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zoom RSS 猪瀬さんの文章への岩ちゃん(さん)の感想

<<   作成日時 : 2018/04/21 10:31   >>

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PCに残っていた岩ちゃんからの返信
この前に、ぼくが岩ちゃん(さん)にどんな問いを投げかけていたのかは不明。

ただ
PRIME38号の猪瀬浩平さんの「「直線、切断、接合、螺旋」に関するメモ
http://tu-ta.at.webry.info/201801/article_5.html
に関するものであることは間違いない。

〜〜〜〜〜
ふぅ〜〜ぅ。
ブログで取り上げられている文章2つを読ませていただきました。
私にとっては、超長文故にどこまで理解できたか・・・
ブログの方にコメントを書いたら字数制限に引っかかたのと、書き込みコメントの修正が解らないので、こちらにコピペしました。

==以下コピペ==
障害学とか社会モデルとか、ほとんどはったりで使っている私。
「ディスアビリティ(社会的なもの)とインペアメント(生物学的なもの)」というカタカナ文字は、頭に入らないのでますます難解になって、どこまで理解できたやら・・・

ただ、猪瀬さんの論文は、私も当事者の「失踪」と「発見」の場面に何度も立ち会ってきたので、面白く読ませていただきました。

そして思うに、
「社会モデル」という私自身が抱く違和感は、
「ディスアビリティ(社会的なもの)とインペアメント(生物学的なもの)」の間に、各々が持つインペアメントを折り合わせるという、「関係性」というものがどれほど含まれて語られ展開されているかという点。

身体の当事者に対しての合理的配慮は、エレベーターの設置で解決される面があります。
一方知的当事者たちの情報保障として、「フリガナを振る」という合理的配慮があります。
「フリガナを振る」事で解消される人は一部の人で、それがなされても、そもそも文字が読めない重度知的当事者には意味がなかったりします。(なのに、フリガナさえ振れば良しとする多数派がいたりするので面倒)
「解りやすい文章で書く」というが、個々の当事者にとっての解りやすさは人それぞれ、一つの配慮がすべての知的当事者や発達障害の当事者に当てはまるわけではない。
ならばと、個別に必要な支援を個別に実施するとなれば特別支援学校のようなものが必要になり、その特別な支援を実行するためには、社会と分断しなければならないという奇妙なことが起きる。

あるがままの(当事者の)個とあるがままの(私たちの)個の違いを明らかにすることをインペアメントに置き、
非対称の現実がある事とその不利益を一方に集中させているものをディスアピチティに置く。
すると、その両者をつなげるための関係モデルみたいなものが必要になる。

「失踪」した知的障害の当事者を探すとき、
「彼ならどのような行動をとるか?」
「どの方向へ向かっているか?」などと考える。
また、
「当事者自身、非日常の中で何を思っているだろう」かと考える。
本人の事をよくよく理解していればすぐに見つかる。
なかなか見つからないときは、大概私が描く当事者を超えている時。

10日間行方不明になった当事者。
都心で行方不明になり、真夜中に神奈川のおばあちゃん宅のベルを鳴らした当事者。
集会の場から姿を消して近所を探せば、遠く離れた警察署に保護されていた当事者。
等々。

探す側の見つかるまでの不安と見つかった直後の安堵。

常に、見つかったから言えることではあるが、
私はその「失踪」を当事者の「大冒険」としてとらえ、
新たな経験をした当事者本人のその後の変化にも注視する。

そこには、常に様々な人の関りがある。(その大部分は見えない)
でも、その後の当事者本人の変化に注視していると、確実に何か他者による影響による変化が見える。

そういった非日常から、実は日常においても様々な関係が存在していることが解る。

一方、
アパート暮らしをしている当事者の生活音をめぐり、同じアパート住民から、立ち退きを常に匂わされている。
「それは、障害者に対する偏見」と重度身体当事者たちなら言えるかもしれない。
しかし、
実際に、止めようもない生活音を出す当事者もいる。
生活音に対する苦情は、実際に出している音もあれば偏見もある。又、音がの程度は、目の前で介助している者にとって行動が見えている分大して気にも留めないが、音だけを聞いている隣の人や上の階の人を不安を抱く。
又、左右両隣と上下階の住民にとっては実際大変な思いをしているが、同じアパートだからと言って同様に大変な思いをしているわけではない。しかし、実害を受けている人と私たちのどちらが他の住民との関係を築いているかによって、取り組み方が変わってくる。
それらも含め生活音の解決として、
可能な限りの防音に心がける。
しかし、自らの偏見をもって訴える住民にとっては、どれほどの対策を施しても意味がない。
一方で、実際面で生活音に悩まされているだけの人の場合、改善されていく生活音や本人との接触を繰り返し、音の理由を知る中で同じ音でも気にならなくなるということもある。

止めようもない生活音と実際に起こっている周囲の苦痛。

それを解消していくためには、「ディスアビリティ(社会的なもの)とインペアメント(生物学的なもの)」との間にある、互いの関係性というものを意識していかなければならないのではと思う。

「私たちは障害者である前に人間だ」というピープルファースト活動。
その訴えに耳を傾けることは重要で、同じ人間として扱われていない事への叫びだと思う。

しかし、
それだけにとどまっていては何も解決されず、
「私たちは障害者である前に(人間であり)生活者だ」と、
同じ地域(空間)に住む者として、折り合うことを考えなければならないと思う。

そもそも、〇〇学というもの自体に興味はないのですが、そういう学問をもって当事者と私とを分断する何かがあると思えば、生活者としてそれら専門性に対し何か言うことも支援者の役なのかと思ったりします。

==以上==

おまけとして、この後のやりとり
〜〜〜〜

tu-ta
「〇〇学というもの自体に興味はない」という最後の部分、ぼくも同じ感想を持ちました。


tu-ta
あと、ぼくが1996年に2週間強のあいだ、居候させてもらっていたカルカッタのラルシュには駅ではぐれて、3年後に何百キロか離れた駅で生活してるところを発見されたという大物もいました。彼が散歩が大好きで彼と散歩するのがぼくの日課で、「おまえがいなくなったあと、どうするんだ」と他のアシスタントが笑いながら言ってました。


岩ちゃん
「〇〇学に興味がない」というのは不正確で、
「〇〇学によって分断される事」には反発はあるし、

1月28日
岩ちゃん
最近は、「いかに利用できるか?」という関心はありますね。
ただ、本が読めないし、紙面(文章)でやり取りするだけの力量もないので、その人に会ってやり取りするしかない私。(または、その人と親しい人に会うとかも含む)
ということは、やはり「学問」には興味ないということですね。

1月28日
岩ちゃん

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