『清冽―詩人茨木のり子の肖像』メモ

『清冽―詩人茨木のり子の肖像』メモ

読書メーターに前に書いたメモ(いまは変えてる)
~~
高橋源一郎さんが新聞で彼女が韓国語を勉強していたことに言及していた。そのタイミングで大田区所縁だったことを思い出し、東邦大学に確認したら、学生時代はいまの東邦大の場所で学び、近くの寄宿舎に住んでいたという丁寧な返事をもらった。そして、神奈川新聞の人からこの本のことを教えられ、仕事を終えた翌日の土曜日、丸木美術館に向かう途中で読了。端正な文章に昭和の人が香る。清冽な部分以外は人に見せない人だったのだなあと思う。いい本。メモを残すかどうか?
~~

そもそも茨木のり子の詩、教科書に出てるような超有名なものくらいしか読んでなかったことに気づく。っていうか、超有名なものでも知らないのもあった。

この本、まず『倚りかからず』から入っていく。

彼女の詩はたくさんブログなどに引用されているので、テキストを探すのは楽。
以下も、どっかのブログから拾ったもの
倚りかからず

    茨木のり子

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない 
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
 権威についてのみ、「できあいの」ではなく、「いかなる」と形容詞されている。
 あるブログでは、これは「できあいの」が省略されていて、いかなるできあいの権威にも、という意味だと書かれていたが、ここだけ、いかなると変えている意味の大切さはあるんじゃないかと思う。

ただね、強いものや優勢なものや権力に倚りかかるのはやめたほうがいいと思うのだけど、ともだちや仲間には遠慮しないで倚りかかっていいことも多いんじゃないかなぁ。

昨今の自己責任言説をみてると、もっと「助けて」って言っていいし、倚りかかりあえれば楽になるんじゃないかと思えることも多い。
椅子の背もたれ以外にも倚りかかっていいものはけっこうあるんじゃないかと思うんだけど、どうだろう>茨木さん、と聞いてみたいもの。
このあたりが茨木さんの評伝のタイトルが『清冽』と名付けられる所以でもあるんだろうけど。
最後のほうでこの自作詩について、「威張った詩」とか本人が言っている。

朝日新聞で高橋源一郎さんが茨木のり子のことを紹介していたので、
かねてから気になっていた、茨木のり子さんと大田区の関係を東邦大学に聞いたところ、その日のうちに、とても丁寧に答えてくれた。

石垣りんさんがずっと大田区在住だったのは有名な話だが、茨木のり子さんも少なくとも学生時代は大田区ですごされていた。戦後の現代詩を代表する二人の素敵な詩人が大田区ゆかりだったって、すごいことだ。

個人的には勝海舟よりもこの二人を記念する建物か部屋が大田区にあればいいのに、と思う。

以下、東邦大学さんへの質問とその答え。
詩人の茨木のり子さんは記録によると「帝国女子医学薬学専門学校」に在籍されていたことになっています。それに関して、以下、教えていただきたいことがあります。

1、彼女が在籍していた当時のキャンパスはほぼ現在の大森西地区だったのでしょうか?

2、東邦大学に彼女が在籍していたことを記念する何かがありますか?

3、当時、彼女が書いた文章などが残っていませんでしょうか?

4、当時の彼女が住んでいた場所がわかれば教えていただきたいです、

質問は以上です。

大田区に住んでいるものとして、彼女が大田区で学んだというのは、とても素敵なことだと考えているので、お手数ですが、教えていただければ幸いです。
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以下、回答
●この度は学校法人東邦大学サイトよりお問い合わせいただき、まことにありがとうございます。
お問合せの回答
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**様

本学卒業生についてご関心を賜り誠にありがとうございます。

ご質問頂いた4点について、下記のとおり回答いたします。

>1、彼女が在籍していた当時のキャンパスはほぼ現在の大森西地区だったのでしょうか?
 キャンパスの場所は戦前より変わっておりません。茨木氏が在学されていた頃、現在の「医学部本館」の裏に薬学科の校舎がありましたが、1945年4月の空襲で焼失してしまいました。

>2、東邦大学に彼女が在籍していたことを記念する何かがありますか?
 残念ながらございません。(本学の図書館にあたるメディアセンターには、茨木氏の詩集などが所蔵されているようです。)

>3、当時、彼女が書いた文章などが残っていませんでしょうか?
 学内広報誌など、当時の資料を探しましたがございませんでした。

>4、当時の彼女が住んでいた場所がわかれば教えていただきたいです
 戦前の本学の生徒は、基本的に寄宿舎で生活をしておりました。この寄宿舎も1945年4月の空襲で焼失しましたが、現在の鶴渡公園のあたりに位置していました。おそらく茨木氏も入学当初はこちらで生活していたものと考えられます。

 しかし、薬学科の生徒は学徒動員によって1944年頃より全国各地の製薬会社や軍需工場に派遣されていました。茨木氏は3年生の夏に終戦を迎えていますが、その時は世田谷の海軍療品廠に動員されていたようです。すでに寄宿舎は焼失していますので、この時住み込みだったのか、もしくは知り合いの家に下宿していたのか、こちらについては不明です。

 戦後、学校を復興するにあたり、現在の大田区女塚にあった中央工業(軍需工場)の社員寮を借用し、本学の寄宿舎とした時期があります。茨木氏の生涯について書かれた後藤正治氏の『清冽詩人茨木のり子の肖像』(中央公論新社、2014年)に、この寄宿舎の話が少しだけ出てきましたので、茨木氏もこちらで1946年秋の卒業まで過ごしたものと考えられます。

もし他に不明点などございましたら、額田記念東邦大学資料室までご連絡いただけますと幸いです。

よろしくお願いいたします。

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学校法人 東邦大学
この学校に入るいきさつ、この本には以下のように書かれている。
・・・子供の進路は父が決める時代であった。

 自身の青春期を回想した「はたちが敗戦」で、茨木はこう記している

《父は私を薬学専門学校に進めるつもりで、私が頼んだわけではなく、なぜか幼い頃からそのように私の進路は決まっていた。父には今で言う「女の自立」という考えがはっきり在ったのである。女の幸せが男次第で決まること、依存して男性との別離、死別で、女性が見るも哀れな境遇に陥ってしまうこと、 それらを不甲斐ないとする考えがあって、「女もまた特殊な資格を身につけて、一人でも生きぬいてゆけるだけの力を持たねばならぬ」という持論を折にふれて聞かされてきた。「女の問題」を自分で考える以前に、年端もゆかない子供時代から、いわば父によって先取りされていたのである》

・・・中略・・・

 父の敷いたレールに乗って薬学を学び始めた茨木であるが、まるで向いていない世界であった。

《それでも入学して一年半くらいは勉強できて、ドイツ語など一心にやったが、化学そのものはちんぷんかんぷんで、 無機化学、有機化学などは私の頭では10で受け付けられない構造になっていることがわかって、臍かむ思いだった。教室に坐ってはいても、私の魂はそこに居らず、さまよい出て外のことを考えているのだった。(略)私は次第に今でいう〈落ちこぼれ〉的心情に陥っていった》

立花隆ゼミのインタビュー集『二十歳のころ』では「化学ができないっていう自分自身への絶望と時代の暗さへの絶望」から「ときどき自殺を考えていました」と語っているとのこと。絶望的な時代に大田区では暗く過ごしていたようだが、同級生や同室者との楽しい時間とか、蒲田での遊びとかなかったのかと思う。梅屋敷や本門寺も近いのだけど。

ちなみにこの東邦大学、番地は大森西だが、大森よりも蒲田のほうが近いところにある。

76頁には軍国少女だったころの思い出が記載されている。1941年、太平洋戦争に突入した年、西尾高等女学校の3年で全校生徒の中から中隊長に選ばれ、分列行進の訓練で号令と指揮をとらされていた思い出。
  かしらァ……右ィ

  かしらァ……左ィ

  分列に前へ進め!

  左に向きをかえて 進め!

  大隊長殿に敬礼! 直れ!


 私の馬鹿声は凛凛と響くようになり、つんざくような裂帛の気合が 籠るようになった。そして全校400人を一糸乱れずに動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。・・・

『はたちが敗戦』から
軍国少女と言えば、北村小夜さんを思い出す。 すごく似たものを感じる。ちなみに小夜さんが1歳年上。

また、この本にはこんな記述もある。
 戦況は悪化していく。

 学生寮の食事も日に日に乏しくなり、 食べ盛りの娘達は空腹を満たすため、 どこそこの大衆食堂が開いていると耳にすると誘い合わせて走り、京浜工業地帯で働く人々と一緒に長い列に加わった。77p
当時、蒲田・大森あたりにどんな大衆食堂があったのか気になる。これはどこの資料から持ってきたのだろう。


夕鶴で有名だった女優の山本安英さんは茨木のり子さんをこんな風に書いている

「・・・あまりにも、ちゃんと生きていこうとする人である、ということを私はどうしても言いたくなってしまうのです」

それを受けて、この本では以下のように書かれている。

 人はだれもなにがしか天賦のものを授かってこの世に現れてくる。茨木のり子の場合、詩才もさることながら、それは自身に忠実に生きんとする姿勢への意志力であったように思える。104p
ここを音声入力しながら、遠い人だと思わずにはいられなかった。

111pでは、「1950年代は現代詩の黄金時代だった」と書かれている。
そう、「下丸子文化集団とその時代」も50年代だ。
この同時代の連関のなかで、働く者たちの文化運動も花開いたのだった。
50年代という詩の時代が再び訪れることはないだろう。そこに何があり、何が失われたのか、もう少し考える余地がありそうだ。

茨木のり子の最初の詩集のタイトルは『対話』、そして、この本の著者は以下のように書く。
・・・。茨木の詩は独白(モノローグ)であるよりもダイアローグであることを特徴とした。問いのベクトルは第一に自身に向けられ、それが結果として読者に〈わがことのように〉伝播する作用を果たす。詩人・茨木のり子の根幹をなすモチーフが〈私を生きる〉、裏を返せば〈あなた自身であれ〉であることを思えば、構造とモチーフの双方から、処女詩集はその後の茨木の詩世界を十全に暗示している。118p

第8章のタイトルは「六月」
ネットで検索すると、茨木のり子が1956年に書いた「6月」という詩について書いたものがいくつかでてくる。徐京植(ソ・ギョンシク)さんが茨木のり子を論じたエッセーも。

しかし、ここでとりあげられるのは、その「6月」ではなく、60年安保闘争を描いた「ある年の六月に」

以下にこの本から引用
ひとびとも育つ
明石家や泰山木のように
あるとき 急速に

1960年の雨季
朝の食卓で 巷で 工場で 酒場の隅で
やりとりされた言葉たちの
なんと 跳ねて 躍ったことか

魚籠より溢れた声たちは
町々を埋めていった
おしあい へしあい
産卵期の鮭のように

海に眠る者からの使いのように
グアム島から二人の兵士が帰ってきた
すばらしい批評を信じのように吐きちらし

ひとびともたしかに育つ
ひそやかで隠微な一つの法則
それを見た あるとしの六月

(1960年7月4日付朝日新聞に掲載)
そして、彼女が「現代詩」という雑誌に掲載した(というか掲載するために書いた)「怖いるべき六月」という日記も紹介されている。

150pから引用されているのは「現代詩手帖」61年3月号に掲載された「時代に対する詩人の態度」
こんなフレーズがある。
 あたうかぎり、自分の生きる時代と深くかかわってゆきたい。それも言葉で言うほど簡単ではないに違いない。時代の心臓は深くかくされている。
 デモに参加して以後、だいぶいろんなレッテルをはられたようだ。「進歩的文化人づら」「左派詩人」
 おお! じまんじゃないが資本論も読んだことのない者が、左派詩人のなかに入れてもらえるなら、まったく入れてもらいたいものだ。進歩的文化人づらというのはどういうのだろう? 馬づらみたいなのかしら?
 旅行鞄のラベルは賑やかな方がいい。「ミーチャン、ハーチャン」とでも「詩人にあらず」とでも、いろどり豊かにはってもらいたいものだ。(152p)
このテキストはhttp://mokuou.blogspot.com/2016/05/1960353419633837.html から借用。
いま、時代と向き合う詩人が減っているのか、それとも、そのような詩人がメディアにとりあげられないのか、
あるいは語るに足りる詩人があまりいないのか、
ともかく、そういうものと出会うことはあまりないような気がするが、・・・。

そう、そもそも詩人として食べている人がとても少ない、ということもあるのだろう。
例外的に詩で食べていると言えば、・・。
そういえば、この本にも出てくる谷川俊太郎さんは先日、丸木美術館のイベントにも出演してくれた。

最果タヒさんも自分の方法で社会と向き合っているのか、よくわかんないけど・・・。
五行詩の岩崎航はいのちと向き合いながら自分の生きる時代と深くかかわっている。
そう思い出すと、時代にかかわらずに詩など書けるわけないのだろうが、それでも、そんな印象が残るのは、ストレートに政治に向かうことを委縮させるような社会があるからなのかもしれない。


彼女の最長の詩は「りゅうりぇんれんの物語」。47頁あるとのこと。第三詩集『鎮魂歌』に収録。(ちなみに上記の「ある年の六月に」もこの詩集に)

「劉連仁、戦時中日本軍によって強制連行され炭鉱労働者になり、終戦のひと月前に炭鉱を脱走。以降、日本の敗戦を知らず、13年間、道内の山中で逃避行を続けた。穴ぐらに潜んでいるのを発見され、保護されたのは1958年」。この本から抜粋したが、ぼくの記憶にもなかった。裁判のニュースなどは見ているはずなのだが。

2001年に童話屋から復刊されたその詩集の あとがきが引用されている。
・・発見された時、新聞の報道は大々的で、当時誰もがこのニュースを知っていた。その渦中であえて書く必要があるだろうか?という逡巡もありながら、内面から衝きあげてくることがあって、どうしても書かねばならぬという思いに従った。
 人間の記憶の風化はおそろしく迅い。今頃になって、「これは現実にあった話なんですか?」と、半信半疑の様子で、質問してくる人が多くなった。
 やはり書いておいてよかったのかもしれない、(中略)
 1945年8月15日の日本国の負けっぷりの悪さが、今に尾を引いていると思い知らされることが実に多い。・・・154p
昭和天皇の戦争責任発言への直截的な憤りも詩になっている。
四海波静

         茨木のり子

戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます

思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑(えら)ぎに笑(えら)ぎて どよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタカタカタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘
1975『ユリイカ』11月号(1977『自分の感受性くらい』花神社、所収)
このテキストは http://www.toburoso.org/sikainamisizuka.htm から
この昭和天皇言葉の使い方、誰か似ている。そうだ、安倍晋三と菅官房長官。
あえて、質問の意味をずらし、はぐらかす。こんなことに怒る人間が少ないということまで似ている。1975年のこの記者会見から50年以上も経過しているのに。
と思ったら、著者も似たようなことを思っていたらしく、この本を書いたタイミングとして、そこから30年を経てさらに劣化している姿が書かれている(158p)が、そこからさらに15年を経て、もうこれ以上ないくらい劣化しているように思える。

そして、この詩を書いた気持ちについて、以下のように書いている、とのこと。
 かつての戦争で私は近親の誰をも失わなかった。けれど、もし、仮に私が戦争未亡人で遺骨さえ手にしておらず身であったとしたら、この記者会見をテレビでみて、天皇に対してどんな激烈なことでもやってのけられそうな気がした。少女時代にはよくわからなかった戦争未亡人の思いというものが、ひしひしとわかる年代に私も達した。

 しかし、 ジャーナリズムの反応も、民衆の反応も、びっくりするぐらい生ぬるいもので、「大天狗め!」頼朝級の、記憶に残る野次一つ飛ばないのだった。私は長く詩を書き続けてきたものだが、この天皇の言葉(それが側近の作製になるものであったとしても)を見逃すことができず、野暮は承知で「四海波静」という詩を書かずにはいられなかった。

(「いちど視たもの」共著『女性と天皇制』 思想の科学 1979年収録)  この本では157p
そして、この詩について、この本の著者は以下のように書く。
 この詩が重たい響きで残るのは、「頼朝級の野次ひとつ」飛ばさないジャーナリズム、さらにその背後にある「黙々の薄気味悪い群衆」という句がある故もある。

 戦争への”筆頭責任者”が昭和天皇であったとして、それに対置する”無垢なる民衆”という構図で戦争を押さえることを茨木はしていない。”銃後の守り”についていた女性たちを被害者として無罪放免することもしない。

《それで何かにつけ男性対女性という敵対関係では捉えられず、女の問題は男の問題であり、男の問題は女の問題であるという、いわば表裏関係が私の頭の中には形づくられているようなのだ。

 たとえば戦争責任は女には一切関係ないとは到底思えず、今尚日本がダメ国ならばその半分の責任は女性にあるというふうに》(「はたちが敗戦」)(この本では158p)
「清冽な人 茨木のり子」を印象付けるエピソードではある。ここで思ったのだが、彼女の清冽な部分が強調されすぎているのではないか。確かに清冽な部分が際立つ人だったと思う。しかし、人間は清冽だけでは存在しえないのではないか。彼女の清冽ではない部分を含めて、描き出すことで、その清冽さを見出すことができるかもしれないと思うのだった。

 とはいうものの、彼女個人をぼくは知っているわけではないし、その作品世界にちゃんと触れたわけでもない。意志の力で人間のどろどろした部分を表に出さずに生きていくことができたひとだったのかもしれないと思い直す。

それにしても気になるのは「頼朝級の野次」というフレーズ。これが気になるのはぼくだけではないみたいで、検索したら、以下のものがでてきた。http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-331.html 真偽は定かではないが。


また、岸田吟子は茨木を「古代ローマのギリシャ彫刻に見るような」と表現したらしいが(159p)、そういう人もいるのかもしれないと思った。ところで、どうでもいいような話なんだが、古代ローマでギリシャ彫刻ってどうしてだろう。ローマはローマ、ギリシャはギリシャじゃないのか?

そして「木の実」という詩、木の実に見えたものが実は日本兵の髑髏だったという詩なのだが、この煮え切らない終わり方について、戦争への批判を単に日本帝国主義を弾劾して終わらせることのできない表現ではないかと著者は問う。
この詩もインターネットで簡単に探せる。
「木の実」(茨木のり子)


高い梢に
青い大きな果実が ひとつ
現地の若者は するする登り
手を伸ばそうとして転り落ちた
木の実と見えたのは
苔むした一個の髑髏(どくろ)である

ミンダナオ島
二十六年の歳月
ジャングルのちっぽけな木の枝は
戦死した日本兵のどくろを
はずみで ちょいと引掛けて
それが眼窩(がんか)であったか 鼻孔であったかはしらず
若く逞しい一本の木に
ぐんぐん成長していったのだ

生前
この頭を
かけがえなく いとおしいものとして
掻抱いた女が きっと居たに違いない

小さな顳顬(こめかみ)のひよめきを
じっと視ていたのはどんな母
この髪に指からませて
やさしく引き寄せたのは どんな女(ひと)
もし それが わたしだったら・・・・・・

絶句し そのまま一年の歳月は流れた
ふたたび草稿をとり出して
褒めるべき終行 見出せず
さらに幾年かが 逝く

もし それが わたしだったら
に続く一行を 遂に立たせられないまま
(茨木のり子詩集 『自分の感受性くらい』 より)
そして、最後の1行が置けず、そのままで投げ出さざるを得なかったせいか、青い頭蓋骨が胸に棲みつき、折りに触れ、いまだに対話を挑んでくる、と茨木は書いている、とある。

また、1991年のボストンフィルの演奏会での君が代演奏で立たなかったエピソードの後に以下の詩が紹介されている。
鄙(ひな)ぶりの唄/茨木のり子

それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動でうたわなければならないか
聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています

演奏なくてはさみしい時は
民謡こそがふさわしい
さくらさくら
草競馬
アビニョンの橋で
ヴォルガの舟唄
アリラン峠
ブンガワンソロ

それぞれの山や河が薫りたち
野に風は渡ってゆくでしょう
それならいっしょにハモります
  〽ちょいと出ました三角野郎が
八木節もいいな
やけのやんぱち 鄙ぶりの唄
われらのリズムにぴったしで

「鄙ぶり」という言葉を知らなくて、調べた
goo国語辞典のひとつめでは
「田舎めいていること。また、そのもの」とある。
よくわからないが、勝手に思う。田舎めいていて、頑固で曲げない姿か?


第九章 一億二心

一億一心の怖さ、自らが軍国少女だった反省を経て、そうではなかった例として、この章ではまず、茨木と金子光晴の連関が書かれている。だから一億二心なのだが、二って、少なくないかなぁ(笑)。ともあれ、金子の長編詩「寂しさの歌」の抜粋が7頁にわたって引用されている。茨木のり子の評伝で金子の詩を一気に7頁ってすごい。そもそも茨木の詩だって、そんなに長くは引用されていない。しかし、この長編詩を茨木は『詩のこころを読む』で全文引用しているとのこと

茨木は第二次世界大戦時における日本とは何だったのかなぜ戦争をしたのかを問い、本を読んでも記録を見てもよくわからない、頭でもわからないし、まして胸にストンと落ちることはない。東洋各国との戦争は侵略であることがはっきりしたが、アメリカとの戦いはなんだったのか、全体は実に錯綜していている、として、こんな風に書く。
・・・そんなわけのわからないもののために、私の青春時代を空費させられてしまったこと、いい青年たちがたくさん死んでしまったこと、腹が立つばかりです。

 私の子供の頃には、娘を次々売らなければ生きてゆけない農村地帯があり、人の恐れる軍隊が天国のように居心地よく思われてしまうほどの貧しい階層があり、うらぶれた貧困の寂しさが逆流、血路をもとめたのが戦争だったのでしょうか。貧困のさびしさ、世界で一流国とは認められないさびしさに、耐えきれなかった心たちを、上手に釣られ一にぎりの人を者たちに組織され、内部で解決すべきものから目をそらされ、他国であればいつの日か良い暮らしをつかめると死にものぐるいになったのだ 、と考えたとき、私の経験した戦争(12歳から20歳まで)の意味がようやくなんとか 胸に落ちたのでした》(『詩のこころを読む』から、この本では177p)
一握りの人たちの金儲けと、内部矛盾を隠すための方策に、憎悪を掻き立てられ、国全体がその気になっていくプロセス。しかし、それにしても、なぜ、どう考えても勝ち目のない戦争に踏み込んでいったのか、というような理性の考えられないプロセス。しかし、この間の朝鮮半島憎悪を掻き立てるような政治プロセスとそれにのせられる人びとの動きを見ていると、そういうことはあるかもしれないと思うのだった。

また、身近なところでも、自分たちの都合の悪いことに蓋をし、隠し、なかったことにしようとする、そんなことが横行していないか。
そんなことを思った。

この章では続いて『詩のこころを読む』で紹介されている河上肇への言及がある。彼が詩を書いていたことをぼくは知らなかった。この本の著者も茨木の本を読むまで知らなかったとのこと。再び、インターネットでテキストを拾ってきた。
旧い友人が新たに大臣になつたといふ知らせを読みながら

私は牢の中で
便器に腰かけて
麦飯を食ふ。
別にひとを羨むでもなく
また自分をかなしむでもなしに。
勿論こゝからは
一日も早く出たいが、
しかし私の生涯は
外にゐる旧友の誰のとも
取り替へたいとは思はない。

189pから、茨木が死後、出版するよう準備していた”愛夫詩集”『歳月』のことが紹介される。
本人は「出版されたら、私のイメージは随分と変わるだろうけど」と言っていたとのこと。
彼女の”行儀の良さ”を批判していた谷川俊太郎はこの『歳月』をもっとも高く評価している、という。彼のこんな発言が紹介されている。
「一編一編がいいというより、トータルとしていい。一個の人間、一個の女性であることがにじみ出ている。へえ、茨木さんもこんな言葉を使うんだ、という驚きですね。これまで閉ざしていた無意識下の一部・・・。でも茨木さんらしくまだまだ控え目で可愛い出し方ではありますけれどもね」192p
203頁では最初に紹介した高橋源一郎が朝日新聞の記事にした韓国に関する話がでてくる。
その高橋源一郎の記事では以下のように紹介されている。
・・・茨木のり子に「ハングルへの旅」という本がある。50歳になった茨木は突然、韓国語を学びはじめた。すると、周りのみんなが異口同音にこういったのだ。

 「また、どうしたわけで?」

 明治以降、目は西洋に向け、東洋は切り捨てる。こんな国家の方針に、人びとは何の疑いもなく従ってきた。だからこそ「また、どうしたわけで?」となるのだろう。そう嘆きながら、茨木は、自分が韓国語を学び始めた理由を、いくつもあげていき、最後にこういうのである。

 「隣の国のことばですもの」
209頁からは尹東柱(ユンドンジュ)への茨木の思いも『ハングルへの旅』から紹介されている。

また、同じ本から浅川巧という人のことも。朝鮮半島の緑化事業につくし、朝鮮服を愛用し、古い陶磁器への造詣を深めて本も出しているとのこと。
その朝鮮総督府の下級官吏だった彼に関して、こんな風に書く。
 ・・・、明晰な論文や弾劾文の発表すること、政治運動をすることだけがすべてではない。その時々の現象的な運動にかかわるだけがすべてではないだろう。言葉少なに、自分のできる範囲内でまわりに尽くし、黙って死んでいったその生きかたには、なぜか私は強く惹かれる。(この本では216p)
この本の著者も茨木が「自身もかくありたい、そう語っているようでっもある」と書く。そうなんだろうと思う。しかし同時に、ストレートな政治運動が必要だというのも間違いのない話であるはず。

222pからは「自分の感受性くらい」や、詩の印象と本人の印象の違いについてラジオ番組で語っていることが紹介されている。
印象の違いについてはこんな風に
〔「倚りかからず」の朗読を聞いておりますと、なんて威張った詩を書いたんだろうと恥じ入っております(笑)。随分と言葉を削った記憶があるんですが、削るとどうしても言葉が強くなります。谷川(俊太郎)さんに言われたことがあるんです。 詩の言葉だけであなたを見るととても怖い人だと見えるよって(笑)。でも本人を知っているから別だけどねって。」

一番最後の方で石垣りんが紹介される。「茨木が同時代の女性詩人として最も高く評価したのは石垣りん」だったとのこと。245p
お嬢さん育ちの茨木のり子と、その対極にある育ち方をした石垣りん。「その点にかかわって、茨木には石垣への畏敬の念があったようにも思える」と著者は書く(247p)

たぶん、長く大田区に住み続けた石垣りん。茨木の学生時代も大田区にいたはず。その接点の話も二人は交わしていたかもしれない。

正月休みを使って、長い読書メモを書いた。
正月休みじゃなかったら、書かなかったかもしれない。




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