『で、オリンピックやめませんか?』紹介原稿とメモ

『で、オリンピックやめませんか?』の紹介をPP研のニュースレターに書くことになったので、書き始めたのだけど、うまくいかず、とりあえず、書いたのが以下。まだ、送ってません。

~~~~
『で、オリンピックやめませんか?』読みました。

 マラソンと競歩を札幌に持って行くかっていう話になっているらしい”東京”オリンピック。 札幌で東京オリンピック? IOCの商業主義の土俵に乗って、この時期がいい時期ですと言って、招致したのは誰なの?(猪瀬でした) IOCに裏金をばらまいたのは誰? 危ないのはマラソンと競歩だけ? サッカーは、7人制ラグビーは? ホッケーは? 陸上の長距離は? それを見る人は? 体育館内か、超短い時間ですむもの以外はみんな危険でしょ。などとオリンピックについて、思ってしまう昨今。ここで紹介する本は

『で、オリンピックやめませんか?』 

『で、やめましょう』って話です。一部はPP研も会場として行われた「おことわリンク」の連続学習会の記録でもあります。


目次は以下の通り

~~

はじめに

世界のオリンピック批判

2019年平昌冬季オリンピックの実態 | イ・ギョンリョル

冬季オリンピックの負の歴史 | 谷口源太郎

リオ五輪災害による「排除のゲーム」 | ジゼレ・タナカ

東京五輪と神宮「再開発」

新国立競技場問題の何が問題なのか?

神宮外苑の再開発地区を歩く | 渥美昌純

パラリンピックがもたらすもの

学校現場でのオリパラ教育 | 増田らな

パラリンピックは障害者差別を助長する | 北村小夜

オリンピックはスポーツをダメにする!?

アスリートたちの反オリンピック | 山下敦久

オリンピックに意義あり!スポーツ・体育を問い直す | 岡崎勝

ナショナルイベントとしての東京五輪

天皇制とオリンピック | 天野恵一

オリンピック/多様性/ナショナリズム | 鵜飼哲

3・11と「復興五輪」

百年たっても原子力緊急事態宣言は解除されない | 小出裕章

終わらない福島原発事故と被害者の現状 | 佐藤和良

オリンピック至上主義 VS 市民のためのスポーツ

スポーツの主役は誰か | 谷口源太郎

女性とオリンピック

スポーツとジェンダー・セクシュアリティ

ナショナリズムと植民地主義の視点から | 井谷聡子

2020東京オリンピックに反対する18の理由

あとがき

(以上の目次は模索社のWEBから)

 疑問ばかりが湧き出てくるオリンピック。そして、パラリンピックは「がんばってる障害者は素敵」っていうような感動ポルノ大会。ちなみに感動ポルノとは

障害者が障害を持っているというだけで、あるいは持っていることを含みにして、「感動をもらった、励まされた」と言われる場面を表し…。そこでは、障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、積極的・前向きに努力する(=障害があってもそれに耐えて・負けずに頑張る)姿がクローズアップされがちである。「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアで取り上げることがこの「感動ポルノ」とされる。(Wikiから)

ね、パラリンピックでしょ?


 この本でのパラリンピック批判、北村さんや増田さんだけでなく、岡崎さんも書いています。そして、増田さんが紹介してるオリパラ教育のひどい実態はすさまじいです。


 実は「おことわリンク」で出してる500円のパンフレットのほうが、すっきりしてて、読みやすくていいじゃん、と思っていて、この本、読んでなかったのです。PP研のニュースレターで紹介することになって、読みはじめたら、いろいろ深くて、興味深い話がでています。

 字数制限を超えて、この本にどんな興味深い話が出てるかというのを紹介することができなくなってしまいました。先住民族を見世物にするような人類学オリンピックとか、まったく知らない話がいくつもでています。手に取って読んでみてください。

 なお、この文章に加えて、ぼくが書いた不十分な読書メモはブログに掲載しています。

「今日、考えたこと」 と 「で、オリンピックやめませんか」の二語で検索したら出てくると思うのですが、これから試します。


原稿以上

以下、読書メモ


~~~~

北村小夜さんへの質疑から

Q 障害者の運動体で、オリパラ問題は議論されているのでしょうか。


北村 DPIでは、きちんとした見解は出していないのですが、私がその集会に出てパラリンピックについて質問したときに返ってきた答えは、「私たちとしても疑問をもって、どちらかといえば反対ですが、決まったものには反対できません」と。ものを言わない障害者の話はわかりませんが、ものを言っていく障害者の人たちからは、そういう答えしか返ってきませんでした。

 全体的にいえば、差別されていた障害者もいっしょにやれるようになったのはいいことだというのが大勢です。差別を受けている状況のなかでは、なかなか考えられないことはあると思います。

 たとえば、むかしの女性は、いまとは比較にならないほど無権利状態でしたが、戦争が始まったとき、男がいなくなったので、いろいろな仕事が回ってくる。あのときの女たちは、やっと私たちも国のために役に立つと思い奮い立った。それと同じような状況が障害者としに来ている段階だと思うのです。・・・61p

ぼくもDPIに確認したわけではないが雰囲気としてはこんな感じだと思う。ぼくは決まったことでも反対はするが、それが飯のタネになるなら使っている。そんな風に言いながら取り込まれている部分はあると思うけど・・・。



アスリートたちの反オリンピック | 山下敦久 から


ここではオリンピックのために殺された人々の話を書いた後で、以下のように書かれている。

 モハメド・アリは、ローマ・オリンピックでとったメダルを川に投げ捨ててしまった人ですが、彼ですら96年のアトランタ・オリンピックの開会式では最終聖火ランナーに選ばれた。オリンピックは、自分たちにとって都合の悪い人はとりあえず降雪するというやり方をとっていくのです。震える手で聖火台に炎を灯したアリの衰弱した姿から、私たちは現代オリンピックの真の姿、柔軟な政治力を想像することができると思います。71p

また、この次にでてくる「スノーボード文化」の話、まったく知らなかったのだけど興味深かった。

 競争や勝敗のためではなく、身体を自分の表現のキャンパスにしよう、それをライフスタイルにしていこうという人たちが作り出したのがスローボード文化 72p 

・・・。オリンピックを自分のためのビジネスの場所として捉える無批判な姿勢をめぐって、ハーコンセンと若者たちの間で論争になったりしています。僕が教えている学生もそうですが、かれらは生まれたときにはすでに資本主義のグローバル化のなかでスポーツが完全に商業化されていたのです。ですから、資本主義に取り込まれたスポーツとは違ったスポーツの可能性を知らないのです。73p

(ここにでてくるハーコンセンさんは少し前に紹介が書かれていて、スノーボード史上もっともすぐれたパフォーマーだが、オリンピックに出ていないだけでなく、「なぜ僕がいまだにオリンピックを憎んでいるか」という彼のインタビューもあるとのこと)


ところで、この著者の山本さん、筆者紹介によると、1973年生まれ。ぼくと比べると、14歳も年下の彼がこんな風に書いているのだが、ぼくたちの世代は「資本主義に取り込まれたスポーツとは違ったスポーツの可能性」を知っていると言えるだろうか?

また。逆に若い世代の人だって、スポーツを楽しむことはあるはず。そこから「資本主義に取り込まれたスポーツとは違ったスポーツの可能性」を感じ取ることはできないのだろうか、と思って読み進むと、著者はこの文章の結語部分でこんな風に書いている。

・・・山の中で暮らしながら、夏場は農業や牧畜をやり、冬はスノーボードをやるという生活・・・GREEN.LAB 間伐材を使ってスノーボードの板を作成・・・。

 彼らは板を買った人たちとの間で、エコロジー運動とか、資本主義やスポーツの問題について対話できる場所を作ったり、 イベントをやったりしています。子どもたちに板の製作過程を紹介しながら、スノーボードは楽しいけれども、そこには色々な歴史があってというふうなことを教えています。 板を作り、流通させ、その板に乗って身体を遊びへと解放していく。このプロセスは、同時に生態系のこと、スポーツの資本主義のこと、体の政治に関わることを考えていくための実践にもなるのです。

 こういうライフスタイルを繋げていくと、資本主義の完全な外に出ることはできないとしても、別の価値観やライフスタイルを実験する人たちの社会ができてくる。スポーツという媒体からできることもまだまだたくさんあると思っています。スポーツをオリンピック支配から解放する道筋を探ることが大切なのではないでしょうか。73-74p

そう、結局、問題意識はつながっている。



オリンピックに意義あり!スポーツ・体育を問い直す | 岡崎勝

ここで岡崎さんは競争を全否定するのではなく、競争至上主義的な在り方を批判している。面白かったのは以下

「春の運動会」はあるけど、「春の書き取り公開テスト、成績公開」はない。「何で運動会だけみんなの前でやるんだよ」という不満はあるのです。84p

「競争は全部だめ」という主張だと取られることがありますが、競争ゲームがおもしろいと私も思うことがあります。なんでも競争でなく協働すればいいとか、逆にすべて競争はだめとか、一面的にとらえることがどうかと思うのです。85

以下、質疑での山本さんの回答から

運動会や体育だけが変わればいいというよりも、資本の論理のなかで、競争に投げ出される身体(労働者、受験生など)をもっと問い直すことが大事です。90



天皇制とオリンピック | 天野恵一

安倍だけを見ていると、戦争イデオロギーだけになってしまうわけですが、社会全体を包み込んでいくイデオロギーは、戦争一色ではないわけです。何のために「平和の祭典」をという名目でのオリンピックがあり、「平和天皇」といわれる天皇を使うのか、むしろ戦争がどうしても露出せざるをえない状況になってくるほど、そういうものが必要になってくるのではないか。97p

戦争イデオロギーを糊塗するための「平和の祭典」とそれを支える「平和の天皇」という図式。確かにそういう側面はあるかもしれない。ただ、この間の動きを見ていると、イデオロギーよりも「お金」の動きばかりが表面化しているようにも見える。

 そして、かねてから言われているように「政治を見えないようにする」スポーツイベントでもあるのだが、オリンピックが顕在化させることもたくさんある。社会運動の側がオリンピックを通して、現在のひどい政治状況を見えるようにしていくことが必要なのだろう。その一つの具体例が福島原発事故の処理の問題でもある。それは、この本であの小出裕章さんといわき市議の佐藤和良さんが書いている。



オリンピック/多様性/ナショナリズム | 鵜飼哲


ここで興味深かったのが、ふたつの東京オリンピックの聖火リレーと原子力の連関。

東京オリンピックの最終ランナーは1945年8月6日生まれの陸上選手。そして、2020年の出発地点は原発事故被災地。まだホットスポットも多く残る6号線を子どもに走らせると鵜飼さんは書く。64年のそれが原子力爆弾の”火”の「浄化」であり、今回のそれは福島原発事故の「浄化」である、と。

また、晴海の選手村、オリンピックが終わったらマンションとして売り出されるようなのだが、売値は市価の10分の1だったという話もある。オリンピック期間中の選手村の使用料と相殺なのかどうか、ぼくは知らない。


また、鵜飼さんはパラリンピックについて、以下のように質疑で話している

パラリンピックはなぜこれほどまでに脚光を浴びるのでしょうか。それは復興のイデオロギーと同型性があるからだと思います。「災害多発国・日本」と「頑張る障害者」の同一視が働いていて、立ち直る被災地と立ち直る障害者が称揚の対象になると同時に、立ち直れない被災地、障害者は遺棄されていく。113p

この発想はなかった。確かに中途障害の人がパラリンピックスポーツと出会って、立ち直る物語はいっぱいある。それが復興のイメージと重なるというのはわかりやすい話ではある。しかし、「立ち直れない障害者は遺棄されていく」とまで言ってしまっていいのかどうかは迷うところ。

また、オリンピックに使われるお金の話が出てきて、何十兆円というお金は大企業の中にしか残らないと鵜飼さんは書く。基本的には確かにそうだと思う。しかし、障害者の事業所はオリンピックで使われるお金のほんの小さなおこぼれを苦労して探している。



女性とオリンピック


スポーツとジェンダー・セクシュアリティ

ナショナリズムと植民地主義の視点から | 井谷聡子

スポーツ学のスーザン・ブラウネルが書いてます。オリンピズムとは「[オリンピックの]理想により、近代化された国々は世界平和に向けて動きだすことができるという信条/信仰である。(中略)IOCのリーダーたちのヨーロッパ中心主義は、フェアプレイ、卓越さの追求、『より高く、より早く、より強く』という価値観が普遍的であると仮定する(実際にはそうではないが)。また、彼らはこれらの価値観を広めることが世界にとっていいことであり、この普及は西洋文明の光が世界の暗がりを照らすという、一方通行の過程であると思い込んだ」と。つまり、帝国主義的、植民地主義的な態度がオリンピズムの中に書きこまれているのです。169p

オリンピックと近代の、価値観の一致。いままで、自分たちが食べる分だけを作ったり、採取したりして来た人たちに、それ以上に働かせるための道具(イデオロギー装置)として、オリンピックも使われてきたのかと思う。確かにありそうな話だ。

そして、興味深いのが1904年セントルイスでのオリンピック期間中の「人類学の日」。その日、先住民に徒競走やアーチェリーなど18の競技をやらせて観察したという。出場者はオリンピアンと呼ばれていたとのこと。

また、ここに書かれている性別検査の歴史も興味深かった。誰が女性かを確認するのは容易ではない、とのこと。

そして、最後に書かれている話が興味深い。インクルージョンというときに、どこに包摂されるのか、それを抜きにインクルージョンをいうことの無意味さ。確かにインクルーシブになって欲しいと思うものの、野宿の人を排除したり、金持ちだけが優遇されたり、朝鮮半島や中国にルーツがある人が差別されたりする場所に包摂されれはいいわけではない。そういう場所にある種のいままで差別されていた人が参加するのではなく、そういう場所を解体するというラディカルな分析の視点が必要だと書かれている。ここではオリンピックとジェンダー・セクシュアリティ問題に関して書かれているが、障害分野でもそれは言えるだろう。別の弱者を排除した場所へのインクルージョンではなく、すべての弱者・被差別者が排除されない場所をつくることが求められている。そのことへのセンシティビティを欠いたままでは、インクルージョンとは呼べないはず。

というわけで、オリンピックを切り口にいろいろ考えさせられたのでした。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント