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zoom RSS 『釜ヶ崎と福音』メモ後半

<<   作成日時 : 2015/09/12 23:34   >>

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『釜ヶ崎と福音』メモ後半

以下の前半
http://tu-ta.at.webry.info/201509/article_2.html
の続き



126pで本田さんはイザヤ書61章をひいて、「崩れかかった社会、駄目になった共同体、それをほんとうに直すのは誰か、と問い、こんなふうに応える。
学者でもなければ技術者でもなければ、社会的名声のある人でもなければ、金銭的にゆとりのある人でもないのだよ。こういう人たちにも役割はある。お手伝い、使い走りにはなる。しかし、中心になるのは、その町を興し、共同体を興し、・・・ほんとうに刷新していく軸になるのは「貧しい人たち」なのです。
そして、この直後に先ほど立てた問い、「福音とは何か」に関する答えがひとつ語られる。以下のように書かれている。
イザヤは貧しい人たちに派遣されて、「神さまがはたらくのはあなたたちと共にだ! 勇気を持って、自信を持っていいんだ!」と告げる。それが福音なのですよ。「えっ、こんなわたしが頑張ちゃっていいのか?」と、しいたげられた人たちにいわせる知らせ、それが福音です。126p

ここだけ読むと、福音って、抑圧されたものが自ら持っている力(それは抑圧ゆえに隠されている)に気づくプロセスとしてのエンパワメントのことじゃないかと思えてくる。

137p〜の「へりくだりの差別性」という指摘も興味深い。イエスの捉え方として、ふつうに暮らせる人だったのに、英雄的に、あえて、貧しい人の中に入っていったという見方は誤りだと本田さんはいう。それを前提として、身分のある、家柄もいいといわれている人が、貧しい人たちの中にはいって、いっしょに汗を流していると聞くと、わたしたちはついうっかり拍手してしまうのだが、それが差別的なのだと指摘する。

そんな風に降りることがキリストの生き方として見習うべきことだとすれば、降りることなどできない最低辺の人はキリスト教の教会から排除していることにならないか、と。
ここで本田さんはキリストが神の子であるということに触れない。神の子であるにも関わらず、最低辺に降りてきたという面はあるのではないか。

そして、144p〜の節のタイトルは「神は低みから」となっていて
、「ゴミとホコリが降り積もるような、低い低い、社会の低み、そこに天の御父のはたらきの場があり、そこからいつも天と地のすべてをみておられる。そこからすべての恵みがさし出され、そこから聖霊がほとばしり出ているのです」145p
 というのだが、「全能の神」だとすれば、低いところにも高いところにも至る所にその視座はある、ということのほうがわかりやすいような気もするのだが、どうなのだろう?


どんな宗教でもいいのだが、どんな宗教に属していても、それだけではだめで、大事なのは、人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りをしっかり受け止め、いましんどい思いをしているその人がいちばん願っていることをいっしょに実現することだ
と本田さんはいう。165p-166p

人間としてコンパッションを生きることができるかどうか、ということもできるだろう。

大事なのはどこかの宗教に属しているかではなく、福音を生きること、無宗教でもまったく問題はなく、福音的な視点をもつこと、あくまで大事なのはいちばん小さくされている人たちの痛みと望みに連帯した現実的な働きだ
、と。167-168p


「良識的判断」の3つの誤り
1、和解を平和と一致のための絶対的原理とし、どんな場合にも当てはめようとすること
 オスロ合意が正義を反映していない和解だというのが本田さんの意見だ。
2、どんな対立でも中立の立場を取ることができると思い込むこと
3、対立による緊張を、不正や悪、差別や抑圧よりも悪いことだと思うこと
182-185p
このあたりも本田さんのラディカルな部分だろう。

192pには世間が望む平和と神が望む平和という話がでてくる。神が望む平和は「抑圧からの解放をもたらす正義」を土台にした、すべての人が「人として大切にされる」「喜び」のある平和。
この平和こそ、ガルトゥングのいう構造的暴力の除去としての「積極的平和」だろう。
それに対して、世間が望む平和とは、真理をあいまいにするバランスの平和

続いて、「対立の3つのパターン」が紹介される。
1、双方が基本的に正しく、人が人として大切にされる社会のために働いているのだが、方法や手段の違いのために対立する場合。このパターンでは和解が大切。
2、双方が正義に反している場合。ほっておくしかない。
3、一方が正しく、一方が間違っている場合。すなわち、一方が不当に抑圧され、権利が踏みにじられている場合。この場合は抑圧されている側に立つべき。195-196p


大事なことは対立/抗争において、選ぶべき立場を誤らないことであり、そのためには対立を社会構造的な次元で見つめることだ
と本田さんはいう。197p
ま、当然といえば、当然なのだが、感情やポジションの近さ遠さで見誤りがちなことはあるかもしれない。

そして、聖書が私たちに諭しているのは、神が望む平和な社会を私たちが望むのであれば、社会構造の中の抑圧する側に立つことをやめることだ。そして抑圧され、貧しく小さくされている人の側に立つことが貧しい人のためであるだけでなく、裕福な人の幸せにもつながる、そしていうまでもないことだが、みんなが貧しくなることでなく、貧しい人たちが貧しさから解放されるために起こす行動に連帯せよ
、ということだと本田さんはいう。199-200p

これって、森田ゆりさんが『エンパワメントと人権』で書いている以下とそっくりかも。
エンパワメントとは差別される側、被害を受ける側、弱者とさせられてきた者の側、・・・に立つことを選んだときに初めて可能になる関係のありかたである。その立場を明確にすることによって社会から受ける批判に立ち向かうことである。「中立」とか「客観的」「科学的」などといった立場煮に逃げ込んで、抑圧する側にくみしてしまわないことだ。50p




201pには、敵は明確に存在すること、しかし、その敵も憎むべきではなく、人として大切にすること、と書かれている。これがマタイ5章43-44節/ルカ6章27-28節ということらしい。
従来は「汝の敵を愛せよ」と訳されていた部分だろう。

権力についていたり、富を持つ人に対して、どうすればいいのか、という問題に対して
、彼らが自らそれを手放すのは困難なので、彼らに富谷県力が集中する構造をそのものをなくすために働くことであり、そのことが彼らを大切にするということでもある
、という。204-205p

V いま信頼してあゆみ始めるために
2 社会活動の霊性(スピリチュアリティというルビ)

ここで、最初に書かれているのは
「抑圧され、貧しく小さくされている人々の側にたつことを選び取るには、具体的にどうすればいいか」という問い。206p


そして、ここでは真の連帯のための4つのステップが示される。
1、痛みの共感から救援活動へ
2、救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ――怒りの体験
3、社会的・政治的行動へ――構造悪と闘う貧しい人たちの力
4、単純な「弱者賛美」から真の連帯へ
207-208p


第1のステップの説明のタイトルは『はらわたをつき動かされて』となっている。
「わたしたちを行動に踏み切らせてくれるのは、『はらわたをつき動かされる』痛みの共有です」
と本田さんはいう。208p
これをコンパッションと呼ぶのだろう。

ただ、210pに紹介されているマタイ20章34節の「目が不自由な人」のいやしの話はどうかと思う。イエスが『はらわたをつき動かされて』目に触れていやした、という話なのだが、ここは社会モデル的に見えないまま差別されない方法を考えるべきじゃないかと。ま、それが時代制約なのかもしれない。210p

このはらわたをつき動かされる痛みの共感は、「あわれみ」とは異なる。
「キリエ エレイソン」は「主よ、あわれみたまえ」と訳されるが、これは誤訳で、正しい訳は「この苦しみ(痛み)をわかってください」で、「何とかしてくれ」という叫びだという。211p

そして痛みの共感を深めるために助けになることが2つあると本田さんは書く。
1、痛みの現場に立ってみること
2、痛みの共感を薄めるような思いを退けること
212p


1つめは単純といえば、単純な話でもある。

2つめの「痛みの共感を薄めるような思い」とは何か。以下のような感情
「わたしは立場上何もできない」
「わたしには向いていない」
「政府、行政が解決することだ」
「わたしの問題ではない」
214p

苦しんでいる人を前に、その人のためにできることを考えるとき、でてきそうな思いなのだが、そういう思いが苦しんでいる人への共感を妨げることを意識することは大事なのかもしれない。しかし、「政府、行政が解決することだ」という認識を持つことが必要な場面はあるだろう。だとすれば、そのために行動することが必要になる。

そして、
この第1のステップ「痛みの共感から救援活動へ」だが、このような行動に入ったとき、自らの生活様式を見直すことにつながることが重要だという。それらのものが本当に必要なのか、ぜいたくなのかという識別が容易になり、無理なく質素な生活に入れる
、と本田さんは書く。
216-217p

第2のステップは「救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ――怒りの体験」
目の前の救援活動から「なぜ、その人たちが貧困なのか」を考えることが大切だと本田さんはいう。
まず、寄せ場における貧困の仕組みを説明し、いわゆる「健常者」中心の社会が障害者を弱者として、社会参加を宣言していることにも言及する。

その上で、以下のように書く。
生活の基盤まで失う貧しさが、裕福な人々の生活を優先的に守ろうとする結果であることがわかると、あまりにも公然と行われている不公平さに誰でも驚き、守られている側にいる自分に居心地の悪さを覚えるようになるでしょう。
220p

ここから怒りの話になり。聖書から「怒り」の大切さを学ぶ、として、223-224pにはイエスが大暴れした話が紹介される。こんな風に書かれている。
イエスはエルサレムの神殿の境内で、供え物用に牛や羊や鳩を売っている人たちや、献金用の両替をする商人たちを見て、貧しい人たちに肩身の狭い思いをしいるこのような宗教上の制度に怒りを覚え、「縄でむちを作り、羊も牛もすべて神殿から追いはらい、両替屋たちの金をまきちらし、台という台をひっくり返した」

このあとに、4つの福音書からの引用箇所が参照されているのだが、イエスがこんな暴れ者だっていうことを知らなかった。

さらに本田さんは二通りの「怒り」を識別する、という。
1、自分のわがままからくる威圧的な怒り
2、痛みの共感・共有から湧き上がる解放を求める怒り
225p


ここで、本田さんが何気なく使っている「識別」という言葉が深いと思う。そのことにここではあまり言及されていないが、この両者は怒る本人の中で混同されやすい。あたかも義憤に駆られているように自分に思い込ませて、実は自分のわがままや、そのときの虫の居所の悪さで怒っている場合は少なくなく、それをちゃんと見分けることが大切だから「識別」という言葉が使われるのだと思う。


当然、本田さんは後者の正当な怒りをそらしてはいけないとして(227p)その矛先について指摘する。
まず、差別や抑圧に手を下している者たちと対峙し、やめさせようとする中で、見えてくるものがある、それは、そのように手を下す者たちは、不特定多数の一般市民の差別や偏見に裏打ちされているということ。228p
そのような一般市民の差別や偏見の背景にそれを生み出す社会があり、権力が存在すること。そして、社会構造・社会の仕組みそのものが問題であることがはっきり見えてくる(230p)、というのだが、そこまで至るのはそんなに容易ではないようにも思う。

3つめのステップが「社会的・政治的行動へ――構造悪と闘う貧しい人たちの力」

そして、問題の原因に迫る行動が必要だということになる。それが「社会的・政治的行動へ――構造悪と闘う貧しい人たちの力」だ。231p

そして、ここに踏み込むには勇気がいる、と本田さんはいう。ま、ぼくはもう、踏み込んじゃってんるんですが(笑)。232p

そして、「社会的弱者」と呼ばれる人たちには自分を解放する潜在的な力があるということに気づくことが霊的成長をもたらす、という。233p


そして、前半で部分的に紹介した4つめのステップに進む。

で、ここは前半で紹介したので飛ばす。


そして、ここで
聖書に書いてある「悪を避け、善を行う」とは、貧しさ/抑圧と闘うことだという。そして、闘うことによって貧しく抑圧されている人たち本来のすばらしさを引き出すはたらきをする、ということだ
、と。243p
ここもエンパメント論そのものだと思う。

そこから導かれるのは、その闘いのリーダシップは彼ら自身が取るべきだということでもある。244p


そして、これらはひとりひとりが行動を起こす実践のなかで体得するものだとしながら(ほんとにそうだと思う)、しかし、
これらを事前に知っておくことで、霊性を深めながら社会活動を続けることができる、自らも解放されていくでしょう
、と本田さんは書く(245p)。ぼくなら社会活動じゃなくて、社会運動というところだけど。

そして、この本の文庫版あとがきのいちばん最後のところで、安倍政権のなし崩し改憲や教育介入、原発問題を指摘して、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と腹をくくってほしいとし、

「どうしたら、この閉塞した状況を打ち破ることができるのか」と問いを立て、

結局、
「人を人として大切にする。ここに立ち戻るところからやり直すしかない、現実的なとっかかりは、今いちばん大切にされていない人(人々)の側に視座を移すことだ」
という。

そして、具体的に動くことが問われているのだろう。






本田さんの書いていることって、社会運動側から見れば、ある意味、すごくストレートであたりまえのことと思えないわけでもないが、それをカトリックの聖書学者みたいな神父さんが言ってるってところにすごさがあるのかなあと思う。



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