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zoom RSS 介助者たちは、どう生きてる?そして自分は?(たこの木ほんの紹介6回目)

<<   作成日時 : 2017/10/14 05:18   >>

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たこの木通信の「ほんの紹介6回目」に掲載した文章だけど、予定の1pを2p分も超過。
しかし、これはもっともっと長い http://tu-ta.at.webry.info/201604/article_7.html の部分でもある。
この読書メモが長くなったのは本に感動したからだし、まあ、必然でもあるかなと思う。

〜〜〜
介助者たちは、どう生きてる?そして自分は?
ほんの紹介6回目

 今回紹介するのは渡邉琢さんの『介助者たちは、どう生きていくのか 障害者の地域自立生活と介助という営み』(生活書院・2011年)。生活書院のHPの紹介ページにはこんな風に書いてある。
身体を痛めたら、仕事どうしますか? それとも介助の仕事は次の仕事が見つかるまでの腰掛けですか? あなたは介助をこれからも続けていきますか?
あまりがっつりと働かなくても、あまり高い収入でなくとも、とぼとぼと介助を続けていけたらいいと思う。そしてこのように介助をとぼとぼと続けていけるような仕組みが必要なのだと思う──障害者地域自立生活の現場を支えるために、介助者はどう生きていけばいいのか、生きていけるのか。
介護保障運動史、ホームヘルプ制度の中身、介護保障と「労働」問題まで、「介助で食っていくこと」をめぐる問題群に当事者が正面から向き合った、これぞ必読の書!


また、渡邉さん本人は自分の本を書評して
「本書は、『介助者たちは、どう生きていくのか』という、筆者個人の、自分自身に関わる問い・問題意識からスタートした本である。けれど本書で描かれているのは、「介助者」に関わることだけではない。実は、自立生活運動のある重要な一側面がこの本に描かれている、そういう読み方もできる」

と書いている。この本のどこを取り出して、書評にしようか迷っている。紹介したい部分がありすぎて、3ページになってしまいました。(岩橋さんコメン)

 いまの障害者の居宅介護の仕組みがどんな歴史の中で作られてきたかのテキストとしては、ぼくが知っている中ではいちばんいい本だと思う。介護に関わっている人にはもちろん読んで欲しいが、そうじゃなくて、施設などで障害者支援に関わっている人にも読んで欲しい本。例えば、青い芝に関するこんな記述。横塚さんの「母よ!殺すな」を引用した上で、以下のように書いてある。
・・・障害者だけが努力すればいいわけではない。また健常者だけが反省すればいいわけではない。障碍者、健全者を問わず、社会を構成する一人一人がこの社会のあり方、そして自分たちの意識のあり方を一から考え直していくことを求めているのだ。横塚はしばしば、「自己とは何か」「人間とは何か」と問うている。「障害者運動とは障害者問題を通して「人間とは何か」に迫ること、つまり人類の歴史に参加することに他ならないと思う」(123p)

 そう、この視点が必要なのだと思う。障害学が障害に関する学問ではなく、障害を切り口にあらゆる事象をみていく学問であるように、障害に関わる運動も、障害者が生きていくという先に社会全体の変革がイメージされていいのではないか。それがどのようにどの程度可能なのかはわからない。当事者からは、「そんなことまでかまっている余裕はない」という答えが来るかも知れない。しかし、やはりそれが必要だと言いたい。

 また、第5章 障害者運動に対する労働運動の位置と介護保障における「労働」という課題 では「働かざるもの人にあらず」という価値観が障害者を抑圧するという話が出てくる。これは長く障害者の雇用・就労にかかわってきて、ずっと考えてきたテーマだ。ぼくは誰もが「働ける」し「働く権利」を持っているという前提にたてばいいじゃないかと主張してきた。個人モデルではなく社会モデルで労働を規定すればいい、とも言えるかも。その人が働くことができないのは、インペアメントの問題ではなく、社会の問題だと問題を立ててみる。

 そういう意味で誰でも働くことはできるはずで、現状の「働ける」「働けない」という分断を無効にするような「労働の価値観」の転換が必要なのだ。逆に言えば、その労働の価値観の転換がなければ、働けない人は存在し続け、「労働」から排除され続ける。昔から主張しているが、その排除されている状況を前提に残したまま、「働かない権利」というようなことを主張するのは違うと思う。

次に「資格と専門性」について、こんな風に書かれていてほんとにその通りだと思った。
障害者の介助をするにあたって、たいていの場合、学校で教えてもらうような専門的知識はいらない。それよりもその人とちゃんと向き合い、その人の話が聞けるかどうか、そしてその人から信頼されるかどうか、そちらのほうが重要である。わからないことがあったら、その都度本人かだれかに聞いて試行錯誤すればいい。そのうち落ち着く。
 (中略)
 介助者・介護者に何らかの研修が必要だとしたら、それは、障害者の地域自立生活の保障のための研修だろう。現在のところ介護福祉士の講師陣には地域自立生活の保障に関わっている人はほとんどいない。研修課程の中にも地域自立のことはほとんど含まれていない。
私たちに必要なのは、現在地域生活が難しいとされている重度の知的障害者、身体障害者、高齢者がいかに地域生活を実現・継続していけるか、についての研修だろう。
あるいは、そのうち施設送りになりそうな障害者、高齢者がいかに地域で暮らし続けていけるか、それを学んでいくことが必要だろう。 338p


 6章補論1では株式会社などの民間事業所からの支援での自立生活について書かれている。そういう事業所では障害者のことを「ご利用者様」「お客様」として扱い、障害者本人の社交性をそいでしまうというような危惧も指摘される。

 自己決定の前提となる社会経験の問題も問われる。乏しい経験しかない中で、お客様として扱われ、自己決定を尊重するという美名のもとで成長する必要はなくなる。そのように
「お客様化が進展していく中で、もう一度障害者も事業所も介助者も自立や自己決定ということを考えたらいいと思う」
というのが渡邊さんのここでのとりあえずの結論となる。

 6章を振り返った部分の以下の問題提起も興味深い。
おそらく、自立生活運動は今分岐点に来ている。これまで自立生活、当事者主権ということで、運動が強く推進されてきたけど、現場では、むしろポスト自立の問題がテーマになっている。施設や親元を出る、それは確かに自立である。けれど、その先になにが待っているのか。現在、「無縁社会」、「孤立」が社会問題となっている時代である(さらに手のかかる患者などは病院から在宅への追い出しがはじまっている)。人とのつながりをいかにつくっていくかが新しい時代のテーマだろう。
自立は、「〜出る」ということだけが至上の価値ではない。やはり「出てその先」を求めて出るのである。その先の関係こそが自立の内実を決めていく。414ー415p
この後に渡邊さんは
「自己決定というだけではない自立の社会的側面にこそ、これからますます注目していかなければならないのだろう」(416p
)として、「施設、家族、健全者への依存を徹底して否定していく自立」
「新しい出会いを求めて相互変革していく自立や双方の思いやりを徹底させた自立」
この「両者のダイナミズムをまるごと見る必要がある」という。

 一人一人の暮らしの中にこのダイナミズムはあり、それは障害者の暮らしに限らない。ただ、そのダイナミズムを障害者の暮らしが可視化してくれるという側面もある。これは障害学の重要なテーマだと思った。

 この部分を花崎皋平さんの『生きる場の哲学』に即して書くと、人間には「自由の拡大」「類的共同性の回復」という二つの価値軸があるという話にいなる。渡邉さんが「自立」(生活)を考えて、
その両方の価値がせめぎあうダイナミズム
が見えてきたということかも。

 花崎さんはこの『生きる場の哲学』を1980年頃に書いて二つの価値軸のうち、後者の価値があまりにも顧みられない現代社会の問題を告発した。そこから40年近く経過して、21世紀という時代は、後者の価値をちゃんと社会の中に位置づけなければ、人類が類として、生き残っていくことさえ、困難になっている時代だと呼べると思う。
とはいうものの、この前者の価値を捨てていいわけではない。その両者の相克を生き抜くことは現代の重要な課題の一つだと言えるはず。その両者のダイナミズムを生きるということにどのような困難が存在し、また、どのようにそのダイナミズムを統合するのかという課題が、障害者の自立生活を考えていくことで可視化されるのではないか。
渡邉さんに限らず、自立生活の二つの側面のダイナミズムという課題をぜひ深めていって欲しい(他力本願だけど)。障害を切り口に現代社会全体が抱える問題を照射するという「障害学」の果たすべき役割が、そのあたりにもある。

「ケア」と「介助」について
渡邉さんは「その行為が外見的には同じに見えても、おそらく他者に対する意味合いがまったく変わってくるだろう」と主張し、以下のように書く。
「『介助者』は自分を消去し他者の手段となる存在である。他方「介護者(ケアラー)」は他者から求められ、他者を助ける存在である」
 ここは微妙だなぁと思う。おそらく、ここにつっこめば、それだけで1冊の本が書けそうなテーマだし、深田さんの新田論のテーマともつながるものだろう。どこまでこんなふうに分けることが可能なのか。そもそもこのように分けるためのメルクマールは何なのか。

 渡邊さんは「このどちらか一方だけを強調しすぎるのはとても危険である」として、見田宗介の「社会学入門」(岩波新書2006:173)での他者の二面性の部分を援用する(417p)。
 この2面性のダイナミズムは実際の暮らしの中で行ったり来たりして、失敗しながらも、つきあい続けるしかないようなものでもあるだろう。大きくいってしまうと、それが「生きる」ということなのかもしれない。
そして、こんな風にこの部分が閉じられる。
「わたしたちはそんなに上手に生きられないし、コミュニケーションだって得意ではない。すぐに新しいことに適応できるわけでもない。それでも、時間をかけてじっくりわたしを認めてほしい。そうしたつながりをゆっくりゆるやかにでもつくっていけたらな」

(大田福祉工場/原爆の図丸木美術館/ピープルズプラン研究所)

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