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zoom RSS ソーシャルワーカーが社会資源を活用する上での、役割や留意点/これから必要とされる社会資源(追記あり

<<   作成日時 : 2016/04/13 07:31   >>

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またまた以前書いたレポートから(2018年7月26日朝、ウランバートルにて追記)

タイムスタンプは2015年10月

相談援助の理論と方法B 評価A


ソーシャルワーカーが社会資源を活用する上での、役割や留意点についてまとめなさい。また、これから必要とされる社会資源について、自分なりの考えを述べなさい



 1、ソーシャルワーカーが社会資源を活用する上での、役割や留意点

 ソーシャルワーカーが社会資源を使うのではなく、社会資源を使うのは利用者だということが、まず認識されなければならない。ソーシャルワーカーにはソーシャルワークを受ける利用者に、利用可能などのような社会資源があるかという豊かな知識や情報のストックを持つことが必要だが、それは必ずしもソーシャルワーカー本人が有する必要はない。誰がそのような知識や情報を持っているかということを知り、そこに常にアクセスできるようにしておく必要がある。

 利用者がどのような既存の社会資源を、どのように活用できるか提案するというのはソーシャルワーカーの重要な役割だが、場合によっては社会資源の開発も視野に入れる必要がある。社会資源の開発というと大仰に聞こえる面もある。確かにフォーマルな社会資源を開発するというのは大仕事ではあるが、インフォーマルな社会資源であれば、ちょっとした工夫で、従来、社会資源でなかったものを社会資源に変えていくことは可能であるし、そのようなことが問われていると考える。

 社会資源を利用するうえで留意する点として、利用者のニーズとその人が望む生活を、的確に読み取ることが挙げられる。そして、大切なことは本人の自己決定を尊重することだ。そのための意思決定支援も重要だろう。ありがちな間違いは、本人の意向ではなくソーシャルワーカーの意向で無意識にサービスを押し付けたり、身近にあるサービスに目を奪われてしまうことだ。


 2、これから必要とされる社会資源について、自分なりの考え

 自分が関わっている障害者問題でこれから必要とされる社会資源は、重度の障害者が生まれ育った地域で親や親族に過度に依存することなく、自立生活をするためのさまざまな方策だと思う。大田区で通所施設に通う多くの知的障害者が主たる支援者である親が支援できない状況に置かれた時に、地方の入所施設に入ることを余儀なくされている。

 グループホームはほとんど増えず、不足したままで、ましてや重度の知的障害者がサポートを受けながら自立生活をしている例は、大田区には1例しかない(推定)。多摩市で「たこの木」が行っているような自立生活のコーディネイトと、それを支える支援事業所が必要とされている。それらの事例を行政が理解する必要があるし、関係者の多くがそこに力を注ぐ必要があると思う。

 地方の施設に行くことを望まない人を送らざるを得ない現状を、少なくない関係者が痛みを持って見ているが、それ以上、何もできない無力を感じている。サービス等利用計画の作成時に、そのときに向けて、今なにができるか考えるところからはじめてみようと呼びかけている。まず、そのような形で、まず、問題を可視化することが重要だと思う。
〜〜〜〜〜

追記(2018-7-26 ウランバートルにて)

これを書いたときと比べると、グループホームはそれなりに増えている。しかし、支援者をつけての暮らしはなかなか増えない。それが選択肢としてどれだけ提案されているか、おぼつかない。
その状況を変えたいと知的障害者自立生活声明文のキャンペーン https://jirituseikatu.jimdo.com/ に関わっていいて、少しづつは知られてはいるものの、「少しずつ」はまだまだ、少しずつだ。

これを書き始めて、気がついたのだが、今、この時刻は、2年前、わけのわからない大事件が起きたという報道がされ始めた頃だ。そして、多くのことがこの2年間、語られてきた。真摯な議論が多かったと思うものの、Webんどで、目立たないように、U青年に賛同を寄せる人もそれなりにいる

いろいろな方向から、問われなければいけない課題は、少しずつであれ、明確になっているようにも感じる。

【1】、被害を受けた人たちは、なぜ、あそこで暮らすことになったのか? なぜ、住み慣れた地域で、暮らし続けることができなかったのか?

【2】、加害者はなぜ、あそこで何年も働いていたのに、言葉が通じないことをコミュニケーションが取れないと思うようになったのか? そして、コミュニケーションの取れない人は殺すべきだと、今でも主張しているのか?
(正確さを期せば、どちらが先かはわからない。殺すべきという結論があって、コミュニケーションが取れないことにしたという可能性も否定できない。)

【3】、言葉にする・しないは別にして、U青年と同じように重度の障害者は生きている意味がないと考えている人は、それなりに存在するという事実にどう向き合うことができるのか? 実際に人にナイフを向けるという極端な行為は、誰もがそうするわけではないが、U青年が賛同者はいるはずだと考えうる社会が存在した。その社会がもつ意識と自分は無縁であり得るのか?

【4】、雑誌『世界』(2018年8月号 岩波書店)に渡邊琢さんが書いているように、人から言葉を奪う生活空間が管理された存在している。ここで紹介されている事例は津久井やまゆり園だが、おそらく、そんな空間は他にもあると思われる。大規模収容施設はそうなりがちな環境だと思うが、もしかしたら、それだけではない。1や2の問いに関連するが、そのような場をどうなくすかが?


そして、ここで立てた問いについて、一人でも多くの人に考えて欲しい。



まずは考えて欲しい。






ぼくが考えたこと

【1】への答えはそれなりに明確だ。当時も、そしていまも、重度の知的障害がある人が地域で生活するという選択肢がとても少ない。それが可能だということを、まず知ってもらうこと、そして、その条件を整備すること。


【2】なぜ、彼がそのように考えるに至ったのか、ぼくは彼の成育歴よりも、そう思うに至らしめた社会・職場の問題として、考えたい。

【3】に書いたように「障害者はいらない」と考える人が存在し、そう思わせる社会がある。インクルーシブな環境が必要だという根拠がここに(も)ある。子どもの頃から、地域から切り離され、療育だ、特別支援だ、放課後デイだ、福祉的就労だと多くは切り離された場所が準備され、消費される。その状況を変えること、その人の能力ではなく、生きていること、生存していることそれ自体が受け入れられ、あるいは祝福されるような社会に向けて、舵を切るためにできることを重ねていくしかない。

【4】については、、問われている。二つの方向で。一つは、言葉を奪うようなことになりがちな大規模収容施設自体を物理的に少なくしていくこと。もちろんそのための受け皿を作ったり、そのような選択を可能にするさまざまな条件をていねいに作ることが前提だ。 そして、もう一つの方向は、いまは形として、大規模収容施設であっても、一人ひとりがしっかり関り、言葉をなくすというようなことがないような状態を作ること。 この2つめを目指すことは、自然と大規模収容施設の縮小に向かうことと重なるような気がする。


2018年7月26日朝、ウランバートルのホテルでそんなことを考え、文字にしてみた。これから、まだまだ考え続けることが必要なのだろう。

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