先日の「叫び」の続き

先日の「叫び」の続き

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「こだわること」、実際、ぼくたちの「こうじゃないという思い」が抑圧されたり、叫びを押しこめられたりすることは多い。怒りは経験からくるんだけど、その表現は真綿で絞め殺されがちだ。それはまったくもって理性的であるかのような議論にぶちあたる。ぼくたちの叫びはいろんなやりかたで、たらいまわしにされる。見つめられ、どうして叫んでるのか聞かれる。歳のせい?社会的な背景のせい?ぼくたちがこんなにネガティブだっていう心理学的な不適合だから?それともよく寝付けないから?じゃなかったら、生理で機嫌が悪いから?ぼくたちは世界の複雑さを理解してないの?根本的な変革が実際にはとても難しいってことを理解してないの?叫ぶことは科学的じゃないってことがわかってないの?

 それで、社会や社会的政治的理論を勉強しろっていわれる(ぼくたちもそれが必要だって感じる)。そこで不思議なことがおこるわけだ。勉強すればするほど、「こうじゃない」っていう思いは消えていったり、見当違いだったかなって思えたりしてくる。アカデミックな「ものいい」の中では「叫ぶこと」の余地はない。それ以上に:アカデミックな勉強で言語や思考の方法が身に付くんだけれども、それで叫べなくなったりする。叫び、もしそれがちゃんと出せるのなら、説明できるなにかとして表れるけれども、分節化できるなにかとして、表れるわけじゃない。叫び、社会についての問いかけの主体だったのに、分析の対象にされてしまう。「ぼくたち」が叫んでいる「それ」はどうしてだろう。いや、むしろ私たちはいまや社会科学者として、「彼ら」が叫ぶ「それ」はどうして、と問うようになる。どのようにわたしたちは社会的な反逆や不満を説明できるのか?叫び、それはそのコンテキストの中で分解されてしまうことで、システマティックに不適当なものとみなされることになる。だって、叫ぶなんてこどもっぽいことだから。だって、近代的な主体概念とは適合しないから、だってそれは、不健康なダイエットだから、だってそれは家族っていう構造を弱めちゃうから。そういう説明はすべて、戦略的に研究によってサポートされることで、バックアップされるわけだ。叫びは全面的に否定されるわけじゃないけど、それが正当だってことは奪い取られてしまう。
(次の文章、文意取れず)



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John Holloway
CHANGE THE WORLD WITHOUT TAKING POWER
The Meaning of Revolution Today
(『権力をとらずに世界を変える』
 この時代の革命の意味)
の冒頭部分から、気になったところの抜書き 続き

もう疲れたからここで終わり。まだ3pも終わっていない。

また、気になる部分がでてきたら紹介しよう。




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