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zoom RSS 「原点としての水俣病」メモ

<<   作成日時 : 2015/02/02 06:07   >>

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原点としての水俣病
宇井純セレクション1

宇井純/著
藤林泰・宮内泰介・友澤悠季/編


戦後研のテキストということで、ちょうどその日、PPに行く機会があったので、図書館で借りて読んでみた。すべて平易な言葉で書かれているところが好きだ。というわけで、とても読みやすい。
同時代に社会運動の場にいたのだが、残念ながらぼくは宇井さんとほとんど接触する機会がなかった。だから、直接的な印象は何もない。
これを読み終わって、やはり巨人だったのだと感じたりするのだが、たぶん、宇井さんはその形容は好きじゃないだろう。そう、常に等身大の、そして差別された側からの視線を失わないスタンス。

そして、強い。自問を重ねているのだが強い。
68〜69年、東大に在籍しながら欧州に行っていたことのひけめなどみじんも感じさせず、その運動が生み出す難解な言葉を批判する。しかし、その批判は正しいと思うし、その後の党派の独善性批判も鋭い。

そして、普通に10年研究していたら飯が食えるようになり、20年で世界の第一線まで行けると言ってしまえるところもすごい。395p


戦後研でAさんが言っていた(と思う)すごくラディカルな変革を求めるプラグマティストというような評価はその通りだと思う。そして、最後の田波さんのインタビューにあるように「技術者」という形容がぴったりくる感じもある。研究者としての実績ももちろんすごいのだろうが。

地域にあった下水装置を開発して、具体的に金や設備をなるべく作らず、しかし、水をきれいにするというようなことを、社会に向けてもやりたかったのかなぁと思う。
大学や研究機関をなんとかしようとするのも、大学を捨てるという選択肢を選んだ日高六郎さんや花崎皋平さんとは違う選択をした背景にもそういうことがあるのか、とも思った。



出版社HP
http://www.shinsensha.com/detail_html/04shakai/1401-2.html
から


【目次】

小さな声の宇井純さん――石牟礼道子
宇井純と水俣病――原田正純

I 水俣からの問い

コラムネコのたたり
水俣病の三〇年
一技術者の悔恨
東京でのいら立ち
現場の目通り抜けた明るさ
水俣病を追って
筆名:富田八郎(とんだやろう) 水俣病第一部序論
水俣病にみる工場災害
水俣病――現代の公害
新潟の水俣病(上)
阿賀野川を汚したのは誰か
銭ゲバは人間滅亡の兆し
不知火海調査のよびかけ
水俣病問題の真の解決とは
水俣病は終わっていない
水俣病――その技術的側面
水俣に第三者はない――水俣病公式発見五〇年に際して


II 自主講座「公害原論」

自主講座「公害原論」開講のことば
「自主講座通信」発刊にあたって
公開自主講座「公害原論」の生い立ち
東大自主講座一〇年の軌跡(上)
東大自主講座一〇年の軌跡(下)
自主講座「公害原論」の体験


III 生きるための学問

現場の目ここも地獄
公害の学際的研究
科学は信仰であってよいか
あてにできぬ科学技術
“硬直大学"解体せよ
「大学論」の講座をはじめて
自主講座「大学論」開講にあたって
東大解体こと始め
大学はどこへいく
非定型教育こそ
御用学者とのたたかい
大学と現場・地域をつなげる技術者として

解説
問い続けることば、行動を生むことば――藤林泰


石牟礼道子氏「小声で話される宇井さんが実に頼もしかった。ニトロをポケットにいつもしのばせて」

原田正純氏「権力には怖くて、弱者にはやさしい型破りの学者であった」

一技術者として水俣病の発生に衝撃を受け、原因究明と患者救済運動に奔走。
公害を生んだ思想への問いとして、東大自主講座「公害原論」を主宰する。
立身出世には役立たない、生きるためにほんとうに必要な学問を求めて。


公害との闘いに生きた環境学者・宇井純は、新聞・雑誌から市民運動のミニコミまで、さまざまな媒体に膨大な量の原稿を書き、精力的に発信を続けた。本セレクションは、その足跡と思想の全体像を全3巻にまとめ、現代そして将来にわたって、私たちが直面する種々の問題の解決に取り組む際につねに参照すべき書として編まれたものである。

「公害の因果関係を証明するのは、いつの世でもたやすい仕事ではない。公害の発生源とそれに連なる勢力は、できるだけ因果関係をあいまいにしようとして、あらゆる努力をするものである。」

「公害問題の解決にしばしば障害となったのは学問である。特に最高学府のモデルとしての東大は、過去の公害問題では足尾鉱毒事件の初期を唯一の例外として、常に加害者側についた。」

「学問の名によって切りすてられて来た人たち、社会の弱者として処理されて来た公害の被害者たちの願いを、学問の目標とする道は必ずあるはずである。」
【著者紹介】

宇井 純(UI Jun, 1932−2006)
水俣病をはじめとする公害の原因究明と被害者支援活動に取り組み続けた環境学者。
東京大学工学部助手に就任した1965年に新潟水俣病の発生を知り、実名での水俣病告発に踏みきったため、同大学での出世の道を断たれ、以後「万年助手」として1970年から1985年まで同大学で自主講座「公害原論」を主宰。
1986年、沖縄大学教授。2003年、同大学名誉教授。
『公害原論』(亜紀書房)、『公害の政治学』(三省堂)、『キミよ歩いて考えろ』(ポプラ社)をはじめ多数の著作があるが、そのほかに、新聞・雑誌から市民運動のミニコミまで、さまざまな媒体に膨大な量の原稿を書き、精力的に発信を続けた。



以下、メモ

35pに掲載されている「熊本での対話」
「今度の未認定患者の反論書はずいぶんよく書けているが、やはり東京で書いたものという気がするな」
「どこが気に入らんのかね。ぼんやりと言われたって直しようがないよ」
「それが困るのだ。東京で書くと、どうしても文章の表現が上すべりするのだ。自分をぎりぎりまでおさえて書かないとどうも水俣病には合わないのだよ」35p
中略
「東京から来た衆はすぐわかるよ。患者さんのところへ行っても口数が多いからな。・・・俺なんか患者さんの前に出ると口が聞けなくなるのが普通だけどなぁ」

「自分の頭で考えることを大切にしないような教育を受けているから無理もないよ・・・」
「告発の会は自分で考える人間の集団にしようてことだな。それで運動が出来なければ日本には公害反対運動なんていらないということだろう。特に東京にはそうやってほしいな」
36p


ぼくも口数の多い東京の人間だなぁと思った。
この対話は富樫貞夫さん、原田正純さん、本田啓吉さん(告発する会代表)と私とのこと。ちなみに宇井さんはこの段階で東京の人

160pには1976年の『不知火海調査のよびかけ』が掲載されている。これを読んで連想するのは福島原発事故だ。ここに書かれているような内容で『福島原発事故被害総合調査』が行われる必要があるのだと思う。


163p〜の1995年の講演録『水俣病問題の真の解決とは』の冒頭で、ここに来てる人がどんな人か知るために質問をする。
・「脱学校の社会」を読んだか X
・イリッチを知ってるか ○
・スモール・イズ・ビューティフルを読んだか ○
・E・シューマッハを知ってるか ○
・フレイレという名前を聞いたことがあるか ○
こんな風な人の見分け方があるのかと思った。

で、フレイレを日教組が呼んだことがあるが、彼らはピンとこなかったようだと宇井さんは書く。それは課題提起型学習は教員の労働強化になるから、という(166p)。確かに労働はきつくなるかもしれなけど、これはちょっと厳しすぎるかも。ほんとのことろはどうなんだろう。

そして、次のページには二万人くらいは水俣病のなんらかの症状がでているのではないかと推測する。いま、認定されたり、申請している人は何人くらいいるのかと思った。

173pでは1995年の段階でも被害の全体像は見えていないと書かれている。誰がどのような調査をすることが必要なのか、という話でもある。これは福島の被害にも通じる大事な視点だと思う。
そして、その調査を誰が行うか、という問題がある。
被害が確定した段階で、お金を出さなければいけない可能性がある行政や電力会社が主体の調査では見えてこないことがあるだろう、と思う。

ここで、宇井さんは良心的な行政官でも、中立性という立場に立つと、被害者と加害者の言い分を二で割ったような対応しかできない、と言っている。

そして、この段階で、宇井さんは「誰が患者ではないか」という研究にお金がでていることを指摘する。176p

196pにも早い段階で被害の全体像の把握に失敗したことが、被害の拡大につながったとあるし、215pには被害の影響調査を行う場合に、行政はその影響を小さくする傾向があるので、行政にやらせてはいけない、と書かれている。

福島でも被害に関する総合調査というのができるだけ誰もが納得するような形で行われる必要があるのだろう。それをどのように行うか、という議論は行われているのだろうか。

順は前後するが、175pでは、この講演の年に出された、国の謝罪のない『和解案』について言及する。書き忘れていたことを、この本を使った戦後研で思い出させてもらったのだが、ここで書かれているのは「真の解決はない」ということ。

183pでは中国は環境問題で崩壊する可能性があるのではないかという指摘。中国の25なんとかの問題とか見ていると、確かに危険かも。そして、旧東側が作った工場の廃棄物のひどさが指摘されている。この講演が20年前のものなのだが、いまは、どうなのかも気になるところ。


191p〜の『新・水俣まんだら』の書評『水俣病は終わっていない』は「これまで、何度か「水俣病は終わった」といわれてきた、という話から始まる。ぼくも1996年頃、共産党系の人たちがそういうのを聞いて、反発して、何か書いた記憶がある。Webにも残っている。書いたのは2000年だった。http://www.arsvi.com/2000/0008tm.htm 
残っているものは、もう少し後に書いたものだけど。

213p〜は亡くなる直前に行われた鬼頭秀一さん(去年東大をやめて、なんとかっていう通信制の大学に移った)からのインタビューが掲載されていて、これも興味深い。

220pでは鬼頭さんが「環境正義」という概念について説明し、これが環境倫理の中でも現在もっとも重要な考え方で、「公害問題」のなかでも不正気は先駆的に指摘されていたのに、忘れ去られているのではないか、と宇井さんに質問し、宇井さんは「日本の問題はいろいろな原型として役に立つ」と答え「持続可能な発展の側面が重視される」として、中央の補助金で作る下水処理施設とと宇井さんが作った沖縄大学の処理施設の話が例に出される。
中央政府が補助金をつけて進めるシステムは能率を徹底的に追求したものだが、沖縄の技術は能率は追っかけないで持続性を重視したものを運転していて、結果として、前者は村役場が作ったのだが、とても動くようなものではなく、泥が桁違いに大量にでるのに対し、後者の沖縄大学の水洗便所は泥が出てこないで、「なんとか動いている」という。微生物の質と量に違いがあるという。221p
持続性が重視されるというのは理解できるのだが、宇井さんはどんな意味で「持続可能な発展」の側面が重視されると言っているのだろう。いまからでは確認することもできないのだけど。


そして、222p〜の宇井さんの「公平性を捨てた」という話を受けて、224pでは、鬼頭さんが、行政は「公平性」が何よりも重要だという認識があるが、公平性を重視することは構造的に加害者の立場に立つことで、そのことに自覚的でなければならない。机の上だけで加害者と被害者を並べ、そこでは中間があるように見えるが、現場に行くと、そんなものはないと分かる。だから、現場から出発することが、問題を本質で捉えることの原点になるわけですね、という。これは215pの宇井さんの「現場主義」という話を受けてのものだろう。

しかし、現場は被害側だけではなく、加害側にもあるのだと思う。両方の現場から出発したら、何が見えてくるのだろう。その中間ではなく、問題の本質で捉えるために、現場から出発するというのはどういうことなのか、鬼頭さんの発言部分なので、いつか、もう少しつっこんで聞いてみよう。

そして、鬼頭さんはこのインタビューの最後に、あの時代(自主講座の時代なのか、水俣病が発生した頃の時代なのか、おそらくその両方なのか明確には読み取れないが)を、きちんと見直し、未来につないでいくことが、いま緊急に必要であり、それが一時期あまりにも安易に否定的に排除されすぎていたと書く。ここもぼくにはよくわからず、消化不良な感じだ。

ここまで第一部、「水俣からの問い」で、第2部のタイトルは 自主講座「公害原論」


1979年に書かれた「自主講座10年の軌跡(下)」では東大闘争に嫌気が差して辞めてしまった日高六郎さんや藤堂明保さんには、本当は大学に残って自主講座の形で所信を問うていただきたかったと書いている(289p)。大学を辞めたといえば、花崎皋平さんもそうなのだが、どっちがよかったかは微妙な感じだとぼくは思う。

また、1999年に書かれた「自主講座「公害言論」の体験」の結語近くには、自主講座が制度化されなかったことが批判された。米国の大学なら自主講座は環境学部になっていただろうと留学生に言われたという話が書かれている(295p)のだが、ここで宇井さんは自分自身の評価については明言を避けているようにも感じ取れる。そのような制度化が持つ危険もあるが、プラグマチックな利点もあるだろう。

そして、自主講座「公害原論」は環境教育のひとつの典型であり、それは行動を通して科学に総合性をもたせるものであり、フレイレのいう知識をためこむ銀行型学習では達成できず問題解決型学習によってはじめて前進するものだ、と書いている(295p)。

ここで読み取れるのは、宇井さんの立場は科学万能主義批判ではなく、科学に総合性を持たせることだったのかと思う。科学とどう向き合うべきか、なかなか悩ましい課題だとぼくは思う。


ここまでが第U部自主講座「公害原論」

ここからが第V部 生きるための学問


読み進むと、宇井さんの科学論はこの本では1973年の「科学は信仰であってよいか」306p〜に詳しい。

ここで宇井さんは「実際に使われている科学技術は、決して人を幸福にするものではなく、むしろ、本来は平等であるはずの人間を差別し、序列をつけるものであることは、企業における学歴差別をみるだけでも明らかである」と書くのだが、「企業における学歴差別」が科学技術の問題を例証するものだとはあまり思えない。

以下は読んでいる最中に書いた読書メーターでのつぶやき
〜〜〜
引用
「それでも私はこの時期に証言を残しておこう。当分この空気は変わらず、大学の退廃は表面を正常化でぬりつぶした中で、ますます進んでいくだろうことを」(300p)
と書く。
いま、読んでいるのだが68年〜69年にかけて欧州で公害の研究していた宇井さん、日本に帰って嵐を乗り切った教官たちが自信を取り戻し、職場の雰囲気は以前にも増して重苦しくなっていたという。
〜〜〜
1971年の「ここも地獄」という文章の一節。

1973年の「科学は信仰であってよいか」
ここで「公害のppm論議に代表されるエセ科学の横行」という表現が出てきて、何ppmという国家基準なら無害という議論はいんちきだと断言する(306p)。
これを読んで連想するのは放射能被害の問題だ。福島原発事故のベクレルをめぐる争い。宇井さんが生きていたら、福島をめぐるいまの問題をどう論じていただろう。気になる。
福島における被害に関する信頼に足る総合調査が必要だと思うのだが、どれくらい行われているのだろう。

医学が無力なだけでなく、加害者側にも手を貸したという話を書いた後で、「大学紛争は、こういった現状を一挙に白日の下にさらけ出した」(312p)と書く。専門バカでなく「専門も馬鹿」な現実と乖離した研究を続ける学者。そして、
「学生たちもそのために立ち上がったつもりではあったが、あまりにもその訴えは舌足らずすぎたし、それまで教えこまれてきた訓詁の学の術語から抜け出すことはできなかった。
 学生の側もまた大学の病に侵されていたのである。この時に学問の行きづまりが国民すべてに正確に伝えられるような努力が足りなかったこともあった」
と書かれている。また、それに続けて、「大学や研究所や科学者をこのままにしておいて、われわれが助かる見込みはない」と言い切る。313p

そして、暴力的に「正常化」したあとの大学はどんどん劣化している、という。314ー315p

さらに機動隊導入という力による解決で学生が得た身体に染み込ませた教訓が意見の違う仲間への内ゲバにつながった、内情を知っているものを消すという連合赤軍の悲劇も、大学教育の路線の上にある必然だとする。また、自分だけが正しい理論を持っているという学生セクトの教育方法と、それを疑わずに行動するという論理は、そのまま資本主義企業のモーレツ社員の行動指針として役立ち、与えられた理論を忠実にこなす官僚の忠誠さと一脈通じる、と書く。317p

宇井さんは大学や研究所の改革だけを社会と切り離して進めるのは不可能に近いが、生き延びるためにはそれが必要だとし(318p)、以下のような学問の方向を示唆する。
これまで学問の名によって切り捨てられて来た人たち、社会の弱者として処理されてきた公害の被害者たちの願いを、学問の目標とする道・・・この社会に存在する、いわれのない差別を少しでも小さくし、弱者のために奉仕する方向の学問
それを感じたのは、水俣病の歴史からだった、と宇井さんは書く。319p

そして、それらの方向転換に向けて、東大の解体が最も有効だというのだった。320p
〜〜〜〜〜
ラディカルだなぁと思う。ぼくは大学がどうなろうと知ったこっちゃないっていう感じもないわけではないが、ここで宇井さんが学問をなんとかしなければ社会が滅びるという確信のようなものを持っていると感じる。



1980年に書かれた「大学はどこへ行く」で興味深かったのが、自主講座をやった経験から、「大学の講義をつまらなくしているのは教師に問題がある」という指摘。348p
自主講座ではつまらない講義しかできなければ、講座が消滅する。そういう緊張感が教師側にないのが問題だというのだ。そして、制度化した大学が立身出世の道具となり、強者のための学問を教えているから、生きた問題とのつながりがなくなり、活性を失なうのだ、という。
大学とかには、もうほとんど縁のないぼくだが、そういうことはあるかと思う。


自主講座「公害原論」からでてきた最も重要な結論は「地域自治が強いところでは公害が発生しない」349p


「公害を本当に根本のところで止めるのはppmで象徴される技術的対策や法律の力策ではなく、住民自治という政治的な条件であり、それがしっかりしていれば公害対策は二次的なものでしかない。これは福祉にもあてはまる条件のように思われる。」349p

教育にもあてはまるんじゃないかと思ったが、教育・研究のことをテーマにしたこのコラムでどうして宇井さんは教育のことを書かなかったのだろう?

また、この1980年に書かれた「大学はどこへ行く」で自主講座を振り返って、これは問題解決型学習だった(350p)という。
これって、フレイレの用語かなぁと思って、調べて気がついたのだが、問題(課題)提起型というのと問題解決型というのが両方ある。どんなふうにそれらは使い分けられていたのか気になるところ。

問題解決と問題提起の関係を簡潔に書いていた文章があったので以下ブラジルの識字教育実践者フレイレは、識字教育の基本原理として課題提起型教育(ProblemposingEducation)を提唱した。教師が一方的に語りかけ生徒を満たす「銀行型教育」(BankingEducation)を否定し、生徒が主体的に課題を選びとり設定して、現実世界の変革とかぎりない人間化へ向かっていくための「課題提起型教育」が本来の教育のあり方であると主張した(フレイレ 2002:80 )。「課題提起型教育」では異なる他者との対話を通して自己変革を認識することを目標とし、現実を知覚する意味のあるテーマによる教育プログラムを提唱している。学習者と教育者は共同研究者であり、学習者自身が日常生活の中で抱えているさまざまな矛盾から課題を抽出し、それらをテーマにして問題解決のために現実を実践的に変革していくものである。
実践研究
問題提起型パネル・ディスカッションの取り組み
― 日本事情教育を通して ―
澁谷 きみ子
から

宇井さんはこの「問題解決型」に対する対概念が「理論習得型学習」だとし、従来行われてきたのはこっちだあり、この理論について勉強してから行動をというのでは「絶対に行動まで行かなかっただろう」と書く。「自分にとって切実な問題をとりあげて、問題の解決のために必要に応じて学ぶという方法が問題解決型学習だ」と。よく考えたら、ぼくもこの間、この手法で勉強してきたのだし、これがなければ学ぶモチベーションは維持できなかったと思う。

370p〜は2003年にインパクションに掲載された田浪さんによるインタビュー
ここでの日本のマルクス主義左翼批判もかなり鋭い(373p)。これを読んで感じたのだけど、トロツキストを自称する人たちを含めて、自らのあり方にどれだけ相対的でありえたか、というのはもっと深められなければならないかもしれない。宇井さんはここで、行商人と旅役者を例に表現方法を問題にしている。面白いなぁと思う。超ラディカルなプラグマティストだなぁ、この人、と思う。そして、このマルクス主義左翼批判に続けて、宇井さんはアナキズムに言及する。これを「私の知らないもの」とした上で、そこでの権力と人間の関係についての議論はわかりやすいという。

先日聞いた話で面白かったのは反天連のAさんが宇井さんにアナキストと名指されて、アナキストを自称する連中で一人を除いて、ろくな奴はいなかったから、反論したかったけどめんどうだからしなかった、という話。そのAさん、374pあたりで少し持ち上げられている。

で、このインタビューのタイトルは『大学と現場・地域をつなげる技術者として』というもの。研究者ではなく技術者という部分をちゃんと見る必要があるのだろう。

以下はFBの宮城康博さんの辺野古への県庁の対応の問題を論じた近況へのコメントで紹介した宇井さんの文章
沖縄県の行政なんか、回ってきた仕事を大過なくこなしていれば出世するのが当たり前みたいな雰囲気になっている。つまり大田昌秀知事が国とケンカができないと最後は割り切らざるを得なかったのはそのへんなんだろうし、仕事をしない役人を率いて国と互角に闘えるかと言ったらとても闘えっこない。だから国の要求を飲まざるを得なかった、ということなんだろうと悪態を吐いたことがあるんです
393-4P
当時といまとでは県民の感情や与野党の状況もまったく違うので、知事は太田さんの時代よりは有利なバックグラウンドを持っていると思うのですが、県庁に新しいことにチャレンジできるスタッフはいるのかと心配になる。


藤林さんは解説の最後にさきほど抜書した以下(さっきよりちょっと長め)の部分を引用する。
これまで学問の名によって切りすてられて来た人たち、社会の弱者として処理されてきた公害の被害者たちの願いを、学問の目標とする道・・・この社会に存在する、いわれのない差別を少しでも小さくし、弱者のために奉仕する方向の学問をめざしていくことが、日本の生存のためのただ一つの道ではないかとと感じたのは、水俣病の歴史からだった。319p


そして、「切りすてられて来た人びと、社会の弱者として処理されてきた人びと。こうした人びととともに生きるための学問こそ、めざすべき道ではないか」という問いは私たちに投げかけられている。と、書いて、この解説を閉じる。408p




追記


以下、戦後研にて気づいた部分など。

〜〜〜
足尾以来の公害事件に共通する4段階
1、事件発生・社会的動揺
2、発生源究明
3、反論の噴出
4、正論と反論の衝突と中和

〜〜〜

67年の段階でなお、富田八郎(とんだやろう)が本人だと言えないのはなぜか(109-129p)。そして、それに続く68年の文章(43-46p)では「固有名詞は重要なデータの一つ」と書いている。藤林さんは解説で「実名を隠したことは、その後大きな悔いをもたらすが、その悔いが宇井さんの揺るがぬ原点となる」(402p)と書く。どの段階でその自覚が生まれたのだろう。

〜〜〜

85年の「御用学者とのたたかい」という文章(358-369p)
宇井さんの公害と付き合った仕事の過半は御用学者との闘いだったという。
ここでも原発問題を想起する。あれだけ、安全と言っていた推進派の学者は誰一人ちゃんとした謝罪を行っていないだけでなく、また原発の推進に手を貸そうとしている。宇井さんが水俣病の解明をじゃました学者を実名を上げて批判したように、原発を推進したことを反省せず、また再稼働に向けて道を掃き清めている学者たちの名前をちゃんと実名で記録するような仕事を誰かにやってほしいと思う。

〜〜〜

68〜69年について宇井さんは以下のように書いている
 この時期に突然始まったのが東大闘争である。(略)
 ・・・私はその間WHOの調査旅行の準備をしながら、最初の単行本である『公害の政治学』で水俣病の経過をまとめ、その間に進行する新潟水俣病の裁判の補佐人という重責も果たさねばならなかった。むしろ旅行に出発したとき、仕事の重責から解放されてほっとしたほどであった。そのかわり、東大闘争の行方も私の手のとどかぬものとなった。
 ヨーロッパできれぎれに聞こえてきた全共闘運動のニュースは、概して学生に不利なものだった。トドメをさしたのは、・・・混乱を収拾するために、あの加藤一郎教授が総長代行に選ばれたという知らせだった。加藤一郎はどんなことをやってでも事態を収拾し、秩序を回復するであろう。その力量と度胸は、学生が束になってかかっても到底かなうものではない。これで学生の運動は終わったな、というのが、ニュースを聞いた私の最初の感想だった。265-366p


この運動に対する距離の取り方、なんと評価していいのか、言葉につまる。

で、さらに興味深いのが、自主講座を始めようとした宇井さんに工学部教授会は部屋を貸すことを断ったが、そのときに介入して貸せるようにしてくれたのが加藤一郎総長だったという話。宇井さんはこれについて以下のように書いている。
おそらく加藤総長は、学生の運動を追い出したあと、のどもと過ぎれば熱さを忘れて改革の機運がなくなってしまった東大の中に、ある程度の緊張状態が残る必要を感じたのであろう


この少し前にある69年の10月、最後まで抵抗を続けた文学部の学生が学外に排除され、東大が全校の正常化を宣言した日に戻って来て、公害関係の報告などで、やたら忙しくなったのは、実は宇井さんを学内問題にかかわらせないために都市工学のボスの教授が旧知の都留重人に頼み込んで外で忙しくさせるよう仕向けたのだった、という話も面白い、これを宇井さんは誰から、いつ聞いたのかも気になる。


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