グローバリゼーションの話から福祉工場の話へ

アップロードするのに何か適当なものはないか、とハードディスクを覗いていたら、2003年の8月に労働組合の新聞に書いた原稿が出てきた。安直だけど、バックアップを兼ねてそのままアップロードします。


===以下、転載==

グローバリゼーションの話から福祉工場の話へ

  続きのはじめに

 ずいぶん長い休載になってしまいました。前号の続きで経済のグローバリゼーションの話を書くことになっています。いろんなグローバリゼーションがあるということは以前書きました。とはいうものの、書いてるぼくが忘れているくらいだから、読んでる人はとーっくに忘れているとは思います。例外的に覚えている記憶力のいい人には繰り返しになるかもしれませんが、今回はとりわけ、「グローバリゼーション反対運動」が反対しているのはグローバリゼーション一般ではなく新自由主義的な経済のグローバリゼーションだということをはっきりさせておきたいと思います。みなさんも気づいていると思うのですが、グローバリゼーションという言葉は肯定的に使われることのほうが多いと思います。世界中のいろんな人と出会うことができるようになったり、北の国が南の国に押し付けている犠牲がちゃんと見えるようになってきたのも、グローバリゼーションのおかげなのです。もちろん、グローバリゼーションが問題で南の国に犠牲がより、押し付けられているのですが。


 新自由主義グローバリゼーションに反対するとはどういうことか?


これを稲葉奈々子さんが的確に説明しているので引用します。

==
新自由主義的、つまり、貿易はもとよりあらゆる分野に市場原理が適用される傾向に対して、市民の側から異議が申し立てられたわけである。そこにはエコロジスト団体、労働組合、人権擁護団体、開発途上国と連帯する団体などさまざまな団体の参加がみられた。従来は公共サービスとして提供されてきたものを市場原理に委ねることで、医療、住宅、教育、水道、交通手段、郵便などあらゆるサービスが購入の対象となる。基本的人権にかかわるようなサービスすらも、カネで買う対象とすることに、これらの人々は異議を申し立てている。
==

 つまり「新自由主義グローバリゼーション」のもとで、基本的人権にかかわるようなサービス(代表的なものが水や医療です。)までもがカネで売り買いされる対象になることで、そこにたどりつけない人がでてくるということです。大岡君という若い知り合いが言っていたことですが、バブル期のすこし前くらいに流行した「マル金、マル貧(ビ)」という言葉にはしゃれが含まれていたが、最近、ときどき使われる「勝ち組、負け組」という言葉にはしゃれはないのです。こういう社会で不安定雇用が横行し、大量の失業者が生み出されます。少し前まで余っていた失業保険の財政は底をつき、保険料率は上がり、給付は下がります。本当に腹が立つのは、この雇用保険の財政が少しだぶついていたころ作った豪華なホテルなどが二束三文で叩き売られ、そこでもその政策責任者の責任が問われることもないということです。

 さて、この「自由競争」、・・・とはいうものの、さまざまな手法・政策で大企業の利害はかなり守られているようです。大銀行、ゼネコン、大手スーパーの救済。しかし、そこでは誰かがきっちり責任を問われていないようには見えません。また、グローバリゼーションの中で税金のかからない国へ資産を逃がして、税金を逃れている企業も少なくありません。公的資金の導入を受けたところの責任者や雇用保険での豪華設備を叩き売らざるをえなくした政策責任者の実質年収はせめて、大田工場の平均年収くらいに収めて、あまった額はちゃんと返して欲しいものです。ぼくとしては、そういう奴は風呂なしアパートに住んでみろと言いたいところです。(ほんとはぼくの住んでる家賃5万円の風呂なしアパートだって、結構快適なんです。へへ。)とにかく、このカッコつきの自由競争が日本を含む世界中で大手をふって歩き回ることで、生活を脅かされる人が、ものすごく大量にいるわけです。それは南の国ばかりではなく、北の国の中にも。


 新自由主義を推進する国際機関

 そして、そんな新自由主義グローバリゼーションを推進する代表的な国際機関として、WTO(世界貿易機構)があります。これは1994年に生まれたばかりの国際機関ですが、ここでは非常に不透明な形で新自由主義経済を推進するためのルールが決められつつります。また、その一方で、この機関は「知的所有権保護」ということもテーマにしています。しかし、そこで決定されるルールで命にかかわる薬の特許権を優先し、それがもっとも必要な国々でエイズ治療薬にアクセスできないというような事態が生じています。一定の緩和策は考えられてはいますが、まだまだ不十分だと言わざるを得ません。今年、九月メキシコのカンクーンというところで、世界の閣僚を集めた会議が開かれます。これは反グローバリゼーション運動が世界の注目を集めることになった一九九九年のシアトルの会議(反対運動がそこでの無理な合意を阻止したことで有名です。)それに続く、二〇〇一年のドーハでの会議に続くものです。世界の運動がこの成り行きに注目しています。(これを書いているのが八月一九日です。)

 また、IMF(国際金融基金)や世界銀行といった国際金融機関もこの新自由主義グローバリゼーションの推進役です。これらは金のある国の金を集めて、足りない国に融通するために作られた国際機関なのですが、その取立てのためのえげつなさが指摘されています。借金を待ってやる代わりに「構造調整」をやりなさいというのが有名な「構造調整政策」(SAPs)なのですが、これは借金を返済するための外貨を稼ぐために、予算の中の社会保障や教育などの部門を削りなさいという政策でした。さすがに、この政策はとても評判が悪かったので、表向きには影をひそめ、最近は「貧困削減計画」の策定などを義務付けているようですが、外貨を稼げるようにするという体質は変っていないようで、ぼくには根本的に何かが変ったようには思えません。

 さらに、そのような国際機関の帰趨を決している、いわゆる大国のほとんどが武器輸出国だということも考えなければなりません。武器兵器産業から自給用の食糧生産のための適正技術や人々が生きていくための適正な医療や教育に転換することで、どれだけの命が救えるだろうかと思うのです。

そして、日本のこと、これからのこと

 そして、この日本です。小泉改革というのは、ほとんどが、さきほど少し例をあげた、この新自由主義改革です。そして、その政策がことごとく外れているのも、みなさん、ご存知の通りです。小泉首相は新自由主義的な改革か、利権を守るための抵抗勢力か、というわかりやすい二者択一しか提示しないのですが、それ以外の道があることをちゃんと考えなければならないと思います。

 具体的な政策を提示する時間も紙面も、そしてこれが決定的なのですがその能力もないので、この世界がどういう方向へ向かうことが必要なのかということについての考えだけを書いておきます。ずーっと前から、言われていることではありますが、豊かさの意味を考え直さなければならないのだと思います。世界中の人が日本や合州国のような暮らしが出来るようになるには地球が何個も必要だと言われています。そうではなくて、世界中の人ができるだけ共通に分かち合うことができるような社会を考えたいものです。

 なんでも、より早く、よりたくさん、より大きくというような価値観からの転換が必要、というようなことは、ずーっと前から言っている人はたくさんいるわけです。問題は実際にそうなっていかないのはなぜか、ということなのでしょう。確かに資本主義の世界システムの中でそれにまったく乗らなければ、例えば私たちの工場だけを考えても、生き残っていくことは困難です。だから、大切なのはその効率とか拡大とか生産性とかだけではない(それを否定しているわけではありません)、社会全体の価値観の転換なのですが、それはただ待っていても来ません。私たちの工場がどう生き延びていくのかということを考えながら、従来の価値観を超えた価値の実現ということとの折り合いをつけていくことを考えていくしかなさそうです。こう書くととても簡単なのですが、この「折り合い」というのはけっこう難しそうです。

 しかし、幸いにもここは「福祉工場」です。その折り合いをどうつけていくか、というところが問われている工場だと言っても過言ではないのではないでしょうか。一人ひとりが持っている力をちゃんと発揮することは前提ですが、いろんな意味で力の差はどうしてもあるわけです。その差を認め合って、工場の中で障害者手帳を持っている人もそうでない人もみんなが働く空間を作っていくこと、それが可能なのかどうかが問われています。これには「働く」ということの意味の捉え返しも必要だし、前提という風に書いた「一人ひとりが持っている力を発揮する」ということをどう検証し、みんなが認め合っていくのかも課題です。この工場から発信することができる新しい「価値観」というようなものが本当にあるのかどうか、これからも考え続けたいと思っています。


==転載ここまで==



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック