『ソーシャルワーカー ─「身近」を革命する人たち』メモ(追記あり)

ソーシャルワーカー ─「身近」を革命する人たち

英策 著 , 柏木 一恵 著 , 加藤 忠相 著 , 中島 康晴

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480072474/


フェイスブックへの書き込みに知り合いの某W大学教員がコメントしてくれて、それが興味深かったので最後にメモとして採録


最初のメモ

納得できる部分と出来ない部分が入り混じった本だった。あとがきで中島さんは【「専門職性」が危険だという加藤さんの指摘は、その「専門職性」を立脚点とする私には耳の痛い話だ。だがいまのソーシャルワークで見落とされているもっとも重要な視点であり、看過できない】と書く。その「専門職性」のことをもう少し考えてみようと思った。

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内容紹介

悲惨に立ち向かい、身近な社会を変革するソーシャルワーカー。人を雑に扱う社会から決別し、安心して暮らすという基本権が保障される社会へ向けて、大胆提言!

内容(「BOOK」データベースより)

多くの人が将来不安におびえ、貧しさすらも努力不足と切り捨てられる現代日本。人を雑に扱うことに慣れきったこの社会を、身近なところから少しずつ変革していくのがソーシャルワーカーだ。暮らしの「困りごと」と向き合い、人びとの権利を守る上で、何が問題となっているのか。そもそもソーシャルワークとは何か。未来へ向けてどうすればいいのか。ソーシャルワークの第一人者たちと研究者が結集し、「不安解消への処方箋」を提示した入魂の書!

目次

はじめに

第1章 ソーシャルワーカー 井手 英策  , 柏木 一恵 , 加藤 忠相 , 中島 康晴 9p

 ―悲惨に立ちむかい、身近な社会を動かす人たち(平成という時代の見えかた

   40代、50代を直撃した経済の衰退 ほか)

第2章 ソーシャルワークの原点とは? 中島 康晴 53p

 ―課題を乗り越えるために(「パーソナリティの発達」のために必要なもの

  「解消」と「解放」の相違点 ほか)

第3章 ソーシャルワーカーはなぜひとつになれないのか 柏木 一恵 95p

  (分断されたふたつの資格

  新しい国家資格化の動き ほか)

第4章 ソーシャルワーカーはどこに立ち、どこに居場所を作るのか 加藤 忠相 145p

 (ソーシャルワーカーはどこにいるのか?

 履きちがえられた「目的」 ほか)

最終章 ソーシャルワーカーが歴史をつくる 井手 英策 189p

 (歴史の潮目

 移民政策に転じてもきびしい現実 ほか)

あとがき 中島 康晴 227p

この「はじめに」の文章が熱い
ちょっと書き出してみよう。

 ソーシャルワークってなんだろう?

 こんな問いが投げかけられてから、もうずいぶん時間がたったような気がする。

「社会のしごと」と聞けば公務員を想像するかもしれない。ちょっと知識のある人なら

「ああ、あの資格を持っている人たちね」と答えることだろう。

 だけど、そんな誤解を解くだけなら、すでに多くの本が出されている。

 私たちは、次のステージに進んでいく。

 ソーシャルワークは歴史を動かす、私たちは交渉するつもりだ。

 人権を守るためなら組織や専門性の壁を乗り越えろ、私たちは提言するだろう。

 ソーシャルワークは、眼の前にある人間の暮らしの困りごとと向きあう。人々の権利を守るというその一点において、周辺の環境、社会の形すらをも変えようとする。

 それだけじゃない。自分たちが囚われているこの社会の構造や目に見えぬ圧力を自覚しながら、自分を含めたすべての人間の解放に挑んでいく。

「資格を持つ人たち」ではなく、「ソーシャルワーカー」が社会に居場所を見いだせれば、経済的な正義はもちろん、文化的な不正義がはびこる社会をも終わらせられる。

 そんな信念、熱情、そしてひそやかな誇りとともに、ソーシャルワークと日本のこれからを語りあったのがこの本だ。

 迷いがないわけではない。ソーシャルワークが歴史を動かすのだ、こんなことを訴える人たちは、どう考えても、暑苦しい。でも、冷静に制度の問題点を語り、その改善を訴えた本は数えきれないが、ちっともよりよい社会は訪れやしない。

 私たちは、社会や福祉の「制度」ではなく、必要とされる「人のかたち」について語っていかなければならないと考えている。でなければ、あたしたち一人ひとりの生きづらさが加速する、歴史の加害者に成り果てる。

「絶望の過去」を「希望の挑戦」に作り変える、そのためのキーワードは「気にかけること(=ケア)」だ。ソーシャルワークの過去と現在、理論と実践、そしてそれらがつむぎ出す日本社会の未来について、立場を超えて、全身全霊で語り尽くしていきたい。


   井手 英策・柏木 一恵・ 加藤 忠相・ 中島 康晴


ちょっとやけどしそうな熱さだ。

以下、フェイスブックでのやりとり。

Kさん 制度ではなく必要とされる人のかたち・・・とはどういうことでしょうか?

自分  そこ、わかりにくい部分ですよね。ぼくもひっかかりました。どう説明できるか、少し考えます。
自分 ぼくの解釈が著者たちの意図を汲んでないと思いつつ、こんなことを考えました。
ソーシャルワーカーが実現したいのは、その人らしい暮らしでその人権が保障されること。それを実現するために制度が必要な場合は多いのだけど、語るべきは「その人のこと」というような感じでしょうか?
しかし、ぼくは制度のことももっとクリティカルに語られるべきではないかと思うし、そういう思いはこの著者たちも持っていると思うので、ここでは「既成の制度」を前提に話すことの問題のことを言いたいのかなぁとも思います。だとしたら、言葉足らずですよね。
自分  上記のように書いた後で、該当するだろう部分がありました。ぼくの解釈、やはり少し違っていたようです。

~~~
 人間が安心して生きていく、暮らしていくための方法を考えるとき、私たちは「政府に何をしてほしいか」という議論を組み立てがちだ。だが、「どんな社会に変えていきたいのか」、その目的を現実のものとするために「どんな人たちが必要なのか」について、これまでどれくらい真剣に考えてきただろう。
 これから私たちは、あるべきソーシャルワーカーの姿、分立、分断されている組織や制度の状況、「専門性」の名のもとでソーシャルワーカーが支配者となる危険性について語っていく。それだけじゃない、政府の果たすべき役割にメスを入れつつ、ソーシャルワーカーと地域が新しいつながりをつむぎ出すことによって、私たちの社会全体がどう変わるのか、じっくりと論じていく。
 そう。この本は、より良い未来を待ち望む人たちではなく、より良い未来を暮らしの延長線の上に作り出す、そんな身近な主人公たちの物語なのだ。51-52p
~~~

 上記のようなことをKさんが疑問に思った部分で言いたかったのだとすると、やはり言葉足らずだし、上記の文章にしても、政府の果たすべき役割というのを「制度」と切り離してしまうことには無理があると思いました。
上記の引用部分について、具体例として、同じ章のかなり後ろのほうで以下のように書かれている。

ひとり暮らしの認知症の人が、周囲の環境にうまくなじめず、ゴミ出しの日をまちがえること、無断でよその家の敷地に入ること、「一人外出」で行方不明になること、火の不始末があることがある。すると、地域住民から「このような人は、ひとり暮らしなどできない」「早く鍵のかかった施設に入れたほうが良い」「精神科病院に入院したほうが良い」という訴えが寄せられることとなる。

 そこで私たち、認知症の人の不安やストレスの要因を緩和させるべく、認知症の人の求めに応じたきめ細やかな支援を展開し、認知症の人が冷静に他社と向き合える状況を作ることに汗をかく。

 これとあわせて、認知症の人と職員が地域住民の自宅等に足を運び、認知症の人の暮らしの現状や私たちの仕事に対して理解を求める働きかけを粘り強くおこなう。その結果、認知症の人を排除する傾向にあった地域住民が、認知症の人が1人暮らしに理解を示し、時には支援すらしてくれるようになる(中島康晴『地域包括ケアから社会変革への道程【理論編】【実践編】』『「出逢い直し」の地域強制社会【上巻】【下巻】』批評社) 81-82p

後段の運用の話は美しく、地域はこうあるべきだと思えてくる。確かに必要なことなのだろう。しかし、こんなことがやられている地域はごくわずかなのではないか。どうすればこのようなことが可能になるのか、どうして多くの地域でこのようなことが行われないのか、そこを考えていく必要がある。

上段の引用では、政府に要求するだけでなく、自分が動くことが大切なのだということが主張されている。

確かに、自分が動くことは大切なのだが、それは二者択一ではなく、そんな風にちゃんと動けるようになる仕組みを作ることも同様に大切だということを強調したいと思う。

そして、どうすればこのようなことが可能になるのか、ということについて、この章ではほとんど書かれていない。

まず、ソーシャルワーカーの専門職としての専門性の向上、そして、それと時に二律背反的な「人間の権利擁護」を統合することの必要性、そのために、人びとと共にあること(With)が求められる。

そして、地域とともに行動でき、かつ人間の権利擁護のために社会変革を視野に入れられるソーシャルワーカーを養成するために、資格制度の改革のことが書かれている。それが不要だとは思わないが、何かが決定的に不足しているように感じる。

ソーシャルワークとは何かというコンセンサスを作ることが必要なのか、ソーシャルワーカーに求められるものは何か、とその属性を考えることやその専門性の向上が本当に必要なのか、とも思う。

風雷社中の中村さんがいうように、「そんな専門性はいらない、人間として必要なことを学んでいさえすればよいのだ」というのは一つのわかりやすい立場であるとも思う。

ともあれ、人びとを現状の制度の枠の中で、もっと言えば、行政が認める福祉の枠の中でなんとかしよとするソーシャルワーカーが多すぎる中で、ここで書かれているような問題提起は必要であるのだろう。そして、この問題提起に喚起され、人権擁護のためには制度も変えていくという視野を持つソーシャルワーカーを生んでいくために、何が必要なのかがもっと議論される必要があるのだろう。

そして、さまざまな政治的な価値観を持ちつつも、ソーシャルワークが必要な人にワーカーとして寄り添い、その社会をも変えていくということを視野に入れる人がどう共存できるかという視点もまた必要だろう。

第1章 ソーシャルワーカー 井手 英策  , 柏木 一恵 , 加藤 忠相 , 中島 康晴

4人で書いたとされる1章で【「救済の政治」から「必要の政治」へ・・・つまり「困っている人を助ける」から「みんなの必要を満たす」(23p)、という転換が必要だと主張される。

現状で困っている人にちゃんとアクセスできていないソーシャルワークがあり、ちゃんと困っている人に届くためには、困っている人を助けるというような形ではなく、みんなの必要が満たされるのが当然という視点が必要で、それがなければ困っている人に届けることもできないということなのかと思う。

そのためには消費税が必要だという議論だ。もちろん累進課税の強化、法人税率の引き上げ、高額所得者の社会保険料の改正などは提起されているが、それでは足りないという。軸は多大な税収をもたらす消費税だという。ここが意見が割れるところだろう。

これについては最終章で井手さんが以下のように書いている。

・・・逆進性の一点において、消費税を全否定するとすれば、それは給付を無視しているという点で論理的にまちがっている。そればかりか、ケタ違いの税収を生む消費税を選択肢から外し、大企業や富裕層への課税のみで社会変革を語るとすれば、それは極端な理想主義でしかない。北欧を含め、彼らへの極端な課税だけで格差を是正し、生活を保障している先進国は存在しない。208p

現実としてはそういうことはありそうだと思うが、消費税はいらないという人たちとちゃんと同じ土俵で議論することが必要なのではないか。

35pに書かれている以下の視点はそうだと思う。

 いまの日本にあふれかえっているのは、貧しい人にお金を与えたり、障害があるために施設を整えたりすれば解決するような、そんな類の簡単な問題ではない。孤独にさいなまれ、あきらめと絶望のなかで、命をすり減らしている人たちが大勢いるのだ。

 一人ひとりのおかれた状況を理解し、家族や地域も含めた関係者たちの作った環境を受け止め、変えていく、自らの意思を十分に表現できない人たちの暮らし、そして権利を徹底して保障する。そんな仕組みづくりがいま求められているのである。

典型的なのは、比較的重い知的障害の人たち。主要に介助をしていた家族が介助できなくなったとき、施設探しが始まり、それが例え全く知らない遠い地域でも、行ける施設があって良かったねという話に解消されがちだ。
上記と同時に申請主義が横行する中で、ソーシャルワーカーがソーシャルワークを必要とする人に出会えていない、という問題があるのだと思う。

ここに続く、少し後で

【そう、いま必要なのは、いとも簡単に日々の暮らしが悲惨へと直結するような状況を変えていくような支援のあり方だ。そして、その問いへの答えこそが、「ソーシャルワーク/ソーシャルワーカー」だと私たちは確信している】(35p)

と書かれる。
「支援のありかた」が問題であることはいうまでもないのだが、まず、支援が必要な人と出会える仕組みがあるのか、ということが問われている。

41pの【「エビデンス重視」でよいのか】という節も興味深い。ここで三島亜希子さんの『社会福祉は「社会」をどう捉えてきたのか』での論点が紹介される。国際ソーシャルワーカー連盟の国際定義に関して、従来あった「エビデンスにもとづく知」が削除され、「地域・民族固有の知」と置き換えられたとのこと。

三島さんの本は読んでないのだけれど、エビデンスではなく「地域・民族固有の知」と言ってしまう危うさは当然、議論の中ででてきたと思うし、とりわけ公的責任が後退しつつあるように見える日本社会でこれをいま、強調することの危うさはあるような気がする。ここの議論をもう少していねいに見ていく必要があるだろう。この部分を読んでいると、「エビデンス」をどこか高いところに置いてしまっているような気がする。エビデンスは一人ひとりの日常の暮らしの中にあるのではないか。

ただ、社会を変えることを抜きに個人だけに向き合うソーシャルワークではダメだという部分(43-44p)には強く同意する。そして、そのようなソーシャルワークが横行しすぎているように感じる。


第2章 ソーシャルワークの原点とは? 中島 康晴 53p

この章の冒頭で著者はリッチモンドの「ソーシャル・ケース・ワークは人間と社会環境との間を個別に、意識的に調整することを通してパーソナリティを発達させる書家庭から成り立っている 」(『ソーシャル・ケース・ワークとは何か』中央法規)を引用し、この本のタイトルの問い(それは明示的には書かれていないが)への回答を100年を経た私たちがいまだに持ち合わせていない、というところから始まる。

リッチモンドをちゃんと読んだことがないので、なんとも言えないが著者は問題をここから立てて、彼女の思いは、国際ソーシャルワーカー連盟が強調してきた「人びとのエンパワメントと解放」によって端的に言い表されている、という。55p

そして、その『解放』という語が俎上に上る。解放であって、解消ではないのだ、と。

差別の『解消』と差別からの『解放』をめぐって書かれている以下で引用する『「解消」と「解放」の相違点』という節が興味深かった。

 栗原彬は差別や排除はけっしてなくならないと悲観的な見方を示しこう語る。
~~

 現実には差別はなくならない。それはなぜか。

 私はポイントを二つあると思う。

 第一に、政治権力にとって、差別はすぐれて政治的機能を持つが故に、権力のエコノミーとして差別は保全される。(略)

 第二に、近代化の啓蒙に伴い、「差別は悪い」という言説が一般化したことである。タテマエになったこの言説は、人を差別の前で素通りさせる。(遮断するまなざし!)。差別意識は、ことばをもち、世界をカテゴリー化することなしには生きられない人間という種に 根源的な意識である。(栗原彬「差別とまなざし」『講座差別の社会学2 日本社会の差別構造』弘文堂

~~

 栗原の指摘を正面から受け止めれば、差別や排除を考える際、それを「解消」するという発想でよいのかという、難しい問いと向き合わなくてはならなくなる。

 たとえば、 平成25年に制定された「障害者差別解消法」をどう考えればよいのだろうか。もし差別するものがなくならないとするならば、差別の「解消」をめざした結果として、 「消えてなくなった様にわからなくなってしまう」という事態が生じるかもしれない。つまり、差別の「解消」は、差別を潜在化・埋没化させる方向に人びとを誘導する危険性をはらんでいるのだ。(強調。引用者)

 だからこそ強調したい。「人びとのエンパワメントと解放」における「解放」には、本質的な問題を曖昧化・埋没化させる「解消」とは別の意味が込められている。「解放」をめざす限り、ソーシャルワーカーは、曖昧にされ、目に見えなくされそうになっている問題を明るみに出し、その問題から人間を解き放つことが求められているのである。56-58p

 へぇ~という興味深い指摘だった。ぼくもすべての差別がなくなるとは思えないし、それが特に悲観的だとも思わない。しかし、差別をなくしていこうと思う。なくそうとする意志を持つ。それは永続革命といえるようなプロセスなのではないか。ぼくが「差別解消」という言葉を使うとき、それくらいの気持ちを込めている。

 ただ、ここに書いてあるように、差別を解消しようというよりも差別からの解放を勝ち取ろうといったほうが実質にも近いようにも感じる。差別は、いまの政治体制や資本主義にしっかり組み込まれているように感じるからだ。そして、そんな中で見えなくさせられている差別も多い。

 それに対して、近代以降の人権概念を使って、差別をなくそうとする営みは、その体制・構造に対する闘いでもある。その形態はさまざまだが、差別を解消しようという法律や仕組みが差別をなくすのではなく(それも必要だが)、それを使って差別をなくしていこうとする主体的な営みが差別をなくしていくのであり、それを『闘い』と呼ぶことができるのではないか。

 そういう意味では、「差別解消をめざし、差別からの解放を求める闘いがある」と言うことができるかもしれない。

 また、これに続く節のタイトルは『ソーシャルワークと「障害の社会モデル」』

ここでは「解消」と「解放」を区別する視点は「障害の社会モデル」でも共有されているという。まず、ICFDH(国際生活機能分類)が紹介され、これが「できるようになる」モデルであるとして、それは「同化」と紙一重であると書く。ここまではそうだと思う。

これに続いて、「同化」だけでなく「異化」の視点、その双方の視点から社会統合をめざす「障害の社会モデル」が必要されるのだ、と書かれている。ほんとにそうか?? ここでは河口尚子さんの「解題 障害学にもとづくソーシャルワーク」が参照されているが・・・。

障害学は障害者差別と闘い、(この本の言葉を借りれば)解放を求める人たちから生まれ、いまでも主流はその流れを汲んでいると思うが、それが「社会統合をめざ」しているかといえば、少し違うような気がする。インクルーシブな社会を求めることと「社会統合をめざす」ことの微妙な違いがあるように思う。

とはいうものの、以下の部分はもっと強調されなければならないと思う。

「障害の社会モデル」では、障害者が社会を変える主体性を持つことに光をあてたのも重要である。それゆえ専門職は、「障害者のために(for)」働くのではなく、「障害者とともに(with)」実践するものでなければならない。59p


63pには「ソーシャルワーカーは専門職か?」という節

冒頭から出てくるリッチモンドはソーシャルワーカーを専門職と位置づける。著者は彼女が重視した『専門性』は、現在のソーシャルワークに対する重大な警告であり、昨今言われる「地域包括ケア」や「地域共生社会」が危機的な財政状況のもとでの費用抑制を目的としていることが問題だと指摘する。そこで目論まれているのは「非専門職」の活用だと。

 しかし、ソーシャルワークには訓練を受けた専門性が必要だというのが著者の主張である。

 冒頭近くで書いた風雷社中の中村さんの意見が頭をよぎる。

 ここで著者は専門職としての価値と倫理観を例に挙げるが、それはまさしく、専門職ではなく人間に必要とされているものだろう。問題はその土台の上の知識と技術。専門職として必要な知識とは何か、技術とは何か、人として必要とされるものとどの程度の差があるのか、かなり微妙なのではないか。あとがきでこの章の著者の中島さんが『専門職の危険』を主張する別の章の著者の加藤さんとの違いに言及しているところも興味深かった。2228p

次の節【進展しないソーシャルワークの「社会変革」】(65p~)では、(埼玉での生活困窮者支援に関する例外も書かれているが、例のFさんのところのことか)日本のソーシャルワークにソーシャルアクションの教育、研究、実践あ皆無に近い状態だという。(そこで高良麻子、渡邊かおりという2名の研究が参照されている。66p)

そのかなり後に、【高良麻子は「ソーシャルアクションには主に逃走闘争モデルと協働モデルの二つのモデルがある」とし、「闘争モデル」については、「『支配と被支配』や『搾取と被搾取』といった対立構造に着目し、それによる不利益や被害等を署名、デモ、陳情、請願、訴訟などで訴え、世論を喚起しながら、集団圧力によって立法的および行政的措置などをとらせるもの」だと説明する】(76p)、というのが紹介され、「闘争モデル」では、手が届かないのだということが主張される。国家との関係で「社会変革」をとらえてしまうと、その実現可能性は遠のくとして、そうではなく、地域との関係での「社会変革」が中核に据えられなければならないとの主張が描かれる。

どちらかが中心でどちらかはそうではないという問題の立て方はちょっと違和感が残る。どちらも必要なもので、それぞれが果たすべき役割の中で両方がちゃんと意識されていることが重要だ。いまのソーシャルワーカー、国の政策に対してモノ申すという姿勢が弱すぎるようにも感じている。

ただ、他方で、地域との関係での社会変革が重要だというのも頷ける。それを「地域を耕す」ということも出来るだろう。地域を変えると言うのは容易だが、手がかかる話でもある。

日本のソーシャルワークには、法や制度へのの行き過ぎた順応がしばしば見られる。また法や制度だけでなく、社会環境それ自体を主体的に創造・変容していくという発想が希薄である。これらが相まって、ソーシャルワークとは何かという根本的な問いが問われることがほとんどなく、さらには、ソーシャルワークにおける社会正義とは何かという共通理解もまた深められずにいる。83p

ココ、ダイジなとこだと思う。



第3章 ソーシャルワーカーはなぜひとつになれないのか 柏木 一恵 95p

社会保障が劣化し、弱い者たちがさらに弱いものを叩くという傾向が強まる社会について記述された後、こんな風に書かれている。

 こうしたなかで、ソーシャルワーカーが強く意識しなければならないのは、他職種連携であれ、社会資源の開発であれ、その目的は、生きづらさをかかえる「すべての人びと」の権利を保障することであり、政府や行政の福祉の肩代わりや下請けをすることではないということである。(97p)

そして、著者はこんな風に書く。

 振り返ってみれば、私が所属していた大阪精神医学ソーシャルワーカー協会は、「社会福祉士・介護福祉士法」に対し、「入院費削減のために在宅で「安上がり」に老人を遇していくための国の方針の具体化であると批判をしていたが、正鵠を射たものだったと思う。(107p

入院費は減らさなければならないのではないか。そこに言及せずに、なぜこんな風に書けるか不明。自分たちの職域確保のための批判と読めてしまう。

しかし、126pで、PSWという資格制度が出来、退院後生活環境相談員、退院支援員、地域移行支援室、・・・などと「専門性を発揮できる条件」を得たにもかかわらず、社会的入院者の数は減らず、地域の生活支援体制は脆弱なままである、と書かれている。


第4章 ソーシャルワーカーはどこに立ち、どこに居場所を作るのか 加藤 忠相 145p~

この加藤さん、あの認知症の人に走らせる運動会でリレーをやってる、あの「あおいけあ」の社長。ぼくにはこの章がいちばん面白かった。

こんなことが書かれている。

・・・井手英策さんから 「ソーシャルワーカーの本を出そうと思うのですが、加藤さんにも参加してくれませんか」と誘われたのだった。

 のっけから言い訳がましくて本当に恐縮なのだが、僕は井手さんに言った。

「ソーシャルワーカーの本を出すのはいいと思いますけれど、僕はソーシャルワーカーにほとんど会ったこともないし、 全然わかりませんよ」。

 間髪を入れず返ってきた井出さんの答えはこうだった。

「なに言ってるんですか。加藤さんのやっていることはソーシャルワークそのものじゃないですか!」

  もう一度言うけれど私は介護屋を営んでいる。あまり胸を張って言えることではないが、それなのに介護福祉士の資格もケアマネージャーの資格も持っていない。ヘルパー2級の資格だって持ってない 。146-147p

ここから見えてくるのが、ソーシャルワーカーに資格が必要なのだろうか、という話だ。ぼくは公的な資金を使って社会福祉士の資格を取り(福祉の仕事であと1年働けば返済は免除になる)、歳をとってからの勉強はそれなりに楽しくきついものであったが、いまだに、この資格に外から見る人がなんとなく感心する以上の意味を見出すことができない


「お年寄りに太ってもらう」という節がある。(150p~)

 そこで著者が紹介する「あおいけあ」、訪問した人から「利用者さんが認知症に見えない」とか「高齢者が活き活きとしていてスタッフと見分けがつかない」などと言われる一方で、「やっかみ」ととれるような評価もあり「加藤のところの高齢者は実は認知症ではない」とか「面倒見るのが楽な高齢者ばかり集めている」と言われるらしい。

 しかし現実には、他の事業所で難しいと言われる人が紹介されてくる場合が多いらしい。 他の事業所でどのようなことがやられているかといえば、本来は移動の手段のための車椅子で1日過ごしている環境に疑問を持っていなかったり、リスクマネジメントと称して、歩く能力がある高齢者を室内であっても車椅子に乗せっぱなしにしている人たち。そんな人たちからの「やっかみに聞こえる言葉」だったりするとのこと。 

 そして「あおいけあ」の事業所内に委託の形でひらいているコミュニティレストラン、その運営主体の「菜根や」さんは、もともと北鎌倉駅前の日本食のレストランだったが、懇願して移転してもらったと書かれている。なぜ、そこまでするかと言えば、 「それは利用者においしく食べてもらい、太ってほしいからだ」とある。フレイル状態の主な原因の一つが「低栄養」 なのだと書かれている。

 さらに興味深いのは以下

 一般には、太り過ぎることは良くないことだと思われがちだ。しかし、60歳を超えたら徐々に太っていく、BMI25くらいの体型の高齢者が一番元気で長生きするといいデータがある。程よく太るというのは高齢者にとってとても大切なことなのだ。152-153p

とのこと。


次の節のタイトルは【「CURE]ではなく「CARE」】

 上記に続いて、こんな風に書かれている。

 思い切って言おう。医療予防よりも、介護予防よりも、食事をしっかり摂ることが一番の予防になると私は思っている。おそらくは、一番楽しく、一番安あがりで、一番気軽な予防だと思う。だけど、この当たり前のことをやれば、世界でも稀有な事業所となってしまう。なにかおかしな話だ。153

これ、もしかしたら食事をしっかりとることの背景にある関係性が大事なんじゃないかと思うんだけど、どうなのだろう?


それはここに書かれている、歩くのは危険だからと抑制するのではなく、歩きたいと思えるような気持ちを支えるCAREなのではないか。ソーシャルワーカーの国家資格のある人たちであれば、それをできるとは思えない。その能力と国家資格は関係ないし、それは専門性とも違うものではないか。


162pには介護保険法第2条第二項が引用されている。

2 前項の保険給付は、要介護状態等の軽減又は悪化の防止に資するよう行われるとともに、医療との連携に十分配慮して行われなければならない。

そして、以下

 つまり、「軽減」にも「悪化の防止」にもならないような介護には保険の給付をしてはいけないし、提供者側である私たちも保険請求をする権利はないのである。

しかし、現実には

「元気になったら介護保険報酬額が下がってしまって困る」という介護保険事業者の声をしばしば耳にするが、本当にがっかりする】と書かれている。

ただ、これについて思うのは、元気にした介護保険事業者にインセンティブがない制度設計の問題も大きいのではないか?


加藤さんの【お年寄りが自宅に戻っても日常の暮らしを送れるようにすることが支援の目的だ】(164p)という意見はぜったい正しいと思う。しかし、そうさせない制度設計があるのではないか?

加藤さんは井手さんが言うような意味で自分たちはサービスプロバイダーではないというのだが、介護をなりわいとする人たちがちゃんと食べて行ける仕組みがほんとうにあるといえるかどうか? 介護事業者を井手さんが言う意味でのサービスプロバイダーにしてしまう構造があるように思えてならない。

たが、以下の部分には同意。

 ・・・アジアの人たちは成功を追い求めるだけでなく、失敗に学び、そこからよりよいものをしたたかに作り出している。 

 大事なのは一人ひとりが生きる力を発揮することであって、専門職が専門性を振りかざすことではない。むしろアジア各国で見られるように、地域の資源を存分に活かしながら、行政などのサポートを引き出して、みんなが楽しく生きていける状況を生み出していくのがソーシャルワーカーの仕事ではないだろうか。170p 

179-180pでは日本財団の車両がほぼ否定される。

ぼくもかなり日常的に使っているというか、お金がなかった工場がリフト付きの自動車を買えたのは、あの緑色のひとの絵が入ってる車だったからだ。10年近く前の話だが、260万円くらいが定価の車を60万円で手に入れた。あんな風に派手な絵がない他の財団からの寄付の車が欲しかったがそういう情報は見つけることが出来なかった。そして、あの車でメンバーといっしょに移動するんのだが、この部分を読んで初めて、あの車に乗るのが嫌な人がいるのかと思った。

以下では、必ずしも専門職を全面否定しているわけではないというのも読める。こんな風に書かれている。

 肺炎でむせこんでいる人に「絶食です」と制限をかけるのが看護師の仕事ではない。どうすればその人が望む食事ができるのかを、歯科医師や栄養士と話し合いながら考える、自宅に戻っての継続できるようにソーシャルワーカーを通じて、地域のケアマネージャーや介護福祉士と連携する、それが専門職のあるべき姿ではないか。183p

このようなことをつないでいくことは専門職でなければ出来ないのか、確かに病気のこととか栄養のこととか、嚥下のことは、専門家にしかない知識がありそうだ。しかし、それぞれの知識を総合して当事者がどうしたらいいか当事者と一緒に考えることは必ずしも専門職でなくてもできるような気もする。 

183-184pではソーシャルワーカーの断片化が問題とされる。MSWとかスクールSWとか、コミュニティSWを問題にする。そんな人たちが医療のことしかわからないとか、子どものことしかわからないとか、地域のことしか知らないという訳のわからない事態が普通に起きていて、そんなのがソーシャルワーカーなら、ソーシャルワーカーはいらないというのは、確かにその通りだ。

加藤さんのところには介護職を目指す若い人がたくさん来て、彼らは

「なんでこのご時世に介護士になりたいの?」

と加藤さんに聞かれると、子どもたちの答えは大体二つで

「おじいちゃんやおばあちゃんが好きだから」

「人の役に立つ仕事がしたいから」

というらしい。そして、その子どもたちの多くは就職するときには一般企業を選び、介護職場に来ても数年で「こんなはずじゃなかった」と辞めていくという。そして、それが「あたりまえだ」と加藤さんは書く。

「余計なことはするな」

「鍵を閉めて。認知症の高齢者は外に出られないようにしろ」などと命令され、

ときには「薬で禁止感をおこさせて動けないようにしろ」と言われたら、心が壊れるだろう、と。


さして、この章の最後に加藤さんはこんな風に書く。

 白衣や制服を脱いで、地域の人たちに溶け込み、そのなかで自分のとびっきりの専門性をさりげなく使うような存在、あくまで丈夫な「杖」として伴走できるように、医療も、介護も、薬も、リハビリも、栄養も、口腔ケアも、年金も……。深いだけでな、裾野の広さ、幅広い知見を備えたような存在こそが、ソーシャルワーカーなのではないか。 ソーシャルワーカーなのかどうか自信は持てずにいるけれど、この本を書く仲間との出会いをつうじて、いま私はそんなことをぼんやりと考えている。186-187p

こんなスーパーマンみたいな存在にはなれないし、なれる人がどれだけいるだろうと思う。ただ、地域で誰がこういうことに詳しいか、ネットワークを張り巡らすことは可能なんじゃないかと思う。詳しい人から、さらに詳しい人に聞いてもらえたらいい。そんな仕事がしたいと思う。それを専門職と呼ぶのだろうか?



最終章 ソーシャルワーカーが歴史をつくる 井手 英策 189p

長いメモもやっと終章まで来た。

ここに「成長か、脱成長か、これほど不毛な議論はない」(198p)とある。

どうかなぁと思う。

【人びとが必要なお金や富を手にできるように、経済政策に知恵をしぼるのはやむを得ないことである】(199p)と書かれているがと、そんなの当たり前だ。あたかも脱成長側がそれさえも否定しているように読めるが、そんなこと言ってる人はいない。
 この次に【ここで言いたいのは、経済成長の必要性を認めることと、その成長にぶら下がって生きていくこととは、まったく別の問題だということだ】とも書かれているが、脱成長側が主張しているのは、まず、今後、経済成長が可能なのか、可能だとすればどのように可能なのかということだ。確かに経済成長があればさまざまなことが可能になるが、それが誰かの犠牲の上に成立していたり、環境を犠牲にして成立したりしていないかと思う。

221pには井手さんは「公・共・私のベストミックス」という考え方を提案してきたと書かれている。このさまざまなアクターがいる「共」における接着剤機能が必要であり、その一部はソーシャルワーカーが担う(222p)という。

 しかし、【「公・共・私のベストミックス」という考え方】って、何か言っているようで何も言っていないのではないかと思う。どのセクターもそれが必要だと言っているはずだ。ただ、そのバランスに関する考え方はまったく違う。そこの中身に踏み込まないで、ベストミックスとだけ言っても意味がないと思う。

そして、ソーシャルワーカーは共における接着剤であるだけでなく3つのセクターをまたいだ接着剤になるべきだと思う。



ぼくのメモはここまで












以下、元目黒区の平井さんの感想
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平井 勝

2019年9月15日 · 

井出英策さんらの『ソーシャルワーカー』は、「身近を革命する人たち」という勇ましい副題があるが、実際の問題提起には疑問も多い。

 井出さんは、ナショナルレベルで対応するのがベーシックなライフセキュリティ(救済の福祉ではなく、普遍的な必要の福祉)で、ローカルレベルでは個別事情に配慮したソーシャルワークだという主張で、別に誤ってはいない。そして、ソーシャルワーカーの役割で社会変革が欠落している点は押さえてはいる。

 しかし、社会変革の「社会」を国ではなく、地域社会を中心とする志向は、地域のネットワーク作りとかは重要ではあるが、相互扶助の優先に結び付き易いし、そういった記述も多々ある。

 現場は、国の低レベルの施策によって、ソーシャルワークの限界を痛い程に理解しているのに、この本のソーシャルワーカー観には現実認識と、それに基づく対応策の辺りで期待外れの感も大きい。

 ソーシャルワーカーは、現場で最大限頑張り、限界を超える部分は、幅広く政策提起していく「現場研究者」となって、「研究運動」を通じて社会変革していくことを目指すべきではないのか。研究者や当事者運動や労働組合等々と連携できる基盤や材料を作り出すのが重要ではないかと思うのだがどうだろう・・・

https://www.facebook.com/masaru.hirai.33/posts/2255666631209672



平井 勝

2019年9月17日 · 

『ソーシャルワーカー 「身近」を改革する人たち』は、「身近」な生活を重視するのは良いが、現行制度での限界をどうやって具体的に改革してベーシックな施策自体を変えていくのかという道筋やメカニズムの提示が弱いと思う。

 互助を強調した「地域包括ケアシステム」に批判的な執筆者の一人の中島康晴さんも結局は、地域での助け合いに向かい、介護保険の見直し志向等には行かない。中島さんの前著は好きだったのだが。

 社会福祉士と精神保健福祉士を統合して、新たに子ども家庭福祉士などは作らせずに、職能団体の力を強めて国レベルに意見していく力を増すというのはいい。しかし、中央団体が抽象的に意見するだけでは駄目だ。如何に現場から当事者の立場に立って考えられるか。

 日常的にどう働き、活動していくのかが見えないといけない。やはり、ソーシャルワーカーは要相談者主体の問題解決を行い、現場と研究者・運動体等を繋ぐ「現場研究者」、オルガナイザーとして地域を耕し・・中央に意見できる材料を作る、現場を分析する能力とスタンスが求められるのだと思う。そんな体制を職能団体が如何に支え、作っていけるかだと思うのだが。ソーシャルワーカーの組合加盟率が低いのも身分保障等の問題として大きい。

https://www.facebook.com/masaru.hirai.33/posts/2260067864102882

~~~~


追記 フェイスブックでの某W大学の教員が以下のぼくの書きこみにコメントをくれて、それが興味深かったので転載。
~~tu-ta書きこみ~~
再びっていうか、またまた『ソーシャルワーカー ─「身近」を革命する人たち』メモ(書きかけ)から
~~

日本のソーシャルワークには、法や制度へのの行き過ぎた順応がしばしば見られる。また法や制度だけでなく、社会環境それ自体を主体的に創造・変容していくという発想が希薄である。これらが相まって、ソーシャルワークとは何かという根本的な問いが問われることがほとんどなく、さらには、ソーシャルワークにおける社会正義とは何かという共通理解もまた深められずにいる。83p
~~
ココ、ダイジなとこだと思う。

~~tu-ta書きこみここまで~~
~以下、その人のコメント~

それはそのとおりなんですが、なぜ現場がそうなってしまって/そうせざるを得なくなっているのか。それを士業の協会長や経済学者が自らのすべきこと/できること抜きに評論家的に言ってるんだったら(違うのかもしれませんが)なんだかなぁ、って思っちゃいますけど。

~tu-ta~
確かに。
ここは日本社会福祉士会の副会長の中島 康晴さんが書いてますね。
~~




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