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zoom RSS 「環状島=トラウマの地政学」に関してWebで拾ったもの書庫&研究会メモ

<<   作成日時 : 2016/02/05 02:39   >>

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みすず書房のHPでの紹介
http://www.msz.co.jp/book/detail/07339.html
著者  宮地尚子

戦争から児童虐待にいたるまで、トラウマをもたらす出来事はたえまなく起きている。「言葉では表現しようのない」この出来事は、それでも言語化されていった。しかし、言葉にならないはずのトラウマを伝達可能な言語にするという矛盾は、発話者をも聞く者をも揺るがせる。「なぜあなたが(もしくはこの私が)その問題について語ることができるのか」「もっと悲惨な思いをした人はたくさんいるのではないか」にはじまる問いは限りなく、お互いの感情を揺さぶり、自身を責めさいなむ。
「だからここで考えてみたい。トラウマについて語る声が、公的空間においてどのように立ち現れ、どのように扱われるのか。被害当事者、支援者、代弁者、家族や遺族、専門家、研究者、傍観者などはそれぞれどのような位置にあり、どのような関係にあるのか」

前著『トラウマの医療人類学』を継ぐ本書で、著者は「環状島」をモデルに、加害者も含め、トラウマをめぐる関係者のポジショナリティとその力動を体系的に描いた。〈内海〉〈外海〉〈斜面〉〈尾根〉〈水位〉〈風〉などの用語を駆使しながら、トラウマをめぐる全体像とあるべき方向性をしめした初めての試みである。関係者のみならず、クライアントと日々を共にする医師であり、マイノリティ問題にかかわる研究者である著者自身にとっても、本書は実践と倫理のための道標になるだろう。


目次


1 トラウマについて語ること――環状島というモデル
はじめに/サバイバル・マップ/発話者のいる島、環状島/円錐島との比較

2 〈内海〉に沈む被害者たち
犯罪被害のトラウマと法的救済/環状島に働く力――〈重力〉と〈風〉/環状島の特徴――〈水位〉/社会運動と環状島

3 環状島の生成過程――セクシュアル・ハラスメント裁判から 1
日本初のセクシュアル・ハラスメント裁判/被害の経過/高い〈水位〉/環の形成/時代背景と〈水位〉〈波〉/支援者との溝/〈風〉――一般論/〈風〉――晴野の場合/〈島〉

4 複数の環状島――セクシュアル・ハラスメント裁判から 2
別の島影/もう一つの島影/いくつもの環状島/雄弁な発話者を生む条件/雄弁さの相対性

5 複数のイシュー化と複合的アイデンティティ
環状島とアイデンティティ/重層差別や複合差別/複数の環状島を描くということ/重さ比べ/複合的アイデンティティ

6 脱アイデンティティとアイデンティフィケーション
脱アイデンティティ論/「一部圧倒性」と「一部了解不能性」

7 ポジショナリティの問いかけ
ポジショナリティをめぐる議論/〈内斜面〉から〈外斜面〉への問いかけ/異なるイシュー化と複数の環状島/中立や普遍性のもつ偏り/ポジショナリティの問いかけは〈外斜面〉に向かうが〈外海〉には向かわない/ポジショナリティの問いかけは〈外斜面〉の人を〈外海〉に押し流しかねない/複合差別や重層差別/可視的なカテゴリーや集団帰属によるポジショナリティの問いかけの限界/「正しさ」が必ずしも問題なのではない/「度しがたいまでの無知」と「度しがたいまでの有知」/アリス・ウォーカーの「投企的同一化」

8 加害者はどこにいるのか
加害者の位置/加害者は立ち去って、そこにはいない/加害者はその場にいる/真上からしか見えない傷/井戸の底/外傷的絆/加害者の償いと被害者の赦し

9 研究者の位置と当事者研究
研究者の位置/跳躍・帰郷の場・論文作成/当事者研究

10 環状島と知の役割
研究者・専門家・知識人の役割/学問領域による差異/役割の悪用や迫害/悪用できない知はない/新しい知識人像/かくれ当事者研究もしくは抽象化の効用/最後に

あとがき
参考文献


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森岡正博さんによる書評
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20080307/1204889170

2008年3月2日熊本日々新聞掲載

 阪神淡路大震災のような大惨事を経験して、心に大きな傷を負った人は、あの時間、あの場所で起きたことについて、自分の言葉で何ひとつ語れなくなることがある。また、繰り返されるDVや虐待を受けた人は、そのとき自分に何が起きたのかについて、他人に対して説明できないだけでなく、自分に対してもそれを言語化できないことがある。

 本書の著者の宮地さんは、この点に注目して、トラウマをかかえた人と、その人を取り囲む人間関係を説明する、新たなモデルを提案した。それが「環状島」である。

 環状島というのは、大海の真ん中にぽつんと浮かんだ離れ小島なのであるが、その中心部がへこんで大きな湖になっているのである。つまり、中心部に「内海」があり、それを取り囲むようにして「尾根」の山々がそびえており、その「尾根」を外側に超えると、その先には浜辺があって、広々とした外海が広がっている。

 この島の中心部になぜ内海が形成されたのかというと、DVや虐待などの出来事が起きたとき、この島の頭上で、ちょうど原爆のようなすさまじい爆発が起きたからである。その爆発によって、被害者の心にはトラウマという名の空洞が形成され、そこに水が流れ込んで内海を作り上げたのである。

 内海は、トラウマの起点となる凄惨な出来事が生じたグラウンド・ゼロであり、そこで何が起きたのか、そこに何があるのかを、当事者は整然と言葉でしゃべることはできない。内海は、言葉を失った死の世界である。

 普通の考え方では、「当事者に何が起きたのかは、当事者がいちばんよく知っているし、いちばんよく語ることができる」とされる。ところが、トラウマを負った人間では、そうはならない。その人間の中心部には、言葉が失われた「内海」が広がっており、そこで起きたことを、他人にも自分にも整然と説明できないのである。

 中心部でトラウマを受けた人間が、なんとか環状島の内海から陸地に上がって、尾根の山々に向かって内側から登れるようになると、そこではじめて、苦しみながらも自分の言葉を発することができるようになる。だから、被害者への支援とは、まずは死屍累々たる内海から、陸地の尾根に向かう内斜面へと、被害者を引き上げてくる作業であると言える。

 島の外に目を向けてみよう。そこには果てしなく広がる外海がある。外海にいる人々は、トラウマで生じたこの島の存在について、まったく無関心である。あるいは意図的に見ないようにしている。

 その外海から、この島に上陸して、環状島の尾根に向かって外側から登ってこようとする人間がいる。彼らは、トラウマに苦しむ人を援助しようとする支援者である。

 環状島の尾根に内側から登っていこうとする当事者と、外側から登ってきて支援しようとする支援者とのあいだには、トラウマからの回復を目指した連帯がむすばれるのであるが、しかしながら、尾根の外側にいる支援者はいつでもそこから逃げることができるという意味ではよそ者にすぎないわけだから、尾根の内側からなかなか抜け出せない当事者と、真に結びつくこともできない。

 高い山々の頂上には、たえず強い風が吹きすさんでいるものであるが、それと同じように、当事者と支援者が出会う尾根の上もまた、社会からの強烈な外圧が吹き荒れる場所であり、当事者と支援者のあいだの軋轢が表面化する場所でもある。

 だから、もし支援する運動の内部で軋轢や内輪もめが生じたとしても、それは「環状島」という島それ自体の性質によるのであり、けっして誰も悪くないし、軋轢はむしろあって当然なのだと宮地さんは言う。

 このように、「環状島」というモデルを使って考えることにで、トラウマからの回復と、当事者への支援について、様々な問題点がすっきりと整理できるようになる。まだ荒削りであるが、これからの精神医学と現代思想に大きな影響を与えるかもしれないアイデアがほとばしっている。今後の展開が非常に楽しみな著作である。

評者:森岡正博 (http://www.lifestudies.org/jp/)

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http://blog.goo.ne.jp/higaishablog/e/8b020d6b87e2c451a0c6f4fd87c067c7
宮地尚子著 『環状島=トラウマの地政学』より (1)

p.14〜
 私たちはしばしば、暗黙の前提として、受けた被害が大きけれほど、そのできごとについての発言権をその人はもち、実際に雄弁にその問題について語りうると考えている。発言権や、証言者としての正統性は、たしかに中心に近づくにつれて高まるかもしれない。
 けれども、実際には被害が大きすぎた人は死んでしまって、発言する機会をもたない。また、生き延びたとしても、発言するためにはある種の条件、能力や資源が必要となる。知的能力、コミュニケーション能力、論理性などは不可欠だろうし、聞き取る者と同じ言語で話す能力、識字能力も求められるかもしれない。説得性をもたせるには、演出力や社会的信用なども必要になるかもしれない。資源としてはまず、話したり、書こうとする気力、体力、発話を可能にする身体機能が必要である。時間的余裕も必要である。
 このようにみていけば、中心から近い位置にいる者ほど逆に語ることが困難になるのは当然の理である。不思議でも何でもない。けれども現実には、中心に近い者ほど発言する権利がある、すべきである、できるはずである、しているに違いないという思いこみが、非常に強く人々の思考を縛っている。

p.98〜
 人は被害の重さを比べあい、行きがたさの重さを比べあうことをやめられないだろう。法的救済などの場面においても、究極的には被害の重さを、補償金の金額という一元的なものさしによって算定するしかないのが現状である。
 被害事実がなかなか認知されず苦しい闘いを迫られている状況では一致団結していたのに、被害が認められ、補償や和解のプロセスが始まって客観的には闘いが楽になってきた頃に、しばしば運動体が分裂しそうになるのも、この内部での被害の重さ比べとそれへの補償金による序列化の問題が関与しているように思う。

p.122〜
 子どもを目の前で亡くした親や、レイプにあった被害者は、しばしば「そこだけ時間が止まっている」「そこだけが凍りついている」と述べ、日常の生活を淡々とこなしている自分とは別に、その時間に留まりつづけている自分がいるという感覚をもつ。その時間に留まりつづけている自分は日頃は隠れていて、関連するなにかに触れなければ出てこない。
 けれども、些細なことが誘因となって、思いがけなくそのときの自分に引き戻されることがある。瞬間解凍される記憶や感覚。PTSDの再体験症状といわれるものだが、フラッシュバックが起きている最中は、すっかりそのときの自分に戻っており、そのときのアイデンティティが圧倒的なものとなっている。
 またそのときは、他者とも事件時の関係性に即した形でしか反応できない。レイプ被害直後に家族から自分の落ち度を責められたとしたら、引き戻されたときも家族は「自分を責める人」として圧倒的に迫ってくるだろう。

p.142〜
 ポジショナリティを問うとき、感情はついてまわる。被害者は被害者であることに屈辱感や恥を感じる。自分が悪いわけではないとわかっていても、みじめさはなかなかはがせないし、善意であっても傷口に触れられるのは痛い。
 もちろん、外から介入してくる者の「支援してあげている」という傲慢さや「かわいそうに」という憐憫の態度はその感情を逆なでするが、傲慢さや憐憫だけが原因ではない。何気ない一言に激しい反応が返ってくるとき、一触即発のような状態になるとき、まさにそこに傷が生のまま口を開けている。そこにこそ問題の核がある。それを「感情的な反発だ」「ルサンチマンだ」と矮小化すべきではない。それではさらなるおとしめを生み、問題の核から離れていくだけである。
 感情的な反応や反発を、程度の低いものとみなす必要はない。ものごとを深く感じ取り、ものごとを深く動かしていくのは感情である。激しい痛み、恐怖、羨望、嫉妬、怒り、憎しみ、不信感。直接の加害者に向けようがない分、それらは「やつあたり」的に<外斜面>に立つ支援者に向けられるかもしれない。支援者はそれを必ずしも自分に引きつけて受け取る必要はない。

p.179〜
 当事者と研究者の間の同一化幻想は必然的に破滅する。研究者は論文に何をどこまで書くのか、書いたものを当事者に送るべきなのか、送ってどういう反応を受けるのだろうかということに早晩悩まされることになる。「当事者と親しくなればなるほど、研究者として優秀であって、素晴らしいものが書ける」といった思いこみが、いかに甘いロマン主義だったのかに気づかされる。
 「当事者の視点」は「学問的中立」のもとに相対化・抽象化され、「当事者のため」という熱意は、学術的な「場」からの要求と齟齬をきたすか、パターナリスティックな専門家倫理に変容していく。


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 刑事裁判に対する法曹界の立場を突き詰めれば、「刑事裁判は被害者のためにやっているのではなく社会のためにやっているものだ」、「被害者感情が重視されて事実認定が疎かになるのは刑事裁判の自殺行為である」との結論に行き着くものと思います。その上で、精神医学についての詳しい知識もないまま、「犯罪被害者への心のケアを十分に行うべきである」といった主張が付け加えられるものと思います。

 宮地氏は、環状島のモデルはあくまでもメタファーであり、概念図、思考の補助線であることを繰り返し述べています。その上で、この環状島のモデルは法律論のモデルとは全く異なること、裁判のシステムが二次的被害をもたらさざるを得ないことを指摘しています。法曹界は、この精神医学から投げ返された問題を受け止め切れないものと思います。憲法を頂点とする法体系は概念ではなく実在であり、近代刑法の大原則は絶対的正義だからです。どんなに被害者の二次的被害が起きようとも、刑事被告人の証人審問権(憲法第37条第2項)は絶対に譲れないところだと思います。

 PTSDの再体験症状、フラッシュバック、それに基づくうつ病という一連の流れは、人間が作り上げた刑事裁判のシステムにより人為的に生み出される側面を持っています。従って、心のケアを必要とする原因を作っている側が「心のケアが必要である」と主張しているようなもどかしさを覚えます。憲法における「個人の人権」は、それを国民主権の名において正当化している点において、宮地氏の環状島のモデルと比べると、全体主義的な性質を免れないと思います。


http://terran108.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-0d30.html
「環状島=トラウマの地政学」
宮地尚子 2007/12 みすず書房 単行本 228p
Vol.3 No.0502★★★★★

1)宮地尚子「震災トラウマと復興ストレス」(2011/08) は、「3.11」後に書かれたものであり、テーマをそこに絞り込んでいる。その元本はこちらの「環状島=トラウマの地政学」(2007/12)である。

2)この「環状島」というモデルは、私自身のサバイバル・マップとして描かれはじめ、徐々に発展してきたものであり、現在もその機能を果たし続けている。私は、精神科医としてトラウマ被害の回復支援にあたってきた。p6「トラウマについて語ること」

3)実際に、ひとつひとつのケースに真正面から向かってきた人こそ、このような大局的かつ俯瞰的な視点が必要だったのだろうし、必然的に、この様な人にこそ見えてきた世界であろう。

4)繰り返すが、「環状島」というモデルは、私が自分の巻き込まれた状況を整理するために、そして混乱の中から思考を進めるためにつくりあげた、頭の中の概念図である。実在するわけではないし、完成したものでもない。つじつまが合わないことも多々あるだろう。p17「同上」

5)この環状島モデルには、風や重力、水位といった、重要なファクターも加えて考えてみなくてはいけない。ただ、私は3.11以降の自分の立ち位置を、この図式の中で、実にはっきりと明確することができた。今後も多いに役だつはずである。

6)本書でとりあつかうのは、トラウマについて語ることの可能性、そして語る者のポジショナリティの問題である。p3「同上」

37)私はこの図式をトラウマについてではなく、「エンライトメント」について転用することができないか、と考える。そして、それを、例えば、ケン・ウィルバーの「インテグラル・スピリチュアリティ」と比較してみると興味深い。

8)吉福 要するに物理化学の分野で、大統一理論というのが希求されているでしょう。その大統一理論を作ることによって、トランスパーソナルという学問分野を展開させて、単に心理学に留まらず、これまでのあらゆる人文科学やハードサイエンスも含めたところまでを統合していきたいというのが、ケン(・ウィルバー)の考えですね。そのケンの根っこにあって、彼のやった仕事の中で最も洞察が働いているのは、物質であれ、人間の心であれ、存在するものはすべて、いくつかの一貫性のある原理によって動かされているという考え方なんです。吉福伸逸「楽園瞑想 神話的時間を生き直す」p218

9)ここまでウィルバーの本を読み進めてきたかぎり、「インテグラル・スピリチュアリティ」は失敗作である。ないし、ウィルバーは、あれではついに表現しきれないものを表現しようとするというジレンマを最終的にも突破できないと思われる。

10)宮地のトラウマ環状島モデルを、あらたなるエンライトメント環状島モデルに作り変えることも可能なのではないだろうか。内海にすでに「行ってしまった」人達をおき、外海に無意識層を置く。そして、「尾根」の上には「菩薩」達を置く。

11)行ってしまった人たちに、言葉はない。あるいは言葉では表せないからこそ、「行ってしまった」と言われるのだ。これは、トラウマ環状島の爆心地からの声が聞けない、という図式に似ている。

12)Oshoがニーチェやカリール・ジブランを高く評価するのは、エンライトメント環状島モデルの「尾根」の上にいて、あえて、幻視の「エンライトメント円錐島」の頂上を語ろうとしているその姿に同調してのことだろう。

13)ウィルバーが、エンライトメント円錐島をあるものとして、最後の最後まで表面化させ、図式化できるものとして努力している限り、その試みは成功するはずがなく、また、全体の真理性が失われるのである。

14)「真上」「垂直」というメタファーは、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」における井戸を私に思い起こさせる。「ノモンハン事件」の後、中国大陸で深い涸れ井戸の底に放置され、何日も過ごす日本軍の注意。暗闇の中、一日一回わずかな時間だけ、太陽の光が井戸の底まで届く。真上に太陽が昇る、正午に近い時間。自分の存在が、自分の傷が、日のもとにさらけ出される瞬間。p160宮地尚子 「井戸の底」

15)トラウマ環状島モデルを、自分なりに作り替えるとすればどうなるのか、ということについて瞑想している時、私にもまた村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」のイメージが漂ってきた。

16)この小説を読み解くにあたって、あるいは村上春樹という作家をめぐって、さらにはそれらをとりまく読者や翻訳者やら評論家やら、あるいは私のような通りがかりの野次馬を含めたハルキワールドを読み解くあたって、「ルーツ&ウィング」という、たまたま思いついたスケールの目盛は、有効に役立ってくれそうな気がする。Bhavesh「ねじまき鳥クロニクル(第2部)予言する鳥編」

17)宮地は同一平面上にあって、爆心地がずれている「複数の環状島」モデルを語っているが、実は、爆心地を同一にしながら、立体的に二つ重なった「トラウマ---エンライトメント」複合環状島、ともいうべきモデルが存在しているのではないか。

18)トラウマの中心においては発声力は失われる。そしてまた、エンライトメントの中心においても表現されるものは失われている。そして、それぞれの尾根は一点に重なっており、そこにこそ、アートの限界がある、と言えるだろう。

19)ルーツ&ウィングが、当モデルの幻視である。宮地モデルは、ルーツに偏っている。ウィルバーはウィングに偏っている。この二つを組み合わせて一体化することこそが、当ブログにおける「3.11後を生きる」カテゴリである。







以下は研究会時のメモ(もういまとなっては自分でも意味不明の部分が多い
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環状島というメタファー
メタファーをどう使うか

ボランティアが支援をすること

医師・患者の上下関係、権力性

ジェンダーは避けて通っていたが、その後勉強して役に立った。

その後、性暴力被害者支援で呼ばれ
いつのまにか、ジェンダーとトラウマの専門家のように

いまでもトラウマの専門家と言われるのが苦手

ここ数年は依存症の人たちとの関係もある、

トラウマは平坦にいた人が急に穴に落ちたみたいに言われることが多いが、家庭環境問題とかで長い時間をかけて穴に落ちていく人も

環状島モデル
自分が研究者・支援者・臨床家として生きていく上で必要だった。

当初、難民キャンプにいた頃考えていたのは、平面的なドーナツ地帯というイメージ。
それを立体にして考えてみた。

爆心地で生き延びた人はいない。生き延びたのは周辺にいた人

円錐島と環状島
円錐島の場合は爆心地に近ければ近いほど、発言力が増すという話だが、そうはならない。


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『環状島=トラウマの地政学』メモ 2015/12/19 に明治学院の国際平和研主催の研究会で宮地尚子さんの『トラウマの語り〜「環状島」その後』というテーマでの話を聞く機会があって、前から気になっていた『環状島=トラウマの地政学』を、その研究会が終わってから読んだ。 ...続きを見る
今日、考えたこと
2016/02/07 10:11

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