『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』メモ(追記あり)2021年2月12月さらに追記

その島のひとたちは、ひとの話をきかない
 ――精神科医、「自殺希少地域」を行く――
森川すいめい (著)
単行本 – 2016/6/24 

画像
読書メーターに書きつけたものを加筆訂正
読後すぐに書いたメモ
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野口晃菜さんが参照していたのを見て、図書館で借りて連休前半に読んだ。問題があっても、人を自殺に追い込まない方法はある。しかし、それは医療ではないようだ。「ひとの話を聞かない」ことと対話することの微妙な関係。そこは十分に説明されているとは思えなかった。
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野口さんが参照していたのは
「異質との対話」の経験値が排除をなくすというnote




以下、ぼくのメモ
「結論だけ読みたい方は最後の章だけを読んでほしい。最後の章にすべてまとめた」(12p)
と書いてあるのだが、面白い本なので、中身を読まないのはもったいない。

 「わざわざ分ける必要はない」
 そういう意見がある。一方で、支援学校以外の場所では生きていくために必要な教育を受けられないという意見もある。どの意見が正しいのかは、地域や立場によって異なるのだと思う。旧海部町のひとたちの多くは、それはなくていいと言う。その理由は、このような町の速度を見れば感じることができる。自分のペースで動けばいい。 (48p)
障がいをもつひととそうでないひとを子どものころから分けると、お互いにお互いのことがよくわからなくなってしまう。どういった場面でどういった助けが必要なのか、それを自然とできるようになるためには日常の中にお互いがいなければならない。(30p)
ぼくは分けない立場だし、分けるのが正しいというのは、とても例外的な状況だけだと思う。(っていうか、支援校が必要な場合というのは、「ろう文化」の維持のための聾学校以外には思いつかない)

同じ障害のある仲間と出会うことの大切さはあると思うが、そういう人だけが集まって学ばなかればならないという理由にはならないはず。ここで、森川さんは「分けない」よさをなんとなく強調しながら、「正しさ」を競うことを忌避しているのだと思うが、もっと自分の立場を鮮明にしていいのではないかと思った。

例えば、次のページで森川さんは以下のように書く。
障がいをもつひととそうでないひとを子どものころから分けると、お互いにお互いのことがよくわからなくなってしまう。どういった場面でどういった助けが必要なのか、それを自然とできるようになるためには日常の中にお互いがいなければならない。(30p)
上記の文章を読むと森川さんの立場は鮮明だと思うのだが、どうして「どの意見が正しいのかは、地域や立場によって異なる」と書くのだろう。これだけ分けられているのだから、基本に「分けない」を置くべきだとぼくは思う。そのあとに例外を置けばいいと思うのだが、森川さんは、いまの教育現場のひどい状況に投げ込むことの危惧を表現してるのだろうか。

効率は、ひとが生きやすくなるための手段である。しかし平成の大合併は、コストを減らすことが目的になってしまった。成果はコストを減らすことだった。全ての計画は人の生きやすさこそが目的になるはずなのだが、 それは見えなくなった。効率を手段ではなく目的に添えてしまっては、それは何も生み出すことはない。それどころかひとを不幸にさえしてしまう。(60p)

作ってすぐに嵐で山がなくなって、むき出しのトンネルだけが残った例で、

旧海部町で住民はトンネルを作ったことを怒るのではなく、それを楽しむ人まで現れたというエピソードが紹介される。行政が住民と十分に対話できると、敵対的になるのではなく、「政治は自分たちが変えられる」という意識が育つ、それが自殺の少ない町でもあると森川さんは書く(68-69p)

69頁~「非営利組織に見出す希望」という節で森川さんは朋輩組などの弱体化を補うのはNPOだと書く。上記の行政の公的責任を問わない話と合わせると、少し危ない感じもある。しかし、責任を問うだけでは前に進まないのも事実で、責任を問いつつ、前に進める、そのバランス感覚も大事なのかもしれないと思った。



とてもシンプルな話

「困っている人がいたら、できることはするかな」

できないことだったら

「ほかの人に相談するかな」

「できることは助ける。できないことは相談する」

これで困った人は孤立しない。
98p


 弱っているひとの意思を聞くことは時には間違うことがある。弱っているからこそ本当は助けて欲しいと思っていても助けてと言えなくなる。意向を質問すればするほど拒否していく。弱っているときは、「入っていいですか?」と聞くのではなく、「助けに来たよ」と入っていく。それでも断られるのであれば、それは本人が本当に嫌だということである。しかしたいていは、「ああ、ありがとう」と言う。契約とか金銭のこととか制度が絡むとややこしいことになるのだが、ひとの営みのことではそれは当然のことなのだ。契約が関係して契約が結べないことが心配だったら、そこは無償でやったらいい。 支援者の仕事は相手を助けることだ。お金は目的ではない。お金は仕事を続けるための責任ではある。だからといって、お金をもらう契約が結べなかったから助けることができないのであれば本末転倒になってしまう。(130p)

 普段の仕事でも、ひとの支援をするときに、上手な支援者ともう一方工夫をした方がよいと感じる支援者とがいる。ひとを助けるにおいて、その結果、成果がずいぶん異なる。上手な支援者は困っている相手に対して、「どうしますか?」と相手の言葉による返事に答えをゆだねるようにはあまり聞かない 。「こういうのがいいと思うんだけど、どう?」と聞く。135p
~~2021年2月追記~~
これこそが「ひとの話を聞かない」ということなのだろう。
そして、130pは聞かないという話だが、135pは単純には聞かない、という話でもある。
いま、気づいたのだけど、ここでの「ひとの話を聞かない」というのは、表面の話なのだ。確かに耳に聞こえる形では聞いてない。聞かないことをよしとしている。しかし、助けられる側の弱っている人の内的な声は聴かれているのではないか。聞かないことで間違うこともあるかもしれないが、表面的には聞かないことで助けられる人がいる。

ここでの対話は声によるものだけではない。その人の全体性を見て、声や聞こえる言葉に頼らない対話が行われているといえるのではないか。
西欧由来の主に身体障碍者向けの自立生活運動が日本に輸入されたとき、言葉で確認することが求められた。歴史の中で、それはそれで必要なことだった。いままで、あまりにも聞かれていなかったからだ。そこでは原則的に声による確認が必要だった。

しかし、重度の知的障害や一部の精神障害の人の支援では聞こえる言葉に頼らない支援が必要になる。だからといって、対話が必要ないという話ではない。聞こえる言葉に頼らない対話がそこでは必要とされている。そして、その対話はとても頼りない対話であることに自覚的であるべきだろう。関わり続ける中で検証し続けるしかないような聞こえる言葉に頼らない対話が求められている。
~~追記ココまで~~

身体障害の人が始めた自立生活運動は、「まず聞くべき」と原則を立てた。「まず聞くべき」という考え方と「どうしますか?」と聞かないことの関係は微妙だ。


聞くべきであり、聞くことで間違うことがあるのだ。そこを踏まえないで、どちらか一方だけに肩入れすると痛い目に合うと思う。聞くのがいいか、聞かないのがいいか、その答えは単純ではない。「


どうしますか?」と聞かないで、前に進めることは可能だし、その方が支援者も介護者も楽なことは多い。しかし、それは受動的な当事者を作ってしまう危険を孕んでいるのではないか?次にやるべきことを支援者がほぼわかっていても(あるいはわかったつもりになっていても)、「どうしますか」と聞くべき場面はあるのではないか?




終章でオープンダイアローグの原則との符号を森川さんは書く。その原則とは

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①即時に援助

②社会ネットワークを通した事態の捉え方

③柔軟かつ機動的に

④責任の所在の明確化

⑤心理的なつながりの連続性

⑥不確かさに耐えること

⑦対話(&ポリフォニー)

~~



ここと自殺が少ない街の特徴との符合は以下


①はそのまま

②ひととひととの関係は「疎で多」がいいと森川さんは書く。濃密と疎の関係は微妙だと思う。

③意思決定は現場で行う。これは「壊れた籠」にも書かれていた。

④「見て見ぬふりをしない」(「この地域の人は見て見ぬふりをできないひとたちなんですよ」)

⑤解決するまで関わり続けること。疲れたら変わってもらうことはありかも

⑥「なるようになる。なるようにしかならない」

⑦相手は変えられない。変えられるのは自分、これが対話主義


最初に書いた「対話」と「人の話を聞かない」ことの関係は190pに記載されている。

「相手は変えられない。変えられるのは自分、これが対話主義」だと森川さん。こんな風に書く。
対話していくこと。ただ対話をしていくこと。 相手を変えようとしない行動。しかし、結果として何かは変わるかもしれない。ただ対話をする。変えられるのは自分だけである。
ここまでの説明でもまだ、聞かないことと対話の関係は明確でない。

続いて以下のように書かれている。
 7つある原則は、すべて対話によって生まれる。オープンダイアローグは七つ目を対話主義とした。助言したり相手を変えようとしたときはうまくいかないが、しっかりと対応することが守られたときは良い結果になるとわかった故に対話主義とした。
これで、説明は終わる。そう、聞かないけど聞いているのだ。聞いて、言う通りにはしないが、そこにはインターアクションがある。聞いて、言う通りにするのであれば、それは対話ではなく命令。そこのところの説明はもっとあっていいんじゃないかと思った。

言う通りにしないという意味で「聞かない」けれども心の声を聞いている。しかし、その「心の声」を検証するのは難しい話ではある。また、当事者の声が聞かれなかったという重い歴史がある。それを無視することはできない。同時に声を発することができない(難しい)人がいる。

一人ひとりの人に向き合い、その人の声を真剣に聞こうとしながら、しかし、表面的な声に囚われず、という、それなりに難しい話が必要とされているのかもしれない。

ただ、この本の。自殺は社会がもっと減らせるはずだということは、ちゃんと考えられなければならない。自ら死を選ぶという悲劇をなくすことはできなくても、社会が減らすことはできるはず。



以下、5月14日追記(約2日後)

最初に書いた「人を自殺に追い込まない方法はある。しかし、それは医療ではない」ということと最後に書いた「自殺は社会がもっと減らせるはず・・・自ら死を選ぶという悲劇をなくすことはできなくても、社会が減らすことはできるはず」という部分について。

人と人の関係が自殺を減らす要素になるという話。そこに個と個の関係も含まれるのだろうが、ここで書かれているのは、そのことではない、雑多な地域のコミュニティの力が自殺を減らす効果を持つということであり、それを形成する努力は可能ではないか、ということだと思う。場の力、地域の力が自殺を防ぐ、ともいえるかもしれない。

従来の自殺ゲートキーパーの話など、えてして、個人モデルでとらえられがちだったのはないか。そういう意味で、これは自殺を減らすことを社会モデルで考えたら、こんな風になると言語化できるのかもしれない。自殺の医療・個人モデルと自殺の社会モデル

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帯のついてる書影が欲しかったので、
から借用

2021年12月追記
この本に先行している本の読書メモがあったことをここで紹介するのを忘れてた。

『生き心地の良い町』メモ
https://tu-ta.at.webry.info/201501/article_5.html

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