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zoom RSS 『うしろめたさの人類学』メモ

<<   作成日時 : 2018/05/29 01:22   >>

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『うしろめたさの人類学』松村圭一郎(著)2017年9月16日 ミシマ社
http://mishimasha.com/books/ushirometasa.html

最初のきっかけは誰かツイッターだったと思う。誰かがほめていたので、読みたくなって読んだのだけど、すごく面白かった。

直後に読書メーターに書いたコメントは
【使えそうな気がするのだけど、もうひとつ読み切れていない感が強い。書かれていないのではなく、読めていないのだと、なんとなく感じさせる本。 読み返しながら、もう1回、考えてみよう】
確かに、ふせん順に読み直して面白さを再発見した。

以下、付箋にそってメモ

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〜〜〜〜


京都のスーパーで見かけるヘンなおっちゃんをカナダ人がまったく自然に受け入れているのを紹介した後、著者はこんな風に書く。
 でも、その「おかしさ」をつくりだしているのは、おっちゃん自身ではなく、周りにいるぼくらのほうかもしれない 。何事もなく買い物を続けるカナダ人家族を見ながら、そう思えてしまった。
 人が人生を病む。それはその人ひとりの内面だけの問題ではない。もしかしたら、ぼくら自身が他人の「正常」や「異常」をつくりだすのに深く関わっているのではないか。
 自分の「こころ」が人柄や性格をつくりあげている。誰もがそう信じている。でも、周りの人間がどう向き合っているかという、その姿勢や関わり方が自分の存在の一端を作り出しているとしたら、どうだろうか。ぼくらは世界の成り立ちそのものを問い直す必要に迫られる。ある人の病や行いの責任をその人だけに追わせるわけにはいかなくなるのだから。10p
これもある意味、(障害の)社会モデルでもあるのだが、これは社会モデルが示すものの、さらに先に向かっているようにも思う。障害の社会モデルはインペアメントがあることが障害ではなく、社会が障害(ディスアビリティ)を作るのだという主張だが、ここでの著者の言い方だと、インペアメントもまた、他者や関係性に規定されていると読むことは出来ないだろうか?

 モースは、贈与が法や経済、宗教や美など、世界システム全体に関わる現象だと考えた。本書も、この考え方にならおうと思う。贈与的な行為を、正反対の行為だとされる「商品交換」や「市場」、そして政治の制度である「国家」との関係の中に位置づけてみる。他者とのモノや行為のやりとりが社会/世界を構築する作業であることを確認しながら、そのどこをどう動かせば変えることができるのか、その手がかりを探したいと思う。
 (中略)
 モースは言う。「贈り物というのは、与えなくてはならないものであり、受けとらなくてはならないものであり、しかもそうでありながら、もらうと危険なものなのである。それというのも、与えられる物それ自体が双方的なつながりをつくりだすからである。このつながりは取り消すことができないからである」(『贈与論』岩波文庫、369頁)。贈与は怖い。でも、世の中のバランスを取り戻すには、おそらく、贈与の力がいる。18-19p

 この『うしろめたさの人類学』と障害学をつなげると、すごく面白そうだと思った。


 レジでお金を払って商品を受け取る行為には、なんの思いも込められていない。・・・それとは異なる演出がなされた結婚式でのお金のやり取りが、特定の思いや感情を表現する行為となる。
 それは、光を感じるために闇が必要なように、どちらが欠けてもいけない。経済の「交換」という 脱感情化された領域があってはじめて、「贈与」に込められた感情を際立たせることができる。だからバレンタインのチョコで思いを伝えるためには、「商品」とは異なる「贈り物」にすることが不可欠なのだ。
 この区別は、人と人との関係を意味づける役割を果たしている。 (28-29p)
 家族のあいだのモノのやりとりが徹底的に「脱経済化」されることで、愛情によって結ばれた関係が強調され、それが「家族」という現実をつくりだしている(なぜ「母親」が脱経済化された領域にをおかれるのかも、ひとつの問いだ)。
 家族という間柄であれば、誰もが最初から愛にあふれているわけではない。それは脱感情化された「経済=交換」との対比において(なんとか)実現している。
 「家族」にせよ、「恋人」にせよ、「友人」にせよ、人と人との関係の距離や質は、モノのやりとりをめぐる経済と非経済という区別をひとつの手がかりとして、みんなでつくりだしているのだ。(30p)
義理の娘世帯と同居していて、お金のやり取りがあるシーンとないシーンがある。家族であって、家族ではない微妙な関係がここにあると言えるかもしれない。
また、もっと単純な話で言えば、働き始めた子どもは家にお金を入れるようになる(ことが多い)。そこにも、ひとつの独立の意志を見ることができる。

「ぼくらは知らない言葉の感情を感じることができない」55p
怒りとか悲しさとかの感情につけられた名前。
名前の分からない感情が浮かんだとき、それに名前をつけようとするかもしれない。 名前のない感情もあると思うのだが、それは名前を付けることを諦めた瞬間に消えていくのではないか。
 

 贈与の関係は、なにかと厄介だ。でも、そこで生じる感情や共感を増幅させる。ぼくらは、こうしてそのつど、交換/贈与のモードを選択しながら、そこにふさわしい感情を表出し、受けとめている。もし、あの人と親密になりたければ、積極的に贈与しなければならない。愛情は「こころ」のなかで育まれるのではなく、モノや言葉のやりとりという行為の 「輪」のなかで現実化するのだから。64p
言葉も贈与に含まれると、ここで著者は主張しているのだろうか?贈与と言葉の関係もまた単純ではないはず。 贈与としての言葉もあれば、怨嗟を投げつける言葉もあり、その間には無数のグラデーションが存在する。

・・・ぼくらは異質な他者を既存のカテゴリーに押し込め、最初から関係を築くことを拒絶してしまいがちだ。その排除のまなざしは、精神を病んだ人や、障がいをもつ人などにも向けられる。でも、この排除が、じつは「わたし」や「わたしたち」ぼ豊かな可能性を狭めていることに、多くの人は気づかない。81p


ここまで書いてきた「経済」、「感情」、「関係」というバラバラなトピックは二つの問いに答えるための道のり。その二つとは
1、ぼくたちは、どうやって社会を構築しているのか?
2、いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか?

81p

・・・関係の束としての「社会」は、モノや行為を介した人と人との関わり合いのなかで構築される。そこで取り結ばれた関係の輪が、今度は「人」をつくりだす。
 ぼくらが何者であるかは他者との関係の中で決まる。身近な他者が何者なのかも、あなたが何をどのように相手に投げかけるかによって変わる。あなたの行為によって相手は何者かになり、相手からの呼びかけや眼差しによって、あなたは何者かであることを強いられたり、何者かになれたりする。
 ぼくらは、強固な形で最初から「何者か」であるわけではない。ぼくらが他の人にいかに与え、受けとるのか。それによって生じる関係のなかから「わたし」や「わたしたち」が生まれ、「かれ」や「かれら」が生まれている。83p



 社会の現実は、ぼくらが日々、いろんな人と関わり合う中でつくりだしている。あなたが、いまどのように目の前の人と向き合い、なにを投げかけ、受けとめるのか。そこに「わたし」をつくりだし、「あなた」という存在をつくりだす社会という「運動」の鍵がある。
・・・・
 ぼくらが動かし、動かされ、そのつどある「かたち」を浮かび上がらせている「関係としての社会」。とどまることなく、否応なしに、誰もがこの運動の連鎖のただなかにいるからこそ、ぼくらは 、その社会を同じように動かし、ずらし、変えていく可能性に開かれている。
 与える。受けとめる。いま「わたし」と「あなた」をつなぎ、つくりだしている動きを見定める。もしそれを買いたいのであれば、それまでとは違うやり方で与え、受けとり、その関係の磁場をゆさぶり、ずらし続ければいい。83-84p


社会を構築し直すこと、それこそがテーマだ。格差を拒否する日常の行為が変化をもたらす可能性は否定しないが、ヴェーバーがいうところの「ターンテーブル」を動かすためには何かが不足しているのではないか?


 ぼくらと「国家」という大きな制度との関係。その結びつきを理解することは、「わたし」 という小さな存在がいかに手の届かない「世界」を動かせるのか、その手綱のありかを探すことだ。
「 わたし」が「世界」を揺さぶるためには、そのふたつがどこでどう連結しているかを知らなければならない。
「わたし」を変えることが「世界」を変えることになる 。たぶん、ぼくらには、その実感をきちんとつかみなおす必要がある。その感触を求めて、今度は「市場」について考えてみよう。121p
「第5章 市場」 はこんな風に始まる。

市場はぼくらに自由をもたらす装置であり、権限と責任が分散している市場/民主主義は、ぼくら一人ひとりが世界/社会をつくりだすことを可能にしているという話のあとに、以下の留保がつけられている。
 もちろん、特定の価値選択へと個人を誘導する仕掛けがたくさん潜んでいる。沖縄在住の政治学者ダグラス・ラミスは言う。芋とかニンジンとか大豆とか豆腐とか、日々の生活に不可欠なもののコマーシャルはない。コマーシャルは、基本的にいらないものを買うように消費者を説得するためのものだ、と。この誘惑の構造が、市場を動かす力になっている。
 それに市場では、公平とは程遠い偏った富の配分がなされる。生まれつき多くの財産をもつ人と何ももたない人が、その格差を市場のなかだけで埋めるのは至難の業だ。・・・市場の論理和、その不公平な配分の責任を過剰に個人に押しつける。130-131p
これらの留保をつけて、それでもぼくらには誘惑に抗して、みずから価値を見定める余地があり、市場の片隅で、自分がよいと思う価値を発信する自由があり、たとえわずかであれ、世界の構築に参与する手段をもっている、というのが著者の主張だ。

【市場はぼくらに自由をもたらす装置であり、権限と責任が分散している市場/民主主義は、ぼくら一人ひとりが世界/社会をつくりだすことを可能にしている】というそのように美しい市場は、
・どの時代のものだろうか? 
・果たして、それは存在しうるのだろうか? 
・存在しうるとしたら、それはどんな条件で可能になるのだろう?

 

 一元管理を志向する国家と分散された意思決定の自由を求める市場。現在の世界に生きるぼくらは、このふたつの力学のただなかにいる。 そこで、市場が資本主義の独占や国家の支配の道具になるか、 それとも志ある人びとの可能性をいか生かす場になるか。それは、国家が市場にどのようなルールをつくり、消費者/有権者がいかに選択するかにかかっている。市場や国家をたんに批判するだけでは、なにも変わらない。どちらか一方を過度に批判することは、他方の力を増大させることにもなりかねない。・・・・。
 市場と国家の力学を見極め、世界とぼくらをつないでいる細い糸をたぐり寄せる。その糸を紡いで、そこに小さなスキマをつくる。構築人類学の仕事は、その糸のありかを指し示すことにある。134p
人が動くことによって、社会は変えられるというのが著者の主張だろう。 急激に変えることは出来ないが、そんな風にスキマを作ること。こんなスキマをたくさんつくることと社会の変革の関係はどうなるのだろう?その問いへの微妙な回答は、次の【第6章 援助】に記載される。また引用しよう。
 もうひとつ重要なのは、個人の日常的な行為のレベルが、国家や市場といった大きな動きと「連結」しながらも、かならずしも、「連動」いないという点。つながってはいるのが、前もって意図された方向だけに動くわけではない。世界を変えるためのスキマがある。 アメリカの外交戦略も、エチオピア政府の政治的意図も、いろんな人とモノの連結の過程を経て薄められていく。国家や市場の「思惑」は、個人のささやかな行為のなかで解消される。 152p
ここがこの本にとっては大事なところなのだと思うが、ほんとにそうか、と思う。国家や市場の「思惑」がそう簡単に解消されることはないのではないか。ときに解消されたとしても。
 しかし、ここに変化の萌芽を見つけるのが人類学の仕事だと著者は言いたいのかもしれない。ここで再び思い出すのが、人は利害の動機によって動くというヴェーバーの話だ。

「いったいどうしたら、その社会を構築しなおせるのか?」と問う前に、人はどのような動機でどのように動くのかという考察も必要なのだと思う。よく考えたらそれは、この本のはじめの方やフィールドノートに書かれていた。そう、人がどのように動くのかは社会や関係が規定している。




「よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか」と問題を立て、著者はそれに対して、ひとことで言えば「公平=フェア」な場だと書く。そして、その「公平な世界を実現するのは、革命的な手法ではない。・・・大切なのはバランスを取り戻すことなのだから。秘策も、魔法も、必要ない」と。そして、こんな風に書かれる。
 この世界を動かしているようにみえる 国家や市場というシステム。ぼくらが日常的に繰り返しているコミュニケーション。 、どちらも「わたし」 と「あなた」が有形・無形のもモノをやりとりしている同じ平面上にある。社会/世界は、人とモノが行き来し、配置される。そのやり方のなかに生じている。これが、この本で描いてきた見取り図だ。
 その平面で起きているやり取りを一つひとつ解きほぐしながら、バランスを乱す要因を見つけ、調和を取り戻す可能性を探る。それを丹念に続けるよりほかない。(165-166p)

公平さというバランスを取り戻すとは、例えば東日本大震災を前にして、義援金を送る、ボランティアをする、自分にできることを考える・・・ということ。「公平さへの欲求は、人間という社会的存在の深い部分に根ざしている」という。誰にも、少しはそういう思いはあるだろう。しかし、問題はそのバランスの支点の位置が人によってかなり違うということではないか。公平さの反対側に、例えば「私欲」を置いてみる。どうすれば、そのバランスが取り戻せるだろうと思う。ここで著者は以下のように書く。
 唐突に正義を振りかざすことでも、声高に革命を叫ぶことでもない。すでにいつか・どこかで・誰かが経験してきたはずのなにかに光をあて、その可能性を開く。
 いまここにいる「わたし/ あなた」の外側の力に頼る必要はない。ぼくらのなかの公平さへの欲求。これが手がかりになる。167p

ここから先でそれがもう少し具体的に展開され・・・・

こんな風に書かれている。
〜〜〜
 では、公平さのバランスを取り戻すには、どんな手段があるのか? ひとつは、 偏りそのものを否定したり、覆い隠したり、見て見ぬふりをすること。もともと偏りがなかったことにしてしまえば、擬似的にバランスを回復できる。これは、ぼくらがもっとも頻繁にやっていることかもしれない。
 ・・・
 バランスを取り戻すもうひとつの方法は、物や財を動かすこと。より多くもつ人からもたない人へモノを譲り渡す。この「移譲」には、おもに市場での交換、社会的な贈与、国家による再配分がある。 168-169p
(上記について)・・・それぞれに一長一短があって、万能な方法があるわけではない。それらを組み合わせながら公平さを目指すしかないし、現にそうやっている。(172p)

ところで、著者は公平さを取り戻すというのだが、「取り戻す」前の状態はあったのだろうか?多くの場合、初めから奪われていて、当事者は「奪われたものを取り戻す」という感覚を持ち得ているのか。
そして、タイトルの「うしろめたさ」の話になる。
こんな風に書かれている。
では、どうしたらいいのか?
まず、知らないうちに目を背け、いろんな理由をつけて不均衡を正当化していることに自覚的になること。そして、ぼくらのなかの「うしろめたさ」を起動しやすい状態にすること。人との格差に対してわきあがる「うしろめたさ」という自責の感情は公平さを取り戻す動きを活性化させる。そこにある種の倫理性が宿る。
ぼくらは「これが正しいのだ!」とか、「こうしないとだめだ!」なんて真顔で正論を言われても、それを素直に受け入れることができない。でも、目の前で圧倒的な格差や不均衡を見せつけられると、誰もがなにかしなければ、という気持ちになる。バランスを回復したくなる。
・・・・
 こうして、倫理性は「うしろめたさ」を介して感染していく。目を背けていた現実への認識を揺さぶられることで、心と身体に刻まれている公平さへの希求が、いろんな場所で次つぎと起動しはじめる。(174-175p)

この「うしろめたさ」が本のタイトルにも使われるキーワード。それを原動力にすることを著者は主張する。なんとなく、これにひっかかる。共感能力が公正さを求めるのだということもできるだろうが、共感やコンパッションと「うしろめたさ」の関係をもう少し考えてみたい。こんな後ろ向きの感情が人を動かすという言い方がプラスに働くかどうかも疑問は残る。

178pでは具体的にこんなことが提案されている。
 市場と国家のただなかに、自分たちの手で社会をつくるスキマを見つける。関係を解消させる市場での商品交換に関係をつくりだす贈与を割り込ませることで、感情あふれる人のつながりを生み出す。・・・・
 もう少し具体的に 言おう。社会の格差を是正したり、公平さを回復したりすることは国の仕事だとされる。個人や企業は市場で稼ぎ、国はそこから税金を集めて再配分を行う。世の中はこうしてできあがっている。だから自分には直接関係ない、と。この「あたりまえ」の市場と国家の境界の引き方が、公平さをつくりだす「わたし」の役割をみえなくしている。
 税金を払っているのだから、あとは国がなんとかすべきだ、となる。政治に口を出したければ政治家になれ、と言われる。その閉塞した論理が、ぼくら一人ひとりに公平さを取り戻す責任や能力があることを覆い隠す。「自分には関係ない」。そんな無関心が、ぼくらのバランス感覚を麻痺させる。178p

また、次のページではこんな風に書かれている。
「働く」ことは、市場での労働力の交換だと説明される。この「あたりまえ」の理解が、労働が社会への贈与(・会・社への贈与ではない) にもなりうることを見えなくする。
 市場のなかにも、どこかで「わたし」の働きの成果を受けとめ、 生きる糧としている人がいる。市場交換によって途絶され隠蔽された労働の贈り手と受け手とのあいだをつなぎなおすことで、倫理性を帯びた共感を呼び覚ます回路が生まれる。
 何を贈るために働いているのか。まずそれを意識することから始める。「贈り先」が意識できない仕事であれば、たぶん立ち止まった方がいい。
 「わたし」の日々の営みが、市場や国家と結びつき、世界の格差や不均衡を生み出している。非常や国家というシステムを「わたし」の行為が内側から支えている。それがわかれば、国の政治が政治家だけの仕事ではないことに気づくことができる。市場に、いまとは違うやり方を持ち込む余地があることも見えてくる。
 「わたし」の越境的な行為が、市場や国歌を揺さぶり、スキマをつくりだす。
179p

こんな行為から生まれたスキマは社会を変革しうるだろうか?
確かにスキマはできるだろう。それが増えれば増えただけ、少し生きやすい社会になるような気はする。問題は、
・そんな風に小さな努力の主体になれる人がどれくらいいるか?
・そういう行為に向かう人を増やすために何が出来るか?
・社会が変わったと多くの人が自覚できるようになるために、どれくらいの人が、自らの働きを意識すればいいのだろう?

 例えば自分にできること。大学教員である著者は、
【「教える」という仕事を、なるべく対価を得るための「労働」とは考えないようにしている】
という。180p
【授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受けとってもらえるかわからないまま、なににつながるか未定のまま手渡される「贈り物」なのだ】(181p)
と。

授業でそんな風に伝えて欲しいとは思う。しかし、同時にそれが【対価を得るための「労働」】であり、そこに正当な対価が支払われ、まっとうな労働条件が保障されるべきだということを忘れてはいけないはずだ。前者だけが強調され、生きがい搾取が生じないような注意は必要だろう。しかし、そんな風に送り続けることが、社会にスキマをつくる糧になり、メインストリームへの抵抗になり得る(182pを書き換え)ということはあるだろう。ここでもバランスが問われているのだ。

このメモもやっと最後にたどり着いた。最後の節のタイトルは
【おわりに「はみだし」の力】
この節で著者は1日1回しか食事ができなかった少年に蜂蜜や古着を与えたエピソードを紹介し、こんな風に書く。
 私が少年によって喚起された共感、そして、おそらく私の行為によって彼に生じた共感は、私と少年とつなぎとめる。それが公平さへの第一歩となる。なぜなら、公平さを覆い隠しているのが、「つながり」の欠如だからだ。「つながり」は次の行為を誘発し、「わたし」とは切り離されたようにみえる世界のなかに、小さな共感の輪をつくる。その輪が、ぼくらがこの世界につくりだせるスキマとしての「社会」だ。
 市場や国家という制度によって分断され、覆い隠されているつながりを、その線の引き方をずらすことで、再発見すること。そしてそこに自律的な社会を作り出すこと。それが、この本でたどり着いたひとつの結論かもしれない。181p

これに続いて、線を引き直す例として、再び書かれているのは
(自分のできる範囲で)
・国家の責任とされる再配分を引き受けること
・利潤や対価といった市場の論理ではなく、他者への贈与として「仕事」をとらえなおすこと
・「家族」の役割や範囲を広げてみること
・「消費」という行為を拡張し、市場の壁を越えて生産者と消費者とのつながりをつくりだすこと
・モノの売買の場に、人が交流する機会をつくること

そして、研究者として教壇に立つ著者は自分にできることとして
【「ことば」を紡ぎ出す】
【どれだけ越境的なことばを手にできるのか。学問とか、大学とか、既存の枠組みからいかにはみだせるか】
という。186p

そう確かに「はみだす」力が必要なのだと思う。しかし、そんな風に贈与を賛美するだけでは終わらない。
 贈与がどんな結果をもたらすのか。公平さを生むのか、役に立たないのか、むしろ害を及ぼすのか(これもよくあること)、ぼくらは事前に知ることができない。被災地への支援物資のように、それだけでは最適な分配は達成できない。贈与はつねに過剰となる。支配と従属の関係も生む。でも、市場や国家だけに頼ると、人と人が分断され、不均衡が覆い隠されていく。186-7p


また、【贈与の起点となる「うしろめたさ」にも、落とし穴がある】として、ニーチェを援用し、
【「負い目」や「やましい良心」という「負債の道徳」が国家という征服者の暴力によって発明され、恐怖による支配と服従を内側から支えていると指摘】
つまり、「うしろめたさ」が特定の誰かに向けられると、それが自由を束縛し、不均衡を固定させる、というのだった。187p


そして、この本の結語として以下のように書かれている。
人と「つながる」ことは、その人の生の一部を引き受けることを意味する。ときには市場/交換の力をつかって、関係を断ち切ることも必要になる。そのバランスをとるためにも、共感の回路をうまく開閉できた方がいい。
 いまは、これまで築かれてきた境界線を試行錯誤しながら引きなおしていく時代なのだと思う。市場や国家を否定する必要はない。過度な批判は、むしろ市場や国家を、自分たちの手の届かない「怪物」に仕立て上げてしまう。自分たちがその手綱を握っていることを意識しながら、一人ひとりの越境行為によって、そこにあらたな意味を付与し、別の可能性を開いていく。それが重要だと思う。
188p


 ぼくはいろいろなことやに声高に批判してきた。そう、主要に国家や市場を批判してきた。否定すべき国家や市場があったし、いまもある。そのことが国家や市場を「怪物」に仕立て上げた側面はあるかもしれない。しかし、現実に「怪物」のようではある。「もり・かけ」をめぐる、もうどうしようもない、しかし、退陣まではいかないこの国の政府はまるで醜い怪物のようだ。そして、それでも怒らない多くの民衆がいる。

 事態は本当に絶望的だ。花崎こうへいさんがいうように、見せかけの希望など語らないほうがいいのだろう。絶望を絶望として、直視すべきだ。しかし、その絶望的な状況をリアルに認識したうえで、それでも一筋の光を見ることを忘れないでおきたい。著者が言うように「手綱を握っているのはぼくたち」なのかもしれないが、そのぼくたちの多くは怒ることを忘れたか、怒る方法を学んでいない。手綱をコントロールしているという実感はもてない。

しかし、著者が主張しているように、一人ひとりのメインストリームを拒否する小さな行為によって、メインストリームからうまく外れて生きていくことに成功している人はいて、地域はある。それをサティス・クマールは「救命ボート」と呼んだ。氷山に向かうようなこんな状況の中でもパーティーを続けるタイタニックの乗客は船とともに沈むしかないと思いたい。

ただ、現実はサティシュがいうようにはいかず、直前までパーティーを楽しんでいたものたちが、金の力で救命ボートを手にするかもしれない。そして、そのような大きな変動の波をかぶるのは、いまもいちばん弱くさせられているものたちなのではないだろうか?

この本から大きく離れてしまった。確かにすごく面白い本ではあり、多くの人に読んで欲しい本なのだが、この結語部分を読み返していたら、そんな思いが湧き出してきた。








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「うしろめたさ」が、私の今日を作っているように思いました。
岩ちゃん
2018/05/30 11:40

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