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zoom RSS 『現代思想2016年10月号緊急特集=相模原障害者殺傷事件』メモ(前半)

<<   作成日時 : 2016/11/11 03:42   >>

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『現代思想2016年10月号緊急特集=相模原障害者殺傷事件』メモ

書きかけだけど、ほんとに無駄に長いし、続きを書ける気がしなくなったので、ここでUP
気が向いたら、少しずつ更新しようとして、更新したら字数制限にかかったので前後半に分離。これからも随時、更新するかも。できないかもしれないけど。

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【エッセイ】

「事件」の特異性と普遍性を見つめて / 森 達也

事件直後に氾濫したこれらの視点に共通する要素は、容疑者や事件の異常さを最大限に強調しようとする強烈な指向性

強烈なモンスターとしての犯人
この文脈の帰結としてのヘイトクライムや障害者差別という語彙の摩擦なき導入

すべての現象には特異性と普遍性があるが、事件が注目されればされるほど語られなくなる普遍性。
その理由は2つ
・異常さを強調したほうが売れる
・普遍性を口にすれば、犯人を擁護するのかと反撃を食らう可能性がある

この帰結としての真相からの遊離
だからこそ、特異性の発見に狂奔するだけでなく、歯を食いしばってでも普遍性を探索しなければならない。

犯罪予告者にGPSを埋め込むべきだと主張した山東昭子議員。これを森さんはリスク(危険性)とハザード(有毒性)の区別がついていない、それが逆に意見なのだという。

衆議院議長あての手紙に「安楽死」という言葉を使った犯人

それが愛国者の使命感と融合し、さらにドラッグの使用や精神の傾斜で硬直して暴走

単純な優性思想ではないし、ヘイトや差別意識とも違う。介護の現場を知る容疑者がこの言葉を使った背景に、不十分な社会保障や劣悪な障害者施設の労働環境があるならば、それは決して世迷ごとや言い逃れなどの語彙で看過されるべき事態ではない。

事件直後・・・から充分な時間が過ぎ・・冷静に考察するべきタイミングは今

結語として
特異性と併せて普遍性をこそ見つめるべき
そこに事件の本質が見え隠れする。


障害と高齢の狭間から / 上野千鶴子

「齢を重ねる」と「弱いを重ねる」

高齢者は自分を障害者と一緒にしないでくれと思っている

特養をもっと作れという政策は「施設から地域へ」という障害者運動の過去40年の成果を無視し、脱施設化という世界の潮流に逆行するもの。

渡邊琢さんがシノドスに書いた「なぜ彼らは殺されたのか」以前に「なぜ、彼らは施設にいなければならなかったのか」に完全に同意

どこの高齢者施設で起きても不思議ではない今回の事件、そこから見える「もっと施設を」のかけ声のおそろしさ。それがあたかも高齢者福祉の一環であるように唱えられていることの欺瞞

衆議院議長への手紙が示しているのは議長だけでなく、安倍晋三をも「理解者」だと想定していることをうかがわせる。それには根拠がある。2000年代以降の民族差別や女性差別を「裏書き」している当の人物と目されているから。権力のトップが容認していることを、オレがやって悪いわけがない、と彼らは思っていそうだ。

この事件の衝撃は加害者の残忍さや大量殺人の規模だけでなく、この社会が臭いものにフタ、で押し隠してきた障害者差別のホンネを、公然とさらしたところにあるだろう。

バーバラ・マクドナルド
「若いと言われて喜んだり、年齢よりもお若いですねということをほめことばととりちがえてはいけません。あなたはそのことによって、高齢者差別に加担していることになるのですから」

差別する側は、差別されるかもしれない自分の属性を全力を挙げて否定し、・・・。だとすれば、・・犯人が、いったんは「精神障害者」の烙印を押されたことは。彼の障害者排除の動機をいっそう強める結果になったかもしれない。自分の中にある「障害者性」をよりいっそう苛烈に否定するためにこそ、「社会のお荷物」を抹殺するミッションを、彼自身に課したとも思える。
この文脈で上野さんは「ヒットラーがユダヤ人性を疑っていたからこそ、徹底的なユダヤ人抹殺を企てたように」と書くのだが、これは前のエッセイで森さんが明確に否定していた部分。

上野さんの結語は
相模原事件のように顕在化した暴力の陰で、闇に葬られる「生きるに値しない命」の存在。出生前診断の普及、異常が出た場合、9割以上が中絶。自己決定権の名のもとの「内なる優性思想」がネオリベの蔓延する社会でかつてないほど拡大しているかもしれない。
 相模原事件を、異常者の例外的な犯行としてはいけない。
というもの。

また、メモにも残したように、ここで上野さんは特別養護老人ホームを作れという声が時代に逆行していることを明快に述べていて、そこはもっと語られる必要がある話だと思った。


ぼちぼちの人間世間へ / 最首 悟
最首さんの最近の文章はよくわからなくて好きじゃない。
例えばこれで言えば、気になったのは以下
 人は働く。能力に応じて。それは円錐の頂点に向かう目標・志線に沿って人が達する高みに差が生じることを意味する。志線とは・・
能力に応じて働くことは差を生むことなのだろうか、と思う。

また、ADAを能力主義と断罪する。歴史の文脈の中で評価すべき部分もあると思うのだが、そのようなことは一切捨象しているようで、ま、文学者なんだろうなと思うことにした。


この不安をどうしたら取り除くことができるのか / 大澤真幸

まず、カントを援用して、形式の上では「善とは区別のつかなくなった悪」であるという。

そして、「できるだけ多くの人ができるだけたくさん幸福であること」言い換えれば、「不幸や不快ができるだけ少なく」というほとんどの人が賛成するこのアイデアを、倫理的な原理に高めたのが功利主義で、これが危険な思想で、他人に快楽や幸福を与えることができる強者の価値が重んじられ、他人に苦労を要求せざるを得ない弱者の生は軽いものになってしまうから。
その弱者に障害者や老人が含まれる。すると、気づかぬうちに、私たちはUの主張のすぐそばにまで来てしまう。

同様に「他人に迷惑をかけてはいけない」という道徳的な項目も。

拡張していくとUの思想に近づいてしまう落とし穴。

「本当に迷惑をかけることが何もかもいけないことなのか」が問われなければいけない。

そして、「車輪の一歩」を例に以下のように結論付ける。
 ・・・私たちは次のように言えなくてはならないのだ。「他人に迷惑をかけたっていいではないか」と。いや、もっと先に行く必要があるかもしれない。ときには、他人に迷惑をかけるべきだと。私たちは、場合によっては、他人に迷惑をかけることを望まれてさえいるのだ、と。

 ここまで言い切ることができたとき、こう断定する自信をもてたとき、私たちは不安をほんとうに払拭することができる。相模原障害者殺傷事件が私たちにもたらす、おぞましい不安を、である。
これは長々と引用したくなる話だった。

サイドラインで興味深かったのが、快楽や幸福の増大だけでなく、不快や不幸の減少も功利主義につながって危険だという主張。ぼくは脱開発系の研究会で前者がだめだから、後者の選択をという話を聞いてきたのだが、「開発」の文脈では通じるそれも、障害をめぐるポリティクス(広義の)の中では危険な面がある。

そして、この結語部分だ。「迷惑かけていいんだよ」と断言できれば、事件がもたらす不安を払拭できると大澤氏は書くのだが、ほんとうにそうか。ぼくは迷惑かけられるのが嫌だけど、「ときには、他人に迷惑をかけるべきだと。私たちは、場合によっては、他人に迷惑をかけることを望まれてさえいるのだ」と断言はできると思う、いまは。でも、それで不安が払拭できるか、と聞かれるとあやしい。自分がそう言えるかというと、そうじゃない。

いまの社会が抱えている問題が相模原事件の背景にあるのだから、不安は社会をどう変えるかという視点なしに払拭は出来ないと思う。(以下、12月12日追記) 相模原事件がわたしたちに与えた不安っていったいなんだろうと考える。それは【重い障害のある人が、誰かが考える「正義」の名のもとに、殺されてしまったこと】。どうやら、その「正義」そのもの、あるいはそれに隣接する考え方が自分のなかや近くに存在すること、そこから来る不安がもっとも大きいのかもしれない。「『迷惑をかけていいんだ』と断定する自信ができたとき、相模原の事件がわたしたちにもたらすおぞましい不安を払拭できる」と大澤さんは書くのだが、どんなに自分に断定できる自信ができても、あるいはもっと言えば、どんなにすばらしい社会が訪れても、私たちはその不安を払拭しないほうがいいのではないか。『障害』がもたらす『出来なさ』の多くは社会が作り出していて、それを取り除く努力を障害者運動だということができると思う。しかし、どんなに社会が変わっても残る『出来なさ』はあるだろう。さらに、その『出来なさ』は本人にとって、否定的なものとは限らない。そんななかで、私たちは不安を払拭すべきではないのではないか。この相模原の事件が見せた不安を不安のまま抱き続ける必要があるのではないか。悲しいことだが、いのちを奪われる障害者がいなくなる日が来るかどうか、ぼくにはわからない。でも、それを減らそうとする努力はできるし、続けなければならない。

そして、『施設』しか、生きる場が与えられない多くの人たちがいまも存在している。誰もがそこに収容されない権利があると日本政府も批准した条約がある。しかし、現実には、ここにしか生きる場が与えられない人がいるだけでなく、『脱施設』という謳い文句の中で、そこを出る条件がないまま、そこから出され、「過重な介護負担を担っている母親たちが心を病んだり先が見えずに命を断つ事件が続いている」という指摘がある(http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/65426152.html のコメント欄参照)。

『脱施設』は絶対に間違ってはいないと思うが、それを可能にする条件がないところで強制されると、そこに悲劇が生まれるということは容易に想像できる。他方で十分に条件がないからと逡巡していても、変わらない現実もある。条件を整える努力を続けながら、少しでも可能なところで施設から抜け出していく勇気を持つ必要もあるだろう。その抜け出した後の負担を母親だけが担わなければならないという事態は絶対に避けなければならない。

また、同時に「独り暮らしのアパートが地域だと思ってるけど、施設の延長になっちゃってる」という話もある。(『障害者運動のバトンをつなぐ』収録の対談で熊谷晋一郎さん)。

そのように複雑で単純ではない現実の社会だが、一つひとつの出来事は意外に単純だということもある。複雑なことは複雑なこととして捨て去ることなく、しかし、目の前にある単純なことを解決する努力も続けたいと思う。

そんななかで、相模原の事件がもたらした不安は不安として胸に刻み、抱き続けることも大事なことなのではないか。


「日本教」的NIMBYSMから遠く離れて / 斎藤 環
奇妙な入れ子構造であり、「こうした事件を二度と起こしてはならない」という議論が、むしろこの事件を起こしてしまった構造を反復してしまう、という主張から始まる。
「予防拘禁の肯定」と「障害者に生きる価値はない」という主張の重なり。

最初の措置入院に予防拘禁的なニュアンスを感じると斎藤は書く。そして、その措置入院が植松の意思を強化した可能性があるのではないか。

犯人の考えは「狂気(クレイジー)」であっても「真正妄想(マッド)」とは考えにくい。後者は共有困難な誤謬だが、前者は賛同者を巻き込み集団的に共有されうる「思想」だからだ

障害者を施設に閉じ込める日本社会を紹介した後で、植松容疑者の大量殺人を可能にしたのが、障害者を多数収容する施設の存在だったことを考えるなら、そこに複数の「排除」が重畳していることを見ないわけにいかない。弱者排除の思想が、排除された弱者のひとりの手によって、弱者が囲い込まれた場所で実行に移された。

そして、この構造を見ずに済ますことは、この国にはびこるNIMBYSMに目をつぶることになる。ノーマライゼーションを実行してきた西欧と比較して、いまも多くの精神病院や障害者コロニーを維持し続けている日本の現状は「異様」としか言いようがないと指摘する。
この「構造を見ずに済ますことは、この国にはびこるNIMBYSMに目をつぶることになる」がわかりにくい。なぜ、そうなるのか。

次に例えば、ひきこもり当事者が「自分には生きる価値がない」というような「人間の生の価値判断が可能である」とする誤謬を指摘。また、この誤謬と関連する日本社会のみで流通している奇妙な常識として「権利と義務はバーター」という説をあげる。この傾向を補強する思想として山本七平の「日本教」をあげる。え、山本七平の思想をまじめに取り上げるか?と思ったが、そういう先入観、捨てるべきなのか。

斎藤環は山本七平のそれを(ヴェーバーのプロテスタンティズムに比して、キリスト教の基盤がまったくない日本で資本主義を可能にしたのは「日本教」だと指摘する。

日本教を可能にする日本の社会構造について書いた後、この構造がもたらす価値判断の一つが「人間主義」だ、として、ここでは機能し努力している人間が評価され、機能も努力もしない個人は貶められる、とするのだが、この「人間主義」というのが何を指すのかよくわからない。

で、欧州などの宗教や遺伝学に由来する超越的な優生思想は、優生主義の代わりに「ノーマライゼーション」を入れ替えるだけで、障害者を尊重する社会に変えたが、日本教的な優性思想では、ナチスのように徹底して殺すというところにいかないかわりに、優生思想が隠微かつ執拗に受け継がれ、政策や制度の変更が社会に反映されにくい構造を持つという

で、結語部分では、この事件をうけてなされる提言が、再び排除の構造を繰り返すことであってはならない。我々はいかに不快であっても、植松容疑者のような存在を社会の中に包摂し、地域において共存をはかるしかない。彼の「診断」や「鑑定」に汲々とするのではなく、まず、その「思想」に耳を傾け、その由来と帰結をていねいになぞりつつ対話を続け、彼が生きてきた「現実」を可能な限り共有しなければならない。もし超越性に頼らずに弱者の包摂を試みるのなら、そうした対話の可能性に賭けるしかない。と書く。

斎藤環さん、直接的には書いていないが、「対話の可能性に賭ける」ことが、ほとんど不可能にも近いといえるように非常に困難なことだと自覚しながら、それでもそこに賭けるとしか言いようがないという風に書いているのではないかと感じた。

ただ、この【「思想」に耳を傾け、その由来と帰結をていねいになぞりつつ対話を続け、彼が生きてきた「現実」を可能な限り共有し】という部分に共感する。なぜ、いつから、どのように彼がそのように考えるに至ったのかということを、彼を責めない形で聞き出すことが必要なのではないかと思う。そんなことを彼の弁護団はぜひ実現してほしい。


「個人の尊重」を定着させるために / 木村草太
木村さんは、この事件をテロやヘイトクライムと性質が違うのではないかと書く。ヘイトクライムは特定の人への蔑視感情や憎悪に基づく犯罪だが、今回の班員の言動は「一貫した論理に基づくもののように思われる」というのだった。それに続けて、優生学に「合理性」がある、優生思想は合理性を突き詰めた思想だから厄介なのだ、と。

だから、今回の事件を繰り返さないためには、セキュリティーを強化する方策を考えるのではなく、優生思想にどう向き合うかが問われなければならない、とする。
ただ「人の命はすべて尊い、優生思想は間違っている」と唱えても説得力はなく、それを克服するには、「その合理性をさらに突き詰めた時の結論と向き合うしかない」

それへの木村さんのここでの答えは、障害者の排除を認めたら、それは際限なく拡大するから、あらゆる人の生が危機にさらされる、というもの。

続いて、遺伝子情報によるプロファイリングの危険を指摘する。

そして、生の選抜の危険を回避するためには、国家的な価値に基づく「人の生の選別・序列」そのものをやめる必要がある。つまり、「個人の尊重」という価値を、他のあらゆる国家的価値に優先させなければならない。として、ナチスの反省にたったドイツ憲法の第1条は「人間の尊厳」が規定されたと書く。人が人であるからという理由だけで、尊重されるべきで、この人が笑顔をもたらしてくれるとか、〜〜ができる、とかいう理由で議論してはならない、とする。

次節では、ポリティカルコレクトネスにうんざりしているという話が俎上におかれる。そのような傾向は9条が大事だというような話にもつながるとされ、これに対抗するには頭ごなしに説教するのではなく、彼らの主張の中に「素朴な粗野」を受け止め、そこにある合理性をさらに突き詰めたときの結論と向き合いというようなプロセスを繰り返す必要があるという。ポリテティカルコレクトの側こそが、「頭ごなしの説教」への依存から解放される必要がある、というのがこの文章の結語となる。

友人の福祉職の公務員、平井勝さんがフェイスブックに以下のように書いていた。
『現代思想』の「相模原障害者殺傷事件」特集の憲法学者の木村草太さんの小論は奥が深いと思う。
 木村さんは「人の価値」を論ずること自体が誤り、「優生思想」に繋がると書いている。「障害者もみんなを笑顔にさせてくれる」という評価の言葉も。これは、笑顔にさせてくれる障害者とそうでない障害者とを分断してしまう可能性もあることに繋がるという意味ではないか。笑顔が「役に立つ」価値観だとも言える。
 かつて、元都知事が最重度障害者の施設を見学して「人格があるのか」と発言して批判された。しかし、この問いに本当に答えられる職員は多くはないかもしれない。上から目線の価値を問われると、正直価値を感じにくい利用者も出てきてしまうのだと思う。相手の作戦に乗ってしまう。それ程、最重度重複障害者への支援は難しいと思う。 
 施設という悲日常的日常には色んな罠がある。人間は「意味」を追求したがる動物だが、自立した価値観がないと、「意味」が感じられない・・一般社会の価値観に飲み込まれてしまうのではないだろうか。そこから、不適切な支援や悲劇が生まれる・・・

 それへのぼくのコメント
この本でほかでも何人もの人が「生きる価値」とかいう問題の立て方を否定しなければというのを書いていたのですが、同時に自分が生きる意味みたいなことは求めたいという気持ちは否定しがたく、そこは難しいなぁと思っています。

難しいが生きる価値がある人などと考えるのが間違いであるのはその通りだと思う。
しかし、自分が生きる価値は追いかけたいような気がする。
そのギャップをどのように埋めることができるのかが問題。


【「当事者」からの視点】

事件の後で / 熊谷晋一郎
熊谷さんは70年代の自分の経験を描いた後で、80年代に入って起きた二つの大きな変化について記述する。
1、EBM(エヴィデンス・ベースト・メディシン)。これによって、従来の療育法に長期的な効果がほとんどないことが明らかになった。
2、ジェンダー、セクシャリティ、エスニシティ、身体的特徴の面で少数派や弱者の立場に置かれた人々の社会運動によって「社会は多様性を包摂するものへと変化すべき」という価値観の広がり。
この二つの変化が障害の医学モデルから社会モデルへパラダイムシフトを可能にした。しかし、今回の事件が私を70年代に引き戻したというのが熊谷さんの主張。

これに続くのが『分断される』という節

上岡さん(ダルク女性ハウス)から「まいったね」「友達やめないでね」というメールが来たという。そして、以下のように書かれる。
 私はこれまで上岡さんたちとの活動を通じて、薬物依存症というものが「虐待などの経験を背景にして他者を信頼し依存することの困難から生じる」ということや、薬物依存症からの回復は「コミュニティから隔離された刑務所の中ではなく、地域の中で他者との信頼を再構築することだ」と教わった。また、本来膨大なものや他者に依存しなければ生きていかれない人間の条件を前提としたときに、「他人に依存せずに自立すること(independennce)や、自分の信じる価値に基づき計画を立て自己コントロールすること(autonomy)といった近代的な規範を徹底すると、必然的に依存症という病理に巻き込まれる」という依存症患者の気付きは、自立度や意思決定能力によって優生思想的な再序列化が起きつつある身体障害者コミュニティも真摯に学ぶべき内容だと感じてきた。さらに、依存する対象が物質であれ人であれ、限られた対象にしか依存できない状況では、依存対象から支配され、暴力を受けやすくなるという経験知も、なぜ障害者運動が家族や施設といった限定された依存先に頼るのではなく、冗長に分散した依存先を調達できるコミュニティの暮らしにこだわり続けてきたのかについて整理するヒントになった(逆に言うと、地域で生きることは尊厳をもって生きることの十分条件ではなく、限定された専門的支援に囲い込まれることで依存先の冗長さが失われてしまっては意味がないということでもある)。

そして、7月30日に上岡さんと会って、追悼集会の開催を決めたという。
その経緯や彼自身のメッセージが紹介され、結語に近いところで彼が主張するのは「学術と、当事者中心の支援実践の協働」


相模原障害者虐殺事件を生み出した社会 その根底的な変革を / 尾上浩二
尾上さんの文章で印象に残ったのは「意思疎通ができない重複障害者を指した」ということへの反論。意思疎通ができないのは彼らの声を聞き取れない側の問題なのだ。
そして、「殺されてよい命はない」というメッセージを社会全体に共有していく一環として、優生保護法被害者への謝罪と補償を政府は行うべきだと主張。優生思想の問題に総括とけじめをつけることが、同様の事件の温床を断つ上で重要だ、と書く。
この効果がどれくらいあるか、ぼくにはわからないが、とりあえず、それを大きく取り上げ、政府がそこに向かえば、それなりの影響力はあるかもしれない。同時に、そのようなポリティカルコレクトを正す行動への違和感も表明されるかもしれない。そこでの議論こそが重要なのではないかと思う。



相模原市障害者殺傷事件から見えてくるもの / 中尾悦子


相模原市で起きた入所施設での大量虐殺事件に関して / 白石清春
https://www.facebook.com/notes/%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E9%9B%85%E8%8B%B1/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%8E%9F%E5%B8%82%E3%81%A7%E8%B5%B7%E3%81%8D%E3%81%9F%E5%85%A5%E6%89%80%E6%96%BD%E8%A8%AD%E3%81%A7%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%87%8F%E8%99%90%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%8B%E8%A7%A3%E7%99%BD%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%98%A5%E3%81%95%E3%82%93/1089047154509134


「言葉に詰まる自分」と向き合うための初めの一歩として / 星加良司
星加さんはこの結語近くで、「障害の社会モデル」は知的障害者に関する解放の理論としては必ずしも十分には機能しないのではないか」、と問題をたてる。(92p)
しかし、知的障害の人をよりできなくしている社会はある。
彼らにも、いまはできないけれども、社会の側から、ちょっとの手助けが有ればできることはたくさんある。
また、言葉を出せない障害者の声を聞き取ることも、個人モデル・医療モデルで変えられなくても、社会モデル的な対応で、彼らの声を聞き取ろうとすることは可能なのではないか。
ぼくはそのレベルで十分に機能しているとと考えるし、「できなくしている社会が問題だ」という風に問題を立てても解決しない問題が多数あるのは知的障害以外でも同様だと思うので、とりわけ知的障害だけ取り出して、こんな風に言うことには違和感が残る。
(2日間も星加さんと会ってたのに、これを伝えるのを忘れてた)


【反復する優生思想──障害をめぐる生政治】
反ニーチェ / 市野川容孝
冒頭で『超訳 ニーチェの言葉』からいくつか引用され、「読んでいて誰もが勇気づけられ、明るくなれる。そんな本だ」という。94p
そして、そこに含まれないニーチェの激しく優生主義的な部分が引用され、それはその本には含まれていないことが示される。
「ニーチェと、ニーチェを手放しで称揚し、彼の右の言葉(激しく優生主義的な)は素通りしてきた現代思想が、少なくとも証人として、場合によっては共犯者として、今回の事件で法廷に立たされる。そんな気がしている」と市野川さんは書く。
次にスペンサーやシンガーなども参照する。

福島智が東京新聞に書いた「優生思想」と『ヘイトクライム』の二つの要素を見るべきという意見に同意し、ヘイトクライムのみではこの事件を理解しきれないし、それだけで理解できるというのは、日本の障害者運動がこれまで対決してきた障害者差別がどういうものかを理解していないということだ、という。

そして、最後に死刑に言及し、そこにも生きるに値しない命がある、と指摘され、それは彼の考えの正しさを、部分的に証明するのではないか、とこの論考は閉じる。


「生きるに値しない生命終結の許容」はどのように語られたか / 大谷いづみ

優生は誰を殺すのか / 杉田俊介
ここ杉田さんはUの主張を報道機関が二次拡散し、切り貼りし、その致命的な問題点を明確に撃たないなら、それは犯人の暴力への間接的な加担となってしまう、と書く。
・・・しかし、優等生的な言い方でメディア批判を行うだけでも、おそらく、足りない。なぜなら、多くの人々は「犯人を批判する優等生的な発言」への自己欺瞞や嘘くささを感じとり、それによって、U青年の手紙と思想に共感していくようにも見えるからだ。(115-116p)
青年の精神が、この国をじわじわと侵食してきた近年のヘイト的なものの空気を確実に吸い込んでいる(117p)
劣悪な環境に置かれた当事者の生は、過度に不幸なもの、悲惨なものに見える。やがて、死なせてあげたほうがマシだ、と感じてしまうくらいに――そのような現実しかしらない経験の浅い介護者や支援者は、そう感じてしまうかもしれない。118p
手紙の言葉から感じられるのは、世の中の役に立ちたい、日本や世界の為に何かを為したい、という切迫した要望。118p
「優生学の核心にあるのは人々の「負担回避」への利害である」(堀田義太郎「優生学とジェンダー」)119p


この後の、秋葉原事件や黒子のバスケ事件の被告、あるいはイスラム国に殺害された湯川遥菜氏の話も興味深いし、プレイディーみかこさんを引いた部分も。だが、飛ばす。

そして、杉田さんは人生に意味があるとかないとかの線引きが無意味であるとしたうえで、以下のように書く。
 たとえ意味はなく、無意味ですらなくても、人の生は自由でありうる。自由なこの生を、ほんとうは、誰もが十全に生き切ることができる。しかし、そのためにこそ、社会構造を変えなければならないのだし、また内なる優性思想を断ち切らねばならない。優生的な差別はたんに他者を殺すばかりでなく、あなた自身をじわじわと内部から滅ぼしていく。・・・・
 そんな無意味で自由な存在たちが、たまたま出会ったり、出会い損ねたりしながら、互いの内なる差別を超えていく場所、それがそもそも障害者運動の中で言われてきた「地域」であり、また地域における自立生活であるからだ。「地域」とは、むしろ僕らの側が根本的に問い直されてしまう場所なのだ。124-125p


事件が「ついに」起こる前に「すでに」起こっていたこと / 児玉真美


【「障害者殺し」の系譜――運動史からの問い】

七・二六殺傷事件後に 2 / 立岩真也

「殺意」の底を見据えること / 荒井裕樹
怒りには葛藤があるが、憎悪には葛藤がない。
憎悪の背景には、往々にして「正義」を背負った大きな主張がある。
躊躇いも葛藤も呵責もなく、人が人を憎悪できる心理的な機制は確実に低下している。
横田弘は「障害者は隣近所で生きなければならない」と言っていた。(「地域」という言葉はあまり好きではなかった。障害者が排除されるのは抽象的な「地域」ではなく、「隣近所」だからだろう)。
(159p)

身近な憎悪に抗し、摩耗した機制のこれ以上の損壊を避けるために、異なる身体的事情を抱えた者たちとの結び目を、私たちの「隣近所」に作らなければならない。160p

私はこの事件について、拙速に何かを決めずに、そして安易に何かと決めつけずに、考え続けたいと思う。そして、考える時間も考え続ける覚悟も、共に考えてくれる人も、必要だと思っている。161p


相模原障害者施設殺傷事件と優生思想 / 廣野俊輔
 結語部分を要約
 事件をきっかけに散見されるようになった優生思想に基づく(SNSなどでの)書き込みに対して、障害者解放運動(青い芝の横塚を中心に横田のものも援用されている)の力を借りつつ反論。
1、死んだことが本人や家族のためであったとする主張の欺瞞
2、能力の低い人を線引きすることが不毛であり、かつ、自分たちの立場も危うくすること

障害者解放運動から学ぶべきことで、紙幅の関係で扱いきれなかったのは「障害者に必要な介助や所得保障などの負担を社会でどのように分担していくかという点。

【医療観察と「社会防衛」――精神障害をめぐるポリティクス】

精神医療と司法・警察の「入り口」と「出口」という問題系 / 高木俊介
「福祉国家と民主主義という体制は、その安定した維持形態を獲得するよりも先に、その反動としての差別と排除、つまり支配階級の生き残りと存続をかけた階層社会への再編成に向かう暴力に晒されている」(169p)
「ここまで書いてしまうか」と思うが、そういう流れが片方にあるのは間違いなさそう。

 トランプの当選にみられるように「階層社会への再編成に向かう暴力」に晒され苦しむ人がそこから逃れるために、既存の支配を嫌った結果、さらなる暴力のもとへ流れされてしまう傾向もある。民主主義の名の下で「差別と排除」を吹聴する候補者が選ばれてしまう時代でもある。民主主義の名のもとに民主主義が捨て去られてきた歴史がある。ナチスの政権を選んだのも民主主義だった。

 しかし、当然ながら、社会運動によって築き上げられてきた差別と排除に抗する価値があり、今も存在する社会運動が「階層社会への再編成に向かう暴力」と拮抗することが求められている。日常生活に近いところに存在する社会運動という名を自覚していないような小さな動くも含めて、その暴力に抗う動きは存在する。だから、話はそんなに単純には進まないだろうし、進めてはいけない。その暴力をどう押し戻せるのか、そのために何ができるのかが常に問われなければならない。

 その暴力にはむき出しのものもあるが、構造化され見えなくされている面もあるので、それへの抵抗もまた、そんなに単純にはいかないだろう。一つひとつの問題に関して、熟議が必要とされているのだと思う。熟議できる社会をどう形成できるかが問われている。

この短い文章にインスパイアされて、そんなことを考えた。



役に立たない?危険な人間?二つの苦しみ / 桐原尚之

措置入院は便利な治安の道具として運用されてきたのではないか

思想は医療では治らないし、治すべきものでもない

この事件はヘイトクライム、優生思想などさまざまな角度から捉えうる余地があることは自明・・。しかし、より広く見渡せる視座から問題を立てていかないと、見落としてしまう問題があることを指摘しておきたい。

178p
桐原さんが書く「より広く見渡せる視座から問題を立てていかないと、見落としてしまう問題がある」と結語で書いている。自明といえば、自明な話なのだが、なぜ、この自明な話をあえて結語に持ってきたのか。視野をどのように、どの方向に広げることを求めているのか不明。視野は無限大に広げる可能性があるだろうが、すべてを見渡すのは不可能で、そこを明確にしなければ何かを言ったことにはならないのではないかと感じた。

精神障害者の立場からみた相模原障害者殺傷事件 / 船橋裕晶


11月11日、桐原さんの部分に追記
11月14日、廣野俊輔さんの部分書き足し、高木俊介さんの部分を大幅に書き換えた。
12月12日、大澤さんの部分に大幅な書き足し

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「相模原障害者殺傷事件(優生思想とヘイトクライム)」メモ
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今日、考えたこと
2017/03/05 08:47
不安を抱き続けようと思った(たこの木通信 ほんの紹介、8回目)
さっき、10回目の原稿を書き終えて、Iさんに送った。これを独立してアップロードしていたなったので(ほとんどの部分は 『現代思想2016年10月号緊急特集=相模原障害者殺傷事件』メモ(前半) http://tu-ta.at.webry.info/201611/article_2.html に掲載したことだけど。 ...続きを見る
今日、考えたこと
2017/06/11 06:50
「優生学の歴史と日本社会の今とこれから」(市野川容孝さん)PARCでの講座感想
【2017年度PARC自由学校講座のご案内】 No.6 殺されない・殺させない社会のために    ──相模原障害者殺傷事件が突きつけた課題を考える という自由学校の講座受講中。 ...続きを見る
今日、考えたこと
2017/06/17 06:21
『現代思想2016年10月号緊急特集=相模原障害者殺傷事件』メモ(後半)
後半 気が向いたら、少しずつ更新しようとして、更新したら字数制限にかかったので前後半に分離。これからも随時、更新するかも。できないかもしれないけど。 ...続きを見る
今日、考えたこと
2017/06/17 06:24

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