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zoom RSS 「ズレてる支援!」メモ(前半・第一部)

<<   作成日時 : 2016/03/05 23:36   >>

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「ズレてる支援!」メモ(前半・第一部)


この本の版元の生活書院のHP
http://seikatsushoin.com/bk/145%20zureterusien.html
の以下の紹介は秀逸だと思った。
『良い支援?』刊行から7年。使わせてと訴えた「重度訪問介護」の対象拡大が実現する中、あらためて問われているものとは何か!
支援を使って、地域で自立した暮らしをしている人がいること。集団生活ではなく一対一の支援をモデルにすること……「支援」と「当事者」との間の圧倒的なズレに悩み惑いつつ、そのズレが照らし出す世界を必死に捉えようとする「身も蓋もない」支援の営みの今とこれから!

このページに目次もある。

「わからない、から始める」という読売新聞に掲載された渡辺一史による書評もいい。
http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/20151222-OYT8T50095.html

「まえがき」で寺本さんがこんなふうに書いている。
 何年もの時間が経ってから、私は誤解していたんだと気づくことがあります。およそ支援の営みは、そもそもズレているのだと。どこがどの程度ズレているのかは、しかし、その渦中にいるときにはなかなかわからないのかもしれません。
 意志決定支援などという言葉が使われ始めていますが、そんなことできるだろうか? どのように意思を尊重し、しかしそれだけによらないものをどう作っていけるのだろう。たくさんの物事をその都度より分けて考えていくしかないのですが、「意志決定」の「支援」ができるかのような言葉を軽々しく使うことをためらうのです。
 本書は、障害のある人を課題とするのではなく、「支援」の課題について書きます。まだ途上ですが、「わたしたちはこうしてきました、こう考えてきました、考えています。こういうことがわからない」ということをまとめました。=以下略=11p



細かい話だが、てんかんの話で「毎月発作が起こることもあります」(26p)とあるが、毎日とまではいかなくても毎週のように発作を起こしていた人を知ってる。

43pの選挙に関しての支援の話も興味深い。結論はないけど。

そして、1章の結語として寺本さんは以下のように書く。
 生活の主体は本人です。その日に何が必要か、何をするのかはまずは本人が決めることです。しかし本人がそこを十分にできずに支援者に委ねる部分が増えれば、支援者の中でだけ申し送りが回り、支援者の決めたスケジュールに当事者がただ乗っているだけになる危険性も出てきます。往々にしてそうなりやすいし、でも生活のある部分は支援者が暮らしのベースを作っていかないと暮らしが続かない場合もあります。50p

〜〜〜
前書きにある「わたしたちはこうしてきました、こう考えてきました、考えています。こういうことがわからない」というのがそのままでてるような文章だなぁと思った。


岩橋さんの4章「ズレてる支援/おりあう支援」から

自閉症の人に何度も何度も同じ話を聞かされることに耐えられなくて、毎回繰り返される話を別の話として聞くように心がけ、よく来てみると、同じ話だが、別の時の話だったりすることを発見したと岩橋さんは書く。93-94p
 「問題」が解決されなければ、現実に地域から奪われ、日常の場においての関係が閉ざされてしまうこともあります。ですから、「問題を解決する」ことが重要な支援であったりします。
 しかし、「もしかしたら当事者たちが描く世界と私たちが描く世界とがズレているから問題となる」と意識してみるとどうでしょうか。彼らのありのままを認めるというのでもなく、私たちの世界からのみ判断するものでもなく、「ズレ」は双方の関係があって発生するものであり、ズレているから問題が起きる。そして、ズレているにもかかわらず相手に問題の全てを被せている。
 「問題が起きる時にはズレている」と立てれば、「まずは何がズレているのかを考える」ことになります。ズレを修正するために、当事者との様々な関わりを試してみる。他の支援者が当事者と関わる様子をヒントにしてみる。目の前で起こっている事柄の以前や以後に関心を寄せ、どこがズレの始まりかを検証する
。そんなことを日々想い描いていると、ふと何かに気づく機会も生まれるように思います。110-111p

ここが岩橋さんが書きたかったことの核心部分に近接した部分だと思った。こんな風に書かれると、こんな風にやってみたいと思う。できるかどうかは別として、ここはチャレンジに値する話のはずだ。       
そして、このように書いた後に岩橋さんは「(表面的な問題は起きていなくても)うまくいっている=ズレていないということではないと、意識する必要があると思います」(114p)と書く。

さらに岩橋さんは「強度行動障害」について以下のように書く。
「強度行動障害」と称される人たちの困難さは、「行動障害」がある日突然現れることにあるのではなく、その手前の手前のずっと手前で、ズレに気づかないまま、うまくいっていれば放置し、ちょっとした不具合はこちらの解釈で解決し、本人にとっては何も解決されていないという経験が積もり、満を持して行動に移した事が「行動障害」とされてしまう、そんな側面はないかと思ったりもします。122p



この岩橋さんの第4章の3節のタイトルは
「そもそも世界がズレている」事を前提にする 124p
ここで以下のように書かれている。
 「支援」と「指導」は違います。私は日頃より「支援」しているのであって「指導」したいとは毛頭思いません。
  しかし、当事者が描く世界とのズレに気づかないままに担っていては、たとえ私の側が「指導ではなく支援」と言っても、当事者にとっては「指導」「抑制」でしかないと思います。125p
ぼくも「指導ではなく支援」と思うのだけど、常にこのことに意識的でなければ知らず知らずのうちに「指導」的になったりする。

そして、当事者と支援者の世界観は地球と火星ほどの違いがあるように思う、と岩橋さんは書く。岩橋さんらしいなぁと思うのだけど、その違いはスペクトラムとして考えられるとすれば、この言い方はどうだろうと思う。もちろん、勘違いが横行している中でこんな風に言いたい気持ちもわかるが。

そして支援とは両者のズレの間に立ち、橋渡しするものだ、と書かれている。

そして、ズレに気づけば、なんということもなく進んでいくこともあるけれども、新たな展開の中で再びズレは生じ、・・・そんなくり返しだとして、そうであるなら、私たちと当事者のあいだには「常にズレが生じている」と立てる方が気持ちが楽になる、とあるのだが、ズレに気づき、修正することを求めつつ、それでもズレているという自覚を持つというのはそんなに簡単なことではないようにも思う。


そこから、「大切なのは、ズレをいかに意識化し、互いに異なる世界観をもってどうおりあうか」だと岩橋さんは書く(127p)。どこまでいっても明確な基準やマニュアルはない、ということかもしれないと思う。


136pの以下もメモしたくなった部分
 「障害の有無にかかわらずだれでもがあたりまえに地域ですごす」という時の「あたりまえ」や「みんな違ってみんないい」というときの「違い」を否定する人は少ないと思います。
 しかし、「あたりまえ」が「社会の常識」に当事者をあてはめる。「違ってもいい」けれど「周囲の許容範囲を超えない」という条件を基にした支援の側の勝手な「解釈」による「対応」になっている。その辺りを意識する必要があるように思います。136p

「あたりまえ」って怪しい部分もあると、依然、三井さんが支援1に「たこの木」についても書いてた文章の感想に書いたことがある。
http://tu-ta.at.webry.info/201106/article_14.html

それはともかく、そのすぐあとに岩橋さんは、常日頃当事者と向き合う中で意識していることが3つあるとして紹介している。
1、「当事者を意識する」(「当事者の世界」とは何か)
2、「私自身を意識する」(自分の価値観に意識的になる)
3、「相手と私の関係」を意識する(「当事者の勝手を認めない」「支援者は当事者の勝手に付き合う」だけではだめ)

 
日本語での敬語の使い方や相手の呼び方は「当事者を意識し」「私自身を意識し」「相手と私の関係」を意識化することに最適だと岩橋さんは書く。136-139p


さらに「ホウ」と思ったのは以下
「研究者はわからないものを明らかにする事が役割なのでしょうが、日常生活を支援しするものは、わからなさに付き合うことが求められていると思います。なぜならわからない事だらけの日常だからです。また、わかってから動いては間に合わないことがたくさんあります」



第5章 支援は常にズレている 末永弘

末永さんは冒頭に「当事者が必要としていることに対して、支援はそもそもズレている」というタイトルの節をもってきて、10の必要に対して、1とか2ぐらいしか支援が噛み合っていないと書く。物質的・物理的現状の不足に対しては、それなりに必要にあった支援が提供できるが、精神的な意味で支援が必要としている場合、その人に対する支援は大きくズレてしまうとして、それは本人からの求めが大きいからなのだが、それに伴って支援の範囲を広げ、人の生活の全体を覆うようになれば失敗の危険が高まる、という。156-157p

就労支援は物理的支援と精神的支援が複雑に絡み合ったところにあるなぁと思った。

「失敗の危険が高まる」という部分に末永さんは注をつけて、鈴木啓嗣という児童精神科医の『子どものための小さな援助論』という本を援用している(180p)。そこからメモ。
「パワーのある援助はパワーの強い分だけ悪影響も強くなると考えられるだろう。つつましさを忘れた援助の隆盛は、純粋な援助者の思いとはうらはらに、痛々しい結果を引き起こすのではないか。無自覚な援助の肯定は、その危険に気づかないままに理不尽な援助を増幅させてしまうのではないか。このような懸念が、「この『小さな援助論』を展開する出発点である。」
ま、いずれにしても「無自覚な援助の肯定は、その危険に気づかないままに理不尽な援助を増幅させてしまう」のは間違いないなぁ。で、この援助論は国際援助でも同じだ。


この章の3節のタイトルは「介助者が自分の固有名を取り戻すために」162p〜
で、この説では自分を出さずに介助をしてうまくいかない話が紹介されるのだが、節の最後の方では自分を出しすぎてうまくいかない例も紹介され、「自分を出しすぎず、出さなすぎず、相手に合わせるバランスが大事」とかいう話で、結局介護は難しいという身も蓋もないはなしに(涙)と、閉じられる(笑)

4節と5節は別のタイトルが付けられているのだが、話の中心は「触法系」の話だ。要約すると、本人がクレジットカードで買い物をしすぎるので、管理することにして、支援の人の介入で友人からもお金を借りることができないようにしたところ、盗んでしまったという話だ。ぼくが支援者でも友人から借りているという話を聞いたら、その友人に頼んで、貸さないようにしてもらうだろうと思った。この話から4節のタイトルは「追いつめる支援?」となっている。その彼が実は繰り返し盗みを行っていたという話が5節で、支援の中で、警察に届けるのかどうかで意見が分かれ、最初は届けずに自分たちの支援でなんとかしようという話になるのだが、これがその後も繰り返されて、ちゃんと警察に捕まえてもらおうという話になったとのこと。

170pには刑務所という最強の入所施設の話が紹介されるが、ここに入ることに効果がある人もいるのか、というのが正直な感想。ま、なかにはそういう人もいるのかもしれないが。少くとも、今の刑務所やその後の支援の体制がもっと真剣に考えられるべきだし、そのことで再犯して再度の獄入りなどというケースは大幅に減るんじゃないかと思うのだけど、どうなのだろう。

6節は「グループホームをどう考えるか」174p
グッドライフでは2002年に代表の石田さんの小さな施設を作るのかという反対を押し切ってGHを作った。その理由は
1、施設や親元から出てとりあえず地域で介護者を入れる生活をして
2、そこから自立生活につなげていくという目標
を立てたから。

しかし、この12年で、現在25名の利用者がいて、地域生活に移行できた人はわずかに3名だけ、とのこと。そこで介護者が施設職員化するという大きなマイナスがあったとのこと。
具体的には、
・介護者が利用者の上に立って指導的な視線や言葉遣いになること
・本人の希望よりも親の意向(安全志向・お金の使いすぎ問題)を優先してしまうこと
・希望に沿った「見守り」ではなく、問題行動を起こさせない「見張り」が介護者の役割だと勘違いしてしまうこと

また、GHから自立への流れが作れなかった原因として
1、利用者本人の生活力不足
(これを1番にもってくるのはどうなのだろう?)
2、親を説得することの難しさ
3、介護制度の不十分さ
4、介護者やコーディネータの力不足
としている。
社会モデルで考えると、1は4の問題と言えるのではないか?

で、この節の結語として末永さんが書くのは、こんなにGHが広がる中で、「私たちがGHをやっていく意味といえば」として、あくまで一人暮らしに向けた数年程度の通過の場所であり、その暮らしがあわなければ、GHに戻ればいい、という風に問題を立てる。その前提があるかないかで、GHでの日々の介護は全く違う形になるとのこと。

大田区ではこのGHもほとんど増えず、重度の知的の人の自立生活に関してはたった1例、という状況で、せめてGHがあれば、と思うことが多いのだけど、この視点は大事だと思った。

7節(176p〜)は『親と支援者のズレ』
自立生活の最大の敵は親だと以前は真剣に考えていたと書く末永さん。いまは考え方が変わったというのが驚きだった。しかし、入所施設には入れたくないという親が若くなるほど増えているとのこと。とはいうものの、母親の考える自立生活のイメージと本人のイメージに沿った自由な生活を一緒に作りたいと考える介護者のズレはとても大きい。
「しかし、いくつかの理由から今では、親こそが最大の支援者だと考えるようになりました」とさらに衝撃の告白(笑)。冗談はともかく、このあとに、末永さんが最大の敵から最大の支援者と思うようになったという振幅はどうなのだろう。彼が何故、そう思うようになったかということも若干書かれているけれども説得力が強いとは思えない。同時に「今でも最終的に譲れない一線」というのも書かれている。それらを勘案すると、ぼくが思うにいまでも最大の敵であり、最大の支援者であるという極端に両儀的な存在だということが可能なのではないか。

とは言うののの、末永さんはここでもきっちり「生きていく上でとても大事なことは親が決定しないでほしい」(179p)と書いていて、親がそこを手放すのはかなり難しいんじゃないかと思うのだけど、どうなのだろう?

第1部のメモ、ここまで
〜〜〜〜〜








上記の渡辺一史さんによる書評。
なくならないようにコピペして保存
〜〜〜〜

わからない、から始める

 重度の知的障害や自閉症がある人たちは、一般に「意思能力が不十分」とされ、施設や親元ではなく地域で自立して生活するのはきわめて困難であると思われがちだ。けれども本書には、そんな彼らと介護者が日々さまざまな場面を通して、共同で意思決定を積み重ねることにより、それなりに地域で自立して「自分の生活」「自分の人生」を穏やかに生きられるという実践が記されている。

 知的障害をもつ人たちは、彼らなりの世界を持ちつつ生きている。しかし、ことに強い行動障害などがある場合、それらは「問題行動」とみなされ、当事者にのみ問題をかぶせるのが私たちの社会の常である。本書の一番の読みどころは、著者らもまた、そんな彼らの世界を完全には理解しきれない――「ズレているかもしれない」というリアルな認識に立ちながらも、どうにか「おりあい」を見出そうと模索し続けるところにある。もっというと、「およそ支援の営みは、そもそもズレている」と著者らは二重にも三重にも留保を重ねる。こうした姿勢は、支援の現場のみならず、教育や人間関係一般にも通底する深みがあり、心打たれる。

 昨年度より制度が変わり、長時間の見守り支援を含めた「重度訪問介護」という介護制度が、従来の全身性身体障害から知的障害などへ対象範囲が拡大された。実際どう変わったのか。本書は制度活用のノウハウを必要とする切実な読者にとって懇切な解説書という役割をもつ。しかしそうでない人にとっても本書は大きな意味をもつだろう。

 社会全体が当たり前に能力主義で覆われ、「ああすれば、こうなる」という結論が性急に求められがちな今の時代にあって、本書は、声高に何かを主張するような本ではない。むしろ、何が正解なのかは本当にわからないという地点に謙虚に立ち、巨大な問いかけを発するような本でもある。こうした実践をまず正直に言葉にしてみることにこそ意義があると思える重要な本である。

 ◇てらもと・あきひさ◇おかべ・こうすけ◇すえなが・ひろし◇いわはし・せいじ=4氏とも障害者自立支援に携わる。

 生活書院 2300円



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