ちょっとした違和感(横山さんのサブシステンスのコラムについて)

横山正樹さんが『平和学のアジェンダ』に書いたサブシステンスに関するコラムを読む機会があって、感じることがあったのでメモ。
以下、部分引用。
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 ポランニーの影響を強く受けたイリッチ(Ivan Illich)は著書『シャドーワーク』(1981 年)他で、サブシステンスを市場経済に依存せず土地に根ざした「人間生活の自立と自存」(玉野井芳郎/栗原彬の訳語)としてこれに積極的意味をあたえ、発展=開発(development)を「サブシステンスに対して仕掛けられた戦争」と批判した。
 イリッチと対話を重ねつつ、その批判者でもあったヴェールホーフ(Claudia von Werlhof)、そしてベンホールト=トムゼン(Veronika Bennholdt-Thomsen)やミース(Maria Mies)らドイツのフェミニストたちも、ルクセンブルグ(Rosa Luxemburg)の『資本蓄積論』(1913 年)などに学びつつ女性労働(家事)としてのサブシステンス生産労働に目を向け、資本制的家父長制にもとづくグローバル経済に代わる実現可能なオルタナティブとして「サブシステンス・パースペクティブ」を掲げてきた(ミース他著『世界システムと女性』1983 年、ほか)。
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 この文章を流れにそって、読むと、イリッチがまずポランニーの影響を受け、サブシステンスに積極的な意味を与え、彼と討論を重ねつつ、その批判者であるドイツのフェミニストたちも、「サブシステンス・パースペクティブ」を掲げたという風に読まれやすい。
 違う読み方も可能かもしれないが、流れとしてはそう書いてあるように読める。しかし、古田睦美さんが「世界システムと女性」のあとがきに書いているように、ここであげられている3人のドイツのフェミニストの
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彼女たちのまったく新しい学問的探求の中でひときわ重要なできごとは、「サブシステンス」概念を構築したことである。319p
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とするなら、その評価はちょっと違うのではないかとも感じた。

 もしかしたら、そんなことはどうでもいいようなことのようにも思えるが、古田さんの後書きを読むと、サブシステンス概念という名前を「発見」したのは彼女たちであり、その彼女たちが76年から81年にかけてサブシステンス再生産に関する国際会議を主催したとある。確か、以下の話もどこかに書かれていたような気がするし、もしかしたら口頭で聞いただけかもしれないが、この国際会議に参加あるいは報告を聞き、イリッチはサブシステンス概念という名前を獲得したというような話だったと思う。確かに日本では圧倒的にイリッチによってもたらされたサブシステンス(当初は「人間生活の自立と自存」)概念だが、こういう成り立ちがあったらしいということは明記しておいてもいいと思う。





あと、ちょっと蛇足だが、横山さんの
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イリッチは著書『シャドーワーク』他で、サブシステンスを市場経済に依存せず土地に根ざした「人間生活の自立と自存」(玉野井芳郎/栗原彬の訳語)としてこれに積極的意味をあたえ・・・
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という文章も少し気になった。確かに書かれていることはその通りなのだが、「人間生活の自立と自存」は玉野井/栗原のサブシステンスの訳語なのだから、「サブシステンスを市場経済に依存せず土地に根ざしたサブシステンスとしてこれに積極的意味をあたえ・・・」と読むこともできるかも。この「人間生活の自立と自存」という日本語をサブシステンスにあてたのは玉野井/栗原であって、イリッチではないようにも思う。確かにそういう意味内容で使われて入るものの・・・。
 ところで、ぼくには玉野井/栗原が、どういう経緯でこの訳語を持ってきたのかが興味深い。そういえば、そんなことを前にも考えたことがあったような気がして、ブログを読み返すと、二つも出てきた。定期的にこの訳語にひっかかっている。

人間生活の自立と自存
http://tu-ta.at.webry.info/200706/article_7.html

イリッチによるサブシステンスの視点
http://tu-ta.at.webry.info/200605/article_6.html

その二つでは、自存という言葉の難しさにひきつけられて気がついていなかったが、ここで使われている「自立」という語にも玉野井・栗原のなんらかの特別な意味付与があるのではないかと思えてきた。どういう意味でこの文脈で自立という言葉が使われるのか、ということもそんなに単純ではなさそうだ。でも、疲れたから、今日もこのあたりで。栗原さんにあったら聞こうってここでも別件で書いてるのだが、会ったときは、そのことを忘れてる。





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この記事へのコメント

魔太郎
2009年06月14日 00:21
その“サブシステンス”理解を是非環境・平和メーリングリストとかで議論してくださいよ。いつだったかの“本来性”論争みたいにやった方が良いような気が…。

ちなみに私自身が最近思っているのは、サブシステンスは構造的暴力なんかと同じで、それ自体厳密に定義できる概念ではなく、その語を使うことによってそれまで不可視だったものが見えてくることに意味のある、一種の“箱眼鏡”ではないか、いやむしろそれで良いのだと考え始めておりますが。
tu-ta
2009年06月14日 07:33
またろう様
コメントどうもです。

今日、Y山さんとほんのちょっとだけ話しました。

「どっちが先か」っていう問題は確かに大切な問題ではないかもしれません。ただ、イリッチのほうが圧倒的に知られていて、ドイツのフェミニストグループが言い出したことだということが、あまり知られていないことはどうかなぁと思ったのでした。
それ以上ではないと思います。

開発・発展や成長を重要な価値軸にすることに対して、サブシステンスという価値軸を置くことは、問題の見通しをよくする話だし、厳密な定義は無理かも知れないとぼくも思います。

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