『闘う情状弁護へ』メモ

この本、サブタイトルは

「知的・発達障害と更生支援」、その新しい潮流

主に発達障害の人の更生支援について、多くの専門家のインタビューをベースに佐藤さんの知見が書かれている。執筆に踏み切らせたのは『更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論~再犯防止をやめれば再犯は減る』だったと書かれている。インパクトの強いいい本だった。

以下、出版社HP ルポ 闘う情状弁護へ http://ronso.co.jp/book/%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%80%80%E9%97%98%E3%81%86%E6%83%85%E7%8A%B6%E5%BC%81%E8%AD%B7%E3%81%B8/ から

内容

司法は「障害」をどう裁いてきたか。

2012年に大阪市で起きた「実姉殺人事件」と2017年津久井やまゆり園の「優生思想テロ」は連動している、とした著者の7年間にわたる〈法廷ドキュメンタリー〉の集大成。障害と犯罪と司法に新視点を導入する!

私の最大のテーマは、「障害/健常」などという分断の必要のない社会、そんな言葉自体がなくても暮らしていける社会がどうすれば可能なのかというものです。そんなことは非現実的な夢想にすぎない、と“リアリスト”を自称する人たちからは嘲笑されるでしょうが、ともあれ、自分自身の著作が背理であり、この背理をどうクリアしていくか。そのこともまた重要な課題でした。(「はじめに」より)

目次

はじめに 「障害と司法」というテーマをどう受け止めてきたか

プロローグ パラダイムの転換と〝新しい潮流〞の背後にあるもの 

 第Ⅰ部 ドキュメント 大阪地裁判決はなぜ求刑を上回ったのか

 第一章 二〇一二年七月、ある判決、噴出する批判
    ――アスペルガー症候群と裁判員裁判 

 第二章 加害男性の見ていた世界
    ――なぜこのような惨劇がおこったのか 

  第三章 男性は何を語ったか
    ――大阪に弁護団を訪ねて 

  第四章 高裁判決と弁護団のふり返り
    ――刑事弁護と情状弁護 

  第五章 出所者を福祉につなぐ
    ――「地域生活定着支援センター」の現状と課題 

 第Ⅱ部 「障害と刑事弁護」、その始まりと先駆者たち

  第六章  「知的障害」をもつ人の刑事弁護はどう始まったか
       ――「悪い障害者」は支援しないのか 

  第七章 副島洋明という刑事弁護人
       ――「金を払って弁護士を雇え!」 

  第八章  「自閉症スペクトラム障害」を初めて正面にすえて闘う
       ――二〇〇五年大阪寝屋川事件で少年の「障害」はどう裁かれたか 

  第九章  更生支援、まずは支援者こそ発想の転換を
       ――「ふるさとの会」の生活支援と司法との連携 

 第Ⅲ部 司法と福祉の協働が新たな「人権侵害」とならないために

  第一〇章 福祉の仕事は「再犯防止」か
       ――「更生支援計画書」の誕生、ある社会福祉士の危惧 

  第一一章 治療的司法と新しい「協働支援」
       ――排除型の裁判から社会包摂へ 

  第一二章 社会内処遇の新たな試み
       ――更生を支えるものはなにか 

  第一三章 協働的更生支援、これからの課題
       ――支援の理論と方法 

 エピローグ 新しい更生支援のその先へ


読了してすぐに読書メーターに書いたメモ

3月20日の(この本の奥付の発行日は3月19日)「津久井やまゆり園事件を考え続ける会」主催の集会で、某HMさんに売りつけられて購入。でも、いろいろ興味深い記述があり買って正解。 佐藤さんの講演会は以前、聞いたことがあったのだけど、知り合ったのは最近。東京TS関係者が多数登場。かりいほやふるさとの会の話、水藤さんの詳しい話など。本のタイトルは、たぶん、佐藤さんの思い入れが込められているのだろうと思うが、売るためには内容に即した違うタイトルがあってよかったんじゃないかと思う。

まず、印刷屋として、組み版の感想。

本にぎっちり文字がつまっている、9ポぐらいだろうか? おろらく、通常の本の文字の大きさにしたら、あと100頁くらい必要だったのではないかと思われる。そして、この大きさの文字でももう少し読みやすいフォントはなかったのかと感じた。UD系のフォントとか使うと、もう少し読みやすかったかも。


以下、本に貼ったふせんにそって。


はじめに 「障害と司法」というテーマをどう受け止めてきたか

「はじめに」で佐藤さんは障害者の犯罪をテーマに本を書いてきて、彼らの特性を浮かび上がらせようとすればするほど、「障害/健常」という分断線が引かれることになり、これは佐藤さんにとって背理だった書いた後で、以下のように書く。

わたしの最大のテーマは、「障害/健常」などという分断の必要のない社会、そんなことば自体がなくても暮らしていける社会がどうすれば可能なのかというものです。 ・・・(中略)・・・ともあれ、自分自身の著作が背理であり、この背理をどうクリアしていくか。そのこともまた重要な課題でした。 ⅳ頁(太字、引用者)

そして、もう一つの課題(?)として以

 もう一つありました。わたしの訴えが「障害者だから罰を免じてほしい。許してほしい」という昔ながらの、優しさと思いやりの「障害者擁護論」とみなされることが少なくなかったことです。結果、「その考えはおかしい。障害者と言えども、罪は罰せられるべきだ。責任はとるべきだ」という、わたしからすれば的外れの批判が向けられることも少なくありませんでした。(中略)、私の訴えはむしろ反対です。「その責任に応じてしっかりさばいてほしい」というものです。ただし、ここには続きがあります。「そのためにも、彼らの障害をきちんと理解してほしい」。そういう訴えです。ⅴ頁

上記の二つの問題意識はとても共感できるものだった。そして、「はじめに」の最後のほうに記載される「再犯防止と更生支援」の違いの大切さが、【「福祉」がもつ性格の、深いところへの問いかけを含む問題】(ⅶ頁)という提起も深いと思う。


  プロローグ パラダイムの転換と〝新しい潮流〞の背後にあるもの

佐藤さんは明確に以下のように言い切っている。

「再犯防止」や治安維持に反対する国民はいない。安心と安全は社会の基盤である。しかしそれが、ときに一人の人間( 「罪を犯す障害者」) の、大きな権利侵害・心理的物理的侵害によってもたらされるならば、本末転倒である。詳しくは第6章で述べるが、更生支援と再犯防止は異なる。福祉の側がこの感度をどこまでもつことができるか。捜査機関の下請けや肩代わりになってしまうようであれば、 障害をもつ当事者のみならず、社会にとって大きな脅威となる。7p

上記のこれがこの本のテーマに直結している。単純だが深い問いかけだと思う。

 第Ⅰ部 ドキュメント 大阪地裁判決はなぜ求刑を上回ったのか

  第一章 二〇一二年七月、ある判決、噴出する批判
      ――アスペルガー症候群と裁判員裁判

 以下、浜田寿美男さん( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%AF%BF%E7%BE%8E%E7%94%B7 )へのインタビュー、情状が裁判員に影響している状況を説明した後、以下のように述べる。

・・・一方で、更生可能性に対して裁判員がどこまで配慮しているのか、そのことが、裁判員裁判では反映されていないのです。将来的な更生可能性よりも、裁判員の同情を引くかどうか、裁判がそういう方向に走りがちになっています。更生の方向で処遇や取り組みがいろいろとなされるようになっていますが、量刑判断のさい、それがどこまでメッセージとして裁判員に伝わっているのかは疑問です。ここは再考すべきでしょう。21p

ここで裁判員裁判では更生可能性が反映されていないと言っている。量刑判断と更生可能性は裁判でリンクさせるべきという主張に読めるのだが、どのようなロジックでリンクさせることになるのだろう? そして、その更生可能性はどのように判断することになるだろう。


また、この直後に浜田さんの以下のような発言が書かれている。

・被害者参加については、事実認定の部分では参加すべきでない。

・二段階に分け、事実認定が明らかになって、量刑判断のところで、被害者や遺族が出てきて陳述するのが筋。

・日本の刑事訴訟の問題として、事実認定と責任追及を分けていない。分けるのが大原則。

22p

後藤弘子さん( https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%BC%98%E5%AD%90 )へのインタビュー、「社会の受け皿がない」(から刑期を厳しくした)という一審判決について

「『社会の受け皿』はわたしたちは作っていかなければいけないわけです。犯罪についての議論でいちばん欠けているのは、犯罪者を作った責任が社会にはある、だから責任を分担するという視点です。分担の一つが『社会の受け皿』です。早期に障害やその他の部分に気づいて対応していれば、犯罪者にはならなかったという人は大勢いるはずで、そうした側面を無視してきたのです。犯罪予防に失敗したという責任を、多くの人が見ていないのです」26p

ほぼその通りだと思う。ただ1点だけ、「犯罪予防に失敗」とか言われてしまうと、 違和感は残る。言い方の問題だけど・・・。必要なのは予防ではなくて、その人がその人らしく生きていけること。


  第二章 加害男性の見ていた世界
       ――なぜこのような惨劇がおこったのか

この章は2012年7月判決の話。アスペルガーの成年が姉を殺害し、求刑以上の判決が出た事件だが、その事件の概要が書かれた後、著者の松本俊彦さんへのインタビューが紹介される。そのインタビューで気になったのが以

「発達障害のの人たちは外傷に会いやすいし、外傷に対する脆弱性を持っているのだろうと思います。発達障害が直ちに犯罪の危険因子になるとは思わないですが、外傷化した子供達については、高くなる傾向がありますね。発達障害の人たちが重大犯罪をなしたとき、”モンスター”にしてしまったのは、ひょっとしたら国民の方かもしれないという意識を、特にメンタルヘルスの支援関係者にはもってほしいし、裁判員になった人たちも、そのことを認識してくれるといいと思っているのですが」38p 

ここで再び、植松死刑囚の話を思い出す。彼もなんらかのトラウマを抱えていたのではないか。何が彼をモンスターにしてしまったのか、そんな視点が必要なのではないか。

また、松本さんは民間の団体をサポートする医療に報酬がつくような仕組みが必要という(39p)。その通りだと思う。報酬があまりないと思われる中で、カンファレンスを開催し、そこに参加してくれる精神科医は本当に少ない。


  第三章 男性は何を語ったか
       ――大阪に弁護団を訪ねて 

52頁からの山本譲司さんへのインタビューで日本の刑務所が『懲役刑』をとっていて、それは働かせるだけ罰であり、先進国では珍しいという(53p)。そして、こんな風に語る

「 あのなかにいれば、極端にいうと、一日中何も考えなくてもいいという人間になるんです。人とのコミュニケーションが苦手な人たちにとっては、こんないいところはない。ただし思考停止状態が長くつづけば、当然のごとく社会性がなくなっていきます。そうなると社会復帰が難しくなり、もう刑務所を終のすみかにせざるを得なくなる。

 (中略) 『罰』と称して長期収容しておくのか、福祉で支えた方がいいのか、その結論はおのずと出ているのではないでしょうか。福祉にも変わってもらう必要がありますが、福祉の支援によってソーシャルスキルを身につけてもらったほうが、よほど再犯防止になるでしょう」55p

 ここでも、やはりその通りなんだけど、「再犯防止かよ」と思う。確かに、世間の通りはいい言葉ではあるんだが、再犯予防とか再犯防止とかの言葉が前に出すぎているんじゃないかと思えてならない。


  第四章 高裁判決と弁護団のふり返り
       ――刑事弁護と情状弁護 

この章の結語近くで、辻川佳乃弁護士(先の事件の二審の主任弁護士)によれば、としてオーストラリアの事例が紹介されていて、そういうありかたが求められているのだろうかと思った。

 辻川によれば、オーストラリアでは、司法の仕組み自体が違うという。事実認定をし、有罪か無罪かを決める。有罪であるということになったら、量刑や処遇を決めるのに、裁判官が「ジャスティスプラン(更生支援計画書)を作りなさい」、と命じるのだという。それを参考にして量刑判断をする。 日本のような懲役のほかに 社会内処遇があり、中間的な処罰があり、福祉施設に入って更生プログラムを受ける、社会奉仕をする、そういう判決が下されることもある。

「 日本においても、障害のある人については、それが必要だと思います。(日本でも)(この括弧、引用者挿入)ジャスティスプランを裁判のときに情状として出す。でもこれは何の法的裏付けもないのです。更生支援計画は、社会福祉士の方が個人で出したりしている。あちこちで紹介しているので、少しずつ浸透していますが、しっかりとしたものを作れる人はまだ少ないのですね。でもそんなに難しいことを求めているわけではなく、通常の福祉の支援をやってもらえればいいんだと個別にお願いしています。南高愛隣会ではそれを組織としてやろうとしています。現行法でできることはやっているのですが、根本的に法律を変えていかないといけないと思っています。88-89p

ここもその通りだと思うが【更生支援計画は、社会福祉士の方が個人で出したりしている】のではなく、ほとんどの場合、弁護士の依頼で社会福祉士が作っているのではないか?


  第五章 出所者を福祉につなぐ
      ――「地域生活定着支援センター」の現状と課題 

興味深かったのは、大阪地域定着支援センターの益子千枝さんへのインタビュー(2012年)(とそれへの佐藤さんの応答)で、益子さんはやはり受け皿探しは大変だと答えている部分。大まかに二分して時間がないケースでは住民票が職権削除されている場合は、これまでの人脈で頼めるところに依頼して、とりあえず生活保護につなげる。

 もう一つ、準備に時間が取れる場合、手帳をとれる場合はとってもらって、相談支援につなげる。97-98p

ただ、それだけでは終わらないともいう。

「これまで環境を整え、福祉のサービスにきちんと入れば再犯はしない、という考え方だったのですが、いくら環境を整えてもドロップアウトしてしまう人がいます。これまでかかわった人の約半分ほどが、事件を起こしたときに生活保護を受けていた人です。手帳をもっていたり作業所に通所していたりして、福祉の支援がまったく届いていなかった人ではないのです。プラスアルファの工夫をしていかないと、再犯は防ぐのは難しい。そこへのアプローチが、これからの定着支援センターの課題だと思うのですね」

 プラスアルファの工夫。私見を簡単に述べるが、結論めいたものの一つは、居住を確保し、さまざまな社会サービスを用意しても(ソーシャルマネジメント)最後に残り課題がある。それは「関係の支援」であり、本人の周囲に、他者との関り(互助関係)をどうつくるか、信頼できる他者をどれくらいつくれるか(ケアマネジメント)。おそらく、益子の指摘はここに関連してくる。第八章で最後触れたい。・・・98-99

 このコメント、基本的にはこの通りだし、現実もこのようなものだと思うのだが、益子さんの発言を含めて、少し違和感が残ったのだった。「福祉のサービス」の供給者はその当事者と関係を作ることができずに、【「福祉のサービス」の供給者】と呼べるのか。この「つながった」「福祉のサービス」の側の問題が大きいのではないか?生活保護にも作業所にも支援者はいるはず。その人たちがどうして「互助関係」「信頼関係」を作れないのか、そこが問われる必要があるのではないかと、天に唾するように思うのだった。

あと、いいなぁと思ったのは大阪地域定着支援センターが関西エリアのトラブルシューターネットワークとつながっていると思えるような記述。100-101p

そしてこの章には、東京定着の2012年当時の所長、赤平さんのインタビューもある。

まず、1200万人もいる東京で地域生活定着支援センターが一つしかないってありえないと思う。これを佐藤さんも赤平さんも強くは指摘していないところが気になった。で、東京定着の人の話、おおたTSのイベントで聞いたことがあったけれども、やはり地元の地域資源のことを知らないから、話がズレてるなぁと思うことがあったのを思い出した。いい人だったんだけど。

 この赤平さんが府中刑務所で「社会福祉講座」をやっていたという話は興味深かった。福祉とは特別なものではない、社会で暮らしていくためにどうすればいいかを伝える時間で、自由のない刑務所の中だが、ここでは自由な論議をやっている、そして、こんな時間があるのは府中刑務所だけだと思う、とのこと。2012年のインタビューで(103-104p)。 

 読んでいて思ったのは、地域生活定着支援センターが都道府県単位というのはどう考えても圏域として大きすぎる。この仕事こそ、地域に密着しなければできないはず。

各地域での地域定着支援センターは、ネットワークのハブ的な機能を持って、トラブルシューター(TS)(この名前すきじゃないけど)的なネットワークがあって、ここに行政の障害者支援部門や社協や社会福祉士会や保護司会とかも水平な形で入って、古い保護司会の体質を変えつつ、ネットワークを有効に機能させることじゃないか。各地域のTSネットワークがその先行事例となればいいと思う。

113頁からは裁判員制度についての話だ。佐藤さんは、「三権分立」の危機の中で、せめて裁判参加の道を担保しておくことは大事なことではないかとして、橋爪大三郎の『裁判員の教科書』を援用する。

「刑法が処罰の対象とするのは、同じ市民のうち、有罪の嫌疑がかけられている人びとです。つまり、自分たちの仲間です。仲間が、人権を制限する刑事処罰を受けようとしている。それを人任ひとまかせにせずに、自分たちでチェックして、ぬれぎぬや冤罪から仲間を守る。これが、裁判員裁判の、発想の根本です。さもないと、うかうかしているうちに、司法権力が暴走して、自由勝手に市民を裁くことになりかねない」113-114p

この文章を引用したうえで、佐藤さんは司法権力のブラックボックス化を押し止めるためにも、裁判参加の道は担保しておくべきではないか、と書く。114p

書かれていることが実現すればすばらしいとは思うが、今の裁判員裁判が司法権力に対するチェック機能を果たしているかと言えば、そうは言えないのではないか、と思う。

裁判員裁判を市民側のものにしていくためには、 今の制度ではなく、別のものに変えていく必要があるのではないか。現状の制度は、裁判員になった人への教育もなく(この本でその必要性は書かれているが)、裁判所側の説明で情緒的な雰囲気に流れてしまっているだけではないか、そんな気がする。ここは佐藤さんと意見が異なる部分。

 例えば植松死刑囚の裁判を振り返っても、市民による参加が可能になったとは思えない、と書いて思った。

 一般的な市民の感覚では、事件の背景に何があったかとか、ここで死刑にしてしまったら大切なことが究明されないままになる、など真相を究明すべきという風には考えないのかもしれない。最低限の形を整えて、できるだけ短い期間で判決を出すというレールが裁判所と国選弁護人の間で敷かれ、その路線に被告が同意した時、こんな結論が導き出されるのではないか。植松死刑囚がどのような背景でこの思想をもつに至ったのか、それは防ぎようがあったのか、なかったのかというようなこと、本人を殺してしまっては検証できないはずなのだが、それらは考えられないまま、判決が導かれる。

 そんな裁判員制度なんだけど、確かに裁判官が裁いても同じ結論だった可能性は高く、比較してどちらがどということは言いにくい。しかし、津久井やまゆり園事件の真相をもっと深めて欲しいと考えた時、「普通の市民感覚」を裁判に取り入れることがプラスに働くとは考えにくい。どんな制度設計が求められるのだろう。それとも「闘う情状弁護」があれば裁判員の考え方に影響をもたらすことができるだろうか。また「闘う情状弁護人」と誰でもが出会えるわけではない。そんななかで、そこに依拠する危険もあるのではないか。


  第Ⅱ部 「障害と刑事弁護」、その始まりと先駆者たち

  第六章  「知的障害」をもつ人の刑事弁護はどう始まったか
       ――「悪い障害者」は支援しないのか 

副島洋明弁護人(故人)との出会いという話からこの章は始まる。彼が主導したレッサーパンダの帽子をかぶった犯人の事件での弁護団の方針について、佐藤さんは以下のように書く

 裁判にはいくつかの争点があった。まず、「自閉症」という障害診断をめぐって、日本の刑事法廷で初めて争われた。「自閉症」というファクターを入れることによって、男性の行動も動機も不可解で異様、とだけ見えていた事件の全容が初めて明らかになる。そう弁護団は飛翔した。この論陣を主導し、重要な役割を果たしたのが高岡健だった。検察側は、「自閉傾向はあるが『軽度の知的障害』という診断で十分に説明可能」と反論し、激しく争われた。

 加えて弁護団は責任能力論議を前面に出すことはせず、被告の生育歴の悲惨さ、孤立した家族史、居場所のない卒業後の暮らしなど、詳細に自分の人生を語らせようとした。福祉関係者などの上場承認に次々と法廷で証言してもらい、いわゆる「情状弁護」をフル展開させようとした。これはまさに副島流の「闘う情状弁護」だった。 121-122p

 これが本書のタイトルとなる。この後、この裁判の弁護の特徴として、捜査の違法性を厳しく訴えたことをあげるのだが、それを含めて「闘う情状弁護」と言えるだろう。

この言葉への著者の佐藤さんの思い入れは分かるのだが、この言葉をタイトルに持ってくることが本の購買意欲を上げるとは思えないのだった。しかし、本作りのプロフェッショナルがそのように言うのであれば僕の考えが間違っている可能性も小さくはない。

124頁からは副島さんの『知的障害者 奪われた人権――虐待・差別の事件と弁護』が紹介される。興味深かったのは、白河育成園事件の話。
(この事件について詳しく知りたい人は Masayuki Ikeda M.D. のブログ https://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/shirakawa.html へ)

この白河育成園は廃園になるのだが、副島さんの記述が引用される。

「私は一部の保護者から『副島先生は地域で暮らすといいますが、そんなことはきれいごとです。地域福祉はわたしたち障害者の親を地獄におとしいれるものです。入所施設があって、子どももわたしたちもなんとか生きていけるんです。それがどうしてわかってくださらないのか』と非難もされてきました。 

 その非難のことばのもつ”生きる現実”を決して軽視したり考えが違うとして頭から否定するつもりはありません」

 このとき、施設があってこそ生きてこられたのは自分も同じだった、と副島さんは書く。そして、昔の自身の家族事情に触れる。妹が重度の障害者であり、若かった頃、妹の世話や負担で自分の人生が塞がれるように感じられたこと。身の始末さえできず、どうやって自分の生活を決められるのか、と。しかし「当事者が『施設はイヤだ』というのに、『ダメだ、施設に行け』ということはわたしにはできない」。親のためにこの事件に取り組んだのではない。あくまで当事者のためだ。そう考えて何度も話し合いをもった。本当に出たいのか。出てどうするのか。そんな逡巡があって以下のように続けられる。

 「彼らは『ここはイヤだ』『出たい』という強い気持ちをもっていました。出てどうなるか、また再び施設にということになるのではないかということがわかっていても、私のかかわりはやはり当事者たちの気持ちをくみとっていく活動なのだと踏ん切ったことに間違いありません。そしてことのき、副島は「無責任だ」と多くの人たちによって非難された。127-128p

この後、さらに副島さんの本からの引用があり、彼の身に応えたのは、当事者に力がないから、地域生活は無理だという批判ではなく、知的障害の人たちが地域で生きる実践を切り開いてやっている人たちからの、そのための支援と力がないのに無責任だという指摘だったと書かれている。


以下 https://square.umin.ac.jp/~massie-tmd/shirakawa.html から引用

白河育成園問題の背景

ご存知ない方のために白河育成園問題を簡単に説明する.知的障害者入所施設白河育成園(福島県西郷村、渡辺留二理事長)は,88年8月、無認可の「生活ホーム」として開設され,96年1月に福島県から認可された。園生の8割が東京都出身で、都内の区、市から運営費が支給されていた.97年4月、職員の内部告発をきっかけに,園生への暴行,医師免許を持たない理事長による薬物の過剰投与などの問題が表面化した.97年11月には刑事告発,98年1月には園生全員の退所,廃園,98年2月には渡辺理事長が医師法違反と暴行容疑,元職員の男性が暴行、別の男性が傷害容疑で,福島地検に書類送検された.

白河育成園のような極端な事件があちこちで起こっているわけではない.しかし,事件の原因となった問題は我々の身近にある切実な問題である.頭のおかしな理事長と一部の職員の横暴だけで片づけるわけにはいかない深刻な問題が,この事件の背景にある.

(以下略)


  第七章 副島洋明という刑事弁護人
       ――「金を払って弁護士を雇え!」 

この章にでてくる副島弁護士と山本譲二さんの話が面白い。142p

『山本さん、よくぞ服役してくれました』と話し始めたという。

そこから「触法・虞犯障害者の法的整備のあり方検討会」の立ち上げにつながり、地域定着センターの制度化につながっていく。

145pではこの章のサブタイトルである「金を払って弁護士を雇え!」という話がでてくる。朝日新聞の村山正司記者の追悼文のタイトルでもあり、そこに以下のように書かれているという。

「・・・。

 ここには副島弁護士のいくつかの主張が込められているように思う。一つは、市民や弱い立場の人人間が、カネを払うほど自立してほしいという願い。もう一つは、当事者は弁護士ではなく、あくまで雇う側であって、その当事者性の象徴がカネだという思想」

そして、興味深いのが、そこからの流れでこの章の最後に展開される福祉と司法の関係をめぐる考察。

副島さんの変化について、その追悼文の中で村山記者は以下のように書く。(のを佐藤さんは引用している)

「・・・。障害者にある種の『聖性』をまとわせ、良い障害者なら助けるが、悪い障害者を助けない、となりがちな健常者(支援者)の身勝手を糾弾するとトーンが強くなった。 善悪の仕切り線が揺さぶられていた。 ・・・」

それについて佐藤さんは「(副島弁護士)が人権派弁護士からその先へ進み出ようとしていたのだが、村山の理解は違っていた。そこからが拙著への批評になる」として、さらに引用を続ける。

「そもそも『カネを払って弁護士を雇え』にも、主体性を確立してほしいという副島弁護士の『善意』が含まれている。旧来の福祉関係者の思考からは抜け出ているとはいえ、保護と自立の身をよじるような相克は残る。 そこを突っ込みすぎると、福祉という概念が崩壊し、無用論や無関心に向かいかねない。ただ、さまざまな面で過剰だった副島弁護士は、裁判の勝ち負けのほかに、福祉業界のロゴスに突っ込んでいたざるを得なかったようだ

 佐藤氏の『自閉症裁判』や『知的障害と裁き』は副島弁護士の特徴と問題点をよく描き出していると思う。・・・

  千葉東金事件で、被告が副島弁護士を拒んだ理由が『それまで生きてきた自分と向き合わせること』だったという佐藤氏の指摘もたぶん正しい。しかし、それは佐藤氏の言うような『保護性の強いスタイル』なのか。副島弁護士からすれば、『自立への促し』だったのではないか。それを客観的には。『きわめて福祉的』というのだとしても」147p 

佐藤さんはこの指摘に同意し、「宿題とすべきたくさんの示唆がある」として、『知的障害と裁き』に書いた以下を紹介する。

 「では福祉と司法が相互乗り入れすることで、問題は解決するのか。受け皿となる現場がいまもっとも苦慮していることは、相乗りすることによって必然的に孕んでしまうジレンマによるのではないか、と書いた」

そして、それぞれが逆のベクトルを持っているという自著を引用し、この章を閉じる。


  第八章  「自閉症スペクトラム障害」を初めて正面にすえて闘う
      ――二〇〇五年大阪寝屋川事件で少年の「障害」はどう裁かれたか

この章では「孤立をどうしたら防ぐことができるか」(164p~)という節が興味深かった。支援における動かしがたいセオリーとして、佐藤さんの著書『17歳の自閉症裁判』の文庫版あとがきから、以下が引用され、続いて自立支援法について言及する。

「事件取材を続けてきて改めて痛感することは、『孤立』をどうしたら防ぐことができるかということだ。 『自立』と孤立は異なる。自立とは、自分が生きていくために必要な、ひととの『つながり』 を作っていくことだ。寝屋川の少年も浅草で事件を起こした青年も、自立したいと強く望みながら、孤立し、その果てで、痛ましい被害者を生んでしまった」

 浅草事件の取材中に自立支援法を読んだ時、ここで言われている「自立」は、「孤立のすすめ」 ではないかと思えた。・・・ 162p

そしてこの少し後に『支援の基本的なセオリー』として3つ を挙げる。

1、「基本的な信頼関係」をどうつくるか。 信頼できる「ひと」の存在の重要さ。

2、安全で安心な「居場所」

3、 社会につながることができるか。

これらを言い換えれば、「孤立をどう防ぐか」。ここに絞り込まれていく。163p 

よくある安全と安心の並列は気になるけれども、基本的にそうだと思う。


  第九章  更生支援、まずは支援者こそ発想の転換を
       ――「ふるさとの会」の生活支援と司法との連携

この章の冒頭でメモの最初に触れた、執筆に踏み切らせたのは『更生支援における「協働モデル」の実現に向けた試論~再犯防止をやめれば再犯は減る』だったと書かれている。

ぼくもこの本には強いインパクトを受け、たこの木の連載でも触れたしhttps://tu-ta.at.webry.info/201808/article_1.html 長い読書メモを3つも書いている。 

https://tu-ta.at.webry.info/201903/article_4.html

https://tu-ta.at.webry.info/201904/article_4.html

https://tu-ta.at.webry.info/201911/article_3.html

(そして、よく考えたら、この本の読書メモ、書き終えていない。)この本に関しては、多摩市で読書会もやった。

で、この章のメインは「ふるさとの会」が立ち上げた「更生保護法人同歩会」の常務理事 秋山雅彦さんの報告。

刑務所に入る人が減っていて、満期で出る人も減っている。それらの数字や、支援は出口支援から入り口支援へ変ってきているという話が紹介された後、以下のような発言がある。

「刑務所全体の規模を小さくして、社会の中で医療プログラムを受けるとか、薬物の人は依存症支援団体のダルクに行くとか、 社会内処遇を条件に、刑務所に入れないようにしますという方向に進んでいます。逆に刑務所にいながら、外で仕事をして、終わったら刑務所に戻って来る。あるいは逮捕勾留になって矯正プログラムを受けなければならないが、刑務所ではなく更生保護施設に入って、そこで受けなさい、更生保護施設に入ってもらうけれども、夜間は門限があるから夜間だけは外出禁止にしますよ。そういう方向に変えていこうという動きになっています」177p

前半の方は部分的にすでに実現しているところもあると思う。しかし前半部分もまだ部分的だし、後半に関してはまったく実現していないのではないか。この文章ではどこまでが実現していて、どこからがまだ実現していない部分なのかが不明なのだけど。 

そして、これに続く部分、この本にも何度か触れられる大切なとこだ。

「山本譲司さんがもっている不安は、福祉が刑事施設化しないかということです。ふるさとの会の立場から言えば、地域社会の中で刑罰の実施を進めていこうというのがこれからの流れですから、更生保護事業と困窮者支援事業をやりながら、社会内処遇のいろいろなケースの人とのかかわりが増えていくわけです。そのときかかわり方(生活支援)がどうなるか、それがふるさとの会のこれからの課題になっていく気がします」117p

福祉は従来の刑事司法とは逆のベクトルを持つ行為だが、修復的司法(あるいは正義)とは相性がいいのではないか。そして、この本では、明らかに修復的正義とか修復的司法の手法だといえるものに対しても、その言葉が使われていないのはなぜだろう?というのが気になった。


 第Ⅲ部 司法と福祉の協働が新たな「人権侵害」とならないために

  第一〇章 福祉の仕事は「再犯防止」か
        ――「更生支援計画書」の誕生、ある社会福祉士の危惧

この章ではまず、日本で最初に更生支援計画を作ったとされる社会福祉士原田和明さんのインタビューから始まり、さらに彼にその作成を依頼した弁護士谷村慎介さんへのインタビュー。最初に紹介されるのは原田さんも名前を連ねた日本社会福祉士会への要望書。

内容は『捜査機関への社会福祉士配置案に絶対反対の立場を表明することの公開要望書』

2018年1月31日付とのことだから、ぼくがその資格をとった後なのだが、知らなかったというか覚えていない。で、なぜそれに絶対反対なのかということがこの章のテーマとのこと。

以下は谷村さんの話から。

この直前に書いた話だが、具体的には193頁に記載されている賽銭箱をひっくり返して、柱や階段を傷つけてしまった事例はあきらかに修復的司法の事例だといえるだろう。

この例では「・・・神主さんがいるときに本人に清掃してもらうという形です。本人は、その後、きちんと、清掃奉仕を続け、それを神主さんに認められて、別の神社の工事のアルバイトで雇ってもらい、お金まで稼ぐことができました」とのこと。

で、最初のこの章のテーマの話に戻る。

すごく簡単にしてしまえば、起訴か施設入所かという選択をつきすけるような検事への手伝いを社会福祉士としてやっていいのか、という話だ。起訴を免れるために施設に行きます、というようなことをどう考えたらいいのだろう。

原田さんはこんな風に言っている。

「福祉の支援があり、行き場所があるから不起訴にする。行き場所がなかったら再犯の可能性が高いから起訴する。そんな話のなかで、社会福祉士は”起訴されないような形での自己決定”を本人に求めるのか。それはソーシャルワーカーとしては話の筋が違うと思います」198p

・・・

「もし本人が『起訴されるんなら施設に行きますわ』という自己決定をしたとして、それがちゃんと段取りをして、入った後のフォローまで、地域の相談支援の人と一緒にその検察庁にいる社会福祉士さんはやるのか。それはやらないわけです。以前、神戸地検が社会福祉会に協力を求めてきたので、その業務内容の文章を見たのですが、本人さんと30分ほど面談をして、口頭で更生支援計画について伝え、後ほど書面で上げてきて、そこで終わりです。もちろん起訴するかしないかの判断は検察官ですから、それを書いた社会福祉士さんは、結果は分からないわけです。検察官が後で伝えるかもしれません。でも、その更生支援計画書の通りに支援をするのは誰かと言ったら、検察庁の社会福祉士ではない。その福祉士さんは全然かかわらないわけです。それは話としておかしいのではないか」

 以前、ある雑誌の座談会で、地検では「時間がない中で、野戦病院の中のような感じでソーシャルワークをやっているんだ、トリアージなんだ」と、得意気に述べる社会福祉の発言を読み、「社会的権威」を得た現状を誇るようで、大きな違和感を覚えたことがある。199p

・・・・

「・・・(起訴された)あとの支援は誰がするのか。そこがぼくらの仕事ではないか。アフターケアが何もない中で検察に社会福祉士を付けるのはどうなのか。起訴か不起訴かだけに社会福祉士ってどうなのか。だったら出てきた後まで面倒を見てやれよ、という話ですね。むしろ起訴される人の方が支援のニーズは高いのですから」200p


確かに、福祉のあり方として問題だというのは間違いない。このような形で福祉とつながることは、とてもいびつな形ではある。しかし、いまの刑務所に本人の回復のための有効なプログラム、社会に出てからの支援と連携してつながるようなものもほとんどない。

そんな現状の中で、社会内処遇のほうが本人の回復につながるのは明らかである。同時に、既存の刑事司法に乗って刑務所で懲役するのと比べると社会内処遇のほうが格段に回復には近いはず。そして、弁護側にかならず福祉の知識があればいいが、そうとは限らない中で、検察が社会福祉の地域資源を知るために、そういう人を配置したいという話に単純に反対していいのだろうかという疑念も残らなくもない。

刑務所や検察という場所に配置された法務省の関係の社会福祉士には当事者を「お前呼ばわり」したりという「上から目線」があるという指摘があり、原田さんの「法務省の関係の社会福祉士になると、みんな自分は権力をもった、権威になったと勘違いている。ソーシャルワーカーは権力をもったらダメなんです」という発言が(もう少し長く)紹介される。ありそうな話だと思う。そして、佐藤さんもそれを支持する。さらに社会福祉士は、そのあたりをめぐって二分されているという議論の紹介と、職域拡大のための福祉も権力として動くべきという考えに社会福祉士会がなびいているという指摘がある。202p

ぼくも、いまの日本社会福祉士会のありようは権力寄りになびきすぎているように感じるし、そこは是正されなければいけない、もっと現場に近いところに日本社会福祉士会は立つべきだと思うけれども、法務省関連への社会福祉士の配置が必ずしも間違っているとは思えない。そこで、受刑者や逮捕者のために、なんとかしようと軋轢の中で努力している社会福祉士はいるんじゃないかと思うし、そういう人の必要性はあると思う。問われているのは、それを否定するのではなく、そういう人がちゃんと当事者のために働けるようにするために法務省がもっと変らなければならないという部分を強化することなんじゃないかと思う。

と、書いたところで、次の頁を読むと、原田さんが、ぼくが書いたのと、ほぼ同様の趣旨の発言をしているのが紹介されていた。(ばかな読み手)

「刑事司法は遠いところにある、と他人事のように考えている人がほとんどだと思います。それが現実です。ぼくらは検察に社会福祉士を置くことを全否定しているのではなく、置くのならばソーシャルワーカーとしてちゃんと機能するようにしないといけない。権力や権威のための助言者ではあかんですよ、ということですね」202p

 ここにも繰り返し書いてあるように、福祉が権力や権威をもってはいけないとぼくも思う。しかし、同時に「支援者」という立場が拭い難く持っている「権力性」にも敏感である必要があるのだと思う。当事者と支援者という壁を壊して、ぐちゃぐちゃでわけがわかんないくらいになればいいと思う一方で、どこまでいっても支援者は支援者だよな(それってダメじゃん)という思いも残る。

そして、メモしておこうと思ったのが、204pの注にある精神科医井原裕の『精神鑑定の乱用』という本のこと。ここでの主張の一つは、弁護人が「責任能力なし」の主張を、法廷戦術として多用することへの批判、だと書かれている。


  第一一章 治療的司法と新しい「協働支援」
        ――排除型の裁判から社会包摂へ

 この章は東京TSを立ち上げた浦崎さんを訪ねてという節から始まる。浦崎さんのホームページの話が書いてある(206p)ので探したが見つからなかった。東京TSの立ち上げの話もここで紹介されている。(209p~)

そして、司法と福祉の微妙な関係の話もでてくるが、連携は必要だが、そこには危ういバランスの上に成立している、という以上のことが書いてるようには思えなかった。

次に紹介されるのは今(2020年)の東京TSの共同代表の中田さん。中田さんの話で興味深かったのは「治療的司法」(therapeutic justic)の話。これを検索したら、成城大学の「治療的司法研究センター」というのが出てきた。https://www.seijo.ac.jp/research/rctj/ ここにこの言葉の説明がある。

治療的司法という言葉は英語のtherapeutic justiceの訳語ですが、刑事司法制度について犯罪を犯した人に対して「刑罰を与えるプロセス」と見るのではなく、犯罪を犯した人が抱える「問題の解決を導き、結果的に再犯防止のプロセス」と捉えようという考え方、すなわち治療法学(therapeutic jurisprudence)に基づく司法制度を指します。

 既に諸外国では、こうした考え方に基づいて実際の刑事司法がデザインされていて、そうした裁判制度は「問題解決型司法(problem solving court)」と呼ばれています。具体的には、薬物依存症者を対象にした「ドラッグ・コート(Drug Court)」や精神障害犯罪者を対象にした「精神障害者コート(Mental Health Court)」、DV加害者を対象にした「DVコート(Domestic Violence Court)」などが有名です。

 犯罪を行った人の中には法律で禁じられた行為に至るまでに、その生活で何らかの原因(各種の依存症)や生活上の問題を抱えている場合が少なくありません。そうした原因・問題を除去することができなければ犯罪を繰り返すこと、再犯に容易に至ってしまいます。もちろん刑罰による犯罪抑止効果を否定するものではないのですが、現在、世界各地で刑罰では抑止できない行為を色々な科学的知見に基づく治療法や解決法によって抑止する機会を司法制度の中に取り込む工夫が進められているのです。それこそが、治療的司法という考え方です。

で、本の話に戻って、この章で次に紹介されるのが東京TSのもうひとりの共同代表の山田さん。依頼された仕事の40%の人に障害があったとのことだが、この本では分母と分子がちょっとわかりにくい。そして、【「司法福祉」の課題はなにか】という節で、映画『プリズンサークル』がとりあげたPFI刑務所、島根あさひなどが肯定的に紹介されるが、山田さんが弁護した人のなかでPFI刑務所でプログラムを受けた人は一人もいない、それくらい狭き門だ、とのこと。司法福祉の課題については以下の発言が紹介されている。

「わたしは、刑務所が無くなればいいとまでは思っていないですし、刑務所の処遇が改善されれば障害のある人たちが社会に戻り易くなるとか、そういう簡単な話ではないと思います。中の処遇がよくなってほしいとは思うけれども、刑務所はあくまで刑務所です。ただ、障害のある人に十分な対応は出来ていません。受刑するだけでは問題は解決しないとわたしは思います。では、どこで生き直しを図ったらいいのか。犯罪をくり返すごとに、居場所もチャンスも失ってしまう。そうした『負のスパイラル』をどこかで断ち切らないといけないというのが、司法福祉の課題です」232p

そのために立ち上げたのが東京TSで山田さんが独自に取り組みを始めたのが足立TS、とのこと。この足立TSの立ち上げの集会でぼくは佐藤さんの話を初めて聞いたのだった。 


  第一二章 社会内処遇の新たな試み
        ――更生を支えるものはなにか 

この章では松本俊彦さんの取り組みが紹介される。

法務省が社会内処遇の重視へ舵を切った。その一つが2016年より始まった薬物依存者への「刑の一部執行猶予制度」とのこと(237p)。個人的にはどの程度舵を切ったのか微妙な部分もあるとぼくは思うけど。

で、松本さんはこの制度について、「一歩前進だと思って、応援してきたけれども、実際に制度が始まってみたら、思っていたよりも実刑部分が長くて、執行猶予と実刑をトータルすると、厳罰化じゃないのかという気もしている。しかし、これを成功させなければ、やはり施設に閉じ込めておけとなるので、いろいろあるけれども応援している」(要約)とのこと。(237-238p)

次の節は「Voice Brdges Project」の説明になる。

https://www.ncnp.go.jp/nimh/yakubutsu/report/pdf/H29-2.pdf に22頁に渡る説明がある。

以下の要旨が記載されている。
コピペして引用しようと思ったが、化けて引用できない。

で、この章の結語は以下、その通りだと思う

 松本が話す通り、とにかくつながってくれる誰かがいること。居場所があること。迷惑を及ぼしながらも、再使用をしながらも、なんとか社会生活を維持し続けること。そのことで孤立から守られること。そして社会がその存在を受け容れること。いかにそのことが大事かと改めて痛感されるのだった。247p


  第一三章 協働的更生支援、これからの課題
        ――支援の理論と方法

 この章は山口県立大学の水藤昌彦さんの紹介とインタビューから始まる。

サイドラインの話だが、252pに記載してある特別支援教育の視点を通常級の先生が取り入れる生徒指導を広げている市があるという話は興味深い。どこなのだろう?

そして、この本の主題ともいえる福祉と司法の関係だが、水藤さんの以下ような発言が紹介されている。

「『自分たちのやっていることは再犯防止ではない』ということが、 支援者のあいだで一定程度受け入れられ、 前提とされるようになってきたという変化は、刑事政策の研究者の主張に負うところがすごく大きいと思っています。刑事司法には何ができて何ができないか、強制という契機のどういうところが有効で、どういうところでは謙抑的であるべきか、刑事政策の研究者はずっと考えてきたと思います。 わたしは、先行研究から多くのことを学べたので『福祉による支援は再犯防止を第一義的な目的とはしていないですよ』 、ということをはっきりと言えるようになりました。わたしだけではなく、他にも同様の主張をする人が出てきて、その意見が広がったということですね」256p

この認識がほんとうに広がっているかどうか、怪しい部分はあると思う。

上記の部分に続いて、水藤さんはいちばん問題が大きいのは成人に対する矯正だと思うとして、それがあまりに管理的で刑務所に適応すればするほど社会に適応できなくなるという話をしている。そして、福祉が司法の下請けになるのは間違いだとしつつも、両者が協力して、一人の人を支えていくような「連携・協働」が必要だとする。257-260p

しかし、同時に検察が入り口支援に熱心だということに対する疑念も述べている。その段階で起訴せず、処遇が決まるのであれば、裁判はいらなくなる。協力しつつも、検察のそのよな権限拡大の動きには批判の目を向けることを忘れてはいけないという話(260-261p)で、ほんとうにその通りだと思う。

 さらに265pでは、依存性や習慣性、トラウマの問題などの大きい利用者に対しては。どんな点に配慮すべきかと、以下のように指摘している。

「環境を調整することで加害行為が止まる人と、本人の認知やそれまでの学習とか、物事のとらえ方に問題があって、そういった個人内因子への働きかけを必要としている人では対応の仕方が違うと思っています。もちろんそれは白か黒かで分けられるものではなく、混ざり合っています。グラデーションだとは思うのですが、環境よりも個人内の問題性が高い人たちに対して、たとえば本人の認知に対する働きかけとか、問題解決の仕方への働きかけのないままに、福祉で受容して環境調整すれば何とかなりますというのは違うのだろうと思っています。そこに対する知見が日本はまだ不足しています。・・・」267p

これは確かに、この通りだと思うのだが、その環境調整さえやられていない場合があまりにも多いのではないかとも思う。まずはそれが行き渡るようにすること、そしてその上で個人内の問題に寄り添い型でアプローチしていくことが必要だと思う。僕はどちらかといえば水藤さんとは逆に、日本社会では医療モデルが主軸になっていて、個人因子にのみ注目されることの方がまだ多いのではないかと思うのだった。

そして、さらに言えば、表面的に個人内の問題が大きいと見える人だけでなく、全ての人に環境調整と個人的な因子に注目していくことが必要なのではないか。

「推定無罪原則」との緊張関係、という課題という節(269p~)では佐藤さんは水藤さんに福祉と司法に関わる今後の課題について尋ねる。

そこで水藤さんは以下のように答える。

「現在、もっとも重要だと思う課題は、刑事司法と福祉をはじめとする対人援助との連携を制度的に位置づけて行こうとしたとき、とくに被疑者・被告人段階でダイバージョンという制度を入れて行こうとしたとき、『推定無罪原則』との間に緊張関係が生じてしまうことです。 ・・・」

ダイバージョンという言葉この本のどこかでも出ていたかもしれないが、見落としている。でも、どこかでこの言葉と出会ったなぁと思っていたら、『責任と癒し』メモ https://tu-ta.at.webry.info/202005/article_1.html で調べて引用してた。

そして、水藤さんはオーストラリアとの比較などで、事実認定と量刑判断の分離がない日本の裁判所の仕組みの問題などを指摘し、「このような手続き上の問題とどう整合性をつけるのか、という議論をすることなく、福祉、心理や医療と連携した更生支援を考えるだけでは限界があるのではないか」という。(269~270p)

また、ダイバージョンはすごく重要だが、ダイバートした後に、本当に有効なプログラムがとても少ない。そこを充実させていかないと、本人の生活を良くしていくような支援にはならない、という指摘も大切だち思った。270p


 エピローグ 新しい更生支援のその先へ

273pに「東京は弁護士会からの依頼になり」という記述がるのだが、それ以外のところでは、どのような依頼があるのか知らない。

274pでは実際に逮捕された後に、初めてであったSWが信頼関係を作って更生支援計画を作成する困難が語られている。確かにその通りだ。そして、本人とSWの契約がないという話し。本人はなるべき刑を小さくするために契約が必要だと弁護士が言えば、契約するだろうが、それでいいのかという話でもある、話し込んで表に出ていない余罪の話が出てきて弁護士が止めたという話も。

また、276pには、「最近、更生支援計画を実刑になった刑事施設に送り、活用するようにという協議が、弁護士会と法務省刑事局・保護局でされて決定した」しかし、それを書いたSWが関与できない使い方はダメなんじゃないかと佐藤さんは指摘する。確かにそのSWが刑務所の中や、そこから出るときに関われる仕組みがあればいいと思うし、それがない現状はどうかと思う。さらに言えば、それを使うかどうか本人が選択できるような仕組みも必要だろう。また、東京定着の元所長のインタビューであったように、本人が福祉とつながれば生活が安定すると理解できるような施設内での教育も必要だし、水藤さんが明確に指摘しているように、ほんとうにそれが実現できるような社会資源がもっと存在する必要があるだろう。

また、「出来上がった更生支援計画を査定する仕組みがない」と佐藤さんは書く。査定はともかく、研修を受け登録されたSWがそれぞれの更生支援計画につてい出し合い、話し合って技量を高めていくような仕組みも必要だろう。

されにこのエピローグでは支援が困難な事例などが紹介され、最後に平岡祐二さんが「異端の社会福祉士?」と紹介され、彼のことばが引用される。

要約すると、介護保険など、いろいろ制度が出来て「サービスが必要な人」が増えた。しかし、社会福祉士の仕事がたくさんあって福祉士の生活が潤うことは変なことなので(それだけ困りごとを抱えている人が多いということだから)、そのことへの感度がない専門職なんて増えないほうがいい」というもの。

佐藤さんも、「この意見に同意する」と言い切る(281p)が、ぼくもそうだと思った。

繰り返しになるが、いろいろ考えさせられることの多い本だった。

合評会とかやっても面白いと思ったが、そこに乗ってくれる人が多いとは思えなかった。合評会があれば参加したいなぁ。

















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