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zoom RSS 『障害者のアートが問いかけるもの』(『バリアフリー・コンフリクト』から)

<<   作成日時 : 2017/01/08 08:56   >>

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先日、自立支援協議会主催の公開セミナーの準備で東大先端研に行く機会があって、そのあたりの人が書いていた本があったなぁと思って、出てきたのがこの本『バリアフリー・コンフリクト』のメモ http://tu-ta.at.webry.info/201502/article_3.html 
ちょうど、そのタイミングで立岩さんが
障害と創造?
「身体の現代」計画補足・291
http://www.arsvi.com/ts/20172291.htm
を紹介していた。そんなタイミングだったので、これを読み返して、この障害者アートの議論はそれなりに整理されていて、必要な議論だと感じた。というわけで、ここの部分だけ抜き出して、再掲したくなったので、若干、開業位置などを修正して再掲。最後にちょっとだけコメントを加えた。


〜〜〜〜
第7章 障害者のアートが問いかけるもの――「表現」をめぐるコンフリクト(田中みわ子)

ここで紹介されている藤澤美佳さんの障害者アートにおける二つの論理、
「福祉的論理」と「芸術的論理」という整理がわかりやすい。そして、服部正さんはその日本におけるその二つの論理の衝突の契機として、山下清を挙げている、として以下のように書かれる。
つまり、山下清の貼り絵をめぐって、福祉と芸術の間に「衝突があり、その後は無関係を装う時期が続いた」・・・1995年の「エイブル・アート」提唱をきっかけとして、福祉と芸術は「蜜月を迎えつつあるような印象」をもたらすことになったわけだが、服部自身は・・・新たな衝突を生まれる危険があると指摘・・。154p
ぼくには山下清をめぐる衝突も、その後の無関係を装う時期も蜜月もなんのことだか、わからないまま、この文章は次に向かう。

2節(155p〜)に書かれるのは、米国の「ディスアビリティ・アート」のローラ・ファーガソンの《目に見える骨格をもったうずくまる姿》という作品。
この作品をめぐる議論・コンフリクトが紹介されている。最初に脊髄の専門医であるポリー医師の感想、そして、それに傷ついた彼女の感想が紹介される。
ファーガソンが求めたのは、従来、醜いとされてきた体の歪み、すなわち「正常なもの」から外れるととされてきた身体形態から立ち現れてくる「美の形式」だという。さらにドレガーという障害学の研究者の「鑑賞者のアイデンティティを失わせるために存在する」という分析が紹介され、それなりに興味深いのだが、面倒になってきたので略。

3節では専門知への抵抗を試みるものとしての「ディスアビリティ・アート・ムーブメント」が紹介される。

159pで紹介される英国障害学の有名な研究者であるC.バーンズによるディスアビリティ・アートに関する言説はわかりやすい。
 これまで障害者と芸術の関係は、伝統的にパターナリズムによってとらえられてきた。すなわち、不適格で無能力だとみなされてきた障害者たちは隔離された施設やデイケアセンターといった環境のなかで、療法としての芸術を与えられてきたのである。そのような芸術の発展は個別性がなく、その独創性も脱政治化される。さらにこれらの障害者たちによる芸術は、チャリティのクリスマス・カードのように広告目的で利用されてきた。このように、芸術療法というかたちでの創作機会は存在するものの、障害者を永遠に子ども扱いして、その作家としての個性を認めない芸術療法の考え方は、多くの障害者にあてはまらず、そのことに不満を表明する障害者が増えている。

 ま、型にはまった英国障害学からの批判という風に読めないわけでもないが、それは一つの伝統にもなりつつある原則的な批判というふうにも言えるかもしれない。
  
この記述を踏まえて、ディスアビリティ・アート・ムーブメントにおける異議申し立てを3つの側面から整理
1、「療法的なアート」に対する批判。
 この批判は、治療を目的とした芸術から、障害をめぐる個人の経験の共有に基づいた「創造的な文化」としての芸術への転換を意味するもの。
 F・ケリー「アートはかつて誰も治してなどおらず、またセラピーはアートではない」(これって、どうなのだろう。アートに治された経験のある人はいそうだし、セラピーがアートになる場合だってあるんじゃないかとぼくは思う)
 L・クロウ「障害者の生活のあらゆる活動が、医療やセラピーの言葉で正当化されてきた。そして、それは社会的排除。排除に対する怒りがディスアビリティ・アートを生み出す動機でおある。
 
2、「慈善的なアート」に対する批判
 慈善的なアートを主導する専門家たちが前提としている「かわいそうな障害者」などのイメージに向けられたもの。

3、「周縁的なアート」に対する批判
 上記二つが障害者によるアートを手段として利用することへの批判であるのに対して、第3の批判は、「障害者アート」をあくまでも「犠牲者のアート」や「周縁的なアート」というかたちで位置づける文化そのものに対する問題提起を含んでいる。アウトサイダー・アートでは「中心にいるはずの作者が不在になる」という事態が生じており、芸術家という専門知の枠組みに沿ったかたちで、何が「アート」で何が「アート」でないのかが判断されることになる。より重要なのは、専門家によって「発見」されるアーティストを「純真無垢」な者としてみなす「神話」によって、そうした「発見」のプロセスに介在しているはずの力関係が不可視化されがちであるという点。ディスアビリティ・アートが、伝統的に維持されてきた障害の「創造性の神話」に対峙する「政治」を志向してきたのは、まさにこのため。
 


英国におけるディスアビリティ・アートの実践は、「支配的な文化」の抑圧に対して抵抗することに加え、独自の文化的価値を肯定し、創造する動きであり、
「美的」であると同時にあくまでも「政治的な努力」としてのディスアビリティ・アートは、「社会の全体的な価値体系=正常性」という土台を問いかける対抗的な文化である
と著者は提起している。

対抗文化という視点は面白いと思うのだけど、ちょっとこの枠が窮屈な感じもしないわけではない。この窮屈さについては次節で少し関連した話が出てくる。

また、「美的」とかいうのも壊しちゃえって思わないわけでもないけど、美的というところを壊しちゃったアートって、見るも無残なものが多くて、もう見たくないって感じもあったりするのだけど。そう「美」っていうのを見直す必要もあるのだろうなと思う。アートは「美術」でもあるが、ただの「術」でもある。ファイン・アートとかいう言い方もある。「アート」を考えるとき、美しいとは何か、美術とは何か、という問いがもっとちゃんと提出されなくちゃいけないのかもしれない。

4節ではそのディスアビリティ・アートではとらえきれない障害者アートがもつ多元的な意味が文化人類学者の中谷和人さんを援用して提起される。
(ディスアビリティ・アートはあくまで「自律的な主体」を前提としているという限界があり)アートの持つ多元的な意味は美術市場や制度との自律的な関わりにおいて存在するだけはなく、「活動現場で生じた/生じつつある社会関係」の中にある。162p
とする。<追記 この観点に、障害者の「自立・自律」を重ねたら、また何か見えてくるものがありそうな気がする。いまはそこまでしか書けないけれども)

この視点を踏まえて、この節ではベルギーの知的障害者芸術団体クレアムのことが紹介される。「クレアムが積極的に模索してきたことは、知的障害をもつ人人々の表現とは何かを解き明かそうとする試みであった」として、具体例なども書かれているのだが、やはり文章だけではよくわからない。

最終節は《境界に働きかける「美学」へ》
障害者アートの可能性について以下のように書かれている。(要約)〜〜〜
専門家が介在することによって障害者アートは社会的な認知を受ける。しかし、同時に障害者アートは、身体行為や身体表現の意味をめぐって、複数の知のせめぎあう場所であり、そこでは専門家と表現者である障害者の接触で機能するミクロな権力作用が露呈。その接触面に障害者アートの可能性がある。165p
接触面には摩擦(コンフリクト)が起こるから、コンフリクトに可能性を見るということでこの本のテーマに直結する。

で、この章の最後に紹介されるのが「disability aesthetic」日本語にすると「障害美学」。この文章ではこの美学に関する詳しい説明はないのだが、これは「身体を取り巻くさまざまな知の枠組みの境界に働きかけるものであり、そうした境界においてこそ成立するものだ(文章中のいくつかの鍵括弧省略)」(166p)と書かれている。この「境界」にも、やはり摩擦(コンフリクト)が存在し、そのコンフリクトこそが、この美学を成り立たせている、ということだろうか?


コラム13〈エイブルアート〉168p〜 ここでは東京コロニーがかなり前からやってた「アートビリティ」(旧障害者アートバンク)のことは紹介されていない。古いが影響力はなかったというべきか?


コラム14〈障害文化〉170p〜
引用
障害文化は、あらゆる生の様式を肯定しつつ、社会的なバリアの所在もあぶりだし戦略的装置であると言える。
しかし、言葉が常にそうであるように、使われ方によって、無毒・無害なものに脱色され流通される危険があるというか、この言葉は、むしろその危険が高い言葉でもあるんじゃないかと思う。
〜〜〜〜〜

アートシーンで近年、アートブリュットとして持てはやされる障害者アート。そこで消費されるだけなら、つまらないだろう。つまり、
アートシーンを揺さぶらないアールブリュットなんて、つまんないぞ!</strong>
っていう風に言ってもいいよね。

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