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zoom RSS 「ウェーバー支配の社会学」(有斐閣1979年)メモ

<<   作成日時 : 2016/05/11 07:31   >>

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「ウェーバー支配の社会学」メモ

ちょっと調べ物で借りた本。1979年とかあり古い本。
適当に広い読み。
「支配の社会学」はそれが含まれている「経済と社会」が量的に膨大であるため、あたかも独立した理論であるように扱われることが多かったが、あくまで「経済と社会」の一部であり、未完。(「はしがき」から)

シュタムラーの「経済と法」における法が経済を規定し制約するとして「唯物史観」を批判したことへの再批判。ウェーバーは
「現代的な形での経済秩序はきわめて特殊な性質を持った法秩序がなければ実現されない」とはいえ、「人間の経済的行為への影響の可能性の度合は、法強制に対する一般的服従心の単純な函数ではない」と実証的に反論。法の事実上の力が、経済に対してどの程度まで影響を与えるかは、一般的には断定することができず、個々の具体的なケースに即して明らかにされるべき」
と主張。つまり、唯物史観を批判したシュタムラーへの反論だが、彼がシュユタムラーを批判した刃は、唯物史観に対しても向けられている。38ー39p

唯物史観は上部構造に相対的自律性を認めるけれども、究極的には下部構造のみが固有法則性も持っていると説く。ウェーバーは経済をその特権的地位から引きずりおろして、政治、法、宗教などの上部構造と同じ次元に置き、それぞれの生活領域が固有法則性を持つものとみなす。40p

(このあたりにウェーバーとポランニーを結びつけるモノがありそう)

彼は歴史の発展過程を「合理化と利益社会化の過程」として把握。「この過程があらゆる共同体行為の中にますます広がってゆくことを、発展の最も基本的な推進力として、あらゆる領域にわたって追究すること」を彼の社会学の課題としている。40p
(このあたりはいろんな説があるかもしれないが、たぶんオーソドックスなウェーバー理解なのだと思う)

家共同体の解体の二つのコース。
1、家共同体の内部から資本主義的経営が生まれ、家と経営が法的にも会計的にも分離するというコース
2、家共同体が内部的に分化して、首長の需要の組織化された実物充足という目的を持った大家計であるオイコスとなるコース。

この二つのコースは、支配の社会学」において重要な意味を持つ。44ー45p

「支配の社会学」の主題は
経済と人間共同体の一般的構造形式の発展携帯としての支配のさまざまな関係が、経済制約的そして経済関係的な相において論じられる。両者の間の規則的因果関係を示す一般的命題は、「一般的であるがゆえに、不可避的に具体性に乏しく、時として必然的にいくらか不明瞭に定式化される命題」であると言いながらも、多くの具体的な例をあげて、両者の規則的な関係を詳細に追究している。しかし、ここで問題にされるのは、たんにこのような関係だけでなく、もっと包括的で豊かな内容を持つ。たとえば、支配の構造が教育や生活態度に及ぼす影響などが考慮されている。62ー63p

政治的支配と経済的支配
この二つが両極的に対立する支配の二つの類型。63p
利益は服従するということの不可欠の動機であるが、しかし、政治的支配が経済的支配のうちに解消されるものではなく、両者はそれぞれの自律性を持つ。64p

以下は経済的支配ではなく、政治的支配についての記述

支配なき社会
直接民主制は人間の人間に対する支配を極小化した構成体だが、ウェーバーにとってこれは類型学的に極限的なケースにすぎず、人々が余暇をもたなくなればなるほど、社会的分化が進んでいる場合には、名望家の支配に移行していく傾向がある。64p
それは一定のきわめて限られた社会的条件においてのみ可能だとされ、かくも(直接)民主主義は面倒だという話ではあるが、そうらならないギリギリのバランスを求めていく必要があるし、その可能性は捨てる必要なないのだと思う。

支配を正当化する3つの類型
1、非人格的で合理的規則にもとづく「合理的支配」
2、伝統の神聖さにもとづく「伝統的支配」
3、個人の非日常的資質にもとづく「カリスマ的支配」

ウェーバーは記述を「合法的支配」の純粋型である官僚制支配から、それを基準に展開する。

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ここから大きく飛ばす。

ウェーバーの以下の共産党宣言批判はとてもわかりやすい。

つまり、プロレタリア独裁以降の社会について、マルクスは何も語っていないという話だ。
そのとき、経済がどのように組織されるのか。生産手段の私有にとってかわって、資本家を完全に排除する統制が現れるかもしれないような経済が組織されるとしたら、この新しい経済を組織するのは誰なのか、そのようなことをマルクスは一切語らないという批判だ。162p

マルクスだけでなく、その批判はサンジカリストにも向けられ、工場をゼネストで占拠し、資本家を追い出しても、そのあと、経営ができるものがいないのではないか、いたとしたら、その指示に従えるのか、という批判だ。163-164p

その問題意識が「社会主義」と名乗った官僚の問題でもあり、この章の筆者は「その後のスターリン主義の歴史のあゆみの中で立証されることになる」と書いている。165p

203pに記載されるのが、名望家政党から大衆政党への転換。日本の政党もは戦後70年かけて、その転換を余儀なくされてきたと言えるような気もする。

そして、名望家に聴従しなければならなかった政治家は大衆に呼びかけることが必要となる。大衆民主制とウェーバーは呼ぶらしい。ここに感じるのは民主主義への決定的なペシミズム。大衆に呼びかけることが必要になってくると「指導者に不可欠な資質は、すべての政治家にとって決定的な意思についでは、何よりもデマゴギーの力である」(206-207p)と書かれている(この前半の「すべての政治家にとって決定的な意思についでは」というのが意味不明なのだが、とりあえず飛ばす)。それに続けて、この(デマゴギーの)弁舌は、かつてのように理性に訴えたり、あるいは「事実をして語らしめる」といった時代をすぎて、現代では大衆の感情に訴える」という。なぜなら、『大衆』そのものは、『ただ明後日までしか考えない』からであり、それというのも彼らはあらゆる経験が示すように、純粋に感情的かつ非合理的な現実的影響力にさらされているからである」。こうして誕生するのは「大衆の情緒の利用にもとづく『独裁』にほかならない」207p

 ここでは、この「純粋に感情的かつ非合理的な現実的影響力」とは何かが記載されていない。しかし、うんざりするような大衆蔑視と民主主義への嘲笑なのだが、安倍政権のもとでこれがすごく説得力を持ってしまうのが悲しい話だ。

 とは書きつつも、議会制民主主義をまったく否定しているわけでもなく、以下のようにも書かれている。
「強力な議会は大規模国家にとっては、国民投票が行われるばあいも余計なものとはならない。官僚統制と行政公開の機関として、不適当な指導的官僚の排除の手段として、予算確定の場として、さらには政党間の妥協を行う手段として、議会は選挙民主制のもとでも不可欠である」。しかもそれのみでなく、ウェーバーは大衆社会における民主主義の唯一の可能性を議会に認める。209p


この直後に「▼大衆国家の政治指導」という節があり、冒頭で以下のように記載される。
 すでにみたように、政党が国民の自由な意思にもとづくかぎり、政治は必然的に政治に積極的な関心を持つ能動的な少数者の経営とならざるをえない。したがって「政治に『受動的な』大衆がそのなかから指導者を生み出すのではなく、政治指導者が従者を勧誘し、かつ『デモゴギー』によって大衆を獲得する」。これが大衆民主制下における事態の本質であり、デマゴギー的能力は大衆国家の指導者にとっては不可欠となっており、「民主主義とデマゴギーは平行する。209-210p


この「平行」がどのようなものであるか、あるいはここで記載される民主主義とはどのようなものであるかは、ここでは記載されていない。

で、結局、
「大衆民主制は、その進行とともに、真に国家指導者にふさわしい指導者の出現を困難とする状況をつくりつつある」
。だからこそ、ふさわしい指導者を国家の頂点に位置づける「指導者民主主義」の実現が必要という主張なのだが、これは民主主義へのペシミズム以外の何者でもないように感じてしまう。そもそも「指導者民主主義」ってなんだよ、と思う。それって民主主義じゃないんじゃないか?

ここに続いて、「指導者民主主義」を説明する節が置かれている(211p)のだが、ここにも説得力は感じられない。正しい指導的な立場にある人がいる必要は誰もが感じるところなのだが、それがどのようい可能になるのか、そのことと民主主義がどのように整合するのかは、ここを読んだだけではわからない。

そして、ウェーバーもどのようにこの「指導者民主主義」を維持するかという答えを出していない、と書かれる。212p

著者は日本を例に出し、戦後の歴代内閣の総理と閣僚における官僚出身者の優位をみるにつけても、われわれはウェーバーのいう「政治指導者」を知らないまでに、「官僚支配」にならされているのではないかとさえ思われる、と書く。214p

悩むのは「大衆が感情的で情緒的で非合理的なものだ」というのが、かなり説得力を持つという事実だ。この間の一貫した選挙結果はそれを示していると言えるかも。これを蔑視と呼んでいいのかどうか正直わからない。安倍首相がさまざまな場面でデマゴギーを連発し、ひどい経済政策で大企業だけに利益をもたらし、トリクルダウンなどなくても、半分の人はこの政権を支持しているという調査結果がでているわけだ。彼が弁舌爽やかに理性の欠片もなく、この国家を戦争できる国に作り直そうとしているにもかかわらずだ。

しかし、ぼくとしては、「大衆が感情的で情緒的で非合理的なものだ」としても、ぼくもその大衆の一人なのだし、そこがいつか真実に気づくときがあるはずだという前提に立ちたいと思う。道のりは確かに遠いし、現実は以前にもまして、ますますウェーバーの指摘通りにデマゴギーが闊歩している。

この本の著者が結語近くで主張しているのは、首相公選制というような指導者民主主義への国民の参加ではなく、官僚的な中央集権制度の徹底的な分権化で政治を身近のものにして、そこへの参加によって、政治的無関心を克服し、政治を国民のものにするという方向性だ(217-218p)。こでもウェーバーの主張とは遠いような気もするが、こっちのほうが希望はもてる。ただ、現状ではこの希望に根拠を持たせることが残念ながら困難ではある。これらの希望にどのように根拠をもたらすことができるのか、というのが課題でもある。

この本の著者の結語は
「ウェーバーの現代国家に関する認識を、大衆と民主化の視座からの新たな現実に立脚した認識によって補うことであり、それがウェーバーの「国家社会学」にみられるペシミズムからの脱出の方向だろう」
という話だ。





支配の3類型については、以下の説明が比較的わかりやすかった。
http://blog.livedoor.jp/blog_de_blog/archives/51526641.html から
支配の3類型というものがある。マックス・ヴェーバーによると、支配(国家権力)の正統性の根拠には3つの分類(純粋な型)があるという(マックス・ヴェーバー「支配の社会学」(世良晃志郎訳、創文社))。

・合法的支配:制定規則による合法的支配。形式的に正しい手続きで定められた制定規則によって、任意の法を創造し、変更しうるという観念による。最も純粋な型は、官僚制的支配。継続的な仕事は、主として官僚制的な力によって行われるが、最高権力者は、君主(世襲カリスマ的支配)であるか、国民によって選ばれた大統領(カリスマ的ヘル(主人))であるか、議会団体によって選挙されるかである。

・伝統的支配:昔から存在する秩序と支配権力の神聖性、を信じる信念に基づく。最も純粋な型は家父長制的な支配。命令者の型は「主人」であり、服従者は「臣民」であり、行政幹部は「しもべ」である。

・カリスマ的支配:支配者の人(パーソン)と、この人のもつ天与の資質(カリスマ)、とりわけ呪術的能力・啓示や英雄性・精神や弁舌の力、とに対する情緒的帰依によって成立する。永遠に新たなるもの・非日常的なるもの・未曾有なるものと、これらのものによって情緒的に魅了されることが、この場合、個人的帰依の源泉なのである。最も純粋な型は、預言者・軍事的英雄・偉大なデマゴーグの支配である。専ら純粋に指導者個人に対して、彼の個人的・非日常的資質の故に、服従が捧げられるのであって、彼の制定法上の地位や伝統的な権威に基づいて服従が行われるのではない。

 簡単に言うと、
・合法的支配とは、正当な手続きにより定められた法律により支配や権威の正統性が担保されるとするもの。
・伝統的支配とは、昔からある伝統や風習、家柄、身分によって支配や権威の正統性が担保されるとするもの。
・カリスマ的支配とは、個人的資質(パーソナリティ)により大多数の大衆の心を捉え、大衆的帰依による圧倒的な支持と賛同を集めたカリスマ的為政者によって支配や権威の正統性を担保するものである。

以下、略



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