イリッチによるサブシステンスの視点

サブシステンス・アンソロジーからの転載その2
かなり前に抜書きしたものに若干補足


環境・平和研究会のメンバーでサブシステンスをテーマにR大学で一般教養にあたる授業を行って数年になる(中断はあった)。(授業のタイトルは「平和学から見た環境問題」)これから転載するアンソロジーは、その授業を始めようとしている時期に環境・平和研究会のMLに投稿したものがベースになっている。当時ぼくはは玉野井さんにならって、イリイチと表記していた(というかその表記を疑いもしなかった)が、萩原さんのイリッチ批判の本を読んでから、だんだんイリッチと表記するようになった。

いま(2006年5月)初めて気がついたのだが、81年に書かれた「シャドウ・ワーク」が翌年には訳出されている。このスピードはすごい。さらに訳者の解説の中で玉野井さんは80年にイリッチが来日し、翌年早々にはこの訳書刊行が本決まりになったとある。81年に原著が出版されたにもかかわらず、81年早々に、というこの早さは何を意味するのだろう。今度、栗原さんに会う機会があったら、聞いてみたいものだ。


==以下、補足を加えて転載==
ここに掲載するにあたって書き足した部分は黄色いマーカー、引用部分は主に斜体。

イリイチ「シャドウ・ワーク」(玉野井芳郎・栗原彬訳)岩波書店1982年から
===
・・・。私は、正規の経済学の諸概念からも、また生活文化の研究で人類学が用いる諸概念からもすり抜けてしまう影の特徴を記述してみたい。十九世紀初めの歴史を見てみると、貨幣化の進展とともに、貨幣化されない補足的なもう一つの領域が発生していることに気づく。これら二つの領域とも、それぞれがちがったふうにではあるが、いずれも産業化以前の社会に一般的だった領域とは異なっている。二つの領域はともに環境にそなわる利用上の大切な価値を劣化させる。つまり、双方とも、人間生活の自立と自存の基盤を破壊するのである。(「人間生活の自立と自存」の部分にサブシステンスというルビ) 2p
==

訳者の玉野井さんは解説の中で
==
subsistence・・これはすでにイリイチ理論の先達ポランニーが重要視していた用語であり、市場経済、産業経済に対置されるキーワードであるが、これの含意する内容もかなり多義的である。地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味であると解される。それゆえこの言葉には「人間生活の自立・自存」といった訳語をひとまずあてておいた 285p
===
と書いています。


また、イリイチ自身の注では
==
サブシステンス(人間生活の自立・自存)(一九二頁への注)

私はこの用語を使うべきだろうか。この言葉は数年前までは、英語では「サブシステンスの農業」という使い方によって独占されていた。これは辛うじて生存している数十億人の人々のことを意味した。開発当局はこの運命から彼らを救うべきものとしている。あるいはこの言葉は、一人の浮浪者がドヤ街でやっと生きてゆく最低限を意味した。また、最後には、賃金とも同一視された。これらの混乱をさけるために、「公的選択の三つの次元」のなかで、私は「ヴァナキュラー」という用語の使用を提唱した。これは商品というものの反対概念として・・(中略)・・

私はヴァナキュラーな活動とヴァナキュラーな領域について話したい。にもかかわらず、ここでは私はこの表現をさけようとしている。なぜならこのエッセイだけで「ヴァナキュラーな価値」を読者に熟知させることを期待することはできないからだ。
(しかし、この本の第二章を参照せよ。)使用価値を中心とする活動、非金銭的な取引、埋めこまれた経済活動、実体=実在的な経済学、これらはすべて、これまで試みられてきた用語である。私はこの論文では「サブシステンス」に固執する。たとえ経済活動が支払われようと支払われまいと、私は、形式的な通常の経済の意のままになっている活動にサブシステンス指向の活動を対置させようと思う。そして、経済活動の範囲内で、賃金と<シャドウ・ワーク>が照応するフォーマルな部分とインフォーマルな部分の区別をしようと思う。
・・・(以下略)・・・
245-6p
===
この解説のもとになった192pから193pにかけてはシャドウワークはサブシステンスの活動ではないということを強調しています。それはサブシステンスではなく、形式的な経済を支えるものだ、となっています。

「賃金と<シャドウ・ワーク>が照応するフォーマルな部分」という表現も当時は読み過ごしていたが、一筋縄ではいかない部分なのではないかと、思い返している。このすぐ上に「形式的な通常の経済の意のままになっている活動にサブシステンス指向の活動を対置させようと思う」という表現がある。「形式的な通常の経済」=「フォーマルな部分」となるのだろうか?ここでのフォーマルとインフォーマルの区別を何に求めたらいいのだろう。


===
・・・。産業社会にとっての特有の支払われない労働が、私のテーマである。たいていの社会では、男と女は一緒に、自分たちの家族をささえる生活の自立と自存を、支払われない労働によって維持し、よみがえらせてきた。家庭の維持それ自体が、その存在に必要とするものの大部分をつくっていたのだ。こうしたいわゆる生活の自立と自存の諸運動は、ここでの課題ではない。私の関心は、まったく異なった形の支払われない労働である。この種の支払われない労役は生活の自立と自存に寄与するものではない。まったく逆に、それは賃労働とともに、生活の自立と自存を奪いとるものである。賃労働を補完するこの労働を、私は<シャドウ・ワーク>と呼ぶ。・・・・。
  ・・・・。
 <シャドウ・ワーク>の本質をつかむためには、われわれは以下の二つの混同を避けねばならない。第一にそれは、人間生活の自立・自存の活動ではないということである。社会的な人間生活の自立・自存ではなく、形式的な経済をささえるものだ。

192-3P

また、206-7頁では
「サブシステンスのための苦闘はどうして突如捨て去られることになったのか。この苦闘の終焉はなぜ知られることがなかったのかという問い」に、「シャドウワークの創出と女性は本来家事労働をする運命にあったという理論に光をあてることによってのみ明らかにすることができる」と書いています。
==
男性が・・・労働者階級へと仕立てあげられていった一方で、女性は社会のフルタイムの子宮として内密に再定義された。哲学者と医者は結託して、女性のからだと心の真の性質をめぐって社会を啓蒙した。この女性の「本質」という新たな概念は、女性を現実の家庭の中で活動するように運命づけたが、ここでいう家庭とは・・・・。すなわち、生活の自立と自存にささえられた世帯の維持に実質的に寄与するものをすべて締め出す一方、それと同じくらい有効に女性の賃労働を冷遇するような、家庭である。・・・。
  民衆の側における生活の自立・自存(サブシステンス・引用者)にたいして、ブルジョアの仕掛けた撲滅運動は、下層の平民大衆が、経済的に別々にされた男性と女性からなる、清潔な生活をいとなむ労働者階級に変化したときにはじめて、大衆の支持をかちとることができた。この階級の一員として、男性は自分の雇用主と共謀・・・。両者はともに経済の拡張に関心をもち、人間生活の自立・自存の抑制に関与したのだった。
206-7P
==
とあります。

と、ここまで書いたのを読み返してみて、アンペイドワークとシャドウワークとサブシステンスの関係が理解できていない自分に気付きます。
もう一回整理し直します。
産業社会にとって特有の支払われない労働・・・シャドウ・ワーク
たいていの社会では男と女はいっしょに自分たちの家庭をささえるサブシステンスをアンペードワークによって維持してきた。
(このたいていの社会に産業社会はどうも含まれないようで、ここにぼくの誤読の原因がある。)

「ここでのテーマは産業活動にとっての支払われない労働であり、それがサブシステンスを維持してきたのだが、それ自体はここでのテーマではない」という風に解釈してきたのですが、これはとんでもない間違いです。 「(産業社会特有の)シャドウワークはサブシステンスに寄与しない。まったく逆に賃労働とともにサブシステンスを奪い取るもの」と書いています。

といわけで、賃労働とシャドウワークがサブシステンスを奪い取るものだとしたら、当然、コンビニエンスストアもサブシステンスを奪い取るものということになりそうです。

(これを書いた当時、「コンビニがなければ生き延びることが出来ないような暮らしをしている人間(当時はぼくもそうだった。)にとって、コンビニはサブシステンスか」という問いが環境・平和研究会で提出されていた。いま(2006年)、思い直すと、価値を含ませない言葉本来の意味でのサブシステンスを支えるものとしてコンビニという用法は誤っていないと思う。しかし、サブシステンスという言葉に志向すべき価値というような意味合いを含ませたときに「コンビニはサブシステンスを支える」と単純には言えなくなる。サブシステンスという価値理念に「循環性」や「持続性」というような意味を持たせるからだ。)

このように読んでいくのと、この言葉の英語圏でのこの言葉の使い方と、イリイチが指向して、使おうとしたサブシステンスを分けて説明した方がいいんでしょうね。
ここで、玉野井さんの定義に戻るのですが、「地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味」と言うときの生活の自立・自存というのは何を指しているのでしょう。自給自足ではないわけです。資本や賃労働に支配されないという含意は見えるのですが、どうもうまくイメージできません。

ここも再考してみる価値があるかもしれないと思う。自立はともかく、「自存」っていったい何なのだろう。

大辞泉
じ‐そん【自存】
1 自分の生存。
2 他の力に頼らず自らの力で生存していくこと。「―自衛」

大辞林
じそん 0 【自存】
1 自己の生存。
2 自力で存在すること

辞書で引いただけでは、もうひとつわからない。「依存しないで生きようとすること」というような意味だろか。
「東條英機が、戦後、東京裁判で主張した「自存自衛」という戦争目的」というような使われ方もある。


「地域の民衆が生活の自立・自存」という表現は、玉野井さんが解説で引用しているイリイチの次のような確信と関係しているのだと思います。
「自分としてはとくに、人類の三分の二が現代の産業時代を経験するのを避けることが、いまでも可能であるということを明らかにしたい。」つまり、産業時代のさまざまな文明に依存しないような生き方が可能ということでしょうか。しかし、1973年のこの発言を彼は今でも保持出来るかどうかは疑わしい部分もあるように思います。産業社会のキラキラした見せかけの魅力の浸透力に抵抗できるような価値観を、どんな風に獲得できるというのでしょう?

産業社会に溺れそうな私たちが、とんでもない富と便利さを手にしながら、これはつまらないものだから手にしない方がいいよと言いえるのでしょうか。

ま、とにかく、そんなこんなで玉野井さんの書いてる
「地域の民衆が生活の自立・自存を確立するうえの物質的精神的基盤というほどの意味」というのもわかったようでわからなかったりします。

で、話が行ったりきたりするのですが、イリイチの文脈でのサブシステンス概念を平和学と環境という文脈にどのように位置づけて何を見ようとしているのかを明確にする必要があると思います。
それをどう学生に伝えるかは別の話でしょうが、とりあえず、研究会として何を見ようとしているのかは明確にする必要があるのではないでしょうか。もしかしたら、それはすでに明確で知らないのは私だけかもしれませんが。


で、つらつら考えるに
ちゃんとやろうとしたら、サブシステンスを説明するだけで1年間かかっちゃうような気もします。


どうして、私たちがサブシステンスにこだわりたくなったのかというようなことを明確にすること、その上で半年の講義の中で、そのこだわりが少しでも立体的に感じることができるようなことというのが講義での獲得目標になるのでしょうか?


==転載ここまで==

授業を始めて数年を経て、このタイトルは変わっていないし、テーマもだいたい似たようなものだ。テキストは途中で完成し、変わっているが。その間に、サブシステンスという考え方はすこしだけ広がってきたようにも思う。まだまだ、マイナーではあるが。





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