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zoom RSS 311前に書いて311後に発表されたラトゥーシュの『経済成長なき社会発展は可能か?』書評

<<   作成日時 : 2016/02/28 10:57   >>

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『経済成長なき社会発展は可能か?』の書評ということになっている文章
http://www.peoples-plan.org/jp/modules/article/index.php?content_id=88
からPDFをDLできるんだけど、一応、テキストにしてみた(自分用に)。
〜〜〜〜〜〜
《特集》脱成長でいこう

書評 セルジュ・ラトゥーシュ著
 『経済成長なき社会発展は可能か?
     ─〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』

鶴田雅英

 社会運動が問われているのはこの本をしっかり理解するという以上に、ここで提起されているラディカルな変革を「まず受けとめてみる」ということじゃないか、そして、その先で「どう実現するのか」を考えたいとぼくは思う。これは根源的で過激だという意味で「ラディカル」。そして社会運動や左翼へのチャレンジでもある。
 
 「開発主義」とは何か
 
 「開発主義」という西欧近代からの脱却が前提となる。著者は開発/発展を以下のように説明する。
「発展」(デヴェロップメント)とは、物質や商品の生産である以上に、何よりもまず西洋のパラダイム……それが普及させようとするものを高く価値付け、それとは別のものを低く……これらの諸価値を規範に見せかけることで、発展はこれらの価値を他者に受け入れさせる。

 これが西洋(北)の支配を正当化し、植民地主義を成り立させてきた。そこからのパラダイム転換が必要だ。著者は各種の形容詞が付いた開発/発展や、形容詞のついていない発展概念に「新たな資格を与える」再登場を否定する。「『持続可能な(開発/発展)』とは……発展パラダイムが自らの断末魔の苦しみを無期限に延長することを許すもので」「『開発』『発展』という言葉は、それにどのような形容詞を纏わせようとも有害」という。しかし、この本のタイトルは『経済成長なき社会発展は可能か』。これには違和感が残った。説明では「例外として、社会関係の質的な成熟を表すl’epannouissement collective を意味する日本語として「社会発展」という語を適宜用いている」とのこと(ただ、この本が七刷まで出ている理由にこのタイトルが功を奏しているかも)。
 
めざすべき〈脱成長〉(デクロワサンス)とは?

 〈脱成長〉とは、「耐え難い不平等によって悪化する極貧生活に戻ることではなく、生きられた経験として現れる充足した生活を手に入れること」。つまり、共に生きることの喜び(コンヴィヴィアリティ)を至上の財産とする社会。開発主義を脱し、成長を求めない社会が「共に生きることの喜びを至上の財産とする社会」だという。そんな部分を抜きだされても「はぁ?」と思う人もいるかも。また理念としては理解できても、そのリアリティを感じることは難しいだろう。この本全体を読んだ今でさえ、〈脱成長〉社会がなんなのか、もうひとつリアリティをもって説明できない。でも同時に、この本を読んで〈脱成長〉は面白そうで未来はここにしかないとさえ感じる。その〈脱成長〉社会への変革とはどんな変革なのか。例えば以下。
国家による市場経済の制御/調整や贈与と連帯の論理による経済のハイブリット化といった、多少なりとも強力な治療薬の投与によって「悪い経済」を「良い経済」に置き換えること─つまり、経済成長や開発・発展を環境に優しいものにしたり、社会的なものにしたり、あるいは公平なものに塗り替えることで、悪い成長・悪い開発・悪い発展を、良い成長・良い開発・良い発展に置き換えること─ではなく、経済から抜け出すことである。

 連帯経済とのハイブリッドをも否定し、市場統制もゴールが成長や開発や発展ではだめで「経済から抜け出せ」という。著者はこれを「一般的には人々の理解をたやすく得るところではない」、なぜなら「この時代を生きる人々にとって、経済が一種の宗教であることを自覚するのは困難であるから」と書く。「経済を抜け出す」ことの中身が書いてあるのが本書で、なぜそれが必要か、〈脱成長〉社会とはどんな社会か、それをどう実現するかという主題が展開される。
 その変革が必要な理由は単純。経済社会の過剰成長が生物圏の限界にぶつかっているから。そんな中で残された選択肢は二つ。
 
 「〈脱成長〉か野蛮か?」
 
 しかし同時に、連帯経済をめざす取り組みなどの改良的な取り組みを著者が否定しているわけではない。このことを哲学的な言葉でも説明する。
〈脱成長〉社会の企てはすぐれて革命的である。法体系や生産関係の変革にとどまらず、文化の変革が起こる。しかし、政治的な企てに取り組む際、〈脱成長〉社会の実践は信念の倫理以上に責任の倫理にしたがう。政治は道徳ではないし、責任は悪の存在と妥協しなければならない。共通善の模索は善そのものの探求ではなく、むしろ悪を少なくしていく道の模索である。だがしかし、このような政治的な現実主義は平凡性に身を委ねることを意味するのではなく、悪の平凡性を共通善の地平の中に含めることを意味する。この点において、あらゆる政治は、急進的で革命的なものでさえも改良主義的なものにしかなりえない。

 そして、議会政治のための具体的な政策案も提示される。
 
1、地球と同等規模かそれ以下までエコロジカル・フットプリントを回復する
2、適切な環境税で、輸送によって生じるコストを含める
3、諸活動の再ローカリゼーション(人間と商品の天文学的な移動量を特に問題視する)
4、農民による農業の再生
5、失業が続く間は労働時間を削減し、雇用を創出
6、友情や知識など人間関係に基づく財の「生産」を推進
7、燃料の浪費の削減
8、広告支出を徹底して罰金化(まず、児童向けTV番組での宣伝の禁止、とくに児童の健康に有害な製品を)
9、科学技術のイノベーションにモラトリアムを(詳細なバランスシートを作成し、科学および技術の研究の方向性を再調整する)
10、お金の再領有化(貨幣の使用を徐々に調整し、銀行に独占されないようにする。具体的には貨幣のフローが当該地域に最大限停留すること。グローバルな金融市場を規制すること)

 そして、改良主義的な「諸政策がその究極の結論にいたるまで推進される場合、真なる革命が起こり、ほぼ全域にわたって〈脱成長〉社会のプログラムを実現することが可能になるであろう」と著者は書く。武者小路公秀さんが主張する「非改良主義的改良」にも近い。
 
「南」でも〈脱成長〉

 「南北がともに、持続可能性を手にするには、〈脱成長〉戦略しかない」という。北はもうGDPなんか増やすべきでないというのはわかる。しかし「南」もというのに、ぼくは留保してきたが、そうではなく、「西洋社会で暮らすわれわれが〈脱成長〉社会の道へ決定的に踏み出し、そして〈脱成長〉社会の『モデル』は望ましく規範的だと証明してこそ、われわれは最善の方法で、中国・ブラジル・インドの国民に……方向転換をするよう説得」できると著者は主張する。ともかく、南の社会でも経済成長を追うのではなく、「経済から抜け出す」こと。
 と、ここまで書いたところで、社会運動や左翼にとって、どのようにチャレンジなのか、具体的にどう実現に向かうのかをもう少し書く前に紙幅が尽きた。簡単に書いてしまえば、社会運動も左翼も成長や発展が好きで、経済から抜け出すなんてなかなか想像できないということ。そしてそこに向かう道はそんなに明確ではない。さらに、ラトゥーシュが書いていることは言い古された話じゃないかという批判も耳にする。そんなことはどうでもいいと思う。〈脱成長〉社会とは、人間が能力や出来ることで判断されるのではなく、すべての人が存在していること、それ自体が祝福されるような社会だ。
 
(つるた まさひで/ピープルズ・プラン研究所運営委員)

『経済成長なき社会発展は可能か?―〈脱成長〉と〈ポスト開発〉の経済学』
発行:作品社2010 年7月定価:2800 +税

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