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zoom RSS 花崎さんへの質問

<<   作成日時 : 2015/01/26 07:32   >>

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1月24日に終わってしまったのだけど、以下
オルタキャンパス「OPEN」
【連続講座】連続講座〈運動と思想〉
花崎皋平が花崎皋平を語る
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第4回:「地域をひらく」シンポジウム/近代化とアイヌ民族
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http://www.peoples-plan.org/jp/modules/open/index.php?content_id=19
 で、
〜〜〜
『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』(1988年)に関する質問をすることになり、事前に書いた質問項目。

読み返してみたら、やたら引用が多いなぁ。


〜〜〜〜〜

●花崎皋平さんへの質問項目


アイヌの人たちとの出会い(そして、そこから始まったのだろう松浦武四郎研究)が、花崎さんの思想の核である(と、ぼくが考えてるのですが)「やさしさ」や「共感」と密接な関係があるというようなことはこれまでさまざまに書かれているし、この講座でも話されています。

それは、花崎さんが提起する、近代を越えるための3題話としてのピープルネス、サブシステンス、スピリチュアリティにもつながっているように思います。

以下、そこから敷衍させた質問です。

1、
そのような出会いをなかなかつくることのできない多数の人びとがどのように、その「やさしさ」や「共感」あるいはスピリチュアリティを獲得することが可能になるのか?
あるいはそことつながる可能性をどのような場面に求めることが可能だと思われますか?

この問題は花崎さん自身が紹介されているように松浦武四郎がアイヌと出会う中で変化していくことにもつながるでしょうし、「近代化の中のアイヌ差別の構造」のなかでの見られるようなJTBの人の変化と、糾弾する会の側の「シャモ」の人たちが自らに問う姿勢ともつながっていると思います。

多数派の人のなかでの多数がそのような契機を得ることは難しいかもしれませんが、そのように感じる人が一定程度増えることが、共感ややさしさというようなものを包みこんだ社会変革の可能性につながると思うのです。ここはケアの倫理(論理?)(よくわかっていないのですが)ともつながる部分かもしれないとも思います。これらについて、花崎さんは現在の時点でどのようにお考えでしょうか?

さらに、このテーマを第2回の時に質問させてもらった社会変革の闘争における暴力の行使の問題につながるのかと思っています。その時、花崎さんは「当時、暴力に親和的だったのではないか」という私のけっこう失礼な指摘に、「その後変わりました」と答えられています。「その後」というのは、これらを書かれた80年代頃ではなかったかと思うのですが、それはアイヌの人たちとの出会いに関連していたのでしょうか? 

2、「民族」について

「静かな大地」に花崎さんが民族について、言及する部分があります。少し、長いですが引用します。
 民族集団の実際のあり方は、社会の生産と生活の様式によって左右され、一律ではない。(略)
 ・・・。そして、個人にとってしがらみとなる不合理な習俗や規範を民族的結合の名において強制することは次第に不可能になる。

 しかし他方、過去の**(読めない漢字)を脱した何物にも拘束されない個人とは、同時に、自分の生まれ育ってきた土壌からも遊離した根なし草となることでもある。そのアイデンティティの危機が、ふたたびルーツを探り、自分が帰属すべき集団への志向を産みだしている。それが現代の民族意識なのではないか。この民族意識は、他の諸個人においてもおなじような帰属志向を――理性的に考えれば――認めざるをえず、ひいては諸民族の平等と共存にもとづく人類社会のあり方を求める見地へといきつくであろう。その意味で、これからの民族意識は、個人の自覚をバネにしたものでなければならない。それと同時に、近代西欧の個人の自覚が拠りどころとした自由、平等、友愛といった普遍的理念の方も、人類諸社会それぞれに持つ特殊な諸価値、諸理念と出会って、みずからの存立基盤の特殊性を反省し、さらに普遍的な理念へと転換されなければならない。

 このように、個人と民族と類的共同体としての世界とを、思想と実践の両面で結びつける意識的な努力こそ、これからの人類社会と人類文化とをひとつの総体として内容づけ、活性化させる働きになるだろう。

 そうでない民族主義は、内へ向けては個人の自立と批判をつぶし、外に向かっては人類社会の民族的分裂と敵対をあおり、自民族の特殊利害のために他民族を抑圧し、その行為の錦の御旗として、自民族の歴史・文化・宗教などを絶対化する全体主義へと、とえまなく堕落していくであろう。その傾向は、過去の遺物ではなく、今日でも、くりかえし再生産され、眼前に展開している。

ここで、花崎さんは「何物にも拘束されない個人とは、同時に、自分の生まれ育ってきた土壌からも遊離した根なし草となることでもある。そのアイデンティティの危機が、ふたたびルーツを探り、自分が帰属すべき集団への志向を産みだしている。それが現代の民族意識なのではないか」と書きます。

確かにマイノリティや先住民の「民族意識」はこういう性格をも持ちえているのかもしれません。では、ぼくの「民族意識」はどうなのか、と考えてみると、どうもしっくりこないのです。ぼく自身が今、住んでいる土地とちゃんとつながれていない側面はあるかもしれませんが「自分が帰属すべき集団」と「民族」とをつなげる必要がない場合も多いと思うのですが、どうでしょう?

自分の帰属する集団と民族をつなげることが社会運動にも有効だった時代はあったと思うのですが果たして、現代の私たちの社会運動を考えるとき、その有効性はあるのか、とも思います。

また、
「個人と民族と類的共同体としての世界とを、思想と実践の両面で結びつける意識的な努力こそ、これからの人類社会と人類文化とをひとつの総体として内容づけ、活性化させる働きになる」
という提起もあるのですが、個人と類的共同体としての世界との間に「民族」という項目を置くことが、本当に有効なのでしょうか。従来、その間にはいるのは民族と考えるのが一般的だったのかもしれませんが、間に何かはいるにしても、それを民族という風に考える必要があるのだろうかと思うのです。

こんなことを考えさせられたのは、西川長夫さんの以下の文章の影響かも知れません。
差異とアイデンティティのための闘争の先に見えてくるもの
――タゴールの反ナショナリズム論とイリイチの「ヴァナキュラーな価値」を手がかりに

===
これが掲載されているのは「生存学研究センター報告4」
http://www.arsvi.com/b2000/0810av.htm
上記のURLにあるように送料さえ払えば、送ってもらえます。
===
この前半ではタゴールが徹底して、Nationを否定していたことが紹介されます。タゴールには「No Nation」が理想なのです。

花崎さんに戻るのですが、ここで「個人と民族と類的共同体としての世界とを、思想と実践の両面で結びつける意識的な努力こそ、これからの人類社会と人類文化とをひとつの総体として内容づけ、活性化させる働きになるだろう」とあるのですが、もちろん、花崎さんはこの先で民族主義の危険を語ることを忘れないし、そこは合意できるのですが。

花崎さんがここで語っているような条件の下で、肯定的な民族の捉え方というものが、本当に成立しうるのでしょうか。

森巣博さんはカンサンジュンさんとの対談で以下のように語っています。
民族は一般概念としては成立しえないのだが、例外もまた存在する…。それは、非対称的権力の構図の中で、民族というスティグマを付けられ、西欧近代の「進歩」の時間軸から取り残された者とされ、一方的に抑圧され収奪された(そして現在もされつづけている)少数民たち、および「在日××民族」という名で排除され差別されつづけてきた人々は、当然のように民族概念を正のベクトルを持つ力として立ち上げうるし、また、立ち上げるべきだと…。すなわち、日本と呼ばれる領域内に「日本民族」は存在しえないけれど、「アイヌ民族」、「沖縄民族」、「在日××民族」は成立しうるし、また、現に成立しています。

ぼくには、こんな風に言ってしまったほうが、しっくりくるところはあります。おそらくこれはアカデミズムから遠く離れた問題の立て方なのでしょうが。これがぼくは好きです。

3、糾弾の問題と徐京植さんとの論争

『近代化の中のアイヌ差別の構造』をこのたび始めて読んで、花崎さんと徐京植さんとの論争のことを思い出しました。糾弾される側の人の変化を生み出すためのコミュニケーションモードの必要という議論がここから接続しているのではないかと思えました。この論争については後の時代軸のなかでの課題になると思うのですが、この段階で話しておくべきことがあれば、教えてください。



〜〜〜
上記の質問に訂正があります。

二つ目の民族に関する問題については花崎さん
『アイデンティティと共生の哲学』でより深めて語っているので、主要にはその回に回したほうがいいかと思います。今回はこの段階ではこのように記述されていたという指摘にとどめたいと思います。

で、これを思い出したのは、花崎さんも書いている
「岩波講座 現代の教育〈第5巻〉共生の教育」で楠原彰さんが花崎さんの以下の文章を紹介していたからでした。
〜〜〜〜
 多数者集団は、近代国民国家では「国民」(ネイションのルビ)の特権的地位を与えられる。そのことによって、自民族集団がどのような集団であるのかを自己定義しないでもすむ。「他者」を持たず、「他者」との関係を知らない無知の不幸がそこにはつきまとう。したがって、多数者としての「国民」集団の民族的自覚の第一歩は、「国民とはわれわれである」というアイデンティテイ(自己同一性)を破ることである。そのことをつうじて「エスニシティの自覚」を獲得することである。(1993年筑摩書房54ページ)

そして、前に、ここに関する部分を別の花崎さんの紹介で使ったことがあったのに、すっかり忘れてました。ごめんなさい。テッサさんの解説が非常にわかりやすかったので、そこを引用していました。
以下、引用
この二十年あまり、花崎は多くの著作で、「共生」を探求するための中心的な課題として、アイデンティティ政治におけるマジョリティの位置というディレンマについて論じてきた。(ここで私は「マジョリティ」という言葉を、数のうえでの多数派の人びとという字義どおりの意味ではなく。不平等で差別的な社会秩序の中で相対的な権力を付与されたアイデンティティの位置を示すものとして用いる。)排除と差別に対する闘いが、・・・同情的関心だけではすまないことは明らかである。それはまた、社会的不正義を犯す者、あるいはその結果からの受益者が自分自身の位置を再定義、再創造しなければならない。それによって不平等の構造を変えうるような闘争なのだ。しかし、それはいかにして実現できるのだろうか?いかにして他のアジアの人びととの関係において自らの「日本人」としての位置を、あるいは「女性」との関係で「男性」としての位置を、そしてアイヌや沖縄人、在日外国人との関係において「マジョリティ」としての日本人」としての位置を再創造することができるのだろうか?花崎にとってこれらの問いかけは、将来とって代わるべき政治における新しい主体の創造という問題の核心にあたる。その新しい主体とは、国家や市民、エスニシティとしてではなく、共にピープルとしてアイデンティティをもつことになるはずの存在である。467-8p

 花崎はウォーラーステインがとるエスニシティについての構成主義的な立場を批判し、日々の現実における人間の経験という観点から、エスニシティが「人間生活に根ざした、人間の歴史に遍在する自覚」だと論じた(本書175p)。この立場からは、「マジョリティ」のエスニック・アイデンティティは単に放棄したり脱構築されることはできないのであって、肯定的で差別的でないかたちで「再構築」されなくてはならない、と・・・。1986年の雑誌『世界』(1月号)の論文
ナショナリスティックな日本政治の現状とユン・コンチャによる日本の人種主義への批判の双方に対して応答し、「悔改め・・・宗教的経験」にも似た「日本民族の自己意識」形態を創りだすことを呼びかける。
・・・・。彼のヤポネシア概念についての解説(第八章)、自己と他者の不平等な関係の作り直しをめぐる彼の議論(第九章)は、日本人のアイデンティティの解体と再形成の道筋を求めつづける試みの一部をなしている。471-2p

〜〜〜〜〜
以上

研究会はいろいろ新しい発見もあったが、花崎さんに花崎さんの思想について語ってもらうことから、何を読み取ろうとしているのかという目的に、もう少し自覚的である必要があるなぁと自戒を込めて思った。

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