『新版障害者の経済学』メモ

『新版障害者の経済学』 中島 隆信著 2018年4月13日 発売

最初に読書メーターに書いたメモ

前の本 https://tu-ta.at.webry.info/201108/article_13.html より格段に共感できる。微妙な感じはあるが慧眼だと感じたのは以下「優性思想はあえて持つものでもないし、克服するものでもない。人間の置かれた状況によって知らないうちに自然と出てくるものである。犯行動機がどうあれ、それに共感する意見があったとしても、私たちの社会に”社会的弱者”と共生できるだけの経済的そして精神的な余裕があれば、魔物を封じ込めておくことが出来る」 わかりやすい経済学者ならではの視点と言えるかも。



霞ヶ関官僚による書評
https://www.j-cast.com/trend/2018/07/12333692.html

ここに書いたコメント

昨今、忖度ばかりして情報は隠し改竄するというとても評判の悪い『霞ヶ関官僚』が読む本と銘打たれた官僚による書評。しかし、そつなくまとめられており、ダイジェストとしてもよくできた書評だと思う。それはこの本のロジックが官僚にも受け入れられやすいものでもあるからだろう。ただ、現在の硬直した官僚組織にはこの提案を受け入れる度量がどれだけあるのか、疑わしい気もするが。

現状の政権が変わらなければ、こんな風に理解力のある官僚もどんどん腐っていくだけなんじゃないかという危惧も残った。



目次

はしがき

序章 なぜ「障害者の経済学」なのか

第1章 障害者問題の根底にあるもの

第2章 障害者のいる家族

第3章 障害児教育を考える

第4章 「障害者差別解消法」で何が変わるのか

第5章 障害者施設のガバナンス

第6章 障害者就労から学ぶ「働き方改革」

終章 障害者は社会を写す鏡

あとがき

29頁で著者はB型事業所について、平均20日通ったら、施設が得られる報酬は11万6千円であり、利用者が得る工賃の平均額が1万6千円であることを指摘し、当事者がその金額を現金で支給することを求めても得られない、これを奇妙な現象としたうえで、以下のように書く。

・・・。もし、施設に通ってわずかな給料をもらうことよりも、より楽しく有益な有料サービスがあるならば、そちらを選択した方が社会全体の効用は増えるはずだ。このように、福祉サービスという画一化された”杖”の存在によって、障害者が実際にどのようなニーズを持っているかは極めて見えにくくなっているのである。29p


ここをフェイスブックで紹介したとき、岡部さんからつっこまれた。

岡部 耕典

 で、つるたさんはどう思うんですか?


鶴田 雅英

 自分たちの仕事のこと、ときどき、このことを考えます。

そして、家族から直接、言われることもあります。

税金を使う意味のあるサービスを提供できているか?

職員の飯のタネになることがメインになっていないか?

意味がありそうだと思えるのは

1、就労移行には2年という年限があるので、2年では就労につなげるのが難しい人を就労につなげることができた場合

2、受け入れられ、そこで存在が承認されるコミュニティが必要な人のコミュニティであること

~~~

にしても、ダイレクトに支払われること以上のことができているかどうか、常に問われているという自覚は必要なのだろうと思っています。

また、34頁では。福祉施設でセックス/マスターベーションのやりかたを教えることは御法度であると書かれているが、これは根拠がないだろう。もちろん、ほとんどのところで教えてはないが、禁じられていいるわけではない

40頁注(6)によると、2017年9月25日のクロ現で施設職員が否定的な発言をしたから、とのこと。そんな職員は少なくないかも。しかし、「御法度」は言い過ぎだろう。

36-37pのコラムAで、「障害者差別解消法」と「社会モデル」は論理矛盾を起こしていると以下のように書かれている。

「社会モデル」のの考え方によれば、社会による障壁が除去されれば「障害」もなくなるはずだが、「解消法」では「障害」を理由とする差別を解消し、「障害」の有無による分け隔ては止めるように書かれている。つまり、基本理念として「配慮」によって「障害」を消し去ることを目指すはずの法律が、「障害」の存在を前提とした条文になっているのである。
 このような論理矛盾が生じる理由は、「障害」のとらえ方に「医学モデル」と「社会モデル」の考え方が混在しているためである。(以下略)

はたして、本当にそうか。ここでの、「社会のバリアをなくせば、障害はなくなるはず」という社会モデルの理解はあまりにも表面的なのではないか。

障害者の障害の多くは社会の側が作り出しているという話はあるが、すべて社会が作り出しているわけではないというのは自明な話なのではないか。

とはいうものの、医学モデルに基づく障害分類によって障害福祉サービスが支給されていることの問題が指摘されており、そこはそのとおりだと思う。以下のように書かれている。

・・・現代社会では生きづらさを抱えた人も多様化している。・・・単純な”医学モデル”にはあてはまらない社会適応の難しい人たちは世の中にいくらでもいるのである。

 こうした人たちにとって使いやすい福祉サービスは、あらかじめカテゴライズされた機能不全に基づいて画一的に提供されるものではなく、生きていく上で”何に困っているか”を素早く察知し、困難をもたらしている障害を取り除いてくれるものでなければならない。そして、想定していたレールから外れてしまっても、弱者として保護するのではなく、同じレールに戻るか別のレールに乗れるように支援する福祉サービスでなければならない。

 私たちの社会には、はじめから障害者という特別な存在がいたわけではない。障害者を生みだしているのは私たち自身であるという気づきが、障害者問題を取り組む上での第一歩なのである。38-39p

【あらかじめカテゴライズされた機能不全に基づいて画一的に提供されるものではなく】、違うサービスが必要であり、最後の【障害者を生みだしているのは私たち自身であるという気づきが、障害者問題を取り組む上での第一歩】という部分はその通りだと思う。

しかし、ここでも単純化しすぎている面があるようにも感じる。社会が生み出す障害と、そうではない障害をちゃんと区別すべきではないか。

そのうえで、【生きていく上で”何に困っているか”を素早く察知】の【素早く】が気になる。何に困っているかを知る必要はあるが、それは【素早く察知】するようなものではないはず。時間をかけてなるべく本人が気づけるようにしていくべきものではないか。また、取り除ける障害もあるが、取り除けない障害もある。大切なのは、福祉の側が素早く察知し、取り除くことではなく、時間がかかっても、 出来得る限り、本人が気づくように支援し、本人が中心にいて取り除くことを支援していくことなのだと思う。 

社会が作り出している障害だが、その障害を当事者一人ひとりが(ときに支援者といっしょに)、取り除く主体になり得るのだという部分を抜きに、【障害を福祉が素早く察知し、取り除いていく】ということの弊害がでてきているようにも思うがどうだろう。

次に気になったのが、第1章の注(2)40p

ここで、障害者の「基礎年金を増額せよ」というデモがないのは【年金の増額を求める行為は、”分不相応”だとみなされかねないと認識しているからかもしれない】(41p)と記載されている。デモがないのは確かだ。しかし、分不相応と考えているからというよりも障害者年金として、適正な金額はいくらなのかという議論がないからというのが大きな問題なのではないか。

68p~始まる節のタイトルは『親の自立が子どもの自立を助ける』というもの。

ここで、親の『こどもに**を出来るようにさせたい』という思いを否定することがすすめられる。仏教の”少欲知足”という言葉が引用され、以下のように書かれている。

 私は”こだわりを捨てる”ことは”吹っ切れる”ことだと考えている。それは突き放すことでもなく、ほったらかすことでもない。子どもの障害を受け入れ、その存在を認めるということである。69p

そして、この章の最後のほうでは以下のように書かれている。

 障害者の自立のために私たちがまずすべきことは、障害児を持った親の”精神的自立”と”経済的自立”である。71p

中島さん本人が親だから、こんな書き方になるのだろうが、自立できるのは本人だけ。親以外の人ができるとしたら、自立支援なんだが、親向けの自立支援の仕組みって、どんな感じかな?


第3章のテーマは障害児教育

肢体不自由児の特別支援校の運動会について、それは聴覚障碍者の聴力競争や、知的障害者の学力コンテストと同じだと書かれている。こんなことに教育効果はないと。

そして、ここには書かれていないが、それが公開で行わることがまた問題だと誰かが言ってた。

また、東京都の知的の支援校の高等部に設置されている「職能開発科」について、できる子を入学させ、100%就労したと自慢してもダメじゃないか、出来ない子を就労させることに力をそそぐべきではないか、と書かれる。82-84p

ぼくも個人として、高校は職業のための予備校ではないのだから、インクルーシブで、高校教育のなかでしか、出来ない教育目標を設定し、高校ではその目標に向けた教育を行うべきなのではないか、と思う。就労を視野に入れた科目があってもいいが、いまはそこに特化しすぎているようにも感じて、足りない就労支援は専門機関にまかせるのも方法ではないかと思った。

そして、この本のコラムでは、神奈川ではそのような取り組みが行われていることが紹介されている。 https://www.jiji.com/jc/article?k=2019110100844&g=soc 2020年1月にアクセス 末尾にテキスト

この記事を見れば、コラムに書いてあることがよりよくわかるが、記事に書かれていないことで、上記のぼくの指摘とも重なることが書いてある。(上記はこのコラムのことを忘れていた段階で書いたのだが、もしかしたら、ここに書いたことが潜在的に頭に入っていたかも)

以下、少し引用

 ただ、「インクルーシブ教育」の目的は、あくまで障害を持つ生徒たちが高校生活トータルをエンジョイすることなので、そうした生徒向けの特別な職業訓練の時間は設けられていない。そこが本書で紹介した東京都の「特別教育推進計画」と明確に異なる点である。つまり障害の軽い高校生だけを一か所に集めて職業訓練をさせるのではなく、障害が軽いからこそ教員や友人らの支援を受けつつ、 勉学や部活動など他の高校生と同じ高校生活を送ることを目指すわけだ。そして、卒業後の進路については、直ちに特例子会社などに就職するのではなく仕事のスキルを身につけるために「神奈川障害者職業能力開発校」への進学や、民間企業が提供する就労移行支援サービスの利用を考える保護者もいるという。

 こうした神奈川県の試みは“教育とは何か”という本質的な問題に対するアプローチの一つと解釈することができる。その成果が表れるかは、私たちが”共生社会”の意味について深く理解しているかにかかっているといえるだろう 。86p

ここで、軽度障害の生徒に限定していることには違和感が残るか、それ以外はその通りだと思った。他に外国ルーツのこどもにもいい学校になるのではないか。

また、この後、89頁まで続いている現状の障害者就労予備校のような支援校の現状への批判や、そこからさらにこの章の終わりまで続いている高等教育と障害に関する記述も興味深いものがあった。そして、結語には以下のように書かれている。

 このような発達障害学生の姿からは、就職がゴールになってしまっている日本の大学教育の問題点が透けて見える。すなわち、大学教育とは何なのかという基本的な課題を私たちに突きつけているのである。101-102p

障害を切り口にすると見えてくる社会全体の問題がここにもある。


124p~は「障害者差別解消法」で注目すべき3点が挙げられている。

1、「障害を理由とする差別的扱い」の禁止について。 

2、過重な負担について

3、努力義務について

興味深いのがこの3点目。以下のように書かれている。

 そして第3の点は、事業者にとっての配慮の提供が”努力義務”になっていることである。すなわち事業者は配慮しようと努めていれば、実際にそれができなくても不法行為にはあたらないのである。なぜなら、努力してもできないということと過重な負担はほぼ同義だからである。事業者にとって、負担が過重ではなく努力もしてはいるが、それでも提供の難しい配慮なるというものが存在するとは思えない。125p

そして、この【第4章 「障害者差別解消法」で何が変わるのか】の最後で著者は【「障害者差別解消法」は単なる出発点に過ぎない】という。

そして、経済学者としての著者らしいのは、それに続く以下の記述だ。

この法律に魂を入れるため、障害者はもとより国民全体が差別と配慮の意味をよく理解し、どうすれば社会全体の配慮のコストを効果的に下げられるか深く考えなければならない。140p

【どうすれば社会全体の配慮のコストを効果的に下げられるか】って、大事なのはそこかよって突っ込みたくなる。人権を守るという視点とコストの視点、

第5章 障害者施設のガバナンス では、介護保険は保険によって運用されて疑似的な市場が形成されているので、消費者サービスとして株式会社が担い手になっても問題はないが、障害福祉サービス(ここでは障害者支援サービスと書かれている)のように、税金を原資とし、報酬が政策的に決まっている事業ではサービスの担い手と受け手だけではなく、納税者の合意が必要なので、そこから出た利益を自由に配分できる株式会社による運営は適切ではない、という。148p

後半の税金が使われているので、自由に利益を分配できる企業はよくないというロジックはわかりやすいが、前半の介護保険も適切だとは言えないのではないか。もっと言えば、図書館の指定管理なども、自由に利益を配分できるというのは適切とは言えないのではないかと思う。


また、著者は障害福祉サービスを

・消費型  在宅介護やGH、施設入所、就労定着支援など

・投資型 自立訓練(生活、機能)、就労移行

・混合型 就労継続AB

に分ける。


就労継続支援はA型もB型も訓練なのに、期間の定めがないのは問題であり、この矛盾がA型とB型のガバナンスを困難にしていると書かれているが、実際に関わっていて、大きな問題は別なところにあると思う。 それらでの支援は単純に訓練とは呼べず、期間の定めががないことの必然性はあるはず。

上記の消費型サービスの正当性は株式会社のように利益の多寡ではなく、障害者の満足によって計られるべきだとする。153p 

利益の多寡で計られるべきではないというのはその通りだと思う。だから、株式会社であっても、その利益を株主に配分することを目的とするようなことは、もっと厳格に規制されるべきだろう。それでも事業体として、株式の形式を選ぶということがあるのであれば、それはそれでいいようにも思う。そして、限られた給付の中での障害者にとって最大の満足・利益になるようなサービスが求められるのだが、そこでは働く者のディーセントな労働条件が保障される必要もある。それが守られているかどうかという規制も必要だと思う。

156pからはA型のガバナンスの問題が描かれる。ここで明らかになるのはA型が通過機能を持つことの矛盾だ。事業としてはメンバーに定着してキャリアを積んで欲しいが、通過機能が義務付けられたらそうはいかない。A型の給付金額と通過機能の連関をどう考えるのかということが論点になるかもしれない。

そして164pではA型について、投入された税金で賄われたリソースを有効活用し、それ以上の給与を支払うことがミッションだという。これは可能だが、本当にこれだけでいいのかという疑念は少し残る。そして、それさえ出来なければ、A型での給付より、所得補償に回し、A型で使っている建物やマンパワーは別で使うほうがいいと書かれている。とはいうものの、それだけのお金で所得補償など出来るわけもなく、それは絵空事の域を出ない。仮にそれだけで回すならば、誰がそのお金をどのように受けとる仕組みを作れると考えられるだろう。そのことは記載されていない。

また、それは「厚労省は社会収支の赤字を垂れ流しているA型を放置している」(164p)と書かれている。この間の規制の強化の話は直後に触れられていたが、ここでは触れられていない。これはフェアではないかもしれない。

そして、その話が出てくるのが169p~。ここで、この間の訓練等給付を賃金に回してはいけないという規制の強化の話が紹介されるが、この通達はA型のスタッフの負担を重くする一方、不正の防止にはほとんど効果がないと著者は書く。
訓練等給付だけをあてにするA型はこれでなくなったので、ほとんど「効果がない」というのは言いすぎだと思う。ぼくは問題はそこではなくて、この規制の強化で仕事を失った人へのフォローがどれだけなされていることではないかと思う。

ここで著者が何気なく提案しているのが、「給料が給付金を上回っていればいい」という社会収支が黒字になる仕組み。確かにこれはシンプルではある。また、事業利益がなければ達成できない仕組みでもある。また、ここだけを見て社会収支黒字と言ってしまっていいのかどうかも気になるところ。

これだけでいいと著者も書いていないが、これでいいかどうかは、もう少し考えることが必要だろう。

171p~のコラムHは有名なスウェーデンの障害者雇用のための国営企業「サムハル」の仕組みや課題がごく簡単に紹介されている

173p~の『B型のミッションを考える』という節がこの章の最後に置かれる。

若干の加算を除けば、ほぼ工賃だけが訓練等給付の多寡を決める現状で、工賃向上問題は大きいが、そこだけでB型を評価してはいけない、利用者の満足はそれだけでは計られない、と。

そこだけをクローズアップさせれば、働きにくい人がB型に行きにくくなり、就労させるインセンシブも低下するというのはその通りだ。


ここで、著者があるべきB型のミッションとして掲げるのが

多様な障害ニーズの充足による利用者満足の向上。

ぼくとしては、利用者自身が自らが持つ価値に気づくという意味でのエンパワメントと就労を通してのインクルーシブな社会の形成というのをミッションに掲げる。


この章の注2では「やさしい手」の経営手法が持ち上げられている。

1、明確で具体的なミッションの提示

2、職員の教育 各種セミナーを実施し、キャリアを積めるようにする。

3、事業規模の拡大 

4、情報の一元管理 システムで情報を集めて、共有化する仕組み




第6章 障害者就労から学ぶ「働き方改革」


『法定雇用率の落とし穴』という節ではその計算式の問題がわかりやすく提起されている。

まず、問題は根拠となる数字が公表されていないこと、だという(190p)。本当にそうだと思う。


ここでは、精神障害者の雇用義務化に伴って雇用率が0.2%引き上げられたことを根拠に計算して、数字がおかしいと書かれいている(199p)。この説明はそれなりにわかりやすいのだが、この段階で2.4%が妥当だが、激変緩和のために2.2%に抑えられたことは書かれている( https://www.jcci.or.jp/201804houteikoyo2.pdf )ので、そのあたりの基準は明確にしたうえで、それでもおかしい数字があるとしたほうが説得力はあると思う。


また、198p~記載されている『特例子会社の問題点』という節。

補助的作業が中心の”仕事切り出し型”や””内部取り込み型”では企業が生産性を上げようとすれば、雇用がなくなるという問題が提起される。そして、『企業内障害者施設化』するという危惧が語られる(199p)。


さらに、「障害者が働く姿を見て元気がもらえる』とか『笑顔に癒される』という言説が批判される。(200p)

しかし、それで職場の雰囲気がよくなることがあるとすれば、それは悪いことではないのではないか。そして、生産性に寄与することが難しい障害者が存在するのは間違いない話だ。生産性以外の物差しで、彼や彼女が雇用される方法がないのかと思う。

簡単に答えが出ない話だが、インクルーシブな社会を求めるときに、営利企業もインクルーシブにしていくことが問われているだろうし、どのような形が望ましいか、走りながら議論していくしかないのではないかと思われる。

また【「同一労働同一賃金」との関係】という節(200p~)では、同じ封入作業でも特例子会社とB型で、なぜ、こんなに賃金が違うのか、という話がある。それを言えば、同じ金属加工で本社の社員と下請けの非常勤でまったく違うという日本社会の現状はあるのだが、確かに、似たような障害を持っていて、運よく大企業の特例子会社に入った人と、ろくな仕事がないB型に入った人の差は大きい。そこをどう考えるのかというのが課題だということは理解できる。この節の最後に、著者は「同一賃金同一労働というのであれば、この理不尽さを解決するのが先決」というのだが、著者自身もここで解決策を持っているとは思えない。ならば、それを言うなというのも違うと思う。現状で最低賃金を得ている人の賃金を引き下げることはしてはいけない、という前提の下で、どのような選択肢があるのか、とても困難な課題ではあると思う。

203頁に記載されている障害者基礎年金と就労者の減少の話は、もうひとつわかりにくい。ぼくの職場では、60歳過ぎても働き続ける障害者は少なくないから。すぐ障害者は何歳でも、すぐに年金が出るから60歳でやめるのだというのはわかりにくいし、何歳でもでるのであれば、60歳である必然性もないのではないか。

そこに続く【法定雇用率再考】という節では、雇用率の世界比較の表があってわかりやすい。

そして、欧州並みに雇用率を上げるために、障害の定義の見直しが必要だと書かれる。

続いて、例のビニールハウスでの障害者雇用ビジネスのことが「疑問符がつく」と書かれている(206p)。この話はJDの2019年「すべての人の社会」7月号で公益社団法人やどかりの里 常務理事 増田一世さんが視点 障害者雇用率をめぐる新ビジネスの拡大に思う 得手を生かす仕事づくりこそ という文章を書いている。http://www.jdnet.gr.jp/news/journal/2019/07.html

コラムJ(206-208p)は法定雇用率を公表されている数字から再計算し、4.4%になると書かれている。

そして、雇用率に追いつかない現状の上で、障害者に仕事を出すことで雇用率を達成したと「みなし雇用制度」が提案される。211p~

雇用逃れの懸念に関しては、4%を設定し、3%を超え分だけ「みなしで」という法定雇用率の2段階運用を(213p)提案している。

あと、細かい部分だが、車椅子障害者に外回り営業が不向き(215P)とあるが、アクセスが整ったビル街では必ずしもそうとは言えない。

この章の注(7)でストックホルムのハンバーガーチェーン MAX が紹介され、そこでは1店舗に1人~2人の障害者雇用が行われていて、清掃については「サムハル」が受注しているとのこと。

また注(8)では精神障害者の雇用定着のためにPSWの常駐雇用が望ましいとあるが、この資格、持っているだけの人がいて、必ずしもそれが望ましいとは言えない面もある。



終章 障害者は社会を写す鏡

この章では、津久井やまゆり園の事件について書かれている。障害者に限らず、『社会的弱者』との共生はきれいごとでは済まされない、と書かれている。最初に引用した

「優性思想はあえて持つものでもないし、克服するものでもない。人間の置かれた状況によって知らないうちに自然と出てくるものである。犯行動機がどうあれ、それに共感する意見があったとしても、私たちの社会に”社会的弱者”と共生できるだけの経済的そして精神的な余裕があれば、魔物を封じ込めておくことが出来る」(224p)

という文章はここに出てくる。

227pでは、特別支援校が増えることの問題が指摘されている(227-228p)。社会モデル的に社会が障害、生きにくさを感じる人を生み出しており、「健常」の条件を厳格にした結果ではないかというものだ。この支援校の増加はぼくもおかしいし、権利条約に逆行していると思う。

この本の本文の最後には以下のように書かれている

 私たちに必要なのは、障害者に映し出されている社会の姿に気づくことである。これは障害者から学ぶといってもいいだろう。身体障害者の活動ぶりを見れば社会のバリアフリーの程度がわかる。知的/発達障害者は比較優位の重要性を教えてくれる。そして精神障害者から、ワークライフバランスすなわち適度に休むことの大切さを学ぶことができる。こうした学びが私たちの社会を変えていく原動力になるのである。229p

【知的/発達障害者は比較優位の重要性を教えてくれる】というところがわかりにくいが、あとはなんとなくわかる。



最後まで読んで、気がついたのは、雇用・「働くこと」について、いろいろ書かれているにもかかわらず、「社会的事業所」とか「ソーシャルファーム」について、ほとんど(あるいは、まったく)言及がなかったと思う。その視点があれば、別のものが見えてくる可能性があったのではないか。


























~~~
【インクルーシブ教育最前線】知的障害児、普通科高校で学ぶ ~受け入れから2年半・神奈川県~

2019年11月03日18時30分

神奈川県庁の本庁舎[同県提供]

神奈川県教育委員会が県立高校3校の普通級に、知的障害のある生徒を受け入れてから2年半。来年3月には1期生が卒業する。

 知的障害の児童生徒が普通級で学ぶ小中学校はあるが、入学選抜がある高校段階でまとまった人数の生徒を受け入れるのは、全国的にも珍しいという。

 神奈川県のインクルーシブ教育は、どこまで進んだのか。実践推進校の一つ、茅ケ崎高校(清宮太郎校長、生徒数885人)を訪ねた。

〔横浜総局・田幡 秀之〕


◇教員2人体制

 同校は、JR東海道線茅ケ崎駅から徒歩20分の住宅街にある。学校行事や部活動が盛んな、地元で最も古い高校だ。

 教室を見て回ると、プロジェクターを使って視覚的に分かりやすくしたり、学習の到達目標への段階を細かく設定するスモールステップを導入するなど、工夫が凝らされていた。障害者に分かりやすい授業は、すべての生徒にとって分かりやすい。

 主要教科など習熟度に差がつきやすい科目では、2人の教員が配置され、チーム・ティーチング(TT)が行われている。前方に立つ教員が授業を進め、後方にいる教員が遅れている生徒のそばまで行き、一人一人フォローする。

 教員に質問しているのは一般入学の生徒だったりする。どの生徒が知的障害なのか、にわかには分からない。

 県教委は15年度に同校と足柄、厚木西の3高校を実践推進校に指定。3校とインクルーシブ教育で連携する各地域の中学の校長が、生徒を推薦する。

 対象となるのは、知的障害者が各自治体に申請して取得する「療育手帳」の所有者と、障害の判定を受けていなくても、各中学校が「手帳相当」と認めた生徒たちだ。中には知的障害とともに、発達障害の傾向が強い生徒もいる。

 集団の中で学ぶことが要件のため、軽度知的障害が中心になる。合否は各高校が面接を基に決める。知的障害の生徒には大きなハードルとなる学力試験は課さない。

 定員は3校とも各学年21人。現在は茅ケ崎に33人、足柄に31人、厚木西に54人の計118人が在籍している。

 受け入れ前には不安や懸念もあった。

 清宮校長は「全国初の取り組み。保護者の中には不安を感じる人もいた。特にこれから受験する中学生は茅ケ崎高校がどう変わるのか、非常に関心が高かった。教員も知的障害の生徒を指導した経験のない教員が圧倒的に多かった」と振り返る。

 同校が毎年春に生徒を対象に行っているアンケートによると、「互いのさまざまな違いを受け入れ、認め合っていきたいと思いますか」との質問に対して、受け入れ初年度の17年度に「そう思う」「ややそう思う」と答えた生徒の割合は、同校が連携している茅ケ崎市と寒川町の全12中学校の出身者では97.5%に上った。

 県教委は同市町などの7校で、「みんなの教室」という通級指導を発展させたモデル事業を小中学校の段階で行っている。

 「小中学校の段階で障害児者とともに学ぶ取り組みがスタートしているので、高校でも特別なことと感じていない生徒が圧倒的に多かった。このデータを見たときに、これなら大丈夫と思ったことを覚えている」。

 清宮校長らの懸念は杞憂(きゆう)に終わった。連携校以外の中学からの入学者で肯定的な回答をした生徒の割合も、19年度には100%に達している。入学者の中には「福祉に興味があるから」と、同校を志望する生徒もいるという。

◇進路に広がり

知的障害のある生徒が個別学習をしたり、休み時間にくつろいだりする「リソース・ルーム」=神奈川県立茅ケ崎高校

 リソース・ルーム。障害のある生徒たちが個別学習をしたり、休み時間にくつろぐための部屋だ。各学年に1室ずつ用意され、サポート・ティーチャーと呼ばれる外部人材が常駐している。

 3年生のリソース・ルームでは、男子生徒が1人、教員と向き合っていた。2学期。卒業後の進路を模索する時期だ。当初職業技術校を目指していたという男子生徒は、県内の短期大学にチャレンジするため、教員のアドバイスを受けながら、AO入試の手続きを、準備している最中だ。

 知的障害の生徒たちの多くが、中学卒業後に通う特別支援学校高等部を卒業すれば、大学や短大への入学資格が学校教育法で認められている。ただし、教育課程の違いから大学進学は難しいのが現実だ。

 しかし、同校を卒業することによって、その後の進路は格段に広がる。現在の3年生は前述の男子生徒のほか、専門学校への進学を希望する生徒もいるという。

 清宮校長は「高校に来なければ、そうした進路にはつながらなかった。選択肢が増えたのはうれしい」と話す。

 同校で新たな進路を見付け、卒業を待たずに就職した生徒もいる。同校は卒業後の就職を見据えたキャリア教育も重視。3年間を通した面談を繰り返し、職場体験や実習もカリキュラムに組み込んでいる。

 一方で、学校が合わずに、中途退学を選んだ生徒もいる。その理由について、清宮校長は「勉強に難しさを感じる生徒もいるが、それ以上に高校という環境になじめなかった」とみている。

 少数クラスで個別対応が中心の特別支援学級にいた生徒がいきなり、1クラス40人の集団に入る。知的障害の中には、集団が苦手な生徒は少なくない。

 同校では、誰が障害を持っているのか、生徒たちには知らせていない。4月のクラス開きの際に、自分に障害があることをクラスに打ち明け、自ら助けを求める生徒もいる。

 特別支援学校で教えた経験がある国語科の福永智津教諭は、「個別支援が中心だった生徒を集団の中で教える難しさはあるが、理解している一般入学の生徒が、障害者の生徒に教えているのを見ると、この取り組みは良かったんだと思う」とほほ笑む。

 逆に、障害者として入学したことを知られたくない生徒もいる。だから、勉強が分からなくても手を挙げて助けを求めることができず、余計に苦しい立場に追い込まれていく。

 清宮校長は「『分からない』と言える環境づくり」に腐心しているが、同時に難しさも感じている。

◇一般入学の生徒の刺激に

 「ともに学ぶ」ことは、一般入学の生徒へも少なからず影響を与える。

 現在3年生の男子生徒は、知的障害の生徒が同じ教室で学んでいることに、もやもやした気持ちを抱えていた。自分と一緒に勉強していた中学の仲間が入試で落ちた。障害者施設で働く母親は施設の仕事に忙しく、自分は構ってもらえなかったという思いがあった。

 母親には「勉強だけじゃない。大切なことはほかにもある」と言われ続けていた。AO入試でインクルーシブ教育について語りたいと思い、割り切れない気持ちをインクルーシブ担当の教員にぶつけた。

 教員は「障害故に高校進学の夢がかなわなかった中学生が、この制度によって、あなたと一緒に高校生活を送れている。その生徒たちも、自分が高校にいてよいのだろうかと、逆の立場でもやもやを感じている」と伝えた。

 生徒は「これから共に生き、社会を変えていくには重要なこと」と、自分なりに納得し、母親が言い続けた「大切なこと」の意味を理解した。

 昨年3月に卒業した女子生徒は、校長室に手紙を残していった。彼女は手紙の中で、自分がパンセクシャル(全性愛者)であることを伝えた。

 「学校でも、仲の良い友人は私のセクシャルを知っても、それまでと何も変わらず仲良くしてくれます。(中略)私は茅ケ崎高校がインクルーシブ教育を行っていることは素晴らしいことだと思います。すべての人が等しく教育を受けることができるように、少しずつでも進んでいることをうれしく思います。(中略)ただでさえ、日本で生きづらい私たちです。学校はそうであってほしくない、と心から願っています」

 清宮校長はこう考えている。「自分の悩み、思いが声として上がるようになってきたのは、取り組みの一番の成果。周りの生徒の姿を見て全校が刺激を受け、共生社会が実現すればいい」【「内外教育」10月25日号より】。

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