『発達障害に生まれて』メモ

『発達障害に生まれて-自閉症児と母の17年メモ

 松永正訓 著


読書メータに最初に書いたメモ
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どこかで紹介されていたので、図書館で借りて読んだ。さくっと読める本なのだが、しっくりこない部分がときどき出てくる。そう、インクルーシブという観点がないわけではないのだが、弱いと思う。メインストリームの側こそがインクルーシブな環境を作る義務を持つはずなのに、メインストリームを変えていくという観点が弱いのだ。メインストリームは変わらないものとして、特別支援校などの存在を当然必要なものとされる。そのあたりの違和感が強かった。
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例えば

 障害児は普通、就学時検診を受けて、そこで通常学級に行くか、特別支援校に行くか、特別支援級に行くかの助言をもらう。だが母は勇ちゃんを通常学級に行かせる気はまったくなかった。勇ちゃんには知的な障害もある。通常学級に行けば必ずダメな子として見られてしまう。そのことが勇ちゃんを傷つけ強烈なストレスになる。母は勇ちゃんに自信を失うような真似はさせたくなかった。母の脳裏には鉄格子の奥にいる少年の残像がまだはっきりと残っていたのだった。それで就学時検診は欠席した。94p

 著者はこのように母の言葉を借りて、支援校/支援級に行くしかないと言う価値観を植え付けているように感じる。確かにほとんどの現実は著者が書いているようなものであり、障害児は傷つけられる。だから、そういう選択を否定できない現実はある。

 しかし、「それでいいのか」という視点が必要なのではないか。後段の鉄格子の話もそうだ。これは、その前に書かれている児童精神病院で見た風景の話であり、発達障害の二次障害の話。変えなければいけない現実があるはず。変えられなければならないのは障害児を傷つける普通級であり、二次障害に陥ってしまった子どもを閉鎖病棟に押し込める医療なのではないか。


 著者の主張は微妙に隠されているように感じるが、おそらくこの問題での著者の価値観と母親の価値観はそんなに違わないはず。後のほうで、障害者が身近にいる学校の生徒とそうではない学校の生徒の違いが描かれ、いっしょにいることの大切さが描かれてはいるのだが。

 療育仲間だったあるママ友の子どもは重い知的障害を持つ自閉症だった。そのことはその母親も受け入れていたはずだ。現に療育に通っていたのだから。ところがその母親は、通常学級に行くことにあくまでもこだわった。なぜそこまで頑なだったか理由は分からない。特別支援学級や特別支援学校へ我が子を行かせることに対してプライドが許さなかったのか、あるいはもっと違う理由で、通常学級で健常児から刺激をもらえば自閉症がよくなると思ったのか。

 いずれにしても、その母親は嘘をついて就学時検診を欠席した。その結果4月から普通学級に行けることになった。だがやはりそれには無理があった。入学式でその子は奇声を上げながら会場を走り回った。学校の先生は驚き、母親にはっきり言ったという。

「お母さん、明日から毎日お子さんの付き添いをして下さい。それが受け入れる条件です」

 その話を聞いて以来、母はそのママ友とは連絡を取っていない。そうした学校生活は親にとっても子どもにとっても強いストレスになるのではと、母は心配だった。96-97p

 この下りにも違和感は拭えない。著者はこの問題を書きながら、「障害児を普通級へ」という運動のことを調べずに書いたのだろうか。なぜ彼らがそのような主張をしているのか、その一端をも知らないような記述だ。この問題に触れるのであれば、もう少し調べて書けばいいのにと思える。

 そして、何より問題だと思えるのは、母親の付き添いを求める学校への批判が一切ないことだ。確かにこんなことを言ってくる学校での生活は親子にとって強いストレスになるだろう。その子は母親の同行を義務付けられ、子どもだけで地域の学校に行くことが拒否されている。それは子どもへの権利侵害ではないのか。学校には合理的配慮を求めることができるのではないか。自治体は子どもを受け入れることが可能なはず。この本にはそういう視点が一切ない。


108頁にはオムツを外す訓練の話がでてくる。支援校ではそれがあるが、支援級にはそれがないとのこと。もし、本当にそれが必要なら、普通級にいても、別枠でそういうトレーニングを受けることができてもいいのではないかと思うのだが、どうなのだろう?


178~179頁には生活介護、就労継続支援、就労移行、一般企業の説明があるが、あまりにもおおざっぱで、これならないほうがいいかもしれないと思えるようなものだ。


16章(195p~) 『親亡きあとの我が子の人生』には高校生の時から、グループホームを15年後くらいに作るために準備してる話がある。考えさせられる。


そして、いま、「母は勇太くんとの生活が楽しくて仕方がない」(205p)と書かれている。ぼくのまわりにも、こういう感じの母親が多いように感じている。


18章は出生前診断の話だ。母は実は、障害児が生まれたらどうしようと、不安で、安心を得るために昔の出生前診断(トリプルマーカーデスト)をしたことがあり、「陽性:ダウン症の可能性80%」と出て、羊水検査を受けに行く。そこで幸せそうな妊婦と自分との違いに涙がとまらず、看護師には背中をさすって慰められ、医師に以下のようにいわれた。

「何をそんなに泣いてるんですか! 障害児だったら要らないから、この検査を受けるんでしょ? どんな子どもも生む覚悟ならこの検査は受けないでしょ? 泣いたって仕方がないことだ。 検査をするのをやめますか!?」

 ともあれ、著者は検査を受け、検査結果を得るまで、うつのような状態だったが、検査結果は正常で生むことにした。そして生まれた子供がダウン症ではなく自閉症だった、という話だ。著者はこのことを事実として淡々と書く。

 そんな風に考えていた母親が今は「勇太くんとの生活が楽しくて仕方がない」というのだから、人生は面白い。

これを読んで思ったのだが、検査を受けて、中絶して、そのことに悩み心のケアを必要としている人はいるのではないか。

そこで消されたいのちがある。本人の選択の責任はないとは言えないだろう。しかし、本人だけの責任ではない。まず、生物学的な父がそこには存在する。

そして同時に、それを選ばせる社会がある。私たちはその社会を変えることができるはずではないか。中絶を選んだ人たちのこころに問題に立ち入ることはできないが、社会は変えられる。

その葛藤を母だけに負わせていいわけではないはずだ。ぼくは偶然、男として生まれ、生物学的な父親になることもなかった。検査を受けるか受けないか、結果によって生むか生まないか、そんな葛藤とは無縁に生きてきた。

あ、まったく無縁でもなかった。40年前の、学生時代、つきあっていた彼女の生理が遅れて検査に行ったことを、いま、急に思い出した。当時、便利な試薬とかあったかどうか覚えていないけど。

いろんな状況の中で生まない選択があり、それはいのちを奪う行為ではあるけれども、ぼくがその選択にかかわらなかったのは偶然でしかない。

そして、そういう場面での葛藤の深度は社会や文化が規定する部分もあるだろう。欧州にはダウン症の子どもが生まれてこの世に生を受ける事が、ほぼなくなった国があるという。そんな社会では葛藤の深さを求めることは難しいかもしれない。

出生前診断の問題で障害者運動にかかわってきた男としてのぼくは「いのちを選別するのはおかしい」と言ってきたし、いまでもそう思うが、出生前診断からの中絶という流れを選んでしまった人とどんな風に向き合うことができるだろう。「いのちの選択はおかしい」ということと、それを選ぶことを担わされた人との溝を埋める努力が必要なのかもしれないと思った。まだ読んでいない児玉真美さんの『殺す親 殺させられる親』というテーマとも重なってきそうだ。

また、ひっかかったのが、232頁。親の会に入ることを強く進めている、ここはいいと思う。しかし、同時に「健常児と交わることをこだわる親」を否定する。こんな風に。

健常児と交わることをこだわる親は、健常児と障害児の違いを思い知らされてつらくなる。福祉サービス、学校、就労、住まいの情報も入ってこない。232p

これもどうかと思った。
自分の子どもの障害のことをちゃんとわかっていて、「健常児と交わることをこだわる親」をぼくは知っている。そういう親はそれなりに増えているように思うのだけど、どうなのだろう。そして、そういう親は情報も持っているし、仮に普通校にいる子どもの親が情報を得られにくいのであれば、そのことが問題なのではないか。


「あとがき」で著者はこんな風に書く。

 私はこれまでに、先天性染色体異常児の家族と、自宅で人工呼吸器をつけている少年の家族に聞き書きをして本を上梓している。 これらの本のテーマはいつでも障害の受容である。本書も、知的障害を伴う自閉症児の豊かな世界を描くと同時に、母親が我が子の障害を受容し、「普通」とか「 世間並み」という呪縛から解放されていく過程を描いたつもりだ。252p

 確かにそういう本ではあるのだが、「受容」とは何なのか、誰が誰に「受容」を求めるのか、そのあたりのことをもっと明確にする必要があるのだと思う。

【「普通」とか「 世間並み」という呪縛からの解放】は必要だと思うが、それには個人の努力だけではなく、社会の変革が伴うことが求められているはず。なぜ、そういう呪縛があるのか、そこの問題を放置したままでは、それらの呪縛からの解放はなかなか難しいのではないか。

 ここに書かれているようなプロセスで呪縛から解放される人がいるのは間違いない。それはそれで大切なことだと思う。でも、それだけじゃ足りない、と思うのだった。


ちなみにここで描かれている立石美津子さんのホームページは
https://tateishi-mitsuko.com/index.html

この本の印象とはずいぶん違って、やわらかい。
写真ではかぶりものとかしてるし(笑)。



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