『障害者の傷、介助者の痛み』メモ(その1)概観と13章のみ

障害者の傷、介助者の痛み

渡邉 琢 著


青土社のサイト


から

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関係性にとまどいながら、つながり続けるために
相模原障害者殺傷事件は社会に何を問いかけたのか。あらためて、いま障害のある人とない人がともに地域で生きていくために何ができるのか。障害者と介助者が互いに傷つきながらも手に手を取り合ってきた現場の歴史をたどりながら、介助と社会の未来に向けて言葉をつむぐ。

【目次】
はじめに

Ⅰ 相模原障害者殺傷事件をめぐって

1 亡くなられた方々は、なぜ地域社会で生きることができなかったのか?
――相模原障害者殺傷事件における社会の責任と課題

はじめに
「社会の責任と課題」を考えること
自己紹介――地域自立生活運動の随伴者として
障害者は施設で暮らすのがあたりまえか?
「障害者がいなくなればいい」という発言に対する社会の責任
なぜ施設入所者が狙われたか
被害者の名前/施設入所者の尊厳
これからの社会の課題(1)
これからの社会の課題(2)
――どんな障害のある人でも、地域社会で暮らしていくために

2 障害者地域自立生活支援の現場から思うこと
――あたりまえの尊厳とつながりが奪われないために

はじめに
ある日常の光景から
地域自立生活の発見と実践
津久井やまゆり園にいる方々は本当に施設入所が必要だったのか
日々の実践から政策へ
誰も、被害者にも加害者にもならないために

3 介助者の痛み試論
――直接介助の現場から考える

はじめに
障害者の傷と、支援現場の暴力性
介護者による虐待について
介助者・介護者の痛み
介助者の隷従化1─―介助現場にあらわれる権力関係
介助者の隷従化2─―当事者も介助者も見通しのもてない現場にて
障害者の痛みと介助者の痛みの落ち着きどころを探る

Ⅱ 介助者として生きる/働くとはどういうことか

4 「介助者」「介護者」「ヘルパー」「健常者」「支援者」などの呼称をめぐって
――障害者運動のバトンをめぐる一考察

「介助者」について
「介護者」について
「ヘルパー」について
「健常者」について
「支援者」について
おわりに

5 ベーシックインカムがあったら、介助を続けますか?
――介助者・介護者から見たベーシックインカム

6 社会経済的観点からみた障害者介助の意義と課題
――バイク屋から介助職への転職を通して考える

「うまい具合に乗り換えられた口」?――バイク屋から介助職へ
介助・介護という多種多様な人の集まる職場
建設・製造業から医療・介護分野への転換
バイク業界の実情
もちろん介護業界はたいへんだ
障害者介助って……?
「子どもと過ごす時間が増えた」!――介助職をはじめて
介助職のたいへんなところ
介助で食っていけるための条件とは……
まとめ

7 生存と労働をめぐる対立
――障害者ヘルパーの立場から

問題の射程と自己紹介
障害者運動と労働運動――七〇年代の経験より
自立生活運動の進展と介助者の身分保障の変容
対立のゆくえ、つながりの模索

Ⅲ 高齢者介護や障害者差別解消法をめぐって

8 障害者介護保障運動から見た『ケアの社会学』
―― 上野千鶴子さんの本について

『ケアの社会学』の評判と違和感
ぼくの立場や日々の活動
もちろん『ケアの社会学』は革新的だ
『ケアの社会学』の要点
『ケアの社会学』の問題点
未完の『ケアの社会学』

9 障害者介護保障運動と高齢者介護の現状
――高齢者介護保障運動の可能性を考える

はじめに
簡単な自己紹介
介護保険制度の問題点――ぼくらから高齢者介護はどう見えているか
高齢者介護保障運動の可能性─―障害者介護保障運動の経験から

10 差別解消法と、共生への道のり
――京都の現場での取り組みより

ある手紙より
差別解消法の成立
差別解消法と各自治体の条例との関係
京都での条例づくり/差別はいかになくなりうるか――これまでの取り組みより(一)
差別はいかになくなりうるか――これまでの取り組みより(二)/地道な歩みと力強い歩み

11 「権利」と「迷惑」の狭間から
――知的障害者ガイドヘルプにおけるとまどいより

Ⅳ 奪われたつながりを取り戻すために

12 とまどいと苦難
――相模原の事件のあとに感じること

まっちゃん
とまどい
苦難

13 支援・介助の現場で殺意や暴力と向き合うとき
――社会の秘められた暴力と心的外傷(トラウマ)について

はじめに
「殺意」を感じる現場
嫌われる人たち(?)
支援の葛藤
『心的外傷と回復』について
通常のケア・システムでは及ばない圧倒的な力
両極を揺れ動く人間関係
第三の加害者の力
再演――その都度繰り返し、他者に迷惑をかけること
身体障害者の場合――介護者への転移も含めて
心的外傷の易傷性と障害者
外傷の伝染性――支援者側のサディスティックな感情
「ひとりぼっちじゃないよ」――「つながり」を取り戻していくこと
「だれしも、何ほどかは過去の囚人である」

14 言葉を失うとき
――相模原障害者殺傷事件から二年目に考えること

津久井やまゆり園訪問
「意思疎通がとれない者」とは
言葉を失うとき
言葉は取り戻されるか
津久井やまゆり園入所者たちの今
心的外傷と狭窄(回避)
沈黙の中の残響

あとがき


[著者] 渡邉琢(わたなべ・たく)
1975年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士前期課程修了。2000年、日本自立生活センターに介助者登録。2004年度に同センターに就職。以降、障害者の自立生活運動や介護保障運動に事務局兼介助者として尽力。現在、日本自立生活センター事務局員、NPO法人日本自立生活センター自立支援事業所介助コーディネーター、ピープルファースト京都支援者。 著書に、『介助者たちは、どう生きていくのか』(生活書院、2011年)、共編著に『障害者介助の現場から考える生活と労働』(明石書店、2013年)、共著に『障害者運動のバトンをつなぐ』(生活書院、2016年)がある。



最初の読書メモ

~~

10連休で田舎で友だちに会うために、普通電車で東京から大阪へ。そして、大阪からバスで米子へ向かう途中で読了。意識していなかったが、この本を読むために時間をかけた移動を選んだんじゃないかとさえ思えてくる。飛行機が満席で取れなくて、混雑する新幹線に乗るのが嫌だっただけなんだけど。

 にしても、琢さんが書きおろしの部分(13 支援・介助の現場で殺意や暴力と向き合うとき)はぜひ読んで欲しいと言ってた意味がよくわかった。やはり、必要なのは人とのつながりなのだ。ODもそうだし、『再犯防止を求めない…」もそうだし、『反省させると人は犯罪者に…』も

~~~


この13章からコメントを書き始る(今回はこれだけ)


13 支援・介助の現場で殺意や暴力と向き合うとき

――社会の秘められた暴力と心的外傷(トラウマ)について


この章は、渡邊さんがまっちゃんの支援時にパニックを起こされ、散々振り回された挙句に、悪罵を投げつけられ、殴りたくなったというエピソードから始まる。この暴力を考えるための1冊の本との出会いが以下のように紹介されている。
 言葉にならない暴力的な力や感情を理解できないものかと、人と話したり、本屋やネットでいろんな文献をあたってみた結果、ぼくは一冊の本に出会うことになった。ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』という本だ。
 この本の読書体験は、衝撃だった。その一言一言、1ページ1ページが、僕が支援・介助の現場で感じつつなかなか解きえなかったことに迫ってきた。
 以前、「とまどいと苦難」という文章で、支援・介護現場における僕自身の戸惑いやしんどさを書き記したのだが、そこで書いたことのすべてが、この本の中にすでに描かれている、とも感じた。・・・・309-310p

ジュディス・L・ハーマンの『心的外傷と回復』
https://www.msz.co.jp/book/detail/04113.html
A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/496頁
定価 7,344円(本体6,800円)
ISBN 4-622-04113-8 C3047
1999年11月25日発行
高い! 厚い。でも読んでみたくなる。読書会かなんかないと、読めそうにない。

女性関係の団体は以前からこの本に注目し、学んでいたという話を聞いた。


【「殺意」を感じる現場】という節で以下のように書かれている、
 関わるまわりの人々みんなに迷惑をかけ、支援者や介護者の人としての尊厳をも揺さぶりをかけてくる人々。そうした人々は、多かれ少なかれ、この社会には一定数いるのだと思う。 ・・・その人たちだって、決して頭の先から爪の先まで、見にくく汚れて危険な人だということは決してない。誰だって、ほっこりした優しさや愛嬌など、 魅力的なところは必ず備えている。けれどもその人に他者がどう関わるかというその関わりのあるようによっては、そのよさはあっという間に薄れ、汚れや醜さばかりが目立つようになることもある。
 ぼくがここで報告したいのは、そうした汚れや醜さがあるからといって、そこにふたをしてみないようにしたり、それらを抱えた人を排斥したりすることではなく、むしろそれらをも「人間の条件」の一つとみなし、そこから「共に生きる」ということを考えていく思考、アプローチである。315p
この「決して」のダブり【その人たちだって、決して頭の先から爪の先まで、見にくく汚れて危険な人だということは決してない】

ここに Taku Watanabeさんの気持ちが読み取れるような気がした。日本語としてはどうかって感じがありつつも(笑)


支援の葛藤


319~320pにかけて、Takuさんはまっちゃんとの関りを当初から現在にかけて7つの箇条書きで整理する。1が出会いの話で、途中、トラブルの話があり、最後の7はこんな風だ。
7、『心的外傷と回復』と出会い、彼の行動や言動が決して特殊なものではないと知る。彼がなぜあのようにしつこく人の嫌がることをやるのか、それをやったらおしまいだよ、みたいなことを繰り返すのか、そのことを理解する。そして、ぼく自身の内面の暴力衝動も、ある場面や人間関係における、普遍的な反応なのだと知る。困難はまだまだ続くだろうが、この本の一節一節を心に刻みつけることで、なんとかもちこたえられるかも、なんとかなるかも、という感触を得る。320p

これに続けて『心的外傷と回復』から以下の部分が引用されている。おそらく、支援が軌道に乗った以降の段階の話なのだろう。
 当事者は、外傷の無名性に囚われている状態から解放され、自分の体験に当てはまる言葉があることに気づく。自分がもはや独りではないことに気づく。同じように苦しんだ人たちがいるのだ。さらに、自分がクレイジーでないこと、外傷性症候群は極限的な情況における人間の正常な反応であるということを知る。 (この本では321p。『心的外傷と回復』では 245p)
この言葉は当事者自身の自覚に関わる言葉だが、(支援に悩む支援者に)「ものすごく響く言葉だった」と渡邊さんは書く。

そして、「(当事者は)回復してよいのだと思うようになる。――他の人たちも回復したのだから」

この本の「他の人たちも回復したのだから」という「一言に、これからの支援における希望の灯を見るようにも思う」のだと。


この「回復」(リカバリー)で思い出したのは、さっき偶然、昔のブログで見つけたこれ。

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小冊子「自分らしく街でくらす」
https://tu-ta.at.webry.info/200808/article_21.html
~~
《PACEの原則》13項目というのが記載されている。
===
人は最も重い精神病からも完全に回復する。
   *
精神病とは社会的役割を阻害するような深刻な感情的苦痛ではあるが、それは同時に回復への第一歩である。
   *
人は誰でも他者と心を通わせることができるし、そうしたいと願っている。
深刻な感情的苦痛を経験している時は尚更である。
   *
信頼関係は回復の前提である。
   *
あなたを信じる人がいれば、あなたは回復する。
   *
人は回復への夢を追えることが必要だ。
   *
当事者に対する不信は、治療における管理と強制を強め回復を妨げる。
   *
自己決定は回復にとって無くてはならないものである。
   *
回復しつつあるとき、周囲の人は回復できると信じるべきである。
   *
尊厳と尊重は回復に不可欠である。
   *
精神病とレッテルを貼られた人だからといって、つきあい方を変える必要はない。
   *
安心できる人間関係があれば、感情を表に出すことができ、回復もすすむ。
   *
深刻な感情的苦痛には常に意味があり、それがわかれば回復を助ける。
このパンフレット、メンタルヘルスの世界で、どれくらい注目されているのだろう。

人と人との関係が人を回復させるのだというのはオープンダイアローグの思想でもあるだろう。


話がそれた。この本に戻ろう。

『心的外傷と回復』について


こんな風に書かれている。
・・・ぼく自身は、この本を通読したとき、大げさかもしれないが、これは『全人類必読』の書ではないか、少なくとも福祉や支援の現場の関係者にとっては必読なのではないか 、と正直に思った。322p

~~~

 もっとも重要なキーワードは 、「つながり」… 323p

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 トラウマ(心的外傷)を残すような暴力的な出来事によって、人がいかに他者とのつながり、 社会とのつながり、そして自分自身とのつながりを奪われるか。つながりを断絶させるような暴力がこの社会においてどのように巧妙にふるまわれるか。そしてつながりの断絶がその人のその後の人生にどれほどの苦難をもたらすのか、そしてそこからどのようにして人はつながりを取り戻していくことが可能なのか。これまでほとんど語られることのなかった「つながり」の断絶から回復への過程が丁寧に描かれている。323p
ここまで書かれると、読むしかないかとも思うが、最初に書いたように高くて厚い。壁みたいだな。


通常のケア・システムでは及ばない圧倒的な力

 この本で描かれているレイプされた女性たち、児童虐待にあっていた人たち、・・・の事象は、多くの障害者たちの事象と共通するものがある。これまで、ぼくの知るところでは、こうした観点から、この本を参照しつつ障害者支援の現場の課題を解釈したものはないと思うので(9)、それをここで行うことは非常に大きな意味があることだと感じている。325p


この注(9)で琢さんは杉山登志郎さんをこんな風に援用している。
氏は自閉症者に見られるパニックの理解の一助としてタイムスリップ現象の考察を始めたそうだが、その後、自閉症(ない子発達障害)とトラウマの深い関連にますます気付いていったという。327p


その次の(注10)にも注目した。ここで『心的外傷と回復』の中井久夫訳に関して、琢さんはこんな風に書く。
・・この本を中井久夫氏の訳で繰り返し読み、深い感銘を受けたわけだが、中井氏の訳は達意な日本語に変換されており 、時折参照した英語原文と比較すると、それなりに氏の解釈や意向が強く反映された翻訳になっているようにも感じた。・・・。
 さらにもう一点、本社の引用では、中井氏の翻訳で「患者 patient」、「治療者 therapist」と言われてるところを、あえて「当事者」、「支援者」に置き換えた。・・・327p

 この「当事者」、「支援者」への書き換えで、ぼくにはすごく読みやすかった。患者と治療者ではピンとこなかったはず。

 しかし、原文を(日本語でさえ)読んでいない僕が言うのもあれだが、文脈によっては留意したほうがいい部分もあるだろう。また、『居るのがつらいよ』にそくしていえば、支援者とまとめてしまった場合、ケアラーとセラピストの違いはなくなる。著者の東畑さんは『居るつら』で、ケアとセラピーの抜き差しならない関係を、見事にエンターテイメントのガクジュツ書としてのこの本で解明している。

 それをもとに考えると、支援者は主にケアラーであって、セラピストではないように思うのだが、そういう意味で考えると、この書き換えには留意が必要ということになる。しかし、『心的外傷と回復』の著者や中井久夫さんが、そのケアとセラピーの違いにどこまで自覚的だったかはわからない。

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この読書メモを書き終える前にフェイスブックに上記の部分をあげたら、Takuさんからコメントが来た。
ご指摘の点、重要ポイントですが、ハーマン自身も、そこまで厳密にケアラーとセラピストを使い分けてるようにも見えず、外傷の当事者に向き合う人として、セラピストに限らず、ケアラーやレスキュー隊員なんかも事例としてあげられています。
あともう一点、転移、逆転移という現象は、ケアラーにも確実に起きてることですが、残念ながら社会福祉という分野ではほとんど考察されておらず、その現象を取り上げるにあたって精神医学でつちかわれた蓄積を利用するほかないという事情もあるように思いますー。

以下、ぼくからレスポンス。
著者からのコメントに感謝、うれしいです。
そうなんですね。
そういう意味でも、『イルツラ』でのケアとセラピーの抜き差しならない関係の見事な整理は、これを読む補助線としても使えるだろうなと思ったのでした。


本体に戻ろう。

こんなことが書かれている。

ほとんどの場合、障害者とのかかわりは穏やかに過ごせるのだが、稀に興奮や苛立ち、威嚇等が伴い、関わる人を不信感に陥らせる支援現場がある。『心的外傷と回復』では、そうした当事者と関わる支援の現場を次のように表現している。
 通常のケア・システムは、自分が自分をコントロールでき、人とつながりを持て、自分がいることには意味があるという感覚を人々に与えるものであるが、代表的な事件はこのケア・システムでは及ばない圧倒的な力を持っている。前述書46p(11)、本書326p 

この注11で通常のケア・システムに関する文章について、以下のように説明されている。
原文は Traumatic events overwlelm the ordinary system of the care that…
なので、「外傷的事件は通常のケア・システムをぶち壊しにする」というような意味合いだと思われる。ここで「通常のケア・システム」と言われているのは、リクシアナ子どもにおだやかに肯定的に関わることで 子どもの中に基本的信頼感や自立性、コントロール感、他者とのつながり感覚などが形成されていくエリクソン的な育児や発達の体系のことを指す。329p

それにしても、通常のケア・システム、わかりくい表現だ。


両極を揺れ動く人間関係


心的外傷を受けた人達はほどほどの人間関係がとれない。「 好き」と「嫌い」というむ矛盾する両極をすごい勢いで揺れ動く 331p


第三の加害者の力


ここでは映画「道草」でゆういちろうさんが暴れる背景に施設での職員からの暴力を受けたことがあったこと。また、まっちゃんが夜中に「殺される」と叫ぶ背景にバスの運転手から「殺される」といわれたことがあったことが記述されている。333-334p

当事者が自己コントロールを失い取り乱した時、身近な人を攻撃するのだが、その攻撃の源がどこにあるかを知ることで支援のあり方はまったく変わる(335p)、このように第三の加害者を見つめ、当事者とともにそこに対峙していくというアプローチは支援においてかなり有効なアプローチの一つだと思う(336p)、と書かれている。しかし、知的障害をあわせもつ自閉症の人のそれを見つけることはとても難しいと思う。


再演――その都度繰り返し、他者に迷惑をかけること


この節では、いわゆる「問題行動」を繰り返す人のことが記載される。そんな彼らの「行動の背景に深い傷つきや排除の記憶があるかもしれないと理解してみることは、一つの大事な試みだと思う」(341p)と書かれる。確かに大事な試みであると思う。メンタルに障害がある人についてもそうだ。ただ、そのように理解することを、具体的に行動としてどう表現するか、それはそれなりに難しい話だろう。


身体障害者の場合――介護者への転移も含めて


ここでは進行性の障害のある当事者に激しく追いつめられる介助者の話しがまず紹介される(341-345p)。そして、以下のように書かれる。
 こうした場合、やはり刃を突き付ける当事者だけを見て、そこに責任を負わせる態度はあまりにも不十分なのだろう。何が本人をそこまで苦しめているのか、その一つ一つの事態に焦点をあて、言葉をあて、そして手当てをしていく、そこに介助者たちにも及んでいる傷をも手当てしていく、そうした態度やそのための支援者間のネットワークが必要とされているのだろう。
 そこに介助者や支援者が単独で立ち向かおうとしても、それは不可能であろう。345p


心的外傷の易傷性と障害者


この節のテーマについて、わかりやすい文書として、注で宮地尚子さんの『トラウマ』の文章が引用されている。障害者だけでなく、様々なマイノリティに共通する感覚として。
「一つは、自己否定や自己嫌悪など、自尊感情やアイデンティティに関わる苦悩が非常に深いこと、もう一つは、マイノリティであるということはb、狭義のトラウマ体験を受ける機会や回数も多い」(宮地2013:167-8、この本では347p


外傷の伝染性――支援者側のサディスティックな感情


『心的外傷と回復』から強烈に攻撃的な反応を示す心的外傷当事者の支援に関わる人が精神的健康を危険にさらし、精神バランスを失うという話が引用される(351p)。そして、そんな場合の支援は一人で取り組めるものではないとして、以下の引用につながる
独りで回復できる生存者がいないように、独りで外傷と取り組める支援者もいない。(218p、この本では352p)

そして、こんな引用も 
支援者は当事者の行動に反発と嫌悪を覚えるかもしれないし、当事者が「よい」当事者とはかくあるべしという理想化された概念のレベルに達しない行動をした場合には、支援者の方も極度に裁き役的になったりこまごまとしたアラ探しをしたりするようになるかもしれない。当事者の孤立無援感に軽蔑を感じるようになり始めるかもしれないし、当事者の復讐の念のこもる怒りに被害妄想的な恐怖を覚えるかもしれない。当事者をあからさまに憎悪し、厄介払いしたい気持ちになる瞬間もあるだろう。最後に、支援者はのぞき魔的な興奮を覚えるかもしれない。魅惑されるかもしれず、性欲の高まりを感じるかもしれない。(224p、この本では353-4p)
(引用者注:ここは前に紹介したように「患者 patient」、「治療者 therapist」を「当事者」、「支援者」に置き換られてることに留意したほうがいいかもしれない)

琢さんは、まさにこの記述が「障害者への虐待が起きる際の心理の動きを記しているのではないだろうか」と書く。


そして「外傷のある当事者との出会いは、支援者を、自分がどれだけ悪事を働いてるかという可能性との対決に導かずにおかない」(225p、この本では354p)

「何びとといえども単独で外傷と対決することはできない。支援者が臨床実践において孤独を自覚したならば、適切十分なサポート・システムを得るまでは外傷のある当事者の支援を中止するべきである」(238p、この本では354p)

とされている。無理して、独りで挑戦して、支援員が潰れる場合もあるだろうし、また、当事者が支援をすべて失って途方に暮れたり、すべて失わないまでも、必要な支援と切り離されたりということはありそうな気がする。


「ひとりぼっちじゃないよ」――「つながり」を取り戻していくこと


『心的外傷と回復』が解き明かすのは、 心的外傷がもたらす尋常ではないエネルギーを持った諸症状が「極限的な状況における人間の正常な反応である」ということ。(355p)

そんな中で、一度破壊された人間関係の「つながり」の感覚を再び取り戻していくこと、 そのために、労力や忍耐力そして精神力が必要とされ、おそらく誰も単独では外傷と対決できないと言われたように、個々人の内部の力だけではなく、相互に信頼し合う人間の絆の力のようなものが、当事者と支援者の間、及び支援者同士の間で、必要となると思われる。と書かれている。(355p)

【回復、つまり「つながりを取り戻すこと」】 そのポイントとして最初に挙げられるのが原則の確認。

 自己感覚は粉々に打ち砕かれている。この感覚は、元来他者とのつながりによって築かれたものであるから、 他者とのつながりにおいてしか体験できない。(91p、この本では356p)

これが原則なのだ。そして、トラウマに苦しみ、イライラやパニックから暴力を振るってしまう当事者、支援者が向かうべきなのは、

「とり乱しているその人ではなく、むしろその人をとり乱させている見えざる脅威」

であり、

「その脅威に当事者と支援者が一緒に立ち向かうような態度が必要なのだと思う」 と書かれて、次のような引用がなされる。
心的外傷体験の核心は孤立(アイソレーション)と無縁(ヘルプレスネス)である。回復体験の核心は有力化(エンパワメント)と再結合(リコネクション)である。(309p、この本では357p)
これに続けていか以下のように書かれている。

まさに当事者を孤立化させること、誰も信用できない状態にすることが 心的外傷体験の核心である。社会との、他者との、自己との、あらゆる「つながり」の感覚の喪失がその核心である。だからこそ、その「つながり」の感覚を取り戻していくこと、つまり、自分はこの社会に生きていてもいいんだ、笑ったり泣いたり遊んだりちょっと言い合いになったりしてもいいんだ、そういう感覚をもつ自分を取り戻していくこと、そして 他者や社会とのつながりの感覚を徐々に取り戻していくこと、そうしたことが回復体験の核心なのだろう。357-8p

 もうこれだけあれば、書き足すことはないような気にもなるが、続ける。

 そして、支援する人とのつながりの中で、当事者はトラウマを語れるようになり、語ることによって、そのトラウマを「統合」できるように。

『心的外傷と回復』では、こんな風にも書かれている。
 支援者がそばにいてくれるからこそ、被害体験者は口に出せないことを口に出せるのである。(239pこの本では359p)

「ひとりぼっちじゃないよ」という声掛けを支援者にも、とりわけ困難事例を抱えた支援者にもするようにしている、とのこと(360p)

心的外傷について沈黙を強いられて来た当事者が語れるように、繰り返し励まし続けることが支援者の大切な役割だという。独りではないことを伝えること。

・・・語ることを通して、他者とのつながりを再形成していくと同時に、自分の精神が加害者にのっとられたような感覚から、自分が自分であるという感覚を取り戻していくのであろう(360p)



同様に介助者もまた、自分が苦しめられている体験を語ることが出来る場が必要である。しかし、良心的な介助者ほど、障害者の否定的なところを語りにくい。その場で自分を苦しめている障害者を否定するように受け止められたら話せなくなる。大切なのは

「困難の中から新たな『つながり』の言葉を見つけていくような話し合い」361-2p

「だれしも、何ほどかは過去の囚人である」


これがこの章の最後の節。

暴言を吐いたり暴力をふるってしまう人の生きにくさ。共同体から排除される。そういう人も含めてインクルーシブな社会をつくるために、『心的外傷と回復』を導きの糸として論じてきた。そして、暴力や暴言に走ってしまう障害のある人の表面的な行動だけでなく、その人が受けてきて、隠蔽されてきた暴力や暴言の力をも見なければいけない、と琢さん。362-3p


この節のタイトルにあるように「だれしも、何ほどかは過去の囚人である」が、上述のように生きにくさを抱えた人たちは、運悪く過酷な暴力から逃げられなかった人で、その暴力にそれ以降の人生もふりまわされている。そういう人たちと『共に生きる』という困難。しかし、手を差し伸べ続けること、少なくともじっとそばに居続けること、そのような暴力が発現しにくい環境をつくっていくこと、そして、そのためにはきれいごとではすまされない人間のおぞましい側面と向き合う忍耐や深い洞察が必要だという。


『共に生きる』という言葉は容易に使われがちだが、そんな覚悟が必要だという話でもある。自分たちといっしょにいないのが『その人のため』だとかのきれいごとで、その人と向き合うことから逃げていないか、常に自分たちが試されている。この本に書いてあるよに、ひとりでその暴力と向き合うことはできないし、危険でさえある。しかし、ぼくたちはひとりじゃない、つながりを取り戻す可能性は開かれている、というのが、この章の結語となる。


この本全体の概観と、13章の読書メモここまで。ちょっと疲れた。



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