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zoom RSS 「バリアフリー・コンフリクト」メモ

<<   作成日時 : 2015/02/15 00:17   >>

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読書メーターへの直後のメモ
第4章 障害者雇用って本当に必要なの?――制度の功罪と雇用の未来(岡 耕平)』という章のタイトルに惹かれて図書館で借りた。この4章、タイトルは少し誇大広告かなぁという印象。ただ、後半の理論の部分、とりわけ飯野さんのところは面白い。

出版社HP
http://www.utp.or.jp/bd/978-4-13-052024-9.html
から

バリアフリー・コンフリクト 争われる身体と共生のゆくえ
中邑 賢龍 編 , 福島 智 編
ISBN978-4-13-052024-9, 発売日:2012年08月下旬, 判型:A5, 272頁

内容紹介

社会制度のバリアフリーは,科学の進展だけでは実現せず,また新しい問題の地平をひらきもする.人口内耳,障害者雇用制度,リハビリテーション……,立場によって目標が異なるばかりか,「争われる」バリアフリーすらある.東京大学のプロジェクトが発信する,現代社会の「バリアフリーのテキスト」.


主要目次

序章(中邑賢龍)
第I部 バリアフリー・コンフリクトの実状
第1章 バリアフリーはなにをもたらしたのか?(中邑賢龍)――「能力」の保障・代替・増強のいま
第2章 役立つはずなのに使われない……――支援技術の開発と利用の狭間(巖淵 守)
第3章 人工内耳によって「ろう文化」はなくなるか?――ろう者の言語権・文化権と「音を聞く権利」を両立させる(大沼直紀)
第4章 障害者雇用って本当に必要なの?――制度の功罪と雇用の未来(岡 耕平)
第5章 読み書きできない子どもの難関大学進学は可能か?――障害学生への配慮と支援の公平性(近藤武夫)
インターミッション:「障害者」って誰?
第II部 バリアフリー・コンフリクトの論理
第6章 障害者への割引サービスをずるいと感じるあなたへ――「公平性」をめぐるコンフリクト(飯野由里子)
第7章 障害者のアートが問いかけるもの――「表現」をめぐるコンフリクト(田中みわ子)
第8章 裁かれない人がいるのはなぜか?――「責任」をめぐるコンフリクト(星加良司)
第9章 聴覚障害者のアイデンティティ・トラブル――テクノロジーの利用によって生じるコンフリクト(中野聡子)
第10章 「回復」と「代償」のあいだ――身体変容によって生じるコンフリクト(熊谷晋一郎)
あとがき
読書案内
コラム多数(上田一貴、大河内直之、ほか)

以下、メモ
〜〜〜〜〜〜〜
「バリアフリー・コンフリクト」の説明
・・・。これは、バリアフリー化によって生み出される新たな問題と、その問題をめぐって人々の間に引き起こされる衝突・対立を指し示すための用語だ。たとえば、視覚障害者の移動のバリアフリーを実現するためにあちこちに設置された点字ブロックが、車いす利用者の移動の妨げになってしまうといったことはその典型例である。4p(序章)
しかし、これが本当に典型例といえるかどうか。典型的なバリアフリー・コンフリクトの例は、単純に、そのことによって、恩恵を受ける人と受けない人というよりも、恩恵を受けるとされる障害者と、それ以外の人(主要に健常者)のコンフリクトではないかと思うのだけど、どうだろう。

次のページの図が興味深いのだけど、テキストで紹介するのは難しい。
(スキャンしようかな?)


星加さんがコラム4で書いている障害者権利条約の説明が明確
この条約の特徴の一つは、障害者のための新たな権利が創出されたわけではなく、既に人権として確立された諸権利が障害者にも等しく保障されることが求められたということだ。ただし、既存の人権の適用範囲を機械的に拡大するだけでは障害者の諸権利は実質的に保障されない。もしそれが可能なのであれば、そもそもこの条約は必要とされなかっただろう。49p


第3章 人工内耳によって「ろう文化」はなくなるか?――ろう者の言語権・文化権と「音を聞く権利」を両立させる(大沼直紀)
55〜56pでは聴覚口話法を追求し手話を教えない日本聾話学校と日本語対応手話でなく日本手話を用いた教育を行い音声言語を聞こえない子供に無理に教えることに否定的な明晴学園の話が紹介される。

そして、56pからは人工内耳の技術が進展し、安定しているにもかかわらず、手術後のリハビリ施設が不足している、と説明しつつ、ろう文化などの主張も組み、押し付けないことの大切さを説く。
60p〜は現状で年に約1000人の重度聴覚障害児が生まれ、その大半が2歳までに適切な補聴器を装着し、約3割が小学校入学までに人工内耳の手術を受ける、と書かれているがどういう調査の結果かは書かれていない。その上で、人工内耳の時代に求められる聾学校の役割があるという。聾コミュニティの維持のための聾学校という主張は理解できるが、人工内耳のフィッテイングのため、ということであれば、普通級に在籍しながら、その支援を受けられるようにすべきではないか、とも思う。

61pには「聴覚・手話トータルコミュニケーション」が紹介される。「手話利用の教育と聴覚活用の教育を同次元で論じかつ実践する試みであり、手話活用の成果をさらに発展させるために、聴覚活用の成果から学ぶべきことを見いだそうという発想から1960年後半にアメリカ合衆国で提案されたもの」という説明がされている。後者の米国の始まりの説明は手話活用が前提であり、同列ではないようにも読めるのだが、どうなのだろう。

この文章の主題は手話か聴覚活用かの二者択一ではなく、両方の恩恵も受けなければならないということ、のように読めるのだが、「ろう文化宣言」関連の人たちはこれを、どう読むのか来てみたくて、森壮也さんにツイートして聞いて、返信をもらった。
「この辺の主張は昔からありますね。いろいろ用意すれば、それがいいという目眩ましとでも言うのでしょうか。それを言うなら、まず聴者に全部用意されては?と教育畑のこの方には言いたいところです」
https://twitter.com/SL_at_IDE/status/563123551079632896 それへのぼくからの返信「ありがとうございました。しかし、これ、聴者にはけっこう耳障りがいい主張だったりするし(少なくともぼくはそう感じました)、とりわけ中途失聴のろうの人の中にも受け入れる人がいそうです。ただ、何かひっかかるものがあったので、森さんに聞いてみたいと思ったのでした」
森さんから再度レスポンス
「ええ,そう思います。その聴者の側への耳障りの良さをこの方は武器にしておられ,それでもってマイノリティに迫っているというご自身の主張の暴力性に気付いておられないのが最大の問題だと思います。」
https://twitter.com/SL_at_IDE/status/563493202749952001


で、この本を読みたくなったきっかけの
第4章 障害者雇用って本当に必要なの?――制度の功罪と雇用の未来(岡 耕平)

このタイトルはほんとにそそるものだった。最初にも書いたが、結論から書くと、その問いへの答えは本文にはないっていうか、当然にもそれは必要だという前提で書かれている。それへの疑義が提出されることを期待して読んだのだけど。

最初にでてくるのは「仕事はないが、辞めないで欲しい」と言われたというエピソード。もちろん雇用促進法の影響だが、このようなことがなぜ起こるのか、障害者雇用制度の内容と運用の実態を検討することによって明らかにし、望ましい制度のあり方について考える、というのがこの章の内容となる。

75pには障害者の総数が記載され、それを全人口で単純に割ると、5・82%とのこと。就業可能年齢などを加味していないという断りがあるが、その数字も欲しいところ。

77pでは雇用促進法に記載された理念が引用してあり、そこに記載されているのは、障害者は(就業の)「機会を与えられる存在」であり、「労働する権利」や「平等な待遇の実現」という理念は明示されておらず、その理念が明示されていないことが貧弱な現状にも影を落としている(78p)、と書かれる。

また、その直後には特例子会社に対する批判も書かれている。そして、「企業の側に働きかけて量的に雇用を確保しようというアプローチには、実際に働いている個々の障害者の権利性を侵害する危険が孕まれている」と指摘する。79p

とはいうものの、これらの障害者雇用制度によって「障害者雇用が量的に支えられていることも事実である」とした上で、しかし、これらの制度によってもその恩恵を強くは受けていない障害者がいるとして、発達障害や高次脳機能障害者を例に上げる。ただ実際にはそれらの障害者が3種の手帳のうちどれかをとって制度を利用していることも記載されるが「これはあくまで他に手段がないことが理由である」と書かれている。しかし、他に手段があって雇用されているのであれば、「恩恵を強くは受けていない障害者がいる」という書き方は事実と異なるような気もする。ただ、手帳の対象外の難病患者について、そう言えるだろう。79p

また、障害種別に応じた雇用率が設定されていないため、雇用されやすい障害者とそうではない障害者が出ることや、障害者雇用制度が「常用労働者」を基準に設計されているために短時間しか働けない障害者が雇用されにくいという話も書かれている(80p)。しかし、実際にはフルタイムで働きたくても職場がそれを許さないという例もあるので、そんなに単純ではないと思うのだが。

84pに記載されているこれまでの職業リハビリテーションが障害者がいかに所与の環境にあわせられるかという視点から行われてきたが、環境を問題にしなければならない、という指摘は重要だと思うが、実際、就職をめざしている人にそれを言ってもしょうがない、という側面があることも確かだろう。ただ、ここで合理的配慮を求めるにあたって、企業負担を軽減し、配慮に関わる企業負担を「合理的」な範囲に留めるための施策が必要だという指摘(85p)はそうだと思う。

この章の最終節は「6 働くことの意味と多様性を支える制度」87p〜
『働く権利』がもっと注目されなければならない、というのはその通りだと思う。一人ひとりが尊厳を持って、働く権利を有すべき、と考えたときに、ぼくがいつも最初に思うのは就労継続支援B型という制度であまりにも働くものとしての権利が認められていない事実だ。労災補償もなければ、有給休暇もない。すぐに最低賃金まで保障というふうにはならないと思うが、せめていくつかの権利から検討されていいはずだと思うのだが、どこからもそんな声は聞こえてこない。(出せていない主体的な問題もあるだろう)

ここにあげられている具体的な提案を以下に要約
1、働く環境への働きかけに力点を置いた制度設計
 障害者が環境に合わせることに主眼を置いた職業リハビリテーションの見直し。

2、働き方の選択肢を広げるような制度設計
 自分のできる仕事を週に数時間だけ行える仕組み。
 
3、雇い方の選択肢を広げるような制度設計
 最低賃金を稼ぐことができない人への賃金補填
 
4、「障害者のための雇用制度」という枠組みの再考
 障害者だけでなく、就労困難者全体を視野に

〜〜〜 
1は考え方はその通りだと思うが、同時に本人が本来持っている力を引き出すという意味でのエンパワメントという視点も重要だろう。その見極めはなかなか難しいが。
2については、少し前にも書いたように、フルタイムで働きたい人が働けるようにすることも同時に必要だろう。
3については、別のところで前から主張しているのだが、年金などの所得補償のシステム全体との整合性が考えられなければならない。
4についてもその通りだと思うが、「障害者」という枠組みもまた見直す必要があるかもしれない。社会モデルで考えたら、引きこもりの人も障害者と考えられるのではないか。障害者手帳をもたない人の困難が確かに存在する。障害者のための制度をもっと柔軟に就労困難者が使えるようにする制度変更は急がれているように思う。障害福祉サービスの受給者証をもっと柔軟に出せばいいという話なので、とりあえず大幅な制度設計の変更はしなくてもいけるのではないか。そのためには、その人が就労困難かどうかを見極めるソーシャルワークが重要になるのだろう。

この直後のコラム7「福祉的就労」
この章の著者と同じ岡耕平という人が書いているのだが、大筋、その通りだと思うのだが、2012年に発行された本で制度としての福祉工場に言及しているのはどうかと思う。その段階ではすでに制度としての福祉工場は存在しないはず。

コラム8も同じ著者による〈欧州における障害者雇用制度〉ここでは主にソーシャル・ファームの説明がされている。それが求められているという方向性は共有できる。


5章では「社会では通用しない」という言い方に含まれる差別性の指摘(108-109p)が興味深かった。障害者の就労支援に関わるものにとって、すごく微妙な問題だが、留意しなければいけない面も多いだろう。

また、教育における合理的配慮とユニバーサルデザインのひたつに分けて考えるというアプローチ(110p)も興味深かった。インクルーシブ教育においては、その両方が求められているのだろう。



インターミッションとして書かれている【「障害者」って誰?
この結語部分が面白かった。
現在の障害者福祉制度が実現している(あるいは実現しようとしている)ものが〈障害〉をもつ人々にとって有効なものであるならば、それは〈障害〉をもつ人々以外にも有効なものとなりうるはずだろう。こうした観点から制度における〈障害〉と〈障害者〉との関係も再考されるべき時を迎えているのかもしれない。126p
それにインスパイアされて、そこから離れて考えたこと。

障害の社会モデルについて再び考えてみる。インペアメントを理由に、その当事者ができなくさせられている社会が問題という視点。現実の人の支援という問題を考えたときに、インペアメントがあろうがなかろうが、その社会が問題なのであれば、そこを変えることに注目しなければならないだろう。その前提で「福祉」を考えてみる。福祉の多くは社会モデルではなく、個人モデル、と言えるかどうか。、社会によってその人ができない状態に置かれていたものを、社会制度としてできるようにしていく、という面では社会モデルということができるかもしれない。しかし、多くの通所施設などでは、その個人ができるようになることをめざす。そういう面では個人モデルだ。ま、それは出来なくさせている要因を取り除いていく、という意味では個人モデルであり、社会モデルでもある、と言えるだろう。そういう支援が必要なのは障害者手帳を持っている人だけではない。

手帳があれば何かの福祉にたどり着けるが、なければ、そこにたどり着くのが難しい現実(例外的に支援機関とつながることはあるかもしれないけど)。たとえば引きこもり問題などを考えると、やはり手帳がなくても、支援が必要な場合はある。そんな風に柔軟に支援を行えるようにするには、やはり、ちゃんとしたソーシャルワークを公的機関が行わなければならないのではないか、と思う。

そして、
第II部 バリアフリー・コンフリクトの論理

第II部の最初は

第6章 障害者への割引サービスをずるいと感じるあなたへ――「公平性」をめぐるコンフリクト(飯野由里子)


飯野さんは「ずるいと感じるのは必ずしも差別者ではない」としたうえで(133p)、二つのパターンに分けてずるいと感じることを分析する。

1、含まれるはずの人が含まれていない
2、差をつけることが適切でない

そのようなことを根拠とした不公平感があるということを前提に、サービス受給の文脈で近年使われているのが「必要性」という基準であるとする。しかし、必要かどうかという基準をつくるときに新たなコンフリクトが起こるとし、この基準の決定を医療や福祉の専門家ではなく、「ニーズ」を有する当事者にとっての「望ましさ」を考慮に入れて、いままでのものとは違う「必要性」を決定するプロセスを積極的に創出しなければならない、と書く(141p)。しかし、医療や福祉の専門家も彼らなりに「当事者にとっての「望ましさ」を考慮に入れて」いたのではないか。だとすれば、この言説はあまり有効ではないと言えるかもしれない。

そして、さらに続けて「望ましさ」が考慮に入れられるようになっても公平性は担保されないという。さまざまな必要性をすべて想定することはできないから。だから、「必要性」を訴える当事者の声を聞くだけでなく、多様な「必要性」の間に存在する質的な差異を問題化するための視座や理論、そして政治が必要になってくる、とされるのだが、それらの直接的な具体例は出されず、逆にその必要性の優先順位をつけるのが困難になっている。この点を考えるのに示唆的なのが社会規範や制度、カテゴリーの「流動性」「不安定性」「不確実性」の増大を指摘する一連の議論であるとして、ジョック・ヤングという社会学者が例に出される。そこで貧困層と非貧困層の境界があいまいになっていて、働かないものが税負担を強いているという感覚があるという。

そこからバリアフリーについて考えると、その曖昧さというのはバリアフリーの進展によって、障害者と非障害者の境界があいまいになっているということでもあり、そこから、貧困に近い層から社会的な敵意が発生する危険があるのではないかと飯野さんは危惧する。143P

そこで飯野さんが導く結論はかなりラディカルだ。バリアフリーは労働・過程・地域といういまある社会へ障害者が
〜〜〜
「受け入れられ」「完全かつ効率的に参加」することがより「望ましい」社会のあり方であるとの前提に立ってきた
〜〜〜
しかし、そうではなくて、新たな「望ましい」社会を描いていかなければならない
、というのだ。

それが何かという示唆を、ここでぼくは読み取ることができなかったけど。


第7章 障害者のアートが問いかけるもの――「表現」をめぐるコンフリクト(田中みわ子)

ここで紹介されている藤澤美佳さんの障害者アートにおける二つの論理、「福祉的論理」と「芸術的論理」という整理がわかりやすい。そして、服部正さんはその日本におけるその二つの論理の衝突の契機として、山下清を挙げている、として以下のように書かれる。
つまり、山下清の貼り絵をめぐって、福祉と芸術の間に「衝突があり、その後は無関係を装う時期が続いた」・・・1995年の「エイブル・アート」提唱をきっかけとして、福祉と芸術は「蜜月を迎えつつあるような印象」をもたらすことになったわけだが、服部自身は・・・新たな衝突を生まれる危険があると指摘・・。154p
ぼくには山下清をめぐる衝突も、その後の無関係を装う時期も蜜月もなんのことだか、わからないまま、この文章は次に向かう。


2節(155p〜)に書かれるのは、米国の「ディスアビリティ・アート」のローラ・ファーガソンの《目に見える骨格をもったうずくまる姿》という作品。
この作品をめぐる議論・コンフリクトが紹介されている。最初に脊髄の専門医であるポリー医師の感想、そして、それに傷ついた彼女の感想が紹介される。
ファーガソンが求めたのは、従来、醜いとされてきた体の歪み、すなわち「正常なもの」から外れるととされてきた身体形態から立ち現れてくる「美の形式」だという。さらにドレガーという障害学の研究者の「鑑賞者のアイデンティティを失わせるために存在する」という分析が紹介され、それなりに興味深いのだが、面倒になってきたので略。


3節では専門知への抵抗を試みるものとしての「ディスアビリティ・アート・ムーブメント」が紹介される。

159pで紹介される英国障害学の有名な研究者であるC.バーンズによるディスアビリティ・アートに関する言説はわかりやすい。
 これまで障害者と芸術の関係は、伝統的にパターナリズムによってとらえられてきた。すなわち、不適格で無能力だとみなされてきた障害者たちは隔離された施設やデイケアセンターといった環境のなかで、療法としての芸術を与えられてきたのである。そのような芸術の発展は個別性がなく、その独創性も脱政治化される。さらにこれらの障害者たちによる芸術は、チャリティのクリスマス・カードのように広告目的で利用されてきた。このように、芸術療法というかたちでの創作機会は存在するものの、障害者を永遠に子ども扱いして、その作家としての個性を認めない芸術療法の考え方は、多くの障害者にあてはまらず、そのことに不満を表明する障害者が増えている。

 ま、型にはまった英国障害学からの批判という風に読めないわけでもないが、それは一つの伝統にもなりつつある原則的な批判というふうにも言えるかもしれない。
  
この記述を踏まえて、ディスアビリティ・アート・ムーブメントにおける異議申し立てを3つの側面から整理
1、「療法的なアート」に対する批判。
 この批判は、治療を目的とした芸術から、障害をめぐる個人の経験の共有に基づいた「創造的な文化」としての芸術への転換を意味するもの。
 F・ケリー「アートはかつて誰も治してなどおらず、またセラピーはアートではない」(これって、どうなのだろう。アートに治された経験のある人はいそうだし、セラピーがアートになる場合だってあるんじゃないかとぼくは思う)
 L・クロウ「障害者の生活のあらゆる活動が、医療やセラピーの言葉で正当化されてきた。そして、それは社会的排除。排除に対する怒りがディスアビリティ・アートを生み出す動機でおある。
 
2、「慈善的なアート」に対する批判
 慈善的なアートを主導する専門家たちが前提としている「かわいそうな障害者」などのイメージに向けられたもの。

3、「周縁的なアート」に対する批判
 上記二つが障害者によるアートを手段として利用することへの批判であるのに対して、第3の批判は、「障害者アート」をあくまでも「犠牲者のアート」や「周縁的なアート」というかたちで位置づける文化そのものに対する問題提起を含んでいる。アウトサイダー・アートでは「中心にいるはずの作者が不在になる」という事態が生じており、芸術家という専門知の枠組みに沿ったかたちで、何が「アート」で何が「アート」でないのかが判断されることになる。より重要なのは、専門家によって「発見」されるアーティストを「純真無垢」な者としてみなす「神話」によって、そうした「発見」のプロセスに介在しているはずの力関係が不可視化されがちであるという点。ディスアビリティ・アートが、伝統的に維持されてきた障害の「創造性の神話」に対峙する「政治」を志向してきたのは、まさにこのため。
 


英国におけるディスアビリティ・アートの実践は、「支配的な文化」の抑圧に対して抵抗することに加え、独自の文化的価値を肯定し、創造する動きであり、
「美的」であると同時にあくまでも「政治的な努力」としてのディスアビリティ・アートは、「社会の全体的な価値体系=正常性」という土台を問いかける対抗的な文化である
、と著者は提起している。

対抗文化という視点は面白いと思うのだけど、ちょっとこの枠が窮屈な感じもしないわけではない。この窮屈さについては次節で少し関連した話が出てくる。
また、「美的」とかいうのも壊しちゃえって思わないわけでもないけど、美的というところを壊しちゃったアートって、見るも無残なものが多くて、もう見たくないって感じもあったりするのだけど。そう「美」っていうのを見直す必要もあるのだろうなと思う。アートは「美術」でもあるが、ただの「術」でもある。ファイン・アートとかいう言い方もある。「アート」を考えるとき、美しいとは何か、美術とは何か、という問いがもっとちゃんと提出されなくちゃいけないのかもしれない。


4節ではそのディスアビリティ・アートではとらえきれない障害者アートがもつ多元的な意味が文化人類学者の中谷和人さんを援用して提起される。
(ディスアビリティ・アートはあくまで「自律的な主体」を前提としているという限界があり)アートの持つ多元的な意味は美術市場や制度との自律的な関わりにおいて存在するだけはなく、「活動現場で生じた/生じつつある社会関係」の中にある。162p
とする。
この視点を踏まえて、この節ではベルギーの知的障害者芸術団体クレアムのことが紹介される。「クレアムが積極的に模索してきたことは、知的障害をもつ人人々の表現とは何かを解き明かそうとする試みであった」として、具体例なども書かれているのだが、やはり文章だけではよくわからない。


最終節は《境界に働きかける「美学」へ》
障害者アートの可能性について以下のように書かれている。(要約)〜〜〜
専門家が介在することによって障害者アートは社会的な認知を受ける。しかし、同時に障害者アートは、身体行為や身体表現の意味をめぐって、複数の知のせめぎあう場所であり、そこでは専門家と表現者である障害者の接触で機能するミクロな権力作用が露呈。その接触面に障害者アートの可能性がある。165p
接触面には摩擦(コンフリクト)が起こるから、コンフリクトに可能性を見るということでこの本のテーマに直結する。

で、この章の最後に紹介されるのが「disability aesthetic」日本語にすると「障害美学」。この文章ではこの美学に関する詳しい説明はないのだが、これは「身体を取り巻くさまざまな知の枠組みの境界に働きかけるものであり、そうした境界においてこそ成立するものだ(文章中のいくつかの鍵括弧省略)」(166p)と書かれている。この「境界」にも、やはり摩擦(コンフリクト)が存在し、そのコンフリクトこそが、この美学を成り立たせている、ということだろうか?


コラム13〈エイブルアート〉168p〜 ここでは「アートビリティ」(旧障害者アートバンク)のことは紹介されていない。古いが影響力はなかったというべきか?


コラム14〈障害文化〉170p〜
引用
障害文化は、あらゆる生の様式を肯定しつつ、社会的なバリアの所在もあぶりだし戦略的装置であると言える。
しかし、言葉が常にそうであるように、使われ方によって、無毒・無害なものに脱色され流通される危険があるというか、この言葉は、むしろその危険が高い言葉でもあるんじゃないかと思う。


第8章 裁かれない人がいるのはなぜか?――「責任」をめぐるコンフリクト(星加良司)

途中は難しくて、面倒で、ついていけなかったのだけど、ちょっと紹介。
責任を責任Aと責任Bに分けて、説明。

A:XさんはYさんの死に対して責任がある。
B:Xさんは死んだYさんの子どもの将来に対して責任がある。

この二つの責任の違い。
Aは因果的な連関を示している
Bは将来において何らかの行為をなすべきということを述べている

そして、公権力による制裁などを通常の責任Bと分けて、責任βと呼ぶ。

そして、責任Aを
刑法的に非難が可能な責任A1
  と非難が不可能な責任A2
に分ける。

で最後の「6節 責任帰属の政治と倫理」(189p〜)について。
最後に二つの倫理的問題が紹介される。これらが本章で扱ってきた責任をめぐる主張が、どこかで行き着いてしまう難問を示唆している、として。

(以下、概要)
A、ある町で、白人警察官が殺され、人口の9割を占める白人は黒人の犯罪だと確信。現場近くに不審な行動をしている黒人の若者が存在。本人以外は誰も知らないのだが、この若者は犯人ではない。
 ここで、この町の人がより快適に暮らせるようにすることが、社会的目的で、住民の幸福の総量が大きい方が望ましい状態であるとしたら、この黒人が刑罰を受けることが望ましいことになる。

B、若者が父親を殺した。殺意を持って殺したのだが、実は彼の知らないところで催眠術がかけられていた。催眠術の内容は
 @父親を殺さないような兆候を示した場合、催眠術が効果を発揮して殺させる。
 A父親を殺そうという兆候があった場合は、催眠術は効果を発揮しない。
責任A1を問うことができるのは、他の行為が選択可能だった場合なので、他の行為の選択の可能性がなかったこの若者の行為は、道徳的にはともかく法的に責任を問うことはできないのではないか

こうした倫理的課題について思考をめぐらせつつ、改めて精神異常と免責をめぐる問題の意味を考えてみてほしい。191p
として、星加さんはこの章を閉じる。

コラム15〈精神障害と法的能力〉
も星加さんが書いているが。ここで強調されるのは、国連障害者権利条約から、決定行為の範囲を制限するのではなく、自己決定の支援が必要であり、「代行決定」は後景化させなければならないといいう話。193p

第10章 「回復」と「代償」のあいだ――身体変容によって生じるコンフリクト(熊谷晋一郎)

脳性まひの二次障害の話は印象に残っているが、読了後1ヶ月近くになるのに、いまだにメモを書き終えていない現在、中身のことはほとんど覚えていない。

熊谷さんは最初に母子で濃厚なリハビリに励んだ70年代後半を振り返り、当時はリハビリに一所懸命に励めば脳性まひは直ると信じられていた、と書く。知らなかったが、ほんとにそうなのかという疑問も残る。その中盤から後半にかけて高校生だったぼく。脳性まひのクラスメイトがいた。彼も母親とすごくリハビリに励んで歩けるようになったと言っていたが、直るとは言ってなかったと思う。
そして、熊谷さんも専業主婦の母がすべての育児エネルギーを彼のリハビリに注いでいたと書いているが、推測するに、育児エネルギーだけでなく、彼女のエネルギーの大半をそこに注いでいたんじゃないかと思える。

当時の密室的な母子関係の中で膨れ上がった二つの幻想があるという。ひとつは「健常者幻想」脳性まひはいつか直り、健常者になるという目睫を掲げれば掲げるほど、そこで健常者のイメージが人の平均値ではなく、パーフェクトな超人に高まっていった、という。
もうひとつの幻想が「厳しい社会幻想」。母子のいる密室の外にあるのは生き抜くのが厳しい場所であると過剰に恐れていたので、母に囲い込まれ、「健常者になってから外に出なさい」という構えが定着していtってしまった、と書かれる。ま、東大の医学部に入れたのは、その二つの幻想の成果なのか、とも思う。しかし、その熊谷さんが上京してアパートを借りるとき、トイレが使えるかどうか確かめなかったというのは返す返すも不思議な話だ。前にも書いたけど。 http://tu-ta.at.webry.info/201009/article_11.html 

219p〜はリハビリについての記述。
身体を変化させる「回復アプローチ」と社会の諸条件を変化させる「代償アプローチ」という形で紹介され、実際のリハビリテーションはその混合だという。

そして、従来、障害の重さとものさしがもっぱら使われてきたが、ニーズ以前の困難として、障害の不安定さがあるのではないか、そしてそれはいままで見落とされがちだったのではないか、という。220ー221p

熊谷さん(脳性まひ)の場合、安定した障害と見られてきたが、とした上で、二次障害が痛みという形で発生してきた体験を書く、
このあたりの脳性まひの人の二次障害の問題、熊谷さんに手軽な新書とかブックレットの形でまとめtもらえたら、けっこう需要があるんじゃないかと思うのだけど、どうだろう。

そして、彼は回復か代償かという二元論を越える必要があるとし、回復アプローチにおける回復の定義の問題に言及する。
従来の「身体を標準化することで社会に適応すること」という定義は障害者運動になどに批判されてきたものだが、そのような定義や「痛みを取り除くこと」という定義ではなく、
「投企を可能にするために必要な、身体や世界・社会・他社への見通しと信頼をとりもどすこと」と置き直すこと
を提案する。たしかに、こういう意味での回復は必要かもしれないと思う。この定義は代償アプローチの前提となり、両者は分かちがたく結びつく、としてこの章を閉じる。

コラム19 戦後のリハビリ史

まず、大きな流れとして、回復アプローチから代償アプローチへ徐々に推移していった、と紹介される。そして、以下の3つの観点から記述される。
・医学的専門知の変化
・当事者運動と社会の価値観の変化
・医療現場や社会におけるコスト感覚の変化


・医学的専門知の変化
(1)外科療法か、理学療法か
これは1950年代のもので、和田博夫と田中豊の論争が有名とのこと。

(2)神経発達学的アプローチ
1970年代初期、(1)の両方のアプローチの限界が見え始めたこと認知や運動制御に介入するようなアプローチ。この時代、マスコミは「脳性まひは治る」とセンセーションに書き立て、これに翻弄された親子も多い、とのこと。熊谷さんはこの時代だったようだ。

(3)エビデンス重視の時代
これが現在、ということになっているらしい。
いまでも行われている外科手術はエビデンスに基づいて行われているのだろうか。

・当事者運動と社会の価値観の変化
(1)障害受容論
同化をせまるリハビリテーションの熱狂からの反論として出てきた障害受容論という紹介があって、はっとした。そう、田島さんの本以来、「障害受容」の問題だけが前景化して、この肯定的な背景のことを(田島さんは書いてたかもしれないが)すっかり忘れていた。とはいうものの、田島さんが書いているような「受容せよ」という形で過剰反応を強いの圧力の問題は小さくないだろう。
(2)当事者運動とリハビリテーションの合流
JILなどの運動が主張する「当事者中心のリハビリを」「健常者に近づくためではない、社会参加の平等に照準した配慮を」というような思想潮流が紹介されている。

・医療現場や社会におけるコスト感覚の変化
ここの結語では以下のように書かれ、このコラムは閉じられる。
 当事者運動の言説は、等身大の障害者身体を受け容れるよう、社会の価値観やリハビリテーションの在り方を変えてきた。しかし、一方で、リハビリテーションの現場には回復を望む当事者がいることも事実である。彼らに対して、平均から外れた身体を受け容れるべきだという言説が抑圧的に働いてしまうという事実には、「回復か、代償か」というリハビリテーションの目標設定を巡る問題のむずかしさが垣間見られる。231p


熊谷さん、もう少しつっこんで言ってよ、と思うが、さきほどの章の結論にあったような両方を生かす方法はあるのだと思う。


この本、最後に読書案内がついている。
読んでみたいと思ったのは「いのちの平等論ーー現代の優性思想に抗して」(2005)
こんな風に紹介される。
 本書は「安楽死」、「脳死」、「死ぬ権利」、「生殖医療技術の利用」を正当化する論理が「弱者」に対する更なる差別・抑圧に繋がりうる危険性に警鐘を鳴らした一冊である。・・・
 なお、「平等の哲学ーー新しい福祉思想の扉をひらく」(2010)もある。本書は、平等をめぐる思想を多角的に考察している。とりわけ・・・「新自由主義」思想について、それが「能力の高低による人間存在の不平等」に繋がりかねないものとして分析している点が注目される。236-7p



アダプティブテクノロジー ――コンピュータよる障害者支援技術」2003年、ここでの紹介の要約は以下。
障害種別ごとの章が分けられ、それぞれの障害をもつ人々がコンピュータにアクセスしようとするときに利用・活用可能な方法・情報が網羅的に紹介
とあり、それは興味深いのだが、技術がどんどん変わっていってる中で、日本語に翻訳されたのが2003年というこの本がどれだけ有効だろう。この紹介には「実用的な手引き」と書かれているのだけど。


「居場所のない人びと」の共同体の民族誌――障害者・外国人の織りなす対抗文化(山本直美著2007年)
その「居場所のない人びと」によって営まれる生活の中に「能力主義・規律化に対抗的な実践」あるいは「管理社会への対抗文化」という特徴を読み取り、その様態を明らかにしようと試みる。・・・「成員間の円滑なコミュニケーションは到底望めず、むしろ日常的にコミュニケーション不全の状況が生じて」いるような状況・・・そこに「文化」を成立させている関係性とはいったいどのようなものなのだろうか?

これはちょっと読みたくさせる紹介。

タイトルしか紹介のない「癒しの説教学――障害者と相互依存の神学」という本も気になる。


隠喩としての病」(スーザンソンタグ著1992年)
「「批評」という形式を通してもなお、・・・病を脱神話化することによって、病者の苦しみを軽減できるはずだという筆者のメッセージ・・」

メモは以上
というわけで、刺激されるところの多い本だったことは確かだ。

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『障害者のアートが問いかけるもの』(『バリアフリー・コンフリクト』から)
先日、自立支援協議会主催の公開セミナーの準備で東大先端研に行く機会があって、そのあたりの人が書いていた本があったなぁと思って、出てきたのがこの本『バリアフリー・コンフリクト』のメモ http://tu-ta.at.webry.info/201502/article_3.html  ちょうど、そのタイミングで立岩さんが障害と創造? 「身体の現代」計画補足・291 http://www.arsvi.com/ts/20172291.htmを紹介していたので、これを読み返して、この障害者アー... ...続きを見る
今日、考えたこと
2017/01/08 08:56

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