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zoom RSS 『虐待・親にもケアを』 (森田ゆり著)メモ(約1か月後の追記あり)

<<   作成日時 : 2018/08/14 02:20   >>

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最初に読書メーターに書いたメモ
森田さんが開発したMY TREEペアレンツプログラムの本。(http://www.geocities.jp/mytree1206/ )確か、伊藤みどりさんが読んでよかったというのを聞いて、図書館で探したらあったので読んだのだった。モンゴルでも少し読んだ。興味深い話は多い。実践的な話でもある。そして、アカデミズムの検証にも耐えられるような学問的な厳密さも意識しているようだ。ただ、彼女のエンパワメントに関する本のようなのびのびとした清々しさには少し欠けるかも。



 権利には義務が伴うが、人権には義務は伴わず、あまねくすべての人に存在するという紹介があり、その人権という「生きる力」の土台の上に立つ MY TREE プログラム の三本の柱は、公衆衛生のアプローチ/子ども観/エンパワメントとレジリアンスの具体的な支援のノウハウ 。(64p)
公衆衛生アプローチというのは、疫病が発生したら、その病気に対する教育啓発活動を行って発生予防を行う、それと同様に虐待についても地域ごとに教育、福祉、医療、司法の連携と効果的な予防研修を行うことによって、減らすことができるというアプローチ。

あるべき子ども像を想定するのではなく、体も心も思考も日々変化するその子どもの変化に興味を持ち観察しながらその都度対応していく。子育ての主人公は子ども。これが子ども観を持つということ。67-69p

当事者の中から、自閉症スペクトラム症スペクトラム障害という診断に対しても、自閉症は障害ではない、それは脳神経多様性の一つだという主張が出されています。その主張には次のような思いが込められています。

 ・私たちに”治療”はない。必要なのは脳神経の違いへの理解と共感に基づく関わりである。
 ・欠陥、疾病、以上などの言葉を私たちに対して使うのは不適切だ。私たちの特性はしばしは定型発達の人々にはない能力やストレンス(strngth)である

このあとに森田さんは定型発達症候群のことを書く。これについては http://www1.nhk.or.jp/asaichi/hattatsu/about_nt.html とか  http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50640?page=4  つまり、あるべき子ども像(健常者が当たり前というこども像)を見ないで、いまいる目の前の子どもを見るということを言いたいのだろう。

続いて、森田さんは14歳の東田直樹さんについて、アインシュタインやジョブスたち、高機能発達障害のある有名な人がテクノロジーや文明の発展に貢献したよりはるかに重要なことを指摘してくれたと以下のように書く。
 (Q)自閉症についてどう思いますか?
 僕は自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちを作り出したのではないでしょうか。
 僕たちは、人が持っている外見上のものは全て持っているのにも関わらず、みんなとは何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。
 僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっても大切な何かを思い出してくれたら、僕たちはなんとなく嬉しいのです。( 『自閉症の僕が跳びはねる理由』だが、この本からの孫引き)74p
ここで森田さんがジョブズやアインシュタインと東田くんは比べるのが面白い。でも確かにそうかも。

〜〜以下、約1か月後の追記〜〜
 こんな風に読書メモに書いたけど、自閉症を「太古の昔からタイムスリップしてきたような人間」と一般化しちゃうのも違うかも・・・・。

 しかし、突然、飛んだり、脈絡はありそうだけど、なぜそんな反応になるのかわからない話をする自閉症の仲間から、何を受け取るかという受け取り側の問題でもある。確かに、それを常軌を逸した問題行動と見てしまうのはつまらない。

 ぼくたちは飛んだり叫んだりしたくなる社会に生きてるにもかかわらず、それを我慢してる部分はあるかもしれない。彼らが飛んだり、叫んだりするとき、自分と自分が住む社会を見つめ直すことが問われている、そんな気がした。
〜〜追記、ここまで〜〜



私たち一人ひとりは氷山のような存在です。自分について自分で知っていること、気づいていることは、水面の上に出ているわずかな部分です。水面下には自分でも気づいていない膨大な部分があるのです。私もあなたも、自分について知らないことの方がはるかに大きいのです。あなたはあなたが知っているよりはるかに深く力のある存在です。その豊かさに気づいていきましょう。77p
マリア・ミースの氷山モデルとは違う氷山モデルだが、この氷山モデルも面白い。

レジリアンスとは本来、押す力が強ければ、その分、跳ね返す力も強いという物理学の定式を持つ物理用語。スラム街の子ぎもたちは、玄関、人種差別、路上での麻薬販売の横行などたくさんの社会的抑圧の中に生きている。それはボールを押しつぶすように子供を抑圧しているが、だからこそ、子どもたちの抑圧を跳ね返す力も大きい。逆境ゆえに彼らが内包する力 、これがレジリアンス。82p
 跳ね返す力というところは知っていたが、押す力が強ければ跳ね返す力も強くなるというのは知らなかった。

この本では、いままでカタカナで「ストレングス」と表記されていたものを「ストレンス〔strength〕」と表記。森田さんは従来の表記には我慢できなかったみたいだ。これから、「ストレングス」に変わって「ストレンス」が一般化するかどうか不明。こんな風に説明される。
「ストレン(ク)ス」と喉の奥にク音をかすかに飲み込むように発音しますが、それを「グ」と発音する英語のネイティブスピーカーに出会ったことがありません。(中略)外国人に寿司をズシと発音されたら、私たちは一瞬理解に戸惑うように、gを「グ」と発音してしまうと通じないこともあるでしょう。85p
ふと、思ったのだけど、この「ストレンス」、「強み」っていう日本語に置き換えればいい場面もいっぱいあるような気がするんだけど、どうなんだろう?



このプログラムを1本の木に例えると
1、根は理論(5つの理論がベースに)
2、幹は13回のカリキュラム
3、葉・光合成は変化の表れ(参加者や実施者相互のダイナミクスによって参加者が変化)
4、花と実・果実(結果)としての変化


その5つの理論とは
1、エンパワメント【ぼくが森田ゆりさんに惹かれたのはエンパワメントの説明がきっかけだった。戸田三三冬さんの文章での紹介】
2、ホリスティック【身体・感情・思考・魂(生命力)の全体からのアプローチ】
3、コミュニティ【このプログラムは地域の社会資源の連携、ネットワークをフルに活用した協力体制なしには実施できない】
4、ジェンダー視点【ジェンダー社会における構造的な力関係や、母親らしさ、父親らしさの固定化は、親戚援助を含む家庭内の人間関係、ライフスタイル、しつけの方針、コミュニケーションの仕方などに大きな影響をもたらす】
5、多様性【参加者の多様性を尊重することで、一人ひとり違っていい、比較しないでいい 、競争しないでいいという学びを促進】89-95p


ホリスティックの補足
森田さんによるとヒーリングやヘルスの語源は whole(全体の)とのこと。
ここに『エンパワメントと人権』からの引用がある。ぼくもメモしてたかも、と思って過去のブログを見たら、あった。 https://tu-ta.at.webry.info/200810/article_30.html
上記では、ぼくが勝手に要約しているので、もう少しちゃんと引用してみよう。
病める現代という言い方がよくされるが、 いったいその「病める」とはどんな病なのかといえば、全体性を失ってしまった自我、からだと心、意識と無意識、理性と本能、自然と人間が分裂してしまっている病なのだと思う。自然から疎外され、自分の中の無意識という自然からも疎外されて二つ三つ四つに引き裂かれている自己は、その統合を求めてやまない。(中略)癒しとはまさにこの全体性を取り戻すことにほかならない。
『エンパワメントと人権』(この本から孫引き)から



【3、葉・光合成は変化の表れ(参加者や実施者相互のダイナミクスによって参加者が変化)】これに関しては、変化するのは参加者だけで、実施者は変わらないのかと、つっこみたくなった。こう思ったのはたぶん、更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論~再犯防止をやめれば再犯は減る』の影響。https://tu-ta.at.webry.info/201808/article_1.html


これに続いて、『ソマティック(身体から)・アプローチ』というのが紹介される。(しかし、ソマティックとかいう英語を使う意味はどこにあるんだろうと思った。身体からのアプローチでいいんじゃないか)

ともあれ、その身体からのアプローチとして

まずは丹田式呼吸、それをしばらく続ける。そして、以下、引用。
一本の木が大地に根を張って立っている様子をイメージしましょう。
目は軽く閉じるか半眼にして、鼻からゆっくりと丹田式呼吸をします。
あなたはその一本の木です。

あなたの足の裏から、たくさんの根がやわらかい大地に伸びています。
息を吐くごとに根が深く伸びていきます。
息を吸うと、根から、水と養分が体内に入ってきます。
根っこから、大地のエネルギーを吸い上げていきます。
太陽は、あなたに光のエネルギーを降り注いでくれます。
あなたは葉の一枚一枚で光合成をして、
生きるエネルギーに変えていきます。
そして、酸素を送り出します。
鳥や虫たちが集まり、新しい命が生まれ、育まれていきます。
いのちあふれる豊かな木です。

身体を前後左右に少し揺らしてみましょう。
大風が吹くと、しなることはあっても、倒れることはありません。しっかりと大地に根を張った豊かな木です。

《しばらく木の感覚を味わう》
97-99p


この後、7つのツールや8つのストレス要因分析(これはよくわからない)などの紹介もあるが略。

続いて、グループ・エンパワメントについて

グループ・エンパワメントは個人カウンセリングにはない効果を発揮できるが、同時にグループは進行の仕方や、構成によっては参加者にさらなるダメージを与える力も持っている。
参加者の外傷体験の再演が起きたり、メンバー間の攻撃が起きる危険性がある。治療的な効果や行動の修正を目指すグループの実施には、少なくとも以下のことが準備、保証されている必要がある。
  ・目的を明確に設定し、参加者がそれを共有する。
  ・参加者が自分に正直に語ることができる安心な場をグループ進行中のあらゆる場面において保証する。グループは参加者が何を語ってもいいし、語らなくてもいい安心な場でなければならない。安心は、グループの成功、不成功を決める鍵である。
  ・最初の2回の〈自分トーク〉では、安心を根付かせるために、ファシリテーターはコメントを返さず、傾聴に徹する。
  ・メンバー相互作用によるグループ・ エンパワメントを可能にする進行スキルが必要。参加者が互いにエンパワメントし合う場面は自然に発生するのではなく、ファシリテーターによる全体のトーンの設定、目的と約束事の確認、細かい配慮があって初めて活性化する。その理論とスキルとツールをファシリテーターは持っていなければならない。
  ・参加者の気づきと変化を大きく促進するために、ファシリテーターは、3回目の〈自分トーク〉以降は、傾聴するだけではなく、短く適切なコメントをする。これは、気づきをもたらす質問、validation(承認・有効化)、言い換え、受容、指摘、気づきを引き出すための余韻を持たせるコメント、そしてまれに助言など。一人の人へのコメントが他の人にも意味を持つことを意図しながら、短いセンテンスでシンプルに言い、言葉を重ねない、曖昧な言い回しの語尾を使わないなどが訓練される。

 コメント返しはMY TREE実践者が、3〜4人の実践者間による振り返りと、スーパービジョンを受けながら実践を重ねることで身につける臨床家としての高度なスキルである。
142-143p
〜〜〜〜
グループ・エンパワメント、確かに傷ついた人への配慮は必要だと思うが、「場の力」が人を癒してくれるということを、もっとカジュアルに考えたいとも思う。上記の専門性と人と人との関係性の中で癒されるという 立場 、そう、小沢牧子さんの『心の専門家はいらない』という立場に代表されるような考え方、その辺りをどう考えていけば良いのだろう。

FGCについて

虐待の文脈でFGC(ここでは「家族えん会議」と呼ばれる)が紹介されていてびっくり。こんな風に紹介されている。
 家族えん会議は当事者(被害者、加害者、その家族家コミュニティ)が直接一同に会して、対立や暴力を解決する方法です。修復的司法、修復的正義、ファミリー・グループ・カンファレンス、オハナ会議、ピース・サークル、ファミリー・ ユニティ等々、 世界各地で様々な名称で実施されています。校内暴力やいじめ、児童福祉における虐待や DV ケース、非行、 セクハラ・パワハラケースなどの諸分野で驚くほどの効果を挙げてきました。

FGCに関しては、数年前に知り合いが何人か意思決定支援の文脈でワークショップに行っていて、ぼくは行ってなくて、伝え聞く話だけで、意思決定支援のためのものだと思っていた。
検索したら、そのセミナーがでてきた。
https://kokucheese.com/event/index/293843/ それなりに紹介されてはいるが、当時は、障害者の意思決定支援という文脈以外のことはぜんぜん見えていなかった。

 この本によるとニュージーランドでは30年も前からFGCが行われていて、家庭裁判所に行く前にFGCを開くことになっているとか。こんな風に書かれている。
FGCは、1980年代にニュージーランドの先住民族マオリ族のコミュニティからの西欧合理主義中心の児童福祉と法制度に対する批判と提言を受けて考案された児童保護、少年司法の方法です。それは同時期に、欧米の少年司法の分野で実践から始まった対話による修復的司法の方法と共通する思想と方法論で、ともに90年代中頃から急速に世界各地の多様な分野で実践されるようになりました。特にニュージーランドやオーストラリア、カナダでは警察と家庭裁判所の丁寧な協力のもとに実施が広がりました。アメリカでは、全米家庭裁判所裁判官協議会の強い支持のもとに、1995年頃から特に児童保護、学校、少年裁判の分野で広がり今日に至っています。
 このモデルの思想的基盤は、当事者、家族、コミュニティのエンパワメントです。
(中略)
「我々マオリは落第者だと言われ続けて続けてきたことにとことん嫌気がさしている。我々の否定的な面、欠点、弱点ばかりに焦点を当てられることに苛立ちを隠し得ない」
「わたしの欠点よりもわたしの長所に注目してほしい」
  家族の弱点と問題点のみに注目し、懲戒指導を徹底することで個人や家族が自らの弱点を乗り越えることはまずありえないことを、心理学を学んだ人なら誰でも知っています。そもそも、多様性の視点に立ったとき、欠点、弱点と見なされた事柄は、誰の視点からの判断なのかの再検証が必要です。
 当事者・関係者の直接対話のダイナミズムを活用して家族の長所と強みを引き出すという方法論こそが、人種・文化の違いにかかわらず、全てのニュージーランドの家族に適応して効果を挙げるとの認識から、ニュージーランド政府は1989年に、「ニュージーランド子ども若者とその家族法」の成立のもとに、子どもの措置や子どもの飛行への対処に対して、従来の家庭裁判所の司法の適用前に、FGCの開催が公的な役割を担うことが法的に位置づけられました。147-148p(一部日本語にしたり略したりしている)
この部分を読むと、日本はどれだけ遅れてるんだと思う。30年前にニュージーランドで始まったことが、あとどれくらいで日本でも始まるのか、と一瞬、思ったが、この続きを読むと、ただ、ぼくが知らないだけで、FGCに似ている仕組みが一部で行われている。ちなみに森田ゆりさん「家族えん会議」について、以下のように書いている。
 筆者が主催てきた「家族えん会議」ファシリテーター養成講座を受けた人々は、それを児童相談所での家族再統合プロセスの一環として実施したり、職場におけるまらパワハラの解決に使ったりと、それぞれの仕事の場で活用し、何も良い結果となった報告を受けています。
 筆者も児童相談所からの依頼で、性的虐待ケースで分離した小学生女子の再統合を家族が決定していくための家族えん会議を進行したことがあります。高校生の上のきょうだい二人がポジティブな意見を活発に出し続けてくれたことが印象的でした。148p


「家族えん会議」については、この本の中でも、より詳しい実例が紹介されている。

ところで、このFGCというか「家族えん会議」というか、その類のものは、日本でどれくらい普及してるのだろう?

【家族えん会議については、『責任と癒しーー修復的正義の実践ガイド』(ハワード・ゼア、森田ゆり訳・解説、築地書館、2008年)を参照してください】とのこと。


コメント力に関する記述も、とても興味深いが、全部メモしきれないので、本を購入しようかと考え中。
どうしても譲れない意見があるとき、どうコメントするか、という部分で
最近はよく聞く「依存と自立」(熊谷晋一郎さんなど)に関連して、以下のような記述があった。
 相手の考えを否定する言葉をできる限り使わずに、ただ簡潔に自分の意見を述べる。
「発達障害のある家の息子には、なにしろ人様に迷惑をかけない人になってほしいんです」

「(間)そうですか。人様に迷惑をかけない人よりも、人の力を借りられる人になってほしいですよね」

エンパワメントとは、自分の内と外の資源を縦横に使うこと
パワフルな人とは、自分の内と外の資源を縦横に使える人
問題解決力とは、人のちからを借りること
228p



傾聴については以下のような説明
能動的傾聴+反復的傾聴+具体的傾聴=共感的傾聴

能動的傾聴とは身体全身で聞くこと。
反復的傾聴とは ただ反復するだけ
具体的傾聴は 、もっと話が聞きたい時に「それって例えば?」と聞く。
「なぜ?」は使わない。責めている感じになる。236-237p

ここはメタファシリテーションに少し似ている。


『受容と変容の弁証法――中道』という節に以下のように書いてある。
 援助している相手に変化をもたらすためには、受容が不可欠です。しかし変化へ向けて背中を押すことも必要です。その需要と変化の案配をどのようにするかは、セラピストのアートの部分でマニュアル的に教えることはできないと私は長い間考えてきました。2010年にマルシャ・リネハンのDBT(弁証法的行動療法)のValidation(承認・有効化) に 出会って、その考えを変えました。 238p

とはいうものの、このあたりを何度か読み返しても、ぼくにはその案配をどのようすればいいのか、読み取れなかった、っていうか、どこに書いてあるかもわからなかった。


メモ、ここまで。


図書館に本を返す前に、なぜか布巾の上に本が置いてしまって、その布巾が濡れてたので、図書館に本を買って返すことになった。結局、悩む暇もなく、本を購入することに。ぼくはその濡らした本をもらえるはず。



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