内発的義務(と外圧的義務)

仕事以外で人とかかわって、罵られたりしながら、それでも立ち去ることができなくて(もちろん立ち去ろうと思えば、立ち去れないことはないんだけど)「なんで、こんなことしてるんだろう」と考えた時、内発的義務という言葉が浮かんできたのだった。そして、フェイスブックにこんなことを書いた。

~~~

仕事以外で社会運動や他者の「支援」に関わっていて、いやな思いをしたり、関係者や当事者から罵倒されたりすることもある。ま、仕事なら「ゼニノタメ」という割り切り方もあるが、そうじゃない。 (同時に福祉関係の仕事なら、仕事でもゼニノタメだけじゃない部分もあったりするか。社会運動が食い扶持だったり、アートを生業にしてる人もそうだろう)

また、それぞれ、他の人から褒められもしないのに、やってることも多い(褒めて欲しいって思うこともあるけどね)。
同時にゼニノタメじゃない運動に人を誘うとき、できるだけ気持ちよく参加してもらいたいってことも意識する必要もあるかも。続けてもらうためには。

で、罵倒されつつ(そんな風に感じてっていう話ですが) 、でも降りるわけにはいかないなぁと思った時に浮かんだのです。

これこそが、最首悟さんが言った内発的義務なんじゃないかと。

便利なことに 立岩 真也 (Shinya Tateiwa)さん のサイトでこの概念を紹介してくれています。
~~~

◆1993

 「私たちは義務というと、他から押しつけられる、上から押しつけられるものと、反射的に反応してしまうので、よい感じはもっていないけれど、行動原理の根底は内発的義務であり、その内容は「かばう」とか「共に」とか、「世話する」とか、「元気づける」であって、それを果たすとき、心は無意識のうちに充たされるのかもしれない。/そのような内発的義務の発露が双方向的であるとき、はじめて人は尊ばれているという実感をお互いにもつことができ、それが「人が尊ばれる」というふうに定式化したとき、権利という考えが社会的に発生するのだろう。」(最首[1993→1998:131])

◆1994

 「権利とは「この人、あの人はこう手当されてあたりまえ」という社会的通念です。それを「この人、あの人」が自分に引き取って、「私はこういう手当をされて当然」とすぐに言うことはできません。内発的な義務の発露を他者に投げかける、自分の選択を見つめる人たちがいっぱいいて、その人たちが社会という場をつくるときに、この場に権利という考えが発生するのです。」(最首[1994→1998:391])

 「私たちにもともとあるのは、天から降ってきたような権利とかじゃなくて、すくなくとも生まれてきたからには生を全うするという、ほとんどそれだけのことです。そしてそれはほとんど義務ではないでしょうか。」(最首[1998:430])

 「……権利の行使というのは、誰かに権利があると思ったこの私が行使するような概念なんですね。そういう意味では権利というのは客体概念であり、現実的である。ところが義務主体というのは、生を全うするという抽象性のゆえに永遠性を帯びてこざるを得ません。この考えが出てくると、常に自分の権利が守られているかどうか、他人がそれを尊重してくれるかどうかを見張っているような心的構造から抜け出すことができる。」(最首[1998:430],川本隆史[1998:168]に引用)

http://www.arsvi.com/b1990/9805ss.htm から

ぼくを動かしているのは、これなのかなぁと思った。

同時に、内発的義務はそこから降りようと思ったら、降りることができる、そんな概念なのかもしれないとも思う。内発的なのだから。

親子関係とかはなかなか、そうはいかないかもしれないが、でも、降りることも不可能でもないかもしれない、とも思う。


1980年代、重度身体障害者の自立生活は制度ではなく運動とボランティアによって支えられていた。

内発的義務からのボランティアに外圧的な義務を課してくる当事者もいたなぁ(笑)

でも、そうでもしなければ、その当事者の生活は維持できないという事実もあった。

そして、自立生活を制度で支えることができるようになった現代。内発的義務とか考える必然性は薄れ、忘れられている場合も多いのではないか。

とはいうものの、制度とお金だけでは支えられない領域はたくさん残っている。その抜き差しならない関係をていねいに見ていくことも必要なのかもしれない。



内発的義務と利害

それはひとつの事象の中に微妙に入り混じっている。人が動くとき、その動機は利害だけでもなければ、内発的義務や外圧的な義務だけでもない。それらはいろいろ入り混じっている。そして、中動態というのも考える必要がある。意図をもって動く前に自然に動いていることは多い。人が動くとき、その人を動かす理由が一つしかないっていうことはあまりなくて、そこには意志の部分とそうではない部分があり、意志の部分の中にも、利害の部分があったり、内発的義務の部分があったり、他者からの評価が欲しかったり、名誉欲の部分があtったりするだろう。また、他者に強制された部分が混じることもあるし、圧倒的に他者から強制されて、ほとんどそれだけが理由で動くこともあるだろう。


パートナーとの関係について考えてみた。

一時的・熱病的な恋愛感情がきっかけだったりすることは多い。また、つきあっているうちに恋愛感情が醸成されることもある。

ただ、熱い熱い恋愛感情は持続しない。(とぼくは思う)

熱い病気のような恋愛感情がさめて、平熱になり、安定して生活することに移っていくとき、そこに「内発的義務」と言えるような感情が生まれてくることもあるかもしれない。

そこで浮かんでくるのは内発的義務と自発性の関係。関係性の中に、多少の苦行が含まれるとき、内発的義務とかいう言葉が生まれてくるのかもしれない。楽しくて、やりたいことをやってるだけのときに「義務」という言葉は浮かんでこない。

中途半端だけど、疲れたらここまで。


で、思ったんだけど、最首さんが内発的義務について、書いた本を読んだわけじゃない。

上記のアンソロジーから連想しただけ。

とはいうものの、最首さんの本を読んでみようと思わないのは、どうしてかなぁ??

(詳しい人から聞いたら、最首さんはどうも違う意味でこの言葉を使ったらしい。)

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント