが課題である。



第2部
教育のなかの差別と共生
ここでの最初の論文は茂木俊彦さんという人の
「ノーマライゼーションと障害児の教育」
ここでノーマラーぜーションの歴史などが説明されているのだが、その上で施設や専門家について、それも認められているのことを強調している。「あれかこれかではない」というのはその通りなのだが、障害者問題で専門家や施設が中心にいたことへの反省がもっと明確に語られるべきだと思う。この施設や専門家を擁護する姿勢はうんざりな感じだなぁ。34-35p
「障害個性論」への否定の文章も、それを否定する視点が医療モデルに依拠しすぎている感じ。36p〜
45pでは養護学校を小規模化して地域の学校の中か隣接地に作ればいい、とか書かれている。これもひどい話だと思う。本人はいいことを書いてるつもりなんだろうが。どうして、通常級でのインクルーシブ教育と書かないのだろう?16年前という時代的な制約なのかどうか?

この第2部のそれ以外では
ジェンダーと教育 松井真知子
生と性の教育   鳥山敏子
老いと死の教育  アルフォンス・デーケn
部落差別と教育  八木晃介
民族差別と教育  イ・ヨンスク

このあたりはほとんど読んでないに等しい感じ


で、「第三部 共生の教育の向かうところ」
となる。
最初に来るのが「民族と平和の教育」(楠原彰さん)
楠原さんはこの文章の冒頭で、民族と教育に関する論争が激しく行われた1950年代前後のことを紹介したあと、その論争が姿を消していく過程を以下のように紹介している。
・・・。周知のように、日米安保条約で米軍の直接統治下に置かれた沖縄を除いて、日本はその後イヴァン・イリッチのいう、アメリカの軍事力の傘の下での「パックス・エコノミカ」(人間が経済に従属することによって得られる平和)の時代に入り、その原動力たる開発=工業化政策は、日本の諸地域とアジア諸地域に生き生きと機能していた「サブシステンス」(民衆が自分たちに特有の文化・生活を維持していくために必要な自律的で最低の物質的・精神的基盤)を破壊し、人々を市場経済と大量消費に依存従属させていくことになった、のである。164p


日本にとって、それはいろんな意味で歴史的に避けられない道だったようにも思えるが、すでに過ぎた話でもある。次の時代にそうではない方向に向かえるかどうかが問われているのだろう。


166p〜は「ナショナルな歴史意識の喪失」について書かれる。主要に徐京植の話を引用しながら。
まず、彼が著書で紹介する二人の若者の語り
「日本がこんな悪いことをしたのはわかる・・・しかし・・・そういうことをいつまでも言っていては」あるいは「『もう、うんざりだ』・・・日本の戦後の賠償責任は国家として果たすべきものであり、個人レベルの問題ではないから・・」

昨今のヘイトスピーチを聞き慣れたものにはずいぶんまともにも聞こえてしまうが、おそらくこれが書かれた16年前にはそのようなヘイトスピーチがおおっぴらに語られることはなかった。しかし、この時点では、これらの発言の問題が語られる。そういう意味でも、ヘイトスピーチがもたらした罪は大きいと言えるかもしれない。レイシストは差別の基準をかなり押し下げることに「成功」している。

その今から考えると、マイルドな発言が「新しい排外主義」だという指摘だったのだが、15年後に出てきた新しい排外主義はもっと露骨でひどいものだったわけだ。

この「新しい排外主義」という指摘に続いて、楠原さんは以下のように書く。
このような事態は、日本社会が他者と歴史を忘却し、「ネーション」(民族、あるいは国家、国民)というものを、いつの間にか、まともに考えなくなってしまった結果ではないか、徐京植は述べている。

ちょうど、花崎さんのエスニシティ論について考えていたところだったので、これも興味深い指摘だった。
ほとんどの人が知らない話だと思うし、ぼくも花崎さんの研究会がなければ知らなかったのだけど、花崎さんは『解放の哲学をめざして』に関する大学院生からの感想に答えたものが『書斎の窓』1987年9月号に掲載されている。ここで、「多数者の抑圧性」という花崎さんの提起に関して新田滋さんという大学院生(当時)が反論を加えているのに対して、その反論への再反論できっぱり切っている。
その強さと、多数者への批判にぼくは徐京植さんと似たものさえ見たのだった。

また「人間はナショナルな固有の歴史を荷なうことによって、はじめて世界史に参加することができる」という関廣野の言葉を彼の紹介に使っていて、そこで「若い世代の歴史意識の腐食」に関する彼の発言を紹介している。168p
そこからの流れで花崎さんの民族論が引用されている。
近代日本国家は、フィクションとしての「日本民族」をつくった。その解・体・作・業・は終わっていない。戦後責任についてアジア諸国の民衆からの追及を、私たちは、私たちの民・族・的・自・覚・の・不・在・という問題としてとらえる必要がある。」(傍点、楠原さん)(『アイデンティティと共生の哲学』1993年筑摩書房54ページ)169p


そして、この文章の結語近くでも楠原さんは花崎さんの本の同じページから引用している。
 多数者集団は、近代国民国家では「国民」(ネイションのルビ)の特権的地位を与えられる。そのことによって、自民族集団がどのような集団であるのかを自己定義しないでもすむ。「他者」を持たず、「他者」との関係を知らない無知の不幸がそこにはつきまとう。したがって、多数者としての「国民」集団の民族的自覚の第一歩は、「国民とはわれわれである」というアイデンティテイ(自己同一性)を破ることである。そのことをつうじて「エスニシティの自覚」を獲得することである。(前掲書54ページ)181p


この少し前に楠原さんは以下のように書いている。
家族・地域・国家社会・国際社会・地球環境が抱え、抱えさせられている、のっぴきならないさまざまな困難な課題(たとえば年間1300万人にも達する南の子どもたちの飢えや病気による死など)の解決のために、私と私たちがボディとマインドをつかって立ち向かおうとする意志と実践にしか、子どもたちを含めた私と私たちの現代の〈希望〉はないだろう。180p

ここでは負の歴史を抱えていることの自覚を持ってネイションを自らが抱えることが求められているようだ。

ぼくとしてはネイションから自由にならなければならないというタゴールの主張に惹かれながら、しかし、抱えている負の歴史も手放さないというきわどいニッチを求めたいと、いまは思っている。

この文章は最後に楠原さんの立場を明らかにして閉じられている。
簡単にまとめると
・「戦争放棄支持」と「自衛隊(武装戦力)容認」という戦後民主主義の大きな矛盾に決着をつけるための国民投票の必要
・日米安保は不要。他国や自国の軍事力に依存しない安全保障は、信じ難い困難を伴うだろうが、それこそ全民族・全国民の知恵と力を出し合う「健全なナショナリズム」で構想しなければならない。
・他のいのちとの共生(どんな戦争であれ、武力による戦争こそが人間と地球(他のいのち)を最も大規模に破壊)
・「象徴天皇性」問題。国民主権や基本的人権の規定よりも前に天皇規定があるのは民主憲法にふさわしくない。国家社会のルールに「例外」(特別な存在)を設ける限り、本当の平等は実現しない。日本社会に根強く存在する貴賎の差別は本質的に天皇制とかかわっている。

そして、最後に以下のように書かれている。
・・・戦後民主主義の中で最もタブーとされてきた、この「象徴天皇性」のパブリックな議論なしには、日本の国家社会を構成する何人をも阻害・疎外せず、世界の平和と「地球の自然性回復」に貢献する「健康なナショナリズム」の育成などありえないだろう。183p

どうもひっかかる「健康なナショナリズム」という言説。それは必要なのだろうか?



次は堀正嗣さんの【「共に生きる教育」をすべての学校で】

197-198にかけての部分、要約。
「ある社会が構成員のうちのいくらかの人々を締め出すような場合、それは弱くてもろい社会である」(国際障害者年行動計画から)。障害を持つ子供が入っていくことによって普通学級の弱さやもろさが露呈。だから。「共に生きる教育」を進めようとすれば、いまの普通教育の弱さやもろさや非人間性と向き合い、それを克服していくことが求められている。


こういうのを読むと、インクルーシブ教育とかいうより「共に生きる教育」って言ったほうが気持ちが伝わる感じがする。しかし、そんな風に温度を持った言葉じゃなくて、温度のあまり感じられないインクルーシブ教育とかいう言葉が必要な場面もあるのだろうなぁ。

とフェイスブックにこの部分を投稿したら https://www.facebook.com/masahide.tsuruta/posts/774844449262741 志子田さんから以下のレスポンスをもらった。以下にやりとりを転載
〜〜〜
志子田
「共に生きる」とか普通教育の「弱さ」というだけでは、情緒に流される可能性があり、権力装置の末端としての教室の側面を見失いかねません。排除という人間としての差別の問題と国民統合という国家のあり方の問題との両側面から、排除しない社会をつくっていこうというのがインクルージョンだと私は考えています。

tu-ta
大きく言ってしまえば、すべての社会問題は権力問題を抜きにできない、ということも可能でしょうが、たとえばインクルーシブ教育は権力問題を俎上にあげなくてもできる部分は小さくないのではないかと思います。たとえば「みんなの学校」という映画になる大空小学校のような実践は権力問題を抜きにしても、そうとういいところまでいってるような気がするのですが、どうでしょう?

志子田
関西では学籍の問題を飛ばしています。組合の力が強い所はそれでも良いかもしれませんが、他の地域では「みんなの学校」はできません。

tu-ta
その実現に向けて、地域でできることは何かなぁと思っています。
〜〜〜


そして、ぼくもずっと考えていることがこの論文にも明確に書かれている。
障害を持つ子どもがいるということを契機として、授業を変更し、学校を変革していくことが決定的に重要である。「共に生きる教育」はすべての子どもが楽に共に学ぶことができるものに「普通教育」を変革していく運動なのである。202-203p
問題は地域の学校が変わることなのだ。それがなければ、親はやはり、支援校や支援級を選び続けるだろう。そこを具体的にどう実現していくのかが問われている。「みんなの学校」の大空小学校の実践などはいいモデルになると思う。しかし、じゃあ、どこからそこに切り込むかというのはなかなか困難だ。しかし、国連障害者権利条約を実現するという話をてこに動かせることはあるんじゃないかとも思う。国際条約は憲法に次ぐ法的規範なのだから、それは実行されなければならない。


そして、一緒にいるだけでいいわけではない、という指摘も重要だと思う。スウェーデンの障害児教育改革の理論家として紹介されるエマニュエルソンという人の言葉が紹介されている。
 統合教育は内容と方法に改善がなければ意味のないものになる。内容と方法に改善が見られなければ、組織形態自体も無意味になる。「ハンディキャップをもつ者」は、当人が意味ある活動課題に完全参加するという、真の可能性を持たない限り分離された集団における場合と同様に、「普通の集団」においても孤立し、分離される。インテグレーションが意味あるものになるためには、ハンディキャップをもつ者が自らの基本的なニーズを満たす可能性を持つことが重要である。200-201p (『スウェーデンの障害児教育改革』208p・現代書館1995年 http://www.arsvi.com/b1900/8600ak.htm )

いまなら、ここは統合教育ではなく、インクルーシブ教育と呼んでいるところだろう。

この文章の結語部分
 障害を持つ子どもたちはみんなと「違う部分」「できない部分」をどこか持っている。障害が重い子であればあるほど、このことははっきりしている。そうした子どもがあたりまえにみんなと一緒に支えあって生きているという現実が、管理主義・能力主義の価値観を根底から否定しているのである。だから障害を持った子どもたちと日々一緒にいることで、子どもたちは、管理主義・能力主義の価値観から逃れて、ありのままの自分を大切にしながら生きていくという生き方に気づくことができるのである。

 障害を持ったそのままで安心してここにいていんだよ、というメッセージ、あるがままを認めあうメッセージは管理主義・能力主義を乗り越えて共に生きようとする人間の本質に基づくものである。私たちは心の底で、「安心してあなたのままで一緒に生きていこうよ」と、言い合える、そんなつながりを求めている。そんな中で、人は癒され、本当の自分を取り戻していくことができるのである。
 
 「共に生きる教育」は、そうした関係を学校の中につくり出そうとしてきた。障害児と共に生きる教育は、そのような意味ですべての子どもが楽になっていくことにつながっている。それは学校そのものを問う、人間そのものを問う、ということにつながっているからである。205〜206p


野口晃菜さんがトーキンク?Gigで強調していたように、「障害を持つ子どもたち」だけでなく、みんながそれぞれ「違う部分」「できない部分」を持っている。その全体をインクルーシブにしていくことが求められていて、それがここに堀さんが書いているように、「あるがままを認めあうメッセージ」となり「管理主義・能力主義を乗り越えて共に生きようとする」ことにつながる可能性がある。

「管理主義・能力主義を乗り越えて共に生きようとする」ことが「人間の本質」かどうか、ぼくには確信は持てないが、・・・。

そして、ここには綺麗な話しか書かれていないが、いっしょにいると、いやなことも、嫌いなことも、うんざりするようなこと、ある。しかし、それを含めてみんなが見たほうがいい。


問題はその方向に向けて、何ができるかだ。憲法に次ぐ法律といえる国際条約を批准したことで、日本はインクルーシブ教育を進めることになったのだ。だとすれば、それをどう具体化するかろいう話でもある。とりあえず、大田区がインクルーシブ教育をどのように進めるつもりなのか、聞いてみるのもいいと思う。そして、学校をもっと地域に開いていくことが大事なのだろう。もっと地域の人が関わって、インクルーシブ教育を進めていくプロセスを構想したいな。


次の第3部3章「健常者との共生」は二つに分かれていて、1を福島智さんが2を大谷強さんが書いている。

一 複合共生論―「障害」の有無を越えた「共生社会」へ向けて 福島智

ここで福島さんは最初に吉野弘の「生命(いのち)は」という詩を紹介する。

そのなかの以下の部分が〈いのちのありようの本質〉であり、〈いのちの定義〉だという。
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

ここから福島さんは以下のように続ける。

「障害」を「いのち」が内包する「欠如」の一形態と捉える時、この〈定義〉は、障害者をとりまく問題が、障害者だけの問題ではなく、「障害」の有無を越えて、すべての人間、すべての「いのち」のありようと深く関わってくることを物語っている、と感じたのだった。211p



そして、216pで福島さんは「障害者と健常者の共生」が理想のスローガンなのか?という問をかかげる。この節の冒頭で、彼は盲学校でよく言われたという「適切な教育と訓練を受けて、就職し税金を払い、健常者と対等互角に社会の中でひとりで生きていくこと、それこそが『障害を克服すること』であり、障害者の目標なのだ」(一部省略)という言説について、本人の努力の意義は認めながら、この「主張は明らかにおかしい」と明快に却下し、その理由を書いている。そして、そのあとに以下のように書く。
 大切なことは、障害者と健常者が〈同じように〉生きることではなく、障害の有無に関係なく、各人が〈いかに生きるのか〉ということではないだろうか。つまり・・・「障害の克服」がめざしている〈ゴール〉には、本来、すべての人間に問われるべき課題、そして、人生における最も重大な課題であるはずの、〈生き方の問題〉がまったく含まれていない、ということである。217p

言われてみたら、そうなだなぁと思う。しかし、障害の有無にかかわらず、〈生き方の問題〉があまり問われてないように思うのはぼくだけだろうか?


あと、納得したのが障害者と健常者の共生っていうけど、健常者は健常者と共生できてるのかという福島さんの問いかけ

福島さんは「障害者と健常者の共生」というスローガンはあたかも健常者同士は共生できているかのような幻想をもたせる効果を持つと書く。(ぼくはそこまで感じることができる人がどれだけいるのか、とも思うが)
それが健常者を安心させ、もっと単純に言えば、その共生とかいうスローガンのもとに健常者と互角に頑張っている障害者をとりあげてくれたら、健常者は自らの日常と切れた限りでの〈非日常の感動〉を体験し、それは一服の清涼剤という効果を持ち、自らが置かれている閉塞した状況を忘れさせ、その作用によって、自分たちが抱えているさまざまな差別や抑圧、対立といった深刻な問題を、さしあたり〈不問に付す〉、と。

そして、従来の二項対立的な発想での「共生論」には限界があるのではないか、と問う。218p

それに続けて、上野千鶴子さんの『複合差別論』を持ち上げる。
ここから孫引き
〜〜〜
・・・たんに複数の差別が蓄積的に重なった状態をさすのではない。複数の差別が、それを成り立たせる複数の文脈のなかでねじれたり、葛藤したり、ひとつの差別が他の差別を強化したり、補償したり、という複雑な関係にある。
〜〜〜

あと、以下はWebで見つけたもの。

「すべての被差別者の連帯」を強調する理想主義は、(社会的集団間および)、集団内の差別を隠蔽する効果を生む。むしろ、様ざまな差別の絡み合いを解きほぐす必要がある。」
上野千鶴子「複合差別論」『差別と強制の社会学』(岩波講座現代社会学15) (岩波書店、1996年)所収
(この本、部屋のどこかにあるような気がする)

で、このあと、高齢者、在日外国人、女性、障害者という4つのグループについての差別の主要因として、a、能力差 b、異質性 で整理しているがそれは略。

223-224pでは以下のように書かれている。
「被差別変数」の成立要件や性格を比較するための共通の「視点」、および、「差別者」が「被差別者」を〈価値評価〉する際に立脚するであろう、〈存在価値の3つの次元〉という共通の「枠組み」等を想定するが、紙幅の関係で・・・別項にゆずりたい
とのこと。
この別稿がどこにあるか誰か教えてください


そして、新しい共生のあり方として「複合共生」を提起する。
能力差と異質性が差別を生んでいるのが、逆にそれを尊重し、そこに価値の序列や負の価値観を持ち込まない新しい人間感が求められると書く。225p

そして、複合共生について以下のように書かれている。
すべての人間は、「年齢」や「性別」、「民族」の違いや「障害」の有無をこえ、皆〈欠如を内包したいのち〉そのものであり、その「欠如」を他者から満たしてもらう関係にある。こうした認識を基礎とする関係性こそが、「複合共生」なのではないだろうか。226p



高田宏さんの「4 子どもと自然」も面白かった。

そして最後の関廣野さんの「学校を市民社会の実験の場に―脱学校論を越えて―」
ではイリッチの脱学校論を一定評価しつつも、タイトルのとおり、それを越えることを主張する。
「初中等教育はスリム化して、若い世代のための市民教育の場、市民社会の予備校にせよ」というのが関さんの主張。民主国家の市民としての政治的教養が必要というのは昔から言われていたことで、その政治的教の内容とは「現在社会科の授業で教えられているようなたんなる知識のことではない。それは憲法上の市民権というものを一人の生活者として使いこなすことができる具体的な能力のことである」と関さんは書いている。

で、関さんは変わるべき内容や教師の役割を具体的に書く。教師は文部科学省の定めたカリキュラムを忠実に実行する学校制度の顔のない担い手ではなく、権威のあるリーダーであるべきで、「親の自然発生的で無制約の権威と世の制度的人為的政治的な権威の違いを子どもにわからせるために、政治的権威の規範として子どもにかかわる」のが教師だと主張する。

政治的権威の規範になるより(そういうのも必要なこともあるだろうが)、ファシリテーションの力をつけたほうがいいように思うのだけど、どうなのだろう。同時に関さんは「(教師は)子どもと共に迷いつつ未来を模索する人間」284pでなければならないとも書いている。

ともあれ、方向としてはそうだと思う。そして、それをどう実現するかだが、これは「一挙に実現はできないが、実質的な内容を実践の積み重ねによって徐々に実現していくことは可能なはず」(284p)という。確かに個々の教師の力量でそんな方向にまっていけることはあるとしても、この変化は日本社会に大きなインパクトを与えるような変化が起きない限り不可能な感じはある。

しかし、教師と親と地域が、これに挑戦しなければ「日本の学校は思想の欠如ゆえの矛盾と混乱の中で崩壊していくしかない」と、この文章、そしてこの本は閉じられている。

このまま崩壊しそうだなぁ。


  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
『岩波講座 現代の教育〈第5巻〉共生の教育』メモ 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる