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zoom RSS 『中動態』って何?行動は意志が決めてる?? (ほんの紹介、12回目)

<<   作成日時 : 2018/01/26 04:48   >>

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先月(2017年12月)に、「たこの木通信」に送った原稿(ほんの紹介、12回目)

最後に2015年3月に猪瀬浩平さんが書かれていた
『直線、切断、接合、螺旋:ある知的障害をもつ人の旅をめぐる考察を通じた、世界の<変革>にむけた試論』
を少しだけ紹介。


〜〜〜〜〜
『中動態』って何?行動は意志が決めてる??
(ほんの紹介、12回目)

 今回、紹介する(というのはおこがましくて、そこから連想した)のは『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎著 医学書院)。今年6月に行った知的障害者の自立生活声明プロジェクトの集会でグッドライフの末永さんが紹介してくれたのがこの本。哲学者の名前や著作や引用がいっぱい出てきて、その部分はけっこう読むのに苦労するけど、そのあたりは飛ばして読んだ。

 で、まず、『中動態』って何っていう話。教わってきた英語の文法では、『態』っていうのがあって『能動態』(する)と『受動態』(される)に分けられていた。それが昔からそうだったわけではないとのこと。昔、ヨーロッパやインドの言葉で能動態に対応するのは中動態だったと書かれている。「する」でも「される」でもない、意志に関係なく「なってしまう」とか「やってしまってる」というようなことらしい。

 この本のなかにもいくつか例は出されているが、「する」でも「される」でもない例は他にもたくさんある。(ただ、この本にでてる例やWebなどで國分さんが提出している例は、ぼくにはわかりにくいものが多かったけど。)

 ここで問題にされるのは「意志」。意志によらない行動、しかしそれは決して誰かに「された」わけではないという話は多い。ぼくにわかりやすかったのは、歩くために足を出すという例。右足、左足と意識して出すことはない。

 で、問題は末永さんの提起を受けて、中動態と重度の知的障害者の自立生活をどう結ぶかという話になる。この本でも「選ぶ」「選択する」という行為が俎上に上がる。真っ白い空間で純粋に選ぶというようなことはない。それぞれが置かれている状況の中での「選ぶ」という行為。そこには意思も介在するが、意思とは関係なく選ばざるを得ない状況も多い。生まれ育った地域とは関係なく、知り合いもいない地方の入所施設への入所は「選ばさせられる」例だろう。これは『受動態』。

 地域での自立生活を重度の知的障害者が能動的に意思に基づいて『選ぶ』ことはあると思う。それを体験してみて、それが気に入って、それを手放そうとしないような場合はそんな風にも言えるかも。(これは能動態)

 同時に能動的でも受動的でもなく『そうなっていく』というような自立生活の始まり方もあるかもしれない。現状でそれを実現するためには周りの支援者のけっこうたいへんな努力も必要で、だからこそ、まだ例は少ないのだが、もっと自然にそういう暮らし方が選べるようになればいいと思う。中動態という面からは意志で選んだというニュアンスが強い『自立生活』という呼び方よりも、パーソナル・アシスタント(PA)付きの暮らしという呼び方がなじむかもしれない。

 そして、この間、このことを考えていて、思うのは大規模施設だけではなく、GH(グループホーム)でも、PA(パーソナルアシスタント)をつけた地域のひとり暮らしでも、形ではなく、その暮らしの中身が問われるのだろうということ。それは障害者の暮らしに限らない。

 選んだり、選ばされたり、あるいはそうでもない状況の中で自分はどんな暮らし方をしているのだろう。それを抜きに『重度知的障害者の暮らし方は・・・』みたいなことを声高に叫ぶのもおこがましい。自分を振り返ることも大切なのだ。もちろん、だからといって、いまでも多くの知的障害者が大規模収容施設に吸い込まれていくような状況は看過できないのだけど。

 あと、この本を読んで気になったのは、どうして『中動態』が欧州やインドの言葉から消えていってしまったのか、ということ。この本にそのことは書かれていなかったと思う。資本主義の発達や自由意思で登っていくことができる資本主義みたいな幻想と中動態が消えたことの相関関係があるんじゃないか。また、キリスト教などの宗教の影響が強い地域では自分の意志でなければ神の意志で動くというようなことにもなってしまうのかも。そのあたりのことも考える必要がありそう。
〜〜原稿ここまで〜〜

読み返すと、中途半端だけど、まあいいか。
それから、つい最近知ったのだけど、同じテーマで猪瀬浩平さんが
『直線、切断、接合、螺旋:ある知的障害をもつ人の旅をめぐる考察を通じた、世界の<変革>にむけた試論』
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/2484/1/PRIME_38_17-23.pdf
という文章を2015年3月にすでに発表していて、これはもっと具体的ですごく面白かったです。

で、この最初の注にぐっときました。
〜〜〜
(1)本稿は、<北>の思想が遅れたもの、まずしいものとして切り捨ててきた、<南>の思想の価値を一貫して探求してきた勝俣誠の情熱に連なり、西洋近代がもたらし、われわれの思考すらも支配してきた<理性>中心主義を批判するものである。
〜〜〜

上記の文章の社会モデル批判については
『障害学のリハビリテーション』メモ その1(書きかけ)
http://tu-ta.at.webry.info/201401/article_2.html
を補助線に使えるかもしれないと思いました。


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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
「選んだり、選ばされたり」という観点から障害当事者の暮らしをあれこれ語るのではなく、「中動態」という観点から、「実は選んでいる」「実は選ばされている」とみていくと、その過程は当事者個人にとどまらない様々な事柄が見えてくるように思います。

実は私、幼いころ「今なせ右足から出したのか?」「今なぜ左足が前にあるのか?」と真剣に考えたことがあります。
結局は、答えは出ない。

答えは出ないけど、
何かがあってそうなっている。
何かがなくてそうなっている。
のかもしれないということを考えていました。

例えば、
左に避けるために左足を出す。
もっとそばに寄りたくて右足を出す。
左に人がいたから右足を出す。
相手の足にぶつからないように考えて出す足を瞬時に選んだ。等々
(大人になって、利き足というものの存在も知りました)

答えが出ないものに対し、
答えはなくても、あれこれ考えてみる。

考える立ち位置が「中動態」ということなのではないだろうか?

「支援に正解はない」というのですが、
正確には「万人に通じる支援の正解はない」ということであって、
個々に目の前にいる当事者が求める支援やともにあり続けるための支援というものは個別に存在する。
しかし、
その個別の支援を「する/される」で見ていくと、
特別支援学校のようなものとなり、「する」側と「される」側とを生み出す。

あくまでも「中動態」を意識する中で「する」と「される」の狭間を行き来するところに、支援の何かがあるように思いました。
岩ちゃん
2018/01/27 09:10
岩ちゃん(さま)
コメントありがとうございました。
猪瀬浩平さんの
『直線、切断、接合、螺旋:ある知的障害をもつ人の旅をめぐる考察を通じた、世界の<変革>にむけた試論』も面白かったので、ぜひ読んでみて下さい。これは短いし、面白いのですぐ読めると思います。
tu-ta
2018/01/28 07:47
猪瀬さんの文章を読ませていただきました。
私もこのような経験を何度も経験する中で、
(見つかったから言えるを前提に)
24時間常に誰かと一緒にいる重度知的当事者が、一人で過ごした時間を「大冒険」や「支援からの逃走と解放」と捉え、
日常関わっている者誰一人その時間を知らない中で当事者がいかに過ごし、その出来事がその後にどう展開されるかに関心を抱いていました。
そして、無事見つかった当事者を前に、様々な関係の存在に気づく機会になりました。
岩ちゃん
2018/01/28 11:37

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