『脱原発の運動史』メモ

脱原発の運動史

チェルノブイリ,福島,そしてこれから

安藤 丈将

もうしばらく会っていない安藤くんの著書
以下、岩波のサイト

https://www.iwanami.co.jp/book/b450142.html

から

目次
はじめに――脱原発運動の宝箱

第1章 チェルノブイリと福島の間で

 第一節 「ニューウェーブ」の「新しさ」を超えて

 第二節 脱原発運動の民主主義像

 第三節 原子力政治に民主主義を求めて

第2章 放射能測定運動

 第一節 「反核」と「反原発」

 第二節 チェルノブイリ原発事故と生活クラブ

 第三節 日常から地域活動へ

 第四節 脱原発知識人と「出前のお店」

 第五節 放射能測定運動の展開

 第六節 測定と自治

第3章 反原発の「新しい波」

 第一節 「オルタナティブ」を想像する

 第二節 食と農からの世直し

 第三節 「いかたのたたかい」とその波紋

 第四節 市民のつくり方

第4章 脱原発運動と国政選挙

 第一節 議会政治への挑戦

 第二節 「原発いらない人びと」の選挙

 第三節 脱原発政党と日本社会党

 第四節 「予示的政治」の罠

 第五節 直接民主主義のジレンマ

第5章 六ヶ所村女たちのキャンプの民主主義

 第一節 核燃サイクル計画をめぐる攻防

 第二節 「女たちから,女たちへ」

 第三節 非暴力直接行動の力

 第四節 「弱さ」から始まる民主主義

第6章 脱原発運動の統治

 第一節 直接行動に対するポリシング

 第二節 「ニューウェーブ」の脅威

 第三節 原子力広報の刷新

 第四節 「原子力ムラ」のフェミニズム

第7章 一九九〇年代の脱原発運動――「脱原発の暮らし」へ

 第一節 原発輸出とアジア

 第二節 自治のためのソーラーパネル

 第三節 地域を変える移住者

 第四節 「生かされ方」としての自然農

第8章 脱原発運動の遺産

 第一節 脱原発運動は,どこから来て,何を残したのか

 第二節 脱原発運動は,いかなる民主主義を描き出したのか

 第三節 それでもなぜ,原発政策を変更できなかったのか

 第四節 「三・一一」の後に

参考文献

あとがき

書評情報

季刊ピープルズ・プラン 85号(2019年8月9日発行)


岩波のサイトにタイトルだけ紹介されている季刊ピープルズプランの書評は松本麻里さんが書いている。全面絶賛の書評。彼女の亡くなったパートナーだったら、辛口を混ぜるかなぁとと思いながら読んだ。http://www.peoples-plan.org/jp/modules/tinyd0/index.php?id=92


最初のメモ

ピープルズプラン研究所で開催されている戦後研で扱うと言っていたので、借りたのだが、結局、別件で行けず残念だった、ともあれ、かなり飛ばして読んだ。 安藤くんが子育てなどで運動の場面に来れなくなったことも記載されてて、ほほえましかった。「社会運動は、自治としての民主主義の担い手となる市民をつくり出す装置である」という話を微妙な言い回して書いている。(15p)追記 これは脱原発の運動史で反原発の運動史でない。安藤くんはそこをしっかり使い分けている。メモ、残す予定



「社会運動は、自治としての民主主義の担い手となる市民をつくり出す装置である」という話を微妙な言い回して書いている(15p)。そういう面は確かにあるというか、もしかしたら、そこを意識的に追求することも求められているのかもしれないと思った。社会運動のプロセスがこうあって欲しいと思える社会の在り方を先取りしているようでなければ魅力はない。

「オルタナティブ」は、官僚主義と資本主義の影響力の拡大を批判的に捉え、具体的な生活上の選択肢を提示した。何を食べるか、どこに住むか、いかに働くかといった暮らしの在り方を市場と国家のような巨大組織に左右されず、自分たちで決定する方法を追求するという点では、これもまた「生活の民主主義」の実践として位置づけられる。暮らしの自治の諸領域のうち、もっとも実践が集中したのは、仕事と食である。これらは国家と市場の影響を強く受けている領域であり、その領域を変えることが自立した暮らしを実現するのに不可欠であると考えられていたからである。 86p

コメントを書いている今、本を返してしまって、この文章がどんな文脈に置かれていたのか、確認できないのだが、食生活は多少変えることができても、仕事まで変えられる人はすごく少数だったと思う。ま、変えた人ももちろんいるから書かれているんだけど。

 アメリカの社会運動と参加型民主主義に関する研究の中でフランチェスカ・ポレッタは、運動にはゴールに向かう傾向とプロセスに向かう傾向との間に衝突があるという。(中略)

 確かに、予示的政治を優先させることは、政治的効率性の低下につながりがちである。効率と文化のジレンマに直面して、前者を犠牲にする選択をしたとしても、社会運動ならば、参加者のエンパワメントにつながることがあるので、必ずしも否定的に捉える必要はない。だが、選挙の場合、通常の運動よりも多くのエネルギーと資金をかけて準備するのは、議会に代表を送り込むという目的のためである。エンパワメントの機会を得るのに代わってこの目的を犠牲にするにしては、選挙に取り組むことのコストは多大に過ぎる。運動として選挙に取り組むには、効率と文化のジレンマに身を置き、選挙の中の難しい選択に直面した時、絶えずその間に着地点を見出すような態度が必要とされることを、(原発)いらない人々の事例は教えてくれる。138p

読み流すと、選挙ではゴールに向かうほうに集中しろよ、と書いてるようでもあるが、安藤くんが注意深く「絶えずその間に着地点を見出すような態度が必要」と書いているところに注目したい。着地点をどこに探すか、微妙な話ではある。


第5章 六ヶ所村女たちのキャンプの民主主義

第二節 女たちから女たちへ

  ここで、エコフェミニズムについて、触れている。そもそも『エコ・フェミニズム』の翻訳がなぜか約20年も遅れていて(https://tu-ta.at.webry.info/200606/article_18.html 参照)、いまだに日本語になっていないという大きな問題があり、ぼくはそれを読めずにいるのだけれども、そのミースとシヴァの共著本に「TMI事故への抗議行動が広がる中で形成された」と書いてあるらしい(171p)。しかし、ミースやヴェルホフのサブシステンス学派はほぼ同じ内容をもっと前から提起していたのではないか?

第三節 非暴力直接行動の力 から

 このような「私」を尊重する方法は、彼女たちの行動にも影響を及ぼし発刊予告が出てからた。意思決定の単位は、一人ひとりに置かれており、行動のたびに、彼女たちはそれにどう関わるのかを判断することになる。たとえば、核燃施設前の座り込みのようなリスクを伴う行動には、 各々の状況に応じて不参加の仕方を決めた。子連れの人は座り込むことができないので、道端で切るということにするといったように、他の参加者と話し合いながら、最終的には自分のことを自分で決定した。メンバーのそれぞれが納得の行くまで話し合うことには、最後に決めた行動に対するコミットメントを高めるという効果があった。なぜなら、話し合う家庭で自分の行動の意義とそれを実践する最善のやり方について考えをめぐらせ、人に従うのではなく自ら決断するからである。176-177p

 ここで書かれている「メンバーのそれぞれが納得の行くまで話し合う」こと、とても大切であり、これが草の根の民主主義の根っこにあるべきだと思う。上記のゴールよりもプロセスを大事にするという部分とも符合する。そう、もちろん、バランスを考えなければならないときはあるのだけど。

これに続けて安藤くんは「傾聴」について書く。(listening) と英語表記も括弧書きで加えているが、ぼくが前、どこかで読んだ本では、傾聴とはただ聞くのではなくアクティブに聴くことであり、Active listening だと書いてあった。両方の言い方があるのだろう。

とにかく、キャンプでは話し合いが重視され、リラックスして、話せる雰囲気を作ること、あれを言ってはいけないとか、これを言ってはいけないとかをなるべくなくすこと、会話を過度にコントロールするのではなく、参加者の緊張をほぐし、意見を出しやすい情況をつくることが大切とされ、とりわけ重視されたのは、一人ひとりの話に注意深く耳を傾けることだ、と書かれている。

 そして、安藤くんは「傾聴は、とりわけ、女性の政治参加には不可欠である」と言い切る。男ばかりが長く話すようなことをなくすこと。機会を平等にすること。それゆえに傾聴は、一人ひとりを尊重する女たちのキャンプにおいては不可欠な技術とみられた、と書かれている。177-178p

傾聴されない場に入っていきにくい傾向が女性に多いということは言えるかもしれない、そういう意味で「傾聴は、とりわけ、女性の政治参加には不可欠」なのかもしれない。しかし、その力はどちらかと言えば、聴く力が弱い傾向が多い男性にこそ求められている、とも言えるのではないか。

そして、「傾聴」の解釈はいくつかあるし、福祉関係者は傾聴と言い過ぎという話もある。

探したら、ブログからこんなのがでてきた。

べてるの向谷地さんが書いた『技法以前』の読書メモ

https://tu-ta.at.webry.info/201104/article_8.html から

第4章《「聴かない」ことの力》で向谷地さんはまず、「ケアの基本は、「聴くこと」である。と書いた上で、鷲田精一の『「聴く」ことの力』を紹介し、彼の問題意識をもっとも的確に表現したのが「哲学はこれまでしゃべりすぎてきた……」という言葉だという。

そして、その本から引用する。「語ることがまことのことばを封じ込める、ということがないだろうか。まことのことばを知るためにこそ、わたしたちは語ること以上に、聴くことをまなばなければならない」

これを引用した直後に以下のように書く。

===

 この問題提起にドキッとさせられるものがある。「聴くこと」の形骸化が進んでいるようにみえる臨床現場に対する、一種の批判とも思えてくるからである。私の問題意識を鷲田氏の言葉に重ねると、「ケアの現場は、聴きすぎてきた」ということになるだろう。すなわち「聴くことが真のことばを封じ込める」ということがないだろうか。

===

と。ここから世にはびこる「傾聴」への批判を展開する。ここでは《「聴くこと」の形骸化》の批判という表現だが、「聞いてもらうことに飽き飽きしています」という当事者の親の訴えをなど、読み進むと「聴くこと」と「聴かないこと」のバランスの問題なのではないかと思えてくる。聴けばいいってもんじゃないということなのだ。

その話は川村先生の治療の話にもつながる。(そこは略)

===

…カール・ロジャースも「傾聴の技法化」に陥らないように、傾聴のベースには「一人の人間の持つ重み、そのかけがえのなさ」に対する十分な認識が必要だと…

 もし聴くということが「ただ、そばにいること」のもっとも象徴的な行為であるとするならば、前述のエピソード(「死にたい」という言葉のへの対応、浦河では聞き流されるというような)は「”聴かない”という聴き方」と表現することもできる。その意味で浦河では、聴くということは一対一の関係を超えて「共に聴く」という共同的な行為としてある。大切なことは「一人で聴かない」ことを通じて、仲間に十分に「聴かれた」のである。

==

《開かれた聴き方》と《閉じた聴き方》がある。

《閉じた聴き方》では、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、さらなる不安や孤立感をもたらすことがわかる。108p

精神障害をもつ当事者の生きづらさの多くは、「車の運転の仕方がわからない」状況に似ており、具体的・操作的なアプローチで軽減されることが少なくない…114p

===

…私は、この「聴く」という関係のもつ可能性の一つに、「共に弱くなること」があるような気がしている。別な言い方をするならば、聴くという行為は、当事者のかかえるさまざまな困難な現実に、「共に降りていく」プロセスとしてある。その降りていくことを具体的に実現するうえで大切なのが、「共に考える」関係――研究的な対話関係――である。117p

~~『技法以前』メモからの引用、ここまで~~

ここもオープンダイアローグにつながる話だと思って読んだ。
この『聴かない』という部分を、もう一度、読み返してみたくなった。

あと、斎藤学と栗原さんの対談本のメモもあった。
https://tu-ta.at.webry.info/200904/article_13.html から

一筋縄ではいかない斎藤さんの本領はいろんなところに発揮されている。

例えば、共感とセラピーをめぐるこんなやりとり。

===

栗原 ・・・共感なんてはたして、本当にできるだろうかと、それを疑問に感じるんですよね。私は一時期セラピーの勉強もしたことがあるんだけど、みんなが二言目には共感、共感とそればかりいうことに、すごく抵抗があった。

斎藤 おもしろがることだって共感だと思うけどね。

栗原 なるほど……。

斎藤 だけど、そういうものを否定するところから始まっているわけよ。

栗原 そういうものって?

斎藤 「ふむふむ」っていう治療法を否定しているわけだよ、私は。患者に共感して聞き入るみたいなものを。だから、コンダクターとしての役割のほうが大事だと言ったりするんだよね。

 患者の行動に変化を与えるような工夫をしないでセラピストなんて言うなっていうのが私の考えで、だからあなたの言ってることはほぼ正しいと思うよ。患者が悩みにしていることを――おもしろがるって言うよりもおかしがるって言ったほうがいいと思うんだけど――別の見方があることはいいことだよ。へんだよねーっていう。へんなほうが好きだからね。  90~91p

===

ここでも「共感」のダブルミーニングが語られているように思う。

栗原さんが、治療者はパワーとコントロールの罠から逃れるために、守るとか保護するとか救うとかいうのは一歩間違えたら暴力になるというフェミニストセラピーで言われていることを例に出し、「救おうと思わないんだったらどういうスタンスで治療してるのだろう」と尋ねると、斎藤は「だから、おもしろがるしかないんじゃない」と答える。ただ、効果がないとつまんないともいう。見方の変化という効果を生み、こだわっていることから解放するということが救うことなら、それは救っていることになるかもしれない、と答えている。そして、セラピストは自分で走っちゃだめだという。 94~5p

~~引用ここまで~~

読み返すと、これもODの思想に近いのではないかと思えてくる。


第四節 「弱さ」から始まる民主主義

 ケアの政治理論は、人に頼らないと生きていけないという当たり前のことが、古典的な政治学では十分に考慮されてこなかったと主張する。ジョアン・トロントの見方によれば、政治思想家たちは、ケアのように人間の活動に必要なものは、政治を行ううえでの前提であり、 公的領域で議論されることではないと見てきた。また、彼らは、ケアのように人々の個別のニーズにこたえる営みは、狭く限定されたものに他ならず、政治はこの個別性を超えたところに存在するという。 岡野八代が指摘するように、政治思想の伝統においては、人間が他者に頼っているという事実が覆い隠され、「主体の自律性」を暗黙のうちに前提としたうえで、政治なるものが論じられてきたのである。180p

ここに続けて、安藤くんは生活保護バッシングを例に、政治を含む他者に頼るのは避けるべきという規範が日本社会に根強いとして、ケアの政治理論は、それに対置するものとして位置づけられる。以前、どこかで日本での生活保護の捕捉率の低さのデータや国際比較を見たような気がする。湯浅誠さんの著作だっただろうか。生活保護を受けるのを避けたいというような心情は人間固有のもので、日本社会に限ったことではないと考えがちだが、その捉え方はやはり社会によって異なっているのだと思う。

内ゲバは、コミュニケーションの失敗の無残な結果である。そこには、相手に対する信頼も気づかいも、決定的に欠落している。184p

当たり前といえば当たり前の話だが、 内ゲバをいまだにちゃんと反省していない人たちも少なくない。


第6章 脱原発運動の統治

この章はチェルノブイリ事故を契機に広まった脱脱原発世論の昂揚を「日本の原子力共同体」が凌ぎ切ることに成功した、彼らがいかにして運動を統治しようとしたのかという話。

当時、運動の中心メンバーに対してひんぱんに行われたさまざまな「いやがらせ」行為も紹介されている。それは、犯罪的なものばかりだ。最近、自分の父親がその行為にかかわっていたという告白があったが、それはこれが書かれた後だったのだろう。194pから

原子力共同体が「メディアを買う」(メディアバイイングの)話も紹介されている。196p~

PA(パブリック・アクセプタンス、原子力理解促進運動)の話も紹介される。202p

このあたり の話は、3・11事故後の再稼働に向けても行われてきた話でもある。

215p~はWIN-Japan(WINはWomen In Nuclaer)という女性の原発推進運動が紹介されている。


第7章 一九九〇年代の脱原発運動――「脱原発の暮らし」へ

ここでは丸木美術館で太陽光パネルをとりつけるのに協力してくれた櫻井薫さんのことが詳しく紹介されている。(第二節 自治のためのソーラーパネル)

櫻井さんのアジアでの活動など、知らなかった。また、酒田市の障害者就労支援事業所NPOホールドでソーラーパネルの作り方を教えている話も。(241p)

櫻井さんが考える「自律的な仕事の創出が、コミュニティの自治を促す」という話も興味深い。(243p)

その後、達成できなかったことの記述など興味深かったが略。


久しぶりに安藤くん会って話が聞きたくなった。

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