『小説ブッダ』 読書メモ(その2)「構築主義と実在」
http://tu-ta.at.webry.info/200910/article_5.html の続き。
ブッダは教条主義を否定して、以下のようにいう。
===
「私の考えは教義でも哲学でもありません。頭で推論によって施策したり憶測によって考えた結果ではないからです。(中略)それは直接体験の結果なのです。私が説くことは、私自身の経験から出てきたものなので、あなたも自分の体験によって確かめることができます。149p
===
そして、「誰かがあなたの教えを教義と受けとって信じ込んだらどうしますか?」という問いに対して、こんな風に答える。
===
「・・・私の教えは実在の真のありようを体験する方法であって、真の実在そのものではない、と、はっきり伝えなければなりませんね。ちょうど月をさし示す指が、月そのものでないのと同じように、・・・」150p
===
ブッダの教えは「実在の真のありようを体験する方法であって、真の実在そのものではない」という。『真の実在』とは何かというのが、難しいのだが、それは言葉で伝えられるものではなく、その存在そのものを体で受け止めるトレーニングの方法という風にいうこともできるだろうか。
と書いて、構築主義のようでもあるブッダの関係性の概念把握と、他方でとても本質主義的なこの考え方の話に移ろうと思って、他の付箋を探していたら、上記の話がそのまま書いてあるページが見つかった。
===
実在そのものは概念的な知識や言葉で話したり書いたりすることでは表せません。瞑想がもたらす理解のみが、実在の本質を知る助けになるのです。マンゴーの味を知らない人は、他人がいくら言葉や概念を使って説明しても、その味を知ることは決してできないでしょう。実在は直接体験によってしか把握することができません。だから私は比丘たちに無駄な議論に没頭して貴重な時間を無駄にするより、ものごとを深く見つめる時間をかけるように諭してきたのです。 338p
===
その構築主義的な部分を紹介
===
〈我〉とは何か。それは、ほかのすべての要素から切り離され、完璧にそれだけで自立して存在するもののことです。この世の現象の中に、ほかのすべての現象から独立して存在しているものが、はたしてあるでしょうか。他から切り離された本当の〈我〉を持つ現象など一切ありません。これが〈空〉の意味です。〈空〉とは〈我〉がないことなのです。
===
すべては関係性の中に存在している。物質はそのすべての関係性を消去したそれ自体では存在し得ないのだから、〈空〉。
そして、すべての感覚器官、すべての感覚の対象、すべての意識も〈空〉。
==
なぜなら、これらはすべて、それ以外の感覚器官、感覚の対象、感覚意識に依存して存在しているから。 いかなる感覚器官も、感覚の対象も、感覚の意識も、他から切り離され独立しているとう性質を持っていません。 318-9p
==
つまり、物質も感覚も関係性の中にのみ存在するという、すごく構築主義的な見方がここにある。そして、存在とか非存在とかいう観念に振り回されてはいけないというのも構築主義的だと思う。
ちなみに「存在と非存在の観念を越えた人を、悟った人というのです」という。
しかし、最初のほうに書いたように存在とは違う「実在」というのがでてきて、急に本質主義になってしまう。「存在」という観念をはるかに越える「実在」があるという。それは「概念的な知識や言葉で話したり書いたりすることでは表せません。瞑想がもたらす理解のみが、実在の本質を知る助けになるのです」というわけだ。
今日も疲れたからここまで。
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再び
http://blogs.yahoo.co.jp/bosan32000/49297819.html
からピックアップ
P76
この世のすべてのものは本質的に独立した実体がなく、たがいに依存しあっている。
P149
宇宙の成り立ちを説明することではなく、みんながそれぞれの直接体験をとおして、ものごとの真のありようを知る手助けをすることなのです。言葉では実在の真のありようを語れません。直接体験によってのみ実在の真の姿を見ることができるのです。
P273
この世から逃避しても悟りや自由が得られるわけではありません。万象の本質を深く見つめてはじめて得られるのです。
不殺生戒とは、自らも故意に殺してしまうことも含まれる。
P287
すべての思想や教義は知覚や感覚に迷わされて作り上げられたものです。〈気づき〉の修行をしなければ、知覚や感覚の真の性質を知ることはできません。
P314
すべてのものは他から独立して存在する〈自己)(我)を持たない。だから空だといったのです。六処、六境、六識のどこにも、他から独立して存在する〈我〉を持つものはないのです」
P315
すべてのものが〈空〉だというのは、すべてのものが、永遠不変の〈我〉を欠いているということを意味するのです。これが、すべてのものが〈空〉だということです。またみんな良く知っているように、すべてのものは変化し消滅するものですね。それゆえに、すべてのものは、他から独立した個別の〈我〉を持つとはいえないわけです。他から独立した個別の〈我〉がないことを瞑想して見てとるのが、〈空〉を瞑想するということなのです。
P318
〈空〉の基本的意味は、これがあるのはあれがあるからだ、ということなのですよ
P331
〈空〉は非存在ということではありません。何ものも独立しては存在しないという意味であり、他と切り離された個別性、〈我〉がないということです。みんなすでに知っているように、『ある』と考えるのも、『ない』と考えるのも、どちらも間違っています。すべてのものはたがいに依存しあって存在しているからです。かれあるがゆえにこれあり。かれなければこれなし、かれ生ずればこれ生ず。かれ滅すればこれ滅す。このように、空の本質は相互依存的な存在なのです。
ブッダは教条主義を否定して、以下のようにいう。
===
「私の考えは教義でも哲学でもありません。頭で推論によって施策したり憶測によって考えた結果ではないからです。(中略)それは直接体験の結果なのです。私が説くことは、私自身の経験から出てきたものなので、あなたも自分の体験によって確かめることができます。149p
===
そして、「誰かがあなたの教えを教義と受けとって信じ込んだらどうしますか?」という問いに対して、こんな風に答える。
===
「・・・私の教えは実在の真のありようを体験する方法であって、真の実在そのものではない、と、はっきり伝えなければなりませんね。ちょうど月をさし示す指が、月そのものでないのと同じように、・・・」150p
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ブッダの教えは「実在の真のありようを体験する方法であって、真の実在そのものではない」という。『真の実在』とは何かというのが、難しいのだが、それは言葉で伝えられるものではなく、その存在そのものを体で受け止めるトレーニングの方法という風にいうこともできるだろうか。
と書いて、構築主義のようでもあるブッダの関係性の概念把握と、他方でとても本質主義的なこの考え方の話に移ろうと思って、他の付箋を探していたら、上記の話がそのまま書いてあるページが見つかった。
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実在そのものは概念的な知識や言葉で話したり書いたりすることでは表せません。瞑想がもたらす理解のみが、実在の本質を知る助けになるのです。マンゴーの味を知らない人は、他人がいくら言葉や概念を使って説明しても、その味を知ることは決してできないでしょう。実在は直接体験によってしか把握することができません。だから私は比丘たちに無駄な議論に没頭して貴重な時間を無駄にするより、ものごとを深く見つめる時間をかけるように諭してきたのです。 338p
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その構築主義的な部分を紹介
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〈我〉とは何か。それは、ほかのすべての要素から切り離され、完璧にそれだけで自立して存在するもののことです。この世の現象の中に、ほかのすべての現象から独立して存在しているものが、はたしてあるでしょうか。他から切り離された本当の〈我〉を持つ現象など一切ありません。これが〈空〉の意味です。〈空〉とは〈我〉がないことなのです。
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すべては関係性の中に存在している。物質はそのすべての関係性を消去したそれ自体では存在し得ないのだから、〈空〉。
そして、すべての感覚器官、すべての感覚の対象、すべての意識も〈空〉。
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なぜなら、これらはすべて、それ以外の感覚器官、感覚の対象、感覚意識に依存して存在しているから。 いかなる感覚器官も、感覚の対象も、感覚の意識も、他から切り離され独立しているとう性質を持っていません。 318-9p
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つまり、物質も感覚も関係性の中にのみ存在するという、すごく構築主義的な見方がここにある。そして、存在とか非存在とかいう観念に振り回されてはいけないというのも構築主義的だと思う。
ちなみに「存在と非存在の観念を越えた人を、悟った人というのです」という。
しかし、最初のほうに書いたように存在とは違う「実在」というのがでてきて、急に本質主義になってしまう。「存在」という観念をはるかに越える「実在」があるという。それは「概念的な知識や言葉で話したり書いたりすることでは表せません。瞑想がもたらす理解のみが、実在の本質を知る助けになるのです」というわけだ。
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この世のすべてのものは本質的に独立した実体がなく、たがいに依存しあっている。
P149
宇宙の成り立ちを説明することではなく、みんながそれぞれの直接体験をとおして、ものごとの真のありようを知る手助けをすることなのです。言葉では実在の真のありようを語れません。直接体験によってのみ実在の真の姿を見ることができるのです。
P273
この世から逃避しても悟りや自由が得られるわけではありません。万象の本質を深く見つめてはじめて得られるのです。
不殺生戒とは、自らも故意に殺してしまうことも含まれる。
P287
すべての思想や教義は知覚や感覚に迷わされて作り上げられたものです。〈気づき〉の修行をしなければ、知覚や感覚の真の性質を知ることはできません。
P314
すべてのものは他から独立して存在する〈自己)(我)を持たない。だから空だといったのです。六処、六境、六識のどこにも、他から独立して存在する〈我〉を持つものはないのです」
P315
すべてのものが〈空〉だというのは、すべてのものが、永遠不変の〈我〉を欠いているということを意味するのです。これが、すべてのものが〈空〉だということです。またみんな良く知っているように、すべてのものは変化し消滅するものですね。それゆえに、すべてのものは、他から独立した個別の〈我〉を持つとはいえないわけです。他から独立した個別の〈我〉がないことを瞑想して見てとるのが、〈空〉を瞑想するということなのです。
P318
〈空〉の基本的意味は、これがあるのはあれがあるからだ、ということなのですよ
P331
〈空〉は非存在ということではありません。何ものも独立しては存在しないという意味であり、他と切り離された個別性、〈我〉がないということです。みんなすでに知っているように、『ある』と考えるのも、『ない』と考えるのも、どちらも間違っています。すべてのものはたがいに依存しあって存在しているからです。かれあるがゆえにこれあり。かれなければこれなし、かれ生ずればこれ生ず。かれ滅すればこれ滅す。このように、空の本質は相互依存的な存在なのです。
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