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zoom RSS 『大田文学地図U』(染谷孝哉遺稿/城戸昇編)メモ

<<   作成日時 : 2018/06/06 05:52   >>

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下丸子文化集団のあとを歩く街歩きの企画のために借りて読んだのだけど、こちらの本にはその方面の話はまったくでておらず、もっぱらプロの文学者の話だった。その街歩きの案内人の池上さんの話だと、文化集団に所属していた人の中にもプロを目指している人は多かったらしい。

文字がところどころ潰れた活字で組版してある。この組版は初期のワープロか、電算写植の普通紙出力、あるいは安いカナタイプだろうか。誤変換(?)やミスタイプも少なくない。

「はじめに」には著者の染谷さんの「大田文学地図」の最初の『はじめに』と、編者の城戸さんのこの本をつくるにあたっての文章が掲載されている。

ちゃんと読まないと、この本のことがよくわからないのだが、染谷さんが原稿を残したのは前著『太田文学地図』の「補遺」。その遺稿を本にしたのだが、補遺だけを本にしても初めて読む人にはわからないだろうから、各省の冒頭に前著を省略して再録してあり、「改訂増補版に見まちがうかも知れないが、前著の再録は四分の一程度」とのこと。ぼくも増補改訂版かと思っていた。

入新井町不入斗は「ガスデン」(東京瓦斯電気株式会社)を中心とする職工の町(15p)とあるのだが、それはどこにあったのだろう?
金子光晴と森美千代の馬込も舞台の恋愛やセックスの話とか面白いのだが飛ばす。

転々として市野倉から馬込に越して住んでいたという草野心平の家に5人子供がいる6人家族が転がり込んできて、一晩か二晩という話がふた月に。
これだけでもけっこうおもしろい話なのだが、さらに高村光太郎に費用を出して、はじめての詩集をだすべく出来上がっていたのに、転がり込んできた家族の生活費のため、その高村にもらったお金を使ってしまったとのこと。というわけで、このときできた詩集は印刷屋の倉庫で眠ったまま陽の目をみることができなかった。
その上、結局、6人家族に家を引きわたして馬込を出ていくことになったっていう話、好きです。(32p)

36~37pには「報告」という同人誌の話が出てくる。プロレタリア文学派と芸術派が同居している雑誌で、そのなかの芸術派で大森・蒲田に住む同人として崎山正毅(大森新井宿1145)という人がいるのだが、あの崎山さんの関係者だろうか? また、北村秀雄(大森山王1983)というのは小夜さんの関係者?そういえば、小夜さんは中国で従軍看護婦になる前はどこにいたのかな?

志賀直哉が「暗夜行路」で「大森の暮らしは予期に反し、全く失敗に終わった」と書いていたのも、知らなかったが、著者によると、どうも「そのデテールについてはほぼ作者じしんのそれに等しい」とあるのも笑える。和辻哲郎や折口信夫の名前も出てくる。54-55p

73pの平林たい子への酷い評価。この時代の男の価値観がそのままでているゆようなジェンダー視点ゼロの文章もちょっと紹介したかったが、面倒なのでやめる。
82p〜はいま、ぼくが住んでいる大森北(入新井)の紹介だ。こんな風に書いてある。
「山王がブルジョアジーを、馬込がインテリゲンチャを象徴しているとすれば、ここは前にもいったように東京瓦斯電気会社(松方コレクションの松方三郎が創設者)のぼう張につれて発展しただけあって、さしずめ庶民の町プロレタリアートの町だということができよう」(83p)

高見順は1930年に大森に来て、2年ぐらいしてから、引っ越したのが「沢田通りの裏の露地(環七を第一京浜に向かって春日橋を下りきった左側に消防署(これは記憶がある。いまは大森東に移転)がある。それについて曲がっ(ママ)少しゆくと生花市場(これは知らない)がある。その真ん前の裏あたりに当たる)」(86p)と書かれているので、もうぼくが住んでる目と鼻の先だ。で、この高見がプロレタリア作家同盟の城南地区の責任者で同時に全国金属のオルグも兼ねていて、文学サークルの指導に当たっていた(84p)、とのことで、下丸子文化集団の前史がここにある。ちなみに1933年に、大森警察署に検挙されひどい拷問を受け、転向手記を書いて保釈されたとのこと。小林多喜二が虐殺されたのがその年の春にあったばかりで複雑にに屈折してたはずとあるのだが、ということは2月に逮捕されて、どれくらい豚箱に入っていたのだろう?
そしって、家に帰ると、妻は他に男を作っていた(85p)、ともある。高見順に急に親近感がわいてきた。

花田清輝もまた、同じ町内(大森北4丁目)に住んでいたとある。(86-87p)

金子光晴と森美千代が戻ってきたのが、不入斗(90p)で山口瞳が生まれたのも不入斗(92p)だったとのこと。

葉山嘉樹という人をぼくは知らないのだが、この本によると、ぼくが働いている場所のすぐ近くだ。(93p)
99~100pにかけては本門寺のわきにあったという「あけぼの楼」について記載されていて、そこに出入りした徳富蘆花や田山花袋の名前が出てくる。ちなみに川上音二郎と貞奴のロマンスもここで生まれたとのこと。ちなみに「あけぼの楼」跡地に門柱は残っている。驚くのは、ここに伊藤博文も出入りし、「赤坂をしのぐほど栄えた政治取引の場所だった」とあるのだが、ほんとかよ、と思う。

『五重塔』の幸田露伴の墓は池上の五重塔のすぐ裏にあり、幸田文が墓碑を書いているとのこと(101p)

安成貞雄という人も知らなかった。彼が「宮城の上には紫雲漂うはずで、その下には恐れ多い天皇がいて、日本では天皇が〇〇でもチョンでも。政治はちゃんと行われる仕組みになっている」と話したと紹介されているのだが(103p)、今とは伏せ字の部分が違うかも。

103pでつぎに紹介されるのが中原中也の「お会式の夜」という詩。その詩によると、その夜、東京の電車は終夜運転とのこと。お会式で電車が終夜運転というのは知らなっかった。ここにも中原中也が小林秀雄に彼女を持っていかれて、傷心だったという話が紹介されている。詳しい話は12〜129pに記載されている。この本を拾い読みしていて、最初に印象に残った部分だ。そのときのツイートが以下
『大田文学地図U』(染谷孝哉遺稿/城戸昇編)を拾い読み中。
小林秀雄が中原中也と会って間もなく彼の「情人」に惚れ、奇怪な三角関係の末、「彼女と同棲することになる」という話で「寝取られた」中原が失意のどん底だったころ長原に住んでたらしい


これが大正が昭和に変わるころの話で、この頃、中原が処女詩集『山羊の歌』を準備し、本文だけ刷った段階で印刷代がなくなってそのままになっていた。その詩集が小林秀雄のあっせんで出たのが昭和9年。「寝取った」小林の書評もこの本で紹介されている。

その書評は以下。旧仮名遣いなどを変えている。
「中原はずいぶん前からの友達で、二十歳前後から誰の真似もしないいい詩を書いていたので、 もういいかげん詩集も出ていて、有名になっていていい男なのだが、根が怠け者で人付き合いが並外れて不器用かつ不気味であったために、やっと今日その処女詩集が出るという始末である。やれやれと思って僕は大変嬉しい」 (127p)
中原がこの小林の力を借りるとき、どんな心境だったのかと思う。どんな風に小林は中原と和解したのか、あるいは本当は和解できていなかったのかが気になるところ。
『ゆきてかへらぬ -中原中也との愛-』(長谷川泰子/述 村上護/編 1974年 講談社)という本もあるとのこと。巻末で長谷川泰子さんの口述をまとめて、この一冊をなした経緯を村上護氏が以下のように解説している。https://blog.goo.ne.jp/kakattekonnkai_2006/e/7f1f043b61590a6fd95b3e33f8affcd7 から引用
長谷川泰子さんが中原中也と同棲し、のち小林秀雄氏のところに去って行った(大正14年)ことは、よく知られた事実である。それは三角関係ということで、ゴシップ的に扱われやすいため、いろいろ取りざたされてきた。だが、その真相に触れたいきさつについては、当事者があまり語っていないため、やはり推測に頼る部分が多かった。ことがことだけに、それも無理からぬことかもしれないが、詩人中原中也の研究が細かいところまでいっている現在、ただゴシップ的風聞にとどめておくのも、やはり心残りと考えるのは私一人では。ないと思う。

ちなみにこの処女詩集、初版は200冊印刷して、販売されたのが150部。いまは「万金を投じてもなかなか入手できないらしい」(127p)と書かれている。

131-134pには石垣りんさんが紹介されている。

田園調布6丁目在住として、143pに紹介されているのが石川達三。ここでは彼の『生きいる兵隊』という南京攻略戦に中央公論社の特派員として派遣され書いた記録が紹介されている。昭和13年にでたこの本、皇軍兵士が非戦闘員を殺戮、略奪、軍紀弛緩の状況を記述し安寧秩序を乱したという理由で発禁になった上に起訴され有罪判決を受けたとある。これも知らなかった。だけじゃなくて、戦前に彼がおく多摩湖の底に沈む小河内村のことを『日陰の村』として書いていたり、ブラジル移民の収容所のことを『蒼氓(そうぼう)』という作品で残してることも知らなかった。
とはいうものの、この記述から、石川達三がいつからいつまで田園調布に住んでいたのかがわからない。

武蔵新田・矢口界隈の章では、1956年頃、井上光晴が武蔵新田駅前の果物屋の倉庫に居候していた話が紹介されている。162-163p
「初版3000部の内金は大森のモツ焼きと焼酎に変化した」という井上の文章も紹介されているのだが、近い蒲田に行かないで大森で飲んでいたのは、文学関係者が多かったからか? 井上が飢えた友人の前で自分一人で飯を食っていた共産党員のことを批判的に書いた『書かれざる1章』の紹介に、著者のスタンスを見ることができるだろう。

164p〜は坂口安吾の紹介がある。坂口は戦中から安方町に住み、東大の精神科から退院直後に書いた小説で矢口の渡しで泳いぎにふけって体調を崩し、仕事が出来なくなった話を書いている。

巻末には何人かの人からの追悼文が掲載されている。最初に書いているのは文学関係者が集まった沖縄料理の店「河童亭」のマスターだった かのう・すすむさん。この店、昭和28年ごろ旧池上通り4丁目で営業していたとある。本文中にあったかもしれないが、忘れた。最後に書いているのは小関智弘さん。

そんな風に大田区に関する文学トリビアを集めたような本だった。文学関係者が集まる飲み屋での会話とかから拾った話をあとづけた感じ。いろいろ面白い発見もあって、楽しい読書だった。













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