「生きていることの肯定」への のざりんさんからのコメントについて
以下、環境平和研究会のMLに書いたものに大幅に書き加えたものです。
(タイトルなどを28日に変更しています)
のざりんさんがブログに軍縮地球市民の環境平和学特集の「生きていることの肯定」などについて感想を書いてくれました。以下、少し抜粋して掲載します。
■[memo] 「生きていることの肯定」他
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20061026/p1
===
僕としてはもう少し「能力主義」、「分配的正義」、「社会政策」あるいは「障害の文化モデル」を視野に入れながら、「障害を哲学するとはどういうことか」について考えてみたい。青い芝の会、セン、障害学を思想的に組み込みながら。
センの話にひきつければ、同じ本の鴫原敦子さんの「アマーティア・センと環境問題」も非常に興味深い。鴫原さんは、センの主張の「自由の拡大は選択肢の拡大によって示される」ことに着目し、開発による負の側面、すなわちオリエンタリズム的な「西欧諸国のライフスタイルや消費文化」が、ただ押し付けられるだけの「開発主義」にも警鐘を鳴らす。
==以下、鴫原さん論文から引用==
そもそもの開発が、先進国主導で「市場経済化」「近代化」を推進しようするものだった以上、その社会で共有された価値基準が改変されることは度々ある。人々の欲望の編成がそこでなされていくからだ。
==鴫原さん論文からの引用ココまで==
鴫原さんは、私たちの「欲望の複数性」をきちんと見ているような気がする。森岡さんが『無痛文明論』で示した、どこか一枚岩的な(大文字の)欲望*1ではなく、欲望もまた変わり得るものだということにもまた読めるように僕は思う。
==ブログからの引用ココまで==
のざりんさん、ここに引用した部分の少し前でぼくが書いたのを誉めてくれていて、素直にうれしい。
ぼくが書いた「生きていることの肯定」という問題の立て方は、少し前のブログにも書いたのだけれど、のざりんさんに触発された部分は少なくないです。
たとえば、のざりんさんの博士論文の序章がブログに掲載されています。
■[ethics][memo] 博士論文序章
「障害者の生の肯定と「留保なき生の肯定」」
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060722/p1#c
ぼくは自分自身に関して言えば、生きてることにいろいろ留保をつけながら、それでも肯定したいと思います。何かの機会に(メールがWebで)野崎さん本人にも「留保なき」って難しいんじゃないの?っていう質問をぶつけたこともあり、野崎さんから、不可能なほど困難だけれども、あえて、このように問題を立てるというような返事をもらったように記憶しています。その理由もこのレスポンスには記載されていたと思うのですが…。
のざりんさんが書いてくれた
==
「能力主義」、「分配的正義」、「社会政策」あるいは「障害の文化モデル」を視野に入れながら、「障害を哲学するとはどういうことか」について考えてみたい。
==
という部分、またこれに触発されます。ぼくが考えていきたいと感じている方向性もここから少し明確になりました。本当に感謝です。
ぼくとしても「能力主義」とは何かという課題はもう少し考えていく必要があると思っています。工場の中ではやはり「能力」の有無を無視するわけにはいきません。どうすれば、コストをかけずにいい仕事ができるか、というこは常に問われます。それは「技術革新(イノベーション)」の問題にもつながります。働く人や地球の負担を減らす技術革新は工場で必要とされます。しかし現状では技術革新は価格競争の激化を生むだけで、抑圧を深めることが多いのも事実です。
工場で働く人間として「生きていることの肯定」を前提としながら、能力主義や技術革新をどうとらえるのか、というのは大きな課題です。
また、分配の問題も工場で働いているとリアルな問題です。これは能力の問題とも結びつきます。現状では経済的な動機だけがクローズアップされ、人間の共同性のようなことがほとんど無視される新自由主義が跋扈する社会です。そこがまず変えられなければなりません。そのことをサブシステンスという考え方とつなげています。しかし、人間から経済的な動機を抜き去ることができないのも事実だと思います。人間から経済的な動機というモチベーションを完全に抜き去った状態を想定することは難しいのではないかと考えます。そのことは即、配分の問題につながります。工場内の賃金の配分の問題でもあるし、社会における税金を通した配分の問題でもあります。「配分的正義」という考え方について、ほとんど何も知らないのですが、ここでも「生きていることの肯定」と配分をどう考えていくかという課題はあると思います。
それらは「生きていることの肯定」を考えていく上で欠かせないことと言えるかもしれません。
また、鴫原さんのセンに関する文章については、できれば別にコメントしたいと思っています。
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(タイトルなどを28日に変更しています)
のざりんさんがブログに軍縮地球市民の環境平和学特集の「生きていることの肯定」などについて感想を書いてくれました。以下、少し抜粋して掲載します。
■[memo] 「生きていることの肯定」他
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20061026/p1
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僕としてはもう少し「能力主義」、「分配的正義」、「社会政策」あるいは「障害の文化モデル」を視野に入れながら、「障害を哲学するとはどういうことか」について考えてみたい。青い芝の会、セン、障害学を思想的に組み込みながら。
センの話にひきつければ、同じ本の鴫原敦子さんの「アマーティア・センと環境問題」も非常に興味深い。鴫原さんは、センの主張の「自由の拡大は選択肢の拡大によって示される」ことに着目し、開発による負の側面、すなわちオリエンタリズム的な「西欧諸国のライフスタイルや消費文化」が、ただ押し付けられるだけの「開発主義」にも警鐘を鳴らす。
==以下、鴫原さん論文から引用==
そもそもの開発が、先進国主導で「市場経済化」「近代化」を推進しようするものだった以上、その社会で共有された価値基準が改変されることは度々ある。人々の欲望の編成がそこでなされていくからだ。
==鴫原さん論文からの引用ココまで==
鴫原さんは、私たちの「欲望の複数性」をきちんと見ているような気がする。森岡さんが『無痛文明論』で示した、どこか一枚岩的な(大文字の)欲望*1ではなく、欲望もまた変わり得るものだということにもまた読めるように僕は思う。
==ブログからの引用ココまで==
のざりんさん、ここに引用した部分の少し前でぼくが書いたのを誉めてくれていて、素直にうれしい。
ぼくが書いた「生きていることの肯定」という問題の立て方は、少し前のブログにも書いたのだけれど、のざりんさんに触発された部分は少なくないです。
たとえば、のざりんさんの博士論文の序章がブログに掲載されています。
■[ethics][memo] 博士論文序章
「障害者の生の肯定と「留保なき生の肯定」」
http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060722/p1#c
ぼくは自分自身に関して言えば、生きてることにいろいろ留保をつけながら、それでも肯定したいと思います。何かの機会に(メールがWebで)野崎さん本人にも「留保なき」って難しいんじゃないの?っていう質問をぶつけたこともあり、野崎さんから、不可能なほど困難だけれども、あえて、このように問題を立てるというような返事をもらったように記憶しています。その理由もこのレスポンスには記載されていたと思うのですが…。
のざりんさんが書いてくれた
==
「能力主義」、「分配的正義」、「社会政策」あるいは「障害の文化モデル」を視野に入れながら、「障害を哲学するとはどういうことか」について考えてみたい。
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という部分、またこれに触発されます。ぼくが考えていきたいと感じている方向性もここから少し明確になりました。本当に感謝です。
ぼくとしても「能力主義」とは何かという課題はもう少し考えていく必要があると思っています。工場の中ではやはり「能力」の有無を無視するわけにはいきません。どうすれば、コストをかけずにいい仕事ができるか、というこは常に問われます。それは「技術革新(イノベーション)」の問題にもつながります。働く人や地球の負担を減らす技術革新は工場で必要とされます。しかし現状では技術革新は価格競争の激化を生むだけで、抑圧を深めることが多いのも事実です。
工場で働く人間として「生きていることの肯定」を前提としながら、能力主義や技術革新をどうとらえるのか、というのは大きな課題です。
また、分配の問題も工場で働いているとリアルな問題です。これは能力の問題とも結びつきます。現状では経済的な動機だけがクローズアップされ、人間の共同性のようなことがほとんど無視される新自由主義が跋扈する社会です。そこがまず変えられなければなりません。そのことをサブシステンスという考え方とつなげています。しかし、人間から経済的な動機を抜き去ることができないのも事実だと思います。人間から経済的な動機というモチベーションを完全に抜き去った状態を想定することは難しいのではないかと考えます。そのことは即、配分の問題につながります。工場内の賃金の配分の問題でもあるし、社会における税金を通した配分の問題でもあります。「配分的正義」という考え方について、ほとんど何も知らないのですが、ここでも「生きていることの肯定」と配分をどう考えていくかという課題はあると思います。
それらは「生きていることの肯定」を考えていく上で欠かせないことと言えるかもしれません。
また、鴫原さんのセンに関する文章については、できれば別にコメントしたいと思っています。
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