書評 『日本語教育のかなたに』 (古文書)

2004年の7月にOCNet通信のために書いた原稿がでてきたので、こっちにも掲載。もう4年以上前の原稿だが、まだ4年しか経っていないのか、とも思う。とりあえず記録として掲載。


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書評 『日本語教育のかなたに』(田中望著 2000年発行)
*******(木曜スタッフ)


2000年に発行されたこの本に今年、偶然出会い、398Pとけっこう厚いこの本に思わず引き込まれた。
アルク発行の『月刊日本語』に連載された対談がこの本の軸になっている。『日本語教育の方法』(大修館書店)なども書いている著者の問題意識は明確だ。「日本語を教える」という行為の持つ意味を執拗に問い返し、その歴史、そして現在のその無自覚で暴力的なありかたに、対談という形を通して、疑問を投げつける。ぼくはこの著者の別の著書を読んでいないので、これまで彼が日本語教育に関してどんなスタンスをとっていたかは知らない。しかし、この本の中で彼はボランティアを含めた日本語教育のあり方に徹底的に懐疑的だ。たとえば、以下のように

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敗戦まで、日本語教育は植民地化政策にかかわった。戦後、日本語教育はかわったといわれ、関係者は、わたしもそうだけれど、戦前とはまったくちがった姿勢で日本語教育に対してしてきたように思ってきた。しかし、いまアジアからの外国人女性たちとかかわってみると、日本語教育はアジアからの外国人女性たちの植民地化に加担しているし、日本語を暴力として使うことを許すように働いているとしか思われない。すくなくとも、日本語を暴力の道具として使うことに、はっきりとした抵抗をしめした形跡が日本語教育のなかにあるかどうか。12p
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 第三章の対話を企画するにあたってまず考えたのは現在のわれわれにあるアジア蔑視と帝国主義的メンタリティ、それはほとんど無意識的になっており、多くの人がそんなものをもっていないと考えている。そういう心性を解体するために、過去の歴史を学ぶこと、とくにそれが根源的にかかわっている日本語(国語)と日本語教育のたどってきた道をふりかえることであった。 28p
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田中:いま日本語教育の中で教えている日本語は「・・・理解させるための言葉」であって「人と人の関係を作るような言葉」になっていないような気がするんです。地域社会にいる外国人の女性たちは、たしかに日本語を習得したほうが周りの日本人と話ができるという面はあるんですが、日本語を身につければ見につけるほど、日本社会が持っているいろいろな力の関係に同化されていくようになってしまう。それよりは、とにかく何かやる。それはごくごく日常のつまらないことでもいいんだけど、そこでは、最初は言葉はなくてもちゃんとコミュニケーションができる。親密さというものが、まず確立できる。そこから言葉は後でくっついていったほうが・・。71p
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そして、対話の中で彼に応答する人からも同様の視点が提示される。

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安田:・・・日本語を母語としない人たちに対する教育と考えれば、日本語教育の発生というのは、植民地の領有と不可分なわけです。・・・。・・・。戦争が終わり、植民地下の国語教育としての日本語教育は終結するわけですが、戦時中にあった日本語教育は悪で、現在の日本語教育は善であるとは、簡単には言い切れないように思います。方言を排除し、植民地の言葉を抑圧してきた過程で成立したのが日本語教育なわけで、それといまの国際交流の中で行われている日本語教育が全く違うとは、言い切れないのではないでしょうか。
田中:・・。戦争が終わったときに、戦時中の日本語教育が支えてきたものを一度明るみに出して、意識的に構築し直してはいないし、その基底の部分は生き残って、いまの日本語教室の見えない底のところを流れていると思います。そして、日本語教育の中では、それを皆が考えなくても済むような「装置」が作られているように思うんです。80-81p
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この著者の視点は対話者との会話の中で重層的になり、より豊かのものになっていっているようだ。ぼくにとって、とりわけ対話以外の章は難しいところも多いが、それは飛ばして読んでもかまわないと思う。ぼくはここで、彼の視点だけを引用したけれども、この本には示唆に富む部分は多いので、OCNet通信の編集部に頁をもらえたら、また、この中身についても紹介したい。もちろん、同意しかねる部分もないわけではない。とりわけ、彼が提案する「ディス・エンパワメント」っていうのは、わざとらしさを感じ、うそ臭いと思う。ここで、コメントする余裕はないけど。

とにかく、日本語を教えることの意味をより深く考え直すことの大切さを再認識させてくれる本だ。ここには『日本語教育の方法』は、ほとんど書かれていない。彼が日本語教育の方向を少しだけ示唆しているのは「わたしが日本語教育の将来を托そうと思っている言語多文化主義からの鍛えなおしという方向性」(22p)というような表現でしかない。じゃあ、どうすればいいんだ!ということに関してはとりあえず、自分たちで考えるしかないだろう。なんらかのかたちで、みんなでいっしょに考えることができればうれしい。

ぼくも「日本語ボランティア」のありかたが根本的に問われていると考えている。もしかしたら、ここから撤退することも視野にいれながら、考えていくしかないのかもしれない。

しかし、とりあえず、撤退しないで考えつづけてみようと思う。えらそうなことを書いても、確かにぼくは教室に向かう自転車の上で教案を考えるような怠惰な日本語ボランティアだし、遅刻しながらも休まず教室を維持するのにゼーゼー言ってるわけです。とりあえず、代表も降ろしてもらったので、自分なりに考えることにもチャレンジしたいと思っています。
(『日本語教育のかなたに――異領域との対話』
田中望著 2000年 (株)アルク発行 2400円+税)

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結局、ぼくの日本語ボランティアは、この少し後に、木曜日のクラスが閉鎖されると同時に終わってしまった。ちゃんとクラスが維持できていないという評価もあったのかもしれない。そんな形で撤退することになった日本語ボランティア。確かにそこで日本語を外国人に教えるということの逆説から、ぼくだけは逃れることができたのだけれども、不本意な撤退ではあった。とはいうものの、木曜日のクラスを廃止するという決定がなくても、いつまで続けることができただろうか、とも思う。

しかし、よく考えたら、ぼくが日本語教室から撤退して(させられて?)、毎週、授業プランを考えるという縛りからも解放されて、まだ数年しか経っていないにもかかわらず、そこからずいぶん離れた気がする。



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この記事へのコメント

tu-ta
2016年04月10日 09:38
ちょっと本を読み返してみました。
その『日本語教育のかなたに』の川本隆史さんとの対談から要約

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『現代思想』で鄭暎惠(ちょん よんへ)さんとリサ・ゴウ(フィリピン)さんとの対談を紹介して

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 対談の中で鄭さんは、日本語がよくできない在日一世の祖母に預けられていて、いまでもおばあさんのところへ行くと、役所の通知を読んであげている。

そのおばあさん、読んだら、それをすぐ捨てる。なぜなら、その読めない文章でまた悩むことになるから。

 そこで、鄭さんは読めないおばあさんの気持ちに気づく。

そのことを評して、田中さんは以下のように書く。

「鄭さんは特権的ディスコースである日本語を(引用者注:学者として)身につけていますが、それを脱ぎ捨てて、おばあさんの気持ちに気づく、入り込めるということがすごいんですね。これは重要なセルフ・ディスエンパワメントであると思います。それがないと多文化主義は成立しないと思います」

上記の読書メモでこの「セルフ・ディスエンパワメント」について、「わざとらしさを感じ、うそ臭いと思う」と批判してしまっているのですが、これって、花崎さんなどが言う「ピープルになる」って話ともつながるのだと思いました。

若干のずれも含みつつ。


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