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zoom RSS 「日本の近代とは何であったか(岩波新書)」メモ

<<   作成日時 : 2018/04/14 23:09   >>

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『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』 (岩波新書) 三谷 太一郎著 2017/3/23

(読書メータに書き連ねたものをもとに)

2018年3月PP研で行われた戦後研での課題図書。ぼくは十分には読み切れていない。アマゾンに掲載されてる説明は「政党政治を生み出し、資本主義を構築し、植民地帝国を出現させ、天皇制を精神的枠組みとした日本の近代。バジョットが提示したヨーロッパの「近代」概念に照らしながら、これら四つの成り立ちについて解き明かしていく。学界を主導してきた政治史家が、日本近代のありようについて問題史的に考察する重厚な一冊」とある。


抜き書きした部分を見ると最後の方だけ。それはぼくの関心を物語っている。

序章で展開されるのは、バジョットが提示したヨーロッパの「近代」概念のキーワードとしての「議論による統治」。それが西欧近代を見るときの指標だと書かれているのだが、西欧においても、はたして、どれだけの人がその議論に加われたのだろう。

聞いた話によると、著者は現天皇にも講義する本体の意味での「御用学者」(っていうか「御用達学者」というべきか)。 現天皇がそれなりにリベラルである根拠がこのあたりにもあるのかもしれないとも思ったがこの天皇制解釈へのアキヒト氏の感想は聞いてみたい。

・・・抜き書き1・・・
しかし、従来の「アジア文化」の希薄性を示すさまざなの歴史的事実にもかかわらず、「アジア文化」を今日の課題として論ずることは決して無意味ではありません。特に日本にとって、アジアは単なる地理的概念ではないのです。今日の日本がアジアの近隣諸国の世論や経済の動向に大きく影響されているということは、日本人の誰もが実感していることでしょう 。その意味で「アジア」は日本にとって、生活の現実に裏付けられた概念です。「文化」はこのような生活の現実から生まれます。202p


・・・抜き書き2・・・
日本の憲法起草責任者伊藤博文は、仏教を含めて既存の日本の宗教の中にはヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものを見出すことはできませんでした。 伊藤によれば、我国にあっては宗教なる者の力が微弱であって、一つとして「国家の機軸」たるべきものがなかったのです。 そこで伊藤は「 我国にあって機軸とすべきは独り皇室あるのみ」人の断案を下します。「神」の不在が天皇の神格化をもたらしたのです。216p


・・・抜き書き3・・・
天皇制はヨーロッパにおけるキリスト教の「機能的等価物」とみなされたのです。その意味で日本における近代国家は、ヨーロッパ的近代国家を忠実に、あまりにも忠実になぞった所産でした。 日本近代の推進力であった機能主義的思考様式が最も典型的に貫かれているのを見ることができます。217p


・・・抜き書き4・・・
立憲君主としての天皇が勅語によって教育の基本方針を示すということは 、いかなる形において許されるかを苦慮した井上(毅)は、教育勅語を天皇の政治上の命令と区別し、社会に対する天皇の著作の公表とみなしたのであります。そしてこのような論理操作によって、勅語を立憲主義の原則と強引に整合させようとしたのです。 239-240p


・・・抜き書き5・・・
象徴天皇制は将来に向かっていかにあるべきなのか、天皇は自らの意志を主権者である国民に対して直接に伝えることが可能なのか、可能であるとすれば、それはいかなる方法によるべきなのか、この問題は既に述べたように、・・・1890年に「教育勅語」を天皇が自らの意思表示形式で当時の臣民に対して直接に伝達するに際して、「教育勅語」と憲法の両方の起草に深く関わった法制局長官井上毅が最も脳漿を絞った問題でした。今やそれは現天皇の知直面する問題であるとともに、主権者である国民全体の問題でもあるのです。246p


この本がでたのが、17年(H29)の3月で天皇が退位に言及したのが平成28年8月8日、執筆時期を考えると微妙なタイミング。こここのくだりで28年8月の「お言葉」について、言及されていないのは確かに不自然。これに関する記述を入れるかどうかという議論はたぶん、著者と編集者との間でされたうえで、結局、入れなかったのだろうと思った。

・・・抜き書き6・・・
日本の近代は一面では極めて高い目的合理性を持っていましたが、多面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性を持っていました。過去の戦争などにおいては、利用者が直接に結びつく場合もありました。今日でも政治状況の変化によっては、 そのような日本近代の歴史的先例が繰り返されないとは限りません。疑似宗教的な非合理性が儀式と神話を伴って再生し、それに奉仕する高度に技術的な合理性が相伴う可能性は残されています。 252p



ちなみに、ここでの抜書はほぼ全て音声入力によっているので、間違いはあるかも。音声入力が間違っているところは訂正しているつもりではある。しかし最近の Google 音声入力は結構進化していて修正すべきところがとても少ない。しかし、まだ問題も残っていて、句読点やかっこは入力できない。

・・・抜き書き7・・・
すでに幕末に福沢諭吉によって鼓吹されていた「文明開化」や「富国強兵」のスローガンとともに、幕末の近代化路線は、ほとんどそのまま明治政府によって継承されました。明治維新の戦後で権力の交代はありましたが、権力の路線は連続していたのです。253p
「尊王攘夷」の「攘夷」がいつ消えたのか、ということを日本史で習った記憶がないことに気がついた。聞き洩らしただけかもしれないけれど。

・・・抜き書き8・・・
・・・。戦後日本は国民主権を前提とする「強兵」なき「富国」路線を追求することによって、新しい日本近代を形成したのです 。
もちろん戦後においても、防衛省設置にいたる日米安保体制下の自衛隊の新設や増強を通して、事実として強兵化は行われました。しかし1005においては、「強兵」が「富国」と結びついた国家目標として掲げられたことは一度もありませんでした。・・・「強兵」なき「富国」路線が様々の紆余曲折を貫いて、戦後日本の新しい近代化路線として定着したのです。 254p
では、いま起きている「強兵」をどう位置付けるか?

256ページでは「これからの日本が歩むべき道」として以下のようにが書かれてる。
「…今後必要なことは、 かつて日本近代化を支えた社会的基盤を、さまざまの具体的な国際的課題の解決を目指す国際共同体に置き、その組織化を通して、グローバルな規模で近代化路線を再構築することではないでしょうか。そのためには、何よりもアジアに対する対外平和の拡大と国家を超えた社会のための教育が不可欠です。」
「グローバルな規模で近代化路線を再構築すること」という風に単純には言えないだろう。近代化がもたらしたさまざまな問題を抜きに近代化は語られないはず。このあたりに著者の議論の大きな弱点が含まれているのではないかと思った。 しかし、同時に「何よりもアジアに対する対外平和の拡大と国家を超えた社会のための教育が不可欠」という処方箋はその通りだと思う。アジアの国々が、いわゆる「先進国」がしてきた近代化の失敗を避けるためにこそ、日本のこのような政策が求められているのだと思う。

著者の「日本の近代とは何であったか」という問いへのひとつの回答は先に引用した「一面では極めて高い目的合理性を持っていましたが、多面では同じく極めて強い自己目的化したフィクションに基づく非合理性を持っていました」(251p)という部分だろう。

ところで、あまり気にしていなかったが、このサブタイトルの「問題史的考察」の「問題史」とは何か。「歴史研究・叙述の方法の一。歴史的事象の特定の側面を取り上げて、その歴史的変化を追究するもの」(デジタル大辞泉)
それを「問題史」というのか、わかりにくいネーミングだなぁ。

確かにこの本、近代に関する考察として、興味深い点は多い。とりわけ、天皇制が持つフィクションの話などは、神話が跋扈しがちな昨今の日本でもっと強調されるべきだろう。しかし、物足りないのは近代から一歩も出ていない部分。近代の限界がどこにあるのか、近代は本当に超えられないのか、超えられるのか、そこを著者はあえて、避けているようにも感じる。大物の歴史学者(学界を主導してきた政治史家)は軽々に近代の限界とか近代を超える、とかポストモダンとか言ってはいけないのかな?


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