『現代社会はどこに向かうか』(見田宗介著)メモ

『現代社会はどこに向かうか』メモ

今朝、グーグルドキュメントに残っていたのを偶然見つけた読書メモ。一応、完結させてアップ。


現代社会はどこに向かうか
高原の見晴らしを切り開くこと

本の内容
曲がり角に立つ現代社会は,そして人間の精神は,今後どのような方向に向かうだろうか.私たちはこの後の時代の見晴らしを,どのように切り開くことができるだろうか.斬新な理論構築と,新たなデータに基づく徹底した分析のもとに,巨大な問いに改めて正面から応答する.前著から約十年,いま,新しい時代を告げる.

目次

はじめに

序章 現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと
 1 未来の消失? 現代の矛盾
 2 生命曲線/歴史曲線.「現代」とはどういう時代か
 3 グローバル・システムの危機.あるいは球の幾何学――情報化/消費化社会の臨界
 4 世界の無限/世界の有限.軸の時代Ⅰ/軸の時代Ⅱ
 5 高原の見晴らしを切り開くこと

一章 脱高度成長期の精神変容――近代の矛盾の「解凍」
 1 脱高度成長期の精神変容.データと方法
 2 「近代家族」のシステム解体
 3 経済成長課題の完了.「保守化」
 4 魔術の再生.近代合理主義の外部に向かう触手たち
 5 〈自由〉〈平等〉対〈合理性〉.合理化圧力の解除,あるいは減圧
 6 近代の理念と原則の矛盾.封印と「解凍」.高原展望
 補1 合理性,非合理性,メタ合理性
 補2 生活スタイル,ファッション,消費行動――「選ばれた者」から「選ぶ者」へ

二章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化
 1 ヨーロッパ価値観調査/世界価値観調査.データと方法
 2 幸福の高原と波乱
 3 「脱物質主義」
 4 共存の地平の模索
 5 共存の環としての仕事
 補 〈単純な至福〉

三章 ダニエルの問いの円環――歴史の二つの曲がり角

四章 生きるリアリティの解体と再生

五章 ロジスティック曲線について
 1 グローバリゼーションという前提――人間にとってのロジスティック曲線1
 2 一個体当たり資源消費量,環境破壊量の増大による加速化――人間にとってのロジスティック曲線2
 3 テ クノロジーによる環境容量の変更.弾力帯.「リスク社会」化.不可能性と不必要性――人間にとってのロジスティック曲線3

六章 高原の見晴らしを切り開くこと
 1 総理の不幸
 2 フリュギアの王
 3 三千年の夢と朝の光景
 補 欲望の相乗性

補章 世界を変える二つの方法
 1 ベルリンの壁.自由と魅力性による勝利.
 2 二〇世紀型革命の破綻から何を学ぶか.卵を内側から破る.
 3 胚芽をつくる.肯定する革命 positive radicalism.
 4 連鎖反応という力.一華開いて世界起こる.

あとがき

~~~~

2018年11月7日に戦後研究会で読むというので読了。

 今年の6月に出たとても薄い(162p!)岩波新書。今年の6月にでて、8月で3刷り。

 現代が歴史の転換点であると指摘し(これはポランニー以下いろんな人が言っている)、明るい未来を描き出す。 とても楽観的で、「そうか、これでいいのか」と思わせる本だが、この暗い状況に住んでいると、100年でそんな風に変わるかなぁと懐疑的にもなる本。 主題は歴史の転換。リニアに成長してきた「軸の時代」からの人類2度目の転換。「人間の歴史の中の巨大な曲がり角」はどこに向かうのか?

 社会はこんな風に変わるべきだし、変わらないと生き残れないし、変わってほしいと思えるような姿を見田は描く。しかし、メインストリームはなかなか既得権益を手放さないだろう。見田が前回は600年かかったが、今回は100年で転換すると(あまり確たる根拠もなく)書いているそのプロセスを促進したいと思う。促進するためにできることはあるはず。卵を内側から破るために。とりあえず、できることをやって次の世代に託すことになるのか、と思った。

「現代社会は、人間の歴史の中の、巨大な曲がり角にある」
これがこの本の冒頭に置かれた言葉だ。このような主張は これまでさまざまな人からさまざまに行われてきた。そして、それはその通りだと思う。この本の主張で目を引いたのが、そのプロセスが100年かかる。前回の転換には600年かかったという主張。
 第一の曲がり角において人間は、生きる世界の無限という真実の前に戦慄し、この世界の無限性を生きる思想を追求し、600年をかけてこの思想を確立して来た。現代の人間が直面するのは、環境的にも資源的にも、人間が生きる世界の有限性という真実であり、この世界の有限性を生きる思想を確立するという課題である。
 この第二の巨大な曲がり角に立つ現代社会は、どのような方向に向かうのだろうか。そして人間の精神は、どのような方向に向かうのだろうか。私たちはこの曲がり角とその後の時代の見晴らしを、どのように積極的に切り開くことができるだろうか。本書はこの問いに対する、正面からの応答である。ⅲ~ⅳ


この後の時代の見晴らしは繰り返し描かれるが、どのように切り開くかという部分はそんなに多くは書かれていない。

 見田は時代をこんな風に描写する。
われわれのミレニアムは、2001年9月11日世界貿易センタービルへの爆破テロによって開幕しているが、ハイジャック犯によってビルに激突する数分前の航空機にわれわれの星は似ているのであって、どこかで方向を転換しなければ、このまま進展する限り破滅に至るだけである。 7-8p


 そして、見田はこの本ですでに方向転換は始まっており、その方向はとても好ましい方向だと記載している。そこがこの本の特徴かもしれない。ただ、ここで見落とすべきではないのは見田はこの本でこうあって欲しいと思えるような将来像を描きながら、ここでは「このまま進展する限り破滅に至るだけ」とも書いていることだ。

 見田が記述しているように、シンプルとかナチュラルとか持続可能な方向に価値観の転換が起きている場面は確かにあるが、それは従来の物質主義的な価値観とせめぎあっている。見田は三寒四温でそちらの方向に向かうはずだと書くのだが、そっちに向かうと言い切る自信はぼくにはない。物質主義的な価値観は既得権を持った人たちの基盤でもあるからであり、既得権を持った人たちはそれを知っていて、手放そうとはしないと思うからだ。

 もちろん、見田が書いているように、物質主義と逆の方向の価値観が支配的になるような時代を求めているのだけど。

 近代にいたる文明の成果の高みを保持したままで、 高度に産業化された諸社会は、これ以上の物質的な「成長」を不要なものとして完了し、永続する幸福な安定近郊の高原(プラトー)として、近代の後の見晴らしを切り開くこと。
 近代の思考の感性の内にある人たちにとっては、成長の完了した後の世界は、停滞した、魅力の少ない世界のように感覚されるかもしれない。
 けれども経済成長の強迫から解放された人類は、アートと数学と思想と科学の限りなく自由な創造と、友情と愛と子どもたちとの交歓と自然との交感の限りなく豊饒な感動とを、追求し、展開し、享受しつづけるだろう。17p

 けれどもそれは、生産と分配と流通と消費の新しい安定均衡的なシステムの確立と、個人と個人、集団と集団、人間と自然の間の、自由に交響し互酬する関係の重層する世界の展開と、そして何よりも、存在するものの輝きと存在することの至福を感受する力の解放という、幾層もの現実的な課題の克服をわれわれに要求している。18p

 この要求にこたえることが可能なのか、それを可能にするために何が必要なのかという問いが生まれてくる。 そう、読後の印象は「なんて楽観的な」とうものでしたが、これを読むとそうでもない。見田さんの100年後のイメージを実現するために、これだけの高いハードルを越えることが求められているのだった。

この文章に続いて、見田さんは序章の最後に現代を以下のように描く。
 この新しい戦慄と畏怖と苦悩と歓喜に充ちた困難な過渡期の転回を共に生きる経験が「現代」である。18p


とはいうものの、読後の印象はなぜか明るいのだった。


1章 脱高度成長期の精神変容
   ――近代の矛盾の「解凍」――

ここで見田は、最初にNHKの「日本人の意識」調査、そして三浦展などを援用して、社会がシンプル・ナチュラル・持続可能などの方向へ向かっていて、時代は三寒四温を繰り返しながら新しい局面に入っていくだろう、と予測する。47-50p

2章 ヨーロッパとアメリカの青年の変化

 ここでは「世界価値観調査」というのをもとに議論が展開される。うんざりするぐらいたくさんの「非常に幸福」な理由が紹介される。(72p~89p!!)
「脱物質主義」への転換に関して、全体として大まかには、その方向への変化は見られるが、「明確な一貫した変化」とまでは言えない、とされる。(64p)。しかし、日本の若者と同様にシンプル・ナチュラル・脱商品などの同じ方向へ向かっているとされる。
そして、結語部分では以下のように書かれている。
 人間の歴史の第Ⅲの局面である高原は、生存の物質的基本条件の確保のための戦いであった第Ⅱ局面において、この戦いに強いられてきた生産主義的、未来主義的な生の〈合理化〉=〈現在の空疎化〉という圧力を解除されることによって、 あの〈幸福の原層〉と呼ぶべきものが、この世界の中に存在していることの〈単純な至福〉を甘受する力が、素直に解き放たれるということをとおして、無数の小さい幸福たちや大きい幸福たちが、一斉に開花して地表の果てまでをおおう高原であると思う。91p
こうであって欲しいと思う一方で、まさにお花畑だなぁ、とも思う。


三章 ダニエルの問いの円環――歴史の二つの曲がり角

ダニエル・エヴェレットの『ピダハン』、宣教師/言語学者として1977年~2006年までアマゾンの小さい部族『ピダハン』と暮らした記録。この宣教師が長年の布教の試みの末にキリスト教から離脱。
聖書のダニエル書における「これらのことの結末は?」という問いに対する新しいダニエル=ピダハンの答え。未来に救いを求めるのではなく『この世界にただ生きていることの〈幸福感受性〉』
そして、この章の結語は
~~~
ピーダハーンがこの地上において富める者たちであるのは、彼らが〈交歓〉の対象としての他者たちと自然たちという、枯渇することのない仕方で、全世界を所有しているからである。101p

~~~

四章 生きるリアリティの解体と再生

この章は2008年のアキハバラの無差別殺傷事件と1968年の連続射殺魔事件の話から始まる。その共通性と違い。その違いを「まなざしの地獄」から「まなざしの不在の地獄」と見田さんは書く。
「近代」という時代の特質は〈合理化〉の貫徹。未来におかれた「目的」のために生を手段にし、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧。そのリアリティは「目的」を考えることで充たされていたが、第Ⅱ局面の最終ステージとしての現代は、その目的の自明性と根拠もない二重のリアリティ喪失。

五章 ロジスティック曲線について
 この章で見田は高原期に入るロジスティック曲線について楽観的な見通しを示しているのだが、1章(8p)でのグラフを見ると、現代は安定均衡に入るのか滅亡に向かうのかの岐路に立っているといえる。そのことを見田は明確には指摘していないが、背景にその視線を持っているのではないかと思う。

六章 高原の見晴らしを切り開くこと
 経済成長については以下のように書く。
「豊かな社会」の内部の飢えている人々に関していえば、それはほんとうは、これ以上の経済成長の問題ではなく、分配の問題である。分配の問題を根本的に変革しないで、いくら成長をつづけても、富はそれ以上の富の不要な富裕層にぜい肉のように蓄積されるだけで、いつまでたっても貧しいままである。(129p)


 ここで再び、今回の時代の転換について見田は100年を要すると書き、
【転回の基軸となるのは、「幸福とは何か」、「人類の欲望とは何か」という単純な素朴な問いに対する決定した真正面からの回答である】
と書く。

 この章の最後で【経済競争の強迫から解放された人々】について見田は書き、その人間本来の解き放たれるべき本質が【依拠されるべき核心】だという。確かにそこに根拠を見出したいような気もするが、その前提としての【経済競争の強迫から解放される】という状態がどのように可能になるのか、そこが問題なのではないか。
 
 そして、この章で目を見張ったのが、野本三吉(加藤彰彦)の横浜市大最終講義での【福祉は衝動である】という言葉。正義とか善意とかいう前に、『人間の深い欲望』がそこにあると。その『深い』というときの『深度』を知りたいと思った。それは花崎さんが『生きる場の哲学』で描いた〈人間の類としての共同性〉から来る欲望なのかもしれない。それとも「生」の衝動に応えるということなのか、読んでみたいと思った。


補章 世界を変える二つの方法

それへの答えは卵を内側から割ること。ベルリンの壁が自由と魅力性の力によって内側から破られたようにもう一つの壁も内側から壊されなければならないという。
そのもう一つの壁とは? 貧しい人に「豪華なショーウィンドウ」の向こう側には手が届かない。そこある巨大な冷たい透明の壁。
(「魅力性」というキーワード。魅力に性をつけると、どう変わるのだろう。)

新しい世界を創造する時のわれわれの実践的な公準は3つ
1、positive 肯定的であること。
2、diverse 多様であること。
3、consummatory 現在を楽しむ、ということ。

~~~
 
肯定的であるということは、現在あるものを肯定する、ということではない。現在無いもの、真に肯定的なものを、ラディカルに、積極的に、つくりだしてゆく、ということである。 153p


見田は多様性については宮沢賢治を引用するだけで、その多様なものが共存する困難については語らない。ただ、以下のように書かれている。
マルクスがcommunism(コミューン主義)を発想した最初の場所はブルシェンレーベン、そこでの歓びに充ちたコミューンでの経験。そこから全体主義的な大文字のCommunism(共産主義)(それぞれカッコ内の日本語は鶴田)への
実に微妙な、けれど決定的な、変質と反転があった
。コミューンは小さいものでなければならない。権力を持たないものでなければならない。自由な個人が、自由に交響する集団として、あるいは関係のネットワークとして、ほかのさまざまな価値観と感覚をもつコミューンたちと、互いに相犯さないものでなければならない。共存のルールをとおして、百花繚乱する高原のように全世界にひろがりわたってゆく、自由な連合体 association でなければならない。(154p)、
と見田は書く。

細かい話だが、154頁の2行目の空白行の意味がわからない。

そして、consummatory について、「とてもよい言葉なのだが、どうしても適切な日本語におきかえられない」という。それは instrumental(手段的)の反対語だが、目的ではない。その過程、それ自身が楽しいということらしい。
~~~
この3つの公準を統合し、具体化したイメージの一つを提起するならば、〈胚芽をつくる〉ということである。新しい世界の胚芽となるすてきな集団、すてきな関係のネットワークを、さまざまな場所で、っさまざまな仕方で、いたるところに発芽させ、増殖し、ゆるやかに連合する、ということである。155p


そして一人が一年かけて一人だけ、本当に深く共感する友人を得ることができたら100年かけたら100億人になるという。現実にはこうはならないが、大切なことは速さではなく、一人が一人をという、変革の深さであり、あともどりすることのない、変革の真実性だであり、自由と魅力性による解放だけが、あともどりすることのない変革であるから、という。












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にもちょっといた議論を収録してますが、本人の許可をもらっていないので、限られた友だちしか見れない設定になっています。



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