社会モデルとエンパワメントの両方が必要

「社会モデルとエンパワメントの両方が必要だ」という気がしてきた。

誰かそんなことを書いてないか、それをキーワードにしてグーグルしてみる。

小川善道さんの『障害児者のエンパワーメント』(シンポジウム指定発言要旨)というのがでてきた。
==以下に少し引用==
3.個人モデルから社会モデルへ
 障害をもつ人とその家族のエンパワーメントに貢献するには、障害についての個人(医学)モデルから社会モデル5)へ移行することである。具体的には、障害を①本人の悲劇ではなく、社会的疎外の要因として、②本人の問題ではなく、社会のもつ課題として捉える。そして、③個人の治療にとどまるのではなく、社会に包み込む環境作りへ、④医療優先からセルフヘルプの重視へ、⑤訓練優先から経験の尊重へ、⑥本人の適応のみではなく、社会の意識変革へ。これらが障害分野に働く専門家に求められる幅広い役割である。
==引用ここまで==
これはエンパワメントのために社会モデルが必要という議論だ。あっ、そういう観点もあったかと思う。

次に出てきたのが 松波 めぐみさんの『「障害の社会モデル」とエンパワメント -ジェンダー概念との接点に注目して-』という論文
こっちは残念ながらタイトルだけで中身が読めない。


どうして、「社会モデルとエンパワメントの両方が必要」だと思うにいたったかというと、ちょっとメモを書いた
『ヘンでいい。』がきっかけ。
http://tu-ta.at.webry.info/200904/article_13.html
http://tu-ta.at.webry.info/200904/article_14.html
http://tu-ta.at.webry.info/200904/article_15.html



社会モデルという視点に立つと、障害者に苦痛を与えているのは基本的には社会の側で、医療やリハビリで障害者を社会に適用させようとするのではなく、障害者を生きにくくしている社会の方が変る必要があるということになる。社会モデルは、そのように障害者を生きにくくしている社会を変えようという障害者運動の側からでてきた理論でもある。その視点とエンパワメントの視点は親和性がある。

つまり、
===
エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、自分の中にすでに豊かにある力に気づき、それにアクセスすること。

なにものかにならなければ、何かをなしとげなければという未来志向の目的意識的な生き方は、裏返せば今の自分はだめだという自己否定と無力感を併せ持つ。

エンパワメントとはまずもって一人ひとりが自分の大切さ、かけがえのなさを信じる自己尊重から始まる、自己尊重の心は自分一人で持とうと意識して持てるものではない。まわりにあるがままのすばらしさを認めてくれる人が必要だ。無条件で自分を受け入れ、愛してくれる人が。
( http://tu-ta.at.webry.info/200810/article_12.html から)
====

このような立場から、障害者が障害ゆえに生きにくさを感じているということがあるのなら、まず変らなければならないのは社会のほうじゃないかという考え方が生まれるし、自分はそのように言っていいんだと気づくプロセスがエンパワメントだというふうにも言える。そして、さらにそのような社会変革をめざす社会運動は、そのプロセスに参加することがエンパワメントにつながるようなプロセスになるようにしていく必要があるのではないか。

同時に、小川さんが書いているように、エンパワメントのために社会モデルが必要であり、また、社会モデルの出自でありまた帰結でもある社会を変革していくというアプローチのためにもエンパワメントは必要になってくる。その両方は相互に必要とされていて、それらをダイナミックにかみあわせていくことが必要なんじゃないかと感じたわけだ。


以上、中途半端だけど、思いついたので忘れないうちにメモ。





以下、おまけ

『ヘンでいい。』で、紹介されている斎藤学の主張の中には、明確に社会モデル的なものが含まれていて、

例えば、
===
斎藤 街医者の目線で見ると、そういう問題がどうしても見えてきて、個々の患者の問題だけ見ていても解決できないところがあると思っている。
===
(このあたりを対談相手の栗原さんはうまく引き出していると思う。ただ、斎藤学は「個々の患者の問題だけ見ていても解決できないところ」については、具体的には家族の多形化という提起しかできないというのだが。(もう少し違うこともいっているようにも思える))

というようなことも言っているのだが、とにかく、問題の根っこが患者の側だけにあるのではなく、社会の側にもあるという主張だと読み替えてもいいのだと思う。
『心の専門家』の多くはそういう社会の側のいびつなありかたを不問にしていると批判したのが小沢牧子さんだった(ような気がする)。(メモを読み返したら、ぼくのメモではあんまりそこには触れていない。吉田おさみの引用に少しあるが) 
ともあれ、ぼくは斎藤学を読んで小沢牧子を連想した。両者にはつながる部分があるといえるような気がする。




参照URL『心の専門家はいらない』読書メモ
http://tu-ta.at.webry.info/200805/article_11.html
http://tu-ta.at.webry.info/200805/article_22.html





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この記事へのコメント

noname
2009年05月02日 19:06
>エンパワメントとは「力をつける」ということではない。それは外に力を求めて、努力して勉強してなにものかになっていくということではなく、

先日偶々見かけた雑誌の書評記事に感じた違和感の原因がわかったような気がします。傷を抱えた主人公に対して友人が発する「幸せになることが一番の復讐」という科白を、レヴュアーはニューマニズムを更新する新しい視点であると持ち上げていたわけですが・・・前後の脈絡が不明なままこの言葉だけ聞かされても、二次加害にしかならないような・・・そこに愛や思いやりがあってもムチはムチで、それが本当に意図した効果を発揮できるTPOって限られているはずと思うのです。
noname
2009年05月02日 19:13
あと「ヘンでいい」について。斉藤学さんは家族機能研究所を主宰されている先生ですね。患者さんは家族関係に悩みを抱える方だと思うのですが、中には犯罪に等しいかそのものに巻き込まれた人もいるに違いなく、のうのうと生延びて後進の前で好々爺として振舞う加害者を目の当たりにしたりして発狂せずにいるためには、予め「ヘンでいる」積極的な意思と自覚は必要なのかなと思いました。加害者が罪の自覚を持つ可能性なんかも込みで重い荷物は手放したはずなので・・・

最近時々コメントさせてもらっているのに、HNを統一できていないと思います。内容も書き逃げになっているような・・・申し訳ありません。
tu-ta
2009年05月02日 20:04
nonameさん、コメントありがとうございます。
HNいろいろなんですね。

コメントもらえると、それだけでうれしいですから、遠慮しないでどんどん書いてください。

斎藤学さんがいう「形態をもう少し多形的なものに」という主張もそれなりに面白いのですが、どういう形でその多形的な家族が承認されていくことになるのかなぁと思ったりもします。

あまりかみ合わないレスポンスでごめんなさい。

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