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zoom RSS 『嫌われる勇気』メモ

<<   作成日時 : 2017/02/12 06:39   >>

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障害者支援について興味深いブログを毎日書いている山田由美子さんがこの本を推薦していたので、図書館で予約したら、半年ぐらい待たされた。と書いて、実際どれくらい待たされたか確認したら、8か月、待たされていたことが
『初めてのアドラー心理学』メモ http://tu-ta.at.webry.info/201607/article_1.html を読んでわかった。

で、この『嫌われる勇気』に書かれているアドラーは岸見一郎さんのアドラーなのだろう。上記の本よりも解釈が特徴的でわかりやすいが、わかりやすすぎる感じがする。ま、ぼくにはそれでいいのだけれども。

とりわけ、フロイトやユングが因果論でアドラーが目的論、という説明はわかりやすい。
トラウマについて、フロイトはそれが現在のトラブルを規定していると考えるが、アドラーは現在のトラブル状態を本人が選ぶためにトラウマを使っているのだという。ほんとにトラウマに苦しんでいる人には怒られそうな話だが、現在を変えるためには有効な考え方ではある。

で、いろいろ嫌われたりしてる自覚はあったので、『嫌われる勇気』に関しては自信があったのだが、ぼくならこのフレーズをタイトルには持ってこなかっただろう。でも、これをタイトルにした編集者はこの本が『売れた』というその1点で評価されるべきかも。

「世界も人生も、どこまでもシンプルだ」という哲人に食ってかかる青年というスタイルでこの本は始まり、最後まで対話で書かれている。果たして、本当に「世界も人生も、どこまでもシンプル」だと言えるのか。確かに思ったよりシンプルなこともあるが、複雑なことだっていっぱいあるじゃないかとも思う。

「自分の人生を決めるのは(過去とか境遇絵はなく)、「いま、ここ」に生きる自分」56p
「いま、ここ」というのは、ティク・ナット・ハンとか、他でも誰か言っていたかも。
そして、「いま、ここ」はこの本の最後のほうでも、ふたたび出てくる。
「いま、ここ」を真剣に生きることができれば、未来は考える問題ではない(271p)、というのだが、過去はともかく、未来を意識せずに「いま、ここ」に集中することなど、ほんとにできるだろうか。いまここにスポットライトをあてよ、未来を考えるのは、「いま、ここ」をうすらぼんやり生きてるからだ(271p)とかまで書かれるのだが、たしかに、うすらぼんやり生きてるのは間違いない。
でも、買い物は未来に使うものを買う行為だろう。収穫を考えずに農業ができるだろうか。「いま、ここ」と未来のつながりはそんなには単純じゃないんじゃないか。
選べるものとしての「未来」というふうに言っていると言えるかもしれないのだけど、この本でも繰り返されるように選べるのは自分の行為だけだ。

89pでは「弱さが権力」だと書かれる。弱さがパワーだというのは浦川べてるとか辻信一さんも言ってたかもしれないが、ここではそういう文脈とおは少しずれていて、「赤ん坊は支配するが支配されることはない」(90p)という例が出される。ここでの著者の主張は以下
自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることに
90p


101pでは怒りについて書かれている。
「私憤の発露としての怒りは、他者を屈服させるための道具に過ぎない」と書かれている。
(社会的な問題に対する公憤と私憤は区別されている)
【怒ってはいけいない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです】106p
怒りについてのティク・ナット・ハンの考察は
http://tu-ta.at.webry.info/200810/article_8.html
に少しあるが、ここでは私憤と公憤を分ける話はでてこない。
こんな風に書いてある。
===
 私が非二次元的平和のために努力する方法を見出したのは、深く見つめるという修行中のことでした。あなたが、この洞察を得たら、もはやあなたに敵はいないでしょう。あなた自身の怒りや絶望ですらあなたの敵ではなくなっているのです。あなたは自分自身の怒りや絶望を、最も思いやりがあり、最も非暴力的に処理するその方法を学ぶのです。あなたの怒りや絶望があなた自身であるということを知って、あなたはその怒りや絶望を抑えようとはしません。あなたはもはや怒りによって動かされるということはないでしょう。たとえ、それが圧制や不正義に対する怒りであったとしても、です。(以下略) 2p
===

そう、ここでも一筋縄ではいきそうにないことがあっさり書かれている。
自分自身の怒りや絶望をまったく否定しているわけではなく、逆に「抑えようとはしません」とした上で、その怒りによって動かされるということはないというのだった。
この文章に続けて、「慈悲の心があなたを動かすエネルギーになり、このエネルギーは盲目的エネルギー(原文ママ)と呼ばれる怒りや貪欲とは違う」というのだが、言葉にならない叫びや不協和音、あるいは否定的な感情が出発点だと言っているホロウェイのほうがぼくには入りやすい。
http://tu-ta.at.webry.info/200705/article_17.html 参照
しかし、ホロウェイもまた、「力によらない社会変革」を書いて、このように語っているのだった。

怒りに任せても有効にものごとを動かすことはできないというのはわかる。しかし、怒りはエネルギーになりえるのではないか。
「怒りを非暴力で処理する方法を学べば、それが圧制や不正義に対する怒りであっても、怒りによって動かされるということはないでしょう」とここで書かれる。人を動かすのはコンパッションでなければならない、という話なのだと思う。


「アドラー心理学 目標 行動 心理」(110p)で検索したら、何か出てきそうだと思ってでてきたのが以下
http://アドラー.com/social-feeling-11/
共同体感覚の3つの要素をおさらいします。『@自己受容』『A他者信頼』『B他者貢献』です。@とAを達成することで、他者貢献を手に入れることができるいわれます。他者貢献でができれば、共同体感覚を手にすることができるのです。これらをより具体的にしたのが、行動と心理の目標です。

行動の目標
@自立すること 【自己受容】
A社会と調和して暮らせること 【他者信頼】  

心理の目標
@私には能力がある、という意識 【自己受容】
A人々は私の仲間である、という意識 【他者信頼】  

どちらも@は自己受容に関すること、A他者信頼に関することです。自立するには、自分に能力があると思い込むこと。社会と調和して暮らすには、みんな仲間だと思うことです。  


こんな風に言いきられると、違和感は残る。
そもそも自己受容と自立のあいだにはいくつか媒介になるものが入るのではないか?(ちなみにこの本には 【自己受容】 というカッコ書きはついていなくて、それがついているのはWebのほうだけ。
しかし、自立生活運動には親和的かもしれない。そもそも生きる目標とか他人が決めるなよ、と思う。「意味なんてない。暮らしがあるだけ」っていう星野源くんは深いっていうか、けっこう好き。

142pあたりには、勉強に向かわない子どもに対しても強制は意味がないという意味のことが書かれている。ただ、放置ではなく、注意深く見守って、子どもが助けを求めてきた時に助ければいいのだ、と。これ、難しいと思う。

ただ、このページから次のページに書かれている「カウンセラーはクライアントの人生を変えることができない、変えることができるのはクライアント本人だけ」というのはその通りだろう。

162pに書かれているのは「自由とは他者から嫌われること」というテーゼ。ほんとかよ、とも思う。ま、嫌われることをそんなに苦にしないで思ったことをやれることはそれなりに大事だろうが、ひとつ間違えると、すごくやな奴になるかもしれない。
でも、そういえば、嫌われることを嫌がる若者が多いような気もする。そのあたりは、もっとなんとかしろよよ思わないわけでもない。

アドラー心理学では叱ることだけでなく、ほめることにも否定的だ。そこに垂直的な力関係があるからだという。で、ほめるでも叱るでもない「勇気づけ」が推奨される。(160pあたり)
しかし、勇気づけも垂直の力関係とは無縁ではないのではないか。ときに褒めることが水平な関係で行われることもあると思う。
「人は他者からほめられるほど、「自分には能力がない」という信念を形成していく、よく覚えておいてください」(203p)とまで書かれるのが、「勇気づけ」と「ほめる」、「介入」と「支援」を分かつものは何か、そんなに単純ではないのではないか。

227pでは「ことさらポジティブになって自分を肯定する必要はありません。自己肯定ではなく、自己受容です」と書かれる。この違いについて、以下のように説明
とはできもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけること。
自己受容とは「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前にすすんでいくこと。
227p
この自己肯定の説明もどうかと思う。
どうして「ありのままに受け入れ」るのは自己肯定ではないのか、英語からの翻訳の問題か?

228-229pではニーバーの祈りについて肯定的に書かれている。
ここで、著者=哲人は勇気の問題という風にまとめてしまうのだが、問題は勇気ではなく、知恵のほうではないかと思う。ほとんどの人は「変えることができる」と思うことができれば、変えるべく努力するのではないか。そして、ニーバーの祈り自体への疑問もある。そこで問われるのは本当に知恵と勇気なのか。変えられるかどうか、なんてわからないことのほうが多いのではないか、変えられるか変えられないかわからないけど、変えられるほうに賭けてみる、というような気持が重要な部分ってないだろうか?

他者貢献については以下のように書かれている。
他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるもの(238p)
ここは、まあ、そうだなと思う。

人生は線ではなく、点の連続(264p)

そして、この本で最後に書かれているのが、「ひとりの力の大きさ」
【世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わらない】(281p)
と書かれている。
ここでは『世界を変える』という言葉の意味が転換されているのではないか。変えることができないものとしての世界から変えることができるものへと見方を転換することは、ひとりでもできる。そして、変えようとしなければ変わらない。誰かが変えてくれるのを待つことはできるだろ。しかし、自分で変えようとしないものの前に現れるのは、変わった後の世界かもしれないが、それは別のかたちの抑圧的な世界であったり、いまよりさらにひどい世界かもしれない。
そういう意味で【世界とは他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わらない】とうことはできるかもしれない。

トロツキーと親交があり、トロツキストを妻に持ったアドラーはトロツキーのことをどう思ってたのだろう。それも気になる。最後に、ふと、そんなことを思った。

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