今日、考えたこと

アクセスカウンタ

zoom RSS 弱さは宝物か? 2016ラルシュリトリートで考えたこと

<<   作成日時 : 2016/10/10 21:14   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

かなの家のみなさん
ボランティアのみなさん

かなの家から、ぼくは買えなかった高級なせっけんが送られてきました。ありがとうございます。大事に使わせてもらいます。でも、そんなに気を使ってもらわなくても、もっと大事なものをリトリートでいっぱいもらってますから。

さて、
今年も素敵なリトリートだったと思います。
ありがとうございました。

感想を書き始めたら、やたら長くなってしまいました。(引用が多いんですが)


ボランティアとして、いつからリトリートに係り始めたか、すっかり忘れていて、
自分で記録を探したら、2006年だったみたいです。
(記録は http://tu-ta.at.webry.info/200609/article_10.html )
服部さんの講話のことが記録してありました。

もう、そこから11回目だったのですね。

2007年の記録も出てきました。
http://tu-ta.at.webry.info/200709/article_22.html
この頃はぼくもまめに記録をとっていました。
それはリトリートの過ごし方としては、あまり正しくないのかもしれませんね。

この2007年の記録には特定の宗教を信仰していないものとして、みたいなことも書いていました。
そう、植松さんはここから「光の祭り」を企画してくれたのでしょうか? 
(いまはぼくにとっての配慮の必要性はほとんど感じないのだけど、もし、ぼく以外の非クリスチャンが来ることがわかっていたら、考えた方がいいことはいまでもあるかもしれません。)


2010年の記録は以下
http://tu-ta.at.webry.info/201010/article_5.html
この年は自分の物語を語ったのでした。

その後は、こんな記録は残していませんでした。


そして、今年、考えていたのは「弱さという宝物」について

以下はリトリート中に書き残したメモに加筆訂正したものです。
〜〜〜〜
よわさはたからものか?

「よわさというたからもの」というタイトルのリトリートに参加していた、というかタイトルを決めたミーティングにも参加していて、リトリートにもスタッフとして参加していたのだけれども、よわさはほんとうにたからものなのだろうか、たからものだとしたら、どういう意味でそれがたからものになるのか考えた。

まず、弱さとは何か
小さく、弱くさせるものがいるということ。


キリストに共感するのは彼がの傷つけられた人たちを傷つけたもの、小さくさせているものへ、激しい怒りを抱き、それを隠そうとしなかったこと。
「弱い」とされているものの多くは、彼女や彼がはじめから弱いという以上にさまざまな暴力によって、弱くさせられている。
直接的な暴力もあれば、構造的な暴力もある。その暴力に対して、正当に怒り、それを排除することは必要なことだと思う。

しかし、弱くさせられているものへ直接的な暴力をふるう彼や彼女自身が、社会的に排除されていたりする。

「よわさというたからもの」とは何か、というときにそんなことを考えた。

さまざまな暴力によって隠されている、弱いとされている彼や彼女のいのちの輝きがある。その輝きにハッとさせられることがある。それを「よわさというたからもの」と呼ぶことができるかもしれない。

しかし、弱くさせられたり、小さくさせられている人たちは、自らそれを望んでいるわけではない。
弱くさせられていることは、苦しみを伴うことが多い。

弱くさせられている部分はあるが、実際に弱い部分もある。それは「弱いままでいいじゃないか」という風にも考えられる。

そんな風に考えていくと、「弱さ」や「小ささ」は、そんなに単純な話ではないと思う。

彼や彼女の多くが、「ありのままで、そのまま気持ちよく生きていける環境があればいいとも思う。

〜〜ここまでがリトリート中のメモ〜〜
以下、今夜追記

しかし、同時に彼や彼女の中にも、今の自分はいやだ、違う自分でありたい、という思いもあるかもしれない。

ありのままの自分でしかないのだけれども、じゃあ、ありのままの自分はどこにいるのか。***という風に変わりたいと感じている自分もまた、ありのままの自分ではないのか。

というわけで、「ありのままの自分」という話もまた、そんなに単純ではないような気がしてきた。

そう、弱さは宝物か、という話だった。


そういえば、『釜ヶ崎と福音』で本田神父が弱さのことを書いていたことを思い出しました。
ぼくに上に書いたようなことを喚起させてくれたのは本田神父だったかもしれません。

以下にぼくの読書メモがあったので、読み返してみました。
http://tu-ta.at.webry.info/201509/article_2.html

http://tu-ta.at.webry.info/201509/article_3.html

一部、抜粋・引用して、


〜〜以下、引用〜〜

聖書に書いてあったのは「力は弱さの中にあってこそ十分に発揮される」(34p)(文庫36p)ということ。

また、以下のようにも書かれている。
 神の力、人を生かす力とは、こちらが元気だから、元気を分けてあげられるというようなものではない。人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒り、それがわかる人だからこそ、人を励ますことができる。「よし、もう少し頑張ってみよう」という力を、いつのまにかその人の内に引き起こさせる。聖書に書いてあるのはそういうことだったのです。34p


そして、大胆にも聖書を以下のように一言で要約する。
ひとことで要約すれば、力は弱さの中にあってこそ十分に発揮される、と書いてある。つまり、貧しく小さくされた人たちのいつわらざる願いを真剣に受け止め、その願いの実現に協力を惜しまないときに、人は共に救いを得、解放していただける。それが神様の力・・・」(文庫37p)

大事なのは、どのくらい自分がその人の痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りにひびき合えるか、共感共有できるか、それにかかっている…。


そして、本田神父は6年働いた管区長をやめてから釜ヶ崎に住み、1、2、3年と経て
ほんとうの意味での元気やいのちのわくわく感を伝えるのは、小さくされている人の方から、そうでない人に向けてであることに気づく。38p(文庫41p)

多様性を認めつつ、一致や平和を成り立たせるための秘訣は、いちばん小さくされている部分を最優先させること
と書かれていて(94ー95p)、そのあたりは福音とかいうものに近接しているのかと思う。


この本田神学がエンパワメントの神学だなぁと思うのはこんなところだ。
「地の塩・世の光」という節では、
その人が小さくさせられているがゆえにとぎすまされた感性を持っており、本物と偽物を見分ける洞察のするどさを持っていること、それが地の塩であり、塩味なのだ、逆にそのようにみわける力がなければ、さらに放り出されて、踏みつけられてしまうからだ
とマタイ伝5章13節を解釈する。112-113p

そんな風に社会の底辺に置かれ、周辺に押しやられている人たちはみんなそうで、寄せ場に来ざるをえなかった労働者も、感性がキラキラ輝いているのだけれど、その価値観は世間の価値観とは違うので、自分でそれを押さえ込んでしまい、塩味を失わせてしまうことが多い、と。113p

その押さえ込んでいるフタに自分で気づき、それを外していくプロセスをエンパワメントと呼んでもいいのではないか、本田さんはエンパワメントのエの字も書いていないのだけど。

これは寄せ場の労働者だけではなく、障害者として小さくされている人にもつながる話だろう。


しかし、ここを障害者に置き換えると、明確に見えてくるのだけれども、この本田神学、パターナリズムに陥りやすい危険も抱えている。
おそらく、本田さんはそのことにも気づいていて、「小さくされた人たちを「美化」してはいけない、と明確に書かれている。240p

「真の連帯のための4つのステップ」の4つめだ。
1、痛みの共感から救援活動へ
2、救援活動の行き詰まりから構造悪の認識へ――怒りの体験
3、社会的・政治的行動へ――構造悪と闘う貧しい人たちの力
4、単純な「弱者賛美」から真の連帯へ
彼は非現実的な間違った「弱者賛美」に引き込まれてしまう危険を戒める。

差別され抑圧される側にいる人ならだれでも、そのやること、語ることはすべて正しいと思いたがる傾向がある人として、宗教やイデオロギーの信条で動く人たちがいる。
このような間違った「弱者賛美」は、じつは貧しく小さくされた人たちに対する「差別の裏返し」であり、わたしたちの連帯と支援を空洞化させる。


・・・。貧しく小さくされた人たちもわたしたち同様に、ときにはわたしたち以上に、利己的で、協調性に乏しく、融通がきかず、献身的とはいえず、無駄遣いもし、約束を守らないこともある……。また、中には、わたしたち以上に中流志向が強く、政治的な働きかけに無関心という人もいる。
 このような現実に直面したとき、わたしたちは幻滅を感じるかもしれません。神が共にはたらいているはずの人たちなのに、どうしてこうなのか、と当惑もします。しかし、この体験こそ、現実的な、本物の連帯を生み出すための必須条件なのです。241p

必要なのは弱者の賛美ではなく、真の連帯、連帯して闘うこと
というのが本田さんの主張.。

では、小さくされた人たちに神の力が働いている、というのはどういうことか?

本田さんは以下のように書く(要約)
彼らから学ばなければならないというのは彼らが個人として優秀で規範的だからではなく、構造的に抑圧されている彼らが、抑圧され貧しくされるということをだれよりも知っているからであり、そこから解放されるために、まず何をどうすべきかを自分のこととしてわかっているから、私たちが彼らから学ぶのはその価値観、その感性なのです。242p



〜〜引用ここまで〜〜


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文

トップ頁の右上に広告が入るようになっちゃいました。それがいやな人はさらに追加してお金を払いなさいとのこと。というわけで、この広告クリックしないでください(なんて、けなげな抵抗)。==============ブログ内ウェブ検索

ブログ内 を検索
弱さは宝物か? 2016ラルシュリトリートで考えたこと 今日、考えたこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる