『されど愛しきお妻様』メモ

されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間』


読み終わって、いま、知ったのだが、加筆訂正前の連載はWebで読める https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51246 (2回目からは有料会員のみ)。そして、重版出来後の後日談も。https://gendai.ismedia.jp/articles/-/54380


ダ・ヴィンチニュースでの書評も
https://ddnavi.com/review/431358/a/


出版社のページ
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000190617
ここから読める書評も長くて、面白そう。


(どっちもちゃんと読んでないけど)

以下、ふせんにそってメモ


興味深かったのが、発達障害と服薬の話。

精神科医に通院し服薬2年間で、ガリガリだった彼女が信じられない勢いで太り、乳腺が張って母乳が出たり、歩けなくなったりしたとのこと。そして、2年経過したころに医師から薬を辞めて働いてみましょうか提案され、バイトを始めたという話。飲んでいた薬はSSRIが含まれるもので、そのなかでも「パキシル」の離脱症状が激しかった。強い不安感、悪夢、めまい、激しい動悸。 そして、完全に離脱症状が抜けるのに4か月かかったが、その後、精神科医にいくことはなかった、とのこと(61-62p)。

発達障害と医療・服薬の関係はほんとうに危ういと思う。


ちなみに198pにはもう少し詳しい薬についての記述がある。

 昨今発達障害の周辺で盛んに語られる薬剤に「ストラテラ」と「コンサータ」がある。コンサータは第二章で触れたとおりリタリンと同成分で依存リスクを低下させた新薬だが、いずれにせよ服用した当事者からは(中略)、強い副作用の報告もある一方で「頭の中の雑音が消えて思考がまとまるようになった」「集中できる」「自分をコントロールできてる感が半端ない」といった声も聞く。

 これはアリだろう。お妻様がリストカッターだった時代にSSRIの離脱地獄を目の当たりにし、その後の取材活動の中でもメンタル系疾患への投薬治療にはかなり懐疑的な僕だが、闊達障害への投薬治療は、アリだと思っている。 

 (中略)

 だが、なおかつ僕はお妻様を率先して治療の場に向かわせたくないと思っているし、本書も「発達障害のお妻様がついに治療に…」みたいな展開にはつなげたくないと思っている。なぜそうなのか、第一に、お妻様から治療したいという言葉を聞かないこともあるが、よくよく自分を顧みると、出てきた答えは「発達障害も含めたお妻様のパーソナリティが好きだから」だった。 

 これは僕の本音だ。僕はお妻様が変わってしまうことを恐れている。コンサータやストラテラの使用者からは、頭がすっきりしたという声もある一方で、「余分な事を考えなくなった」「感情が穏やかになり、少し無感動になった」「天然じゃなくなったと言われた」という声もある。プラスにもとれる声だが、余分なことを考えたり情緒が豊かなのも天然なのも、お妻様の魅力だ。そして治療によってそれが失われることを、僕は恐れている。198-199p

 著者はこんな風に書きながら、それでもそう思うのは自分の横暴ではないかという感じが拭えなかったのだが、「不自由を障害にするのは環境」という視座で、ひとつの解決と安心を得られたから、と書いている。200p

高次脳の著者と発達障害のパートナーの二人の家のルール

第1条 その家事は誰が望んだものなのかを考える。

第2条 本来その家事をやるべきはそれが必要だと思っている側なのだと知る。

第3条 その家事が必要だと思っている側が、必要ないと思っている側に家事を頼む行為は依頼を超えて「お願い」であるべきだ。

第3条2項 相手が必要ないと思っている作業をお願いしてやってもらっている以上、その仕上がりに文句をいうな。

125p

これ、ADHD傾向のあるのが男で、定型発達気味が女の場合、ジェンダー的に少しややこしいことになるんじゃないかと、経験的に思うのだった。


194~195pには障害の社会モデルがその言葉を使わずに解説されている。

・・・2年以上をかけて家庭の環境や夫婦の役割を改革してきた中で、改めてたどり着いた視座がある。

 それが「不自由を障害にするのは環境」だということだ。

 (中略)

 もちろんこの不自由の度合いによっては、あらゆる環境が障害になってしまうケースもあるだろうし、逆に家では生き生きしているのに学校に行くと死に体になってしまう子どものように、特定の環境のみが障害になる不自由もある。小さな不自由を大きな障害にしてしまう環境もあるだろう

こんな風にいろんな表現で「障害の社会モデル」が理解されるのはいいことだと思う。


急に違う話に移るがメモしたかったのはこれ

 高次脳機能障害当事者の抱える問題の中でも、感情の脱抑制による暴言・暴力は非常に大きくて悲惨な問題で、家族や周囲に多大なストレスや苦痛を与え、本来ケアされるべき当事者が周囲から排除され、孤立してしまう原因にもなっている。 そして残念なことに、同様のことはその他の「脳にトラブルを抱えた」当事者にも共通する。
(中略)

  お妻様がもし男性ならと考えたら、いっそうわかりやすい。働かない家事しない。一度機嫌を損ねたっら、たとえ自分が悪くてもずっとしつこく不機嫌のまま。

 本当は何らかの不自由があって働けなかったり感情のコントロールができないのであっても、第三者から見ればそれは典型的な「だめんず」で、言うまでもなく社会的な男性像として周囲からは捉えられるだろう。もし苦手な意思表示の手段の中に暴力が加わるなら、完全に悪質な加害者だ。206-207p

前述のルール、第1条 その家事は誰が望んだものなのかを考える。第2条 本来その家事をやるべきはそれが必要だと思っている側なのだと知る。第3条 その家事が必要だと思っている側が、必要ないと思っている側に家事を頼む行為は依頼を超えて「お願い」であるべきだ。第3条2項 相手が必要ないと思っている作業をお願いしてやってもらっている以上、その仕上がりに文句をいうな。

これを男が言ったら、すごく傲慢な感じなのでは?

ともあれ、上記の「悪質な加害者」という話は続く。

そしてこうした思考の先に見える人物像に、僕は強い既視感を覚えるのだ。被害経験を持つ「本来は支援の対象の人々」が、ネガティブで攻撃的でめんどくさい性格や言動のために、様々な主演のでからも家族や友人や地域社会からも孤立したり、社会的な立場になってしまっている。208p

そこから得られる結論として、著者が書くのは

「弱者を加害的な立場に追い込むのも、また周囲の環境」209pという話だ。


著者は社会にお願いしたいこととして、高次脳機能障害への理解をよびかけ、以下のように書く

・・・やれないことを押しつけたり「やれて当たり前」の価値感をふりかざしたりせず、彼らのやれることを共に発見、評価してほしい。

 一方で当事者にもお願いしたいことがある。それは、自らができないことと、なぜできないのかを自ら把握し、それがどれほど統治者には想像し辛いのかを考えること。その上うえでできる限り非当事者にその不自由感がどんなものかを伝え、発信する試みを諦めないでほしいということ。当然その際に非当事者は「障害に甘えるな」の言葉を絶対に発さないでほしい。213

そして、225pでは、エビデンスが乏しい発達障害に関する諸説が横行していて、否定すべきものを紹介したうえで、逆に支持できるものとして

「現代が不定形発達の不自由を障害にしやすい環境に変容してきているから」

という説を紹介する。

・・・。そうした第三次産業が就労の多くを占めるようになった結果、「ひととの会話が苦手でも自然と対話ができる」「無愛想で偏屈に見えてもいい仕事をする職人」といった人々の パーソナリティが障害特性となり、周りからはじき出されやすくなった。226p (『子どものための精神医学』(滝川一廣著)の、この本の著者によるまとめから)


この本、面白く書きながら、大切なところに肉薄するいい本だと思った。

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