たこの木通信21回目(2019年11月)での岩橋さんとのやりとり

たこの木通信21回目(201911月)で たこの木の岩橋さんからオープンダイアローグについて以下のような疑義が出たので、たこの木通信誌上でやりとりしたものを岩橋さんの許可をもらって、岩橋さんからの投げかけとともに掲載。

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《tu-taさんへ 「ほんの紹介」を読んで思った事》

 tu-taさん。

「本は読めないけど短い書評ならば」と依頼して5年近くになったとは驚きです。「リアクションがない」との事ですが、けっこう楽しみにされている方は多いので、引き続きよろしくお願いします。

 さて、9月・10月号で取り上げられた『オープンダイアローグがひらく精神医療』(斎藤環著)に関して、「本が読めない」私ですが本の内容とは別に、オープンダイアローグ以下OD)を巡る賛同と疑問が届いています。私自身もいろいろ疑問を抱いているので、著者はその疑問になんと書いているかをぜひぜひ教えて頂ければと思います。

 私自身ODという言葉を知った時、これはとても重要な取り組みであり、精神医療に携わる人たちがその事を声に出し取り組み始めたのは画期的と思いました。又、その内容を我が身に引き付けどのように展開できるだろうかと考えました。それはたぶん9月・10月号のtu-taさんのトーンと同じに思います。

 ところが、ODについて私が抱いた事にはどこか誤解があると知った時、その評価はかなり変わりました。

疑問①「オープンと言う時、どこに開かれているのでしょうか?」

私は、ODで言う所のオープンを「地域に対し開かれたもの」と受け取り、それは正にたこの木が取り組んできた事だと思っていました。ところが、ODの目的は「治療」であり、普段から孤立している当事者や家族の急性期状態にあって集められる「様々な人」の実際は「様々な専門家」でしかなく結果的に閉ざされているように思います。

疑問②「ODは当事者が置かれている環境や周囲との関係性や社会の価値観をどこまで見据えているか?」

 では、なぜ「様々な専門家」になってしまうのか?前の東京オリンピックの際、三多摩地区(山の中)に多くの精神科病院が建てられ多くの精神障害当事者が収容されました。個人の「病」ではなく社会の状況によって入院を強いられている現実。ODが「様々な人との対話」を重視する点を評価できても、対話の相手の価値観や社会の状況をどのように見据えているのか?結局は、対話ではなく複数の指導体制を築く結果になりはしないだろうかと思ってしまいます。

疑問③「病状の改善」と「暮らしの支援」はいかに?

近年精神当事者との付き合っていると「病」とは何かと疑問が膨らみます。本人の苦痛が本人に寄るならばまだしも、社会での生きにくさは社会が変わらなければならないはずなのに、「治療」という名目で本人が現状を引き受ける事を強いているに感じます。

変わらない社会の中で暮らす上では、「支援を使う」と言う事が重要に思いますが、「治療」を目的としたODは、その後の「支援」についてどう考えているのか?

その他いろいろ疑問があるのですが、ぜひ本の内容を教えて頂けると幸いです。

(※ODに対する評価は、今度会った時にでも「対話」できればと思います…(笑)(笑))




オープンダイアローグ、岩橋さんの疑問を考えてみた

(「ほんの紹介してない」21回目)


今回、岩橋さんにお願いして無理やり感想を書いてもらいました(隣の頁)。ありがとうございます。いろんな角度からオープンダイアローグ(OD)のことを見ていくこと、大切だと思うのです。いっしょに考えるスタンスで岩橋さんからの疑問について以下に書きます。

岩橋さんの最初のイメージについて

まず、岩橋さんがODに関して、最初に抱いた肯定的な感触、すごく大切だと思うのです。地域にその当事者をとりまく多彩な人たちがいて、そういう人たちに開かれた対話の中で、本人が回復していくイメージ。それは当然、OD後の生活にも直結するはず。そして、ODの7つの原則には「社会的ネットワークの視点を持つ」というのが含まれていて、「つながりのある人々を皆、ミーティングに招く」とあります。ODの開かれたイメージをそこまで広げて考え、実践のありようを模索することこそが求められているように思います。これが前回紹介したODの世界観と実践をつなげることなのではないかと思うのです。フィンランドでの実践がどのように地域に開かれているかは実際、現地で学んだ人に聞いてみたいと思います。

また、岩橋さんの指摘の通り、専門家や福祉関係者以外に対話に参加できる人がいない現状は多そうです。だとしても、3分だけ話を聞いて、服薬しかせず、地域での生活支援の組み立てについては「私の仕事ではない」という精神科医療関係者が多い中で、その診療の在り方が変わることはドラスチックな変化と言えるのではないかと思うのです。

そして、本人の生活にかかわろうとする市民団体に、本人の承諾のもと、開いていくような変化がなければ、それはODと呼べないというのは、前に紹介したOD導入が要請するのは、ほとんど『精神医学のパラダイムシフト』に等しい変化であり、全く異質な治療文化であることを踏まえずに表層的な技法論にとどまるのであれば、 ODが本来持っている可能性は減殺されてしまいかねない」という話なのではないか、もっと言うと、必然的に減殺してしまうという話だと思います。ODでは日本の精神科医療とは違い、治療の話だけではなく、福祉や生活の話がされているという紹介を読んだ記憶があります。

ここでも大切なのは、そのパラダイムシフトをどのように、どれくらいの早さで実現できるのか、ということだと思います。「精神科医にピストルを持たせろ」と言うような医師が会長を務める精神病院の団体が大手を振っているような状況があります。そして、行政はそれを見て見ぬふりをしている以上に、その体制を維持しようとしているのではないかと思えることも少なくないような状況があります。それを変えていくためのロードマップのようなものを準備する必要があるのかもしれません。

ODを生かす日常の取り組みが必要

この指摘を読んで「さすがに岩橋さんだなぁ」と思ったのでした。対話によって回復しても、生活の場所が閉じられていたら、病気の再発は早そうです。対話だけでなく、治療後の本人の生活の場を開いていくことが求められていると思うのですが、ぼくはそれに関する記述を読んだ記憶がありません。大切な話なので、誰かがどこかで書いていると思うので、これも聞いてみますね。この話も、パラダイムシフトを要請するような話かもしれません。

欧米と日本の家族の違い

日本(あるいはアジア)的家族特有の「湿度の高さ」というのはあると思います。そして、それは対話にも影響するはずです。しかし、そのことが対話にどう影響するかという記述を読んだ記憶はありません。ぼくが読み落としている可能性も高いのですが・・・。あらら紙幅が尽きました。今回ここまでス。     tu-ta(福祉工場/PP研/丸木美術館)

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とても重要な点を書き忘れていたことに、いま気がついた。
そう、ODの目的は治療ではない。治療は副産物としてついてくる、という話だ。
ODの目的は対話を続けること、ちゃんと話を聞く対話を続けること。

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